オークランド総督のアフガニスタン大侵攻計画に基づく軍隊はインダス軍と名づけられた。司令官にはケアン将軍が任命された。そしてイギリス傀儡政権の王となるべき人、シャー・シュジャーに顧問官としてマクナーテン、副官としてバーンズが付けられた。
インダス軍は兵士9500人で構成され、うち6000人はシャー・シュジャーの率いる軍、残りがイギリス(東インド会社)軍であった。
シャー・シュジャー
軍は出発するに先立ち、ラホール近郊、フェロゼポールで大閲兵式を敢行した。観覧に参加した誰もがオークランド総督の前を通過する軍隊は、この亜大陸最強であり、何事もその前進を阻むことはできないと思った。
そしてインダス軍は大量の非戦闘員も同行させていた。つまり兵士9500人は、近代戦の戦闘単位で言えば、歩兵・砲兵・騎兵だけであり、残りのいわば専門兵は全て現地で雇われた。これらの人々は輜重兵に当るクーリー、担架兵、炊事兵、通信兵と当時としては重要でないと考えられた機能を果たした。そしてイギリス人は、イギリス的生活を営むことが可能な全ての消費・耐久物資を随伴した。それは、2年分と煙草から、ビリヤード台までに及んだ。あらゆる騎兵中隊は鍛冶屋と馬丁、全ての将校は10人以上の召使を伴った。
それどころか、すべての兵士の悦楽などのため、売春婦・楽団員・道化役者・あらゆる宗教家などなど、またその家族も同行した。こうして1938年早春ラホールを発つ時、戦闘員は1万6500人そしてその他を含めれば3万8000人となる大軍団に膨れ上がった。
インダス軍は一路南下した。これは不思議な経路だが、ペシャワールをシーク教徒王国、ランジット・シンが抑えていたのでカイバル峠は支配下にあった。このため南に迂回しカンダハルから攻め落とす計画をたてた。決して悪い計画ではない。そしてシャー・シュジャーの新しく配下となったシンド州の都督を威圧し、更にバルチスタン州に向かい周辺の都督を帰順させた。ここまでは戦いらしい戦いもなく順調な滑り出しだった。
MAP(インダス軍進路)
ボラン峠
こうして1年が経過した。1839年早春インダス軍はアフガニスタンの南の関門、ボラン峠に向かった。ボラン峠はクエッタ南東で現在パキスタン領であるが、パシュトゥーン人の族長が支配していた。ここは両側が急峻な山地で、55マイルに達する長距離の路程だった。バーンズは持参の金で、族長を買収、戦うことなく通過に成功した。
しかし、これだけの人数を賄う食糧を携帯しながら行軍することは不可能で、現地調達に頼らざるを得ない。厳しい寒さのなかバーンズは手なずけた族長に食糧の調達を依頼した。また金での支払いが生じたが、額の交渉をする余裕はない。それでも羊1万頭を得ることができた。しかし族長はバーンズに、シャー・シュジャーの人気がまるでないことを訴えるのだった。
カンダハル占領
インダス軍は毎日マトンを食べながら前進した。1839年4月、カンダハルに到着した。ここはドスト・モハメドの弟が都督を務めていた。しかし、この大軍を前にして戦うことなくカブールに逃走した。シャー・シュジャーは4月25日入城式を決行した。城内の道を通過すると両側の家から花束が投げられた。ケアン司令官を始めイギリス軍将校は誰もが、この遠征は成功だと確信した。
ケアン将軍はカンダハル郊外で観兵式を行うことにし、城内のすべての市民に参集を呼びかけた。しかし、入城式の時とは異なり集まった市民は百人に満たなかった。市民は略奪を恐れ、歓迎する素振りをみせただけで、シャー・シュジャーを支持しているわけではなかった。
このシャー・シュジャーの顧問であり、この戦争の実質的に企画したマクナーテンはそれでもここまで前進できたのはイギリスの金であるとは認めずまたシャー・シュジャーが全く人気のない指導者だとも認めなかった。
ガズーニ攻城戦
インダス軍の次の目的はカブールだが、それを阻む城壁都市があった。ガズーニである。この城壁都市は厚さ12メートルの城壁で囲まれ、中央アジア随一の堅城であると信じられていた。しかし、そういった講釈に耳を貸すイギリス人はいなかった。
イギリス軍は重量のある攻城砲を準備していなかった。これを運ぶには6ヶ月以上かかる。しかも守備兵は城門の背後に数10メートルの厚さの土嚢を重ねていた。ただ退却のためカブール方面に面していたカブール門だけにはこの処置が取られていなかった。
しかし、内部からカブール門だけ土嚢がないと通報する者があった。深夜特殊部隊がカブール門に接近し爆薬を装填した。未明大音響とともに門は破壊された。そして城内に突撃すると抵抗はほとんどなく守備兵500人はすぐに降伏した。
カブールから援兵5000人がガズーニに向かっていたが落城の知らせを聞くと引き返した。インダス軍は城内で大量の食糧の備蓄を発見した。これにより、補給問題を解決することもできた。ここで暫く休養をとり、6月30日カブールに向け進発した。
カブール占領
ガズーニからカブールまでほぼ1週間の行程だが全く抵抗を受けず、さらにカブールに到着すると町は既に開城していた。シャー・シュジャーは満面の笑みをもらしながら、王宮まで行進した。しかし町は静まりかえっていた。住民の多くは家を一歩も出ようとしなかった。
しかし夏をすぎ秋になっても、カブールとカンダハルを結ぶ地帯は平和で、何事もないかのようだった。ケアン将軍や多くのイギリス軍将兵はインドに戻った。インダス軍の兵営は、カブール郊外のバラヒサール要塞に設けられたが狭く、すぐにカブールの町外れの果樹園に兵舎を移した。そこは美しい場所で、すぐにポロやクリケットの対抗戦が行われた。しかしカブールは盆地で山岳に取り囲まれていた。
時折、稜線に人の影が見られたが誰も気に止めるものはいなかった。食料はふんだんにあり、またバザール商人は女性も含み、一切物惜しみしなかった。ある者はインドから家族を呼び寄せることまでした。
1840年11月3日更に決定的なことが起きた。ドスト・モハメドが自身でカブールに現れ、降伏を申し出た。ドストはそのままインドに送られた。この時点で誰もが遠征は成功だったと見なした。
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