
この事件がイギリス軍の評判を貶しこめるのは疑いなかった。老ウェリントン将軍は敗軍の一報を受けとるや、すぐさま報復の軍を派遣することを主張した。
1842年3月下旬、イギリス軍はカイバル峠とボラン峠の二つのルートから報復軍を送り込んだ。1週間を待たずして、ジャララバードとカンダハルに孤立していた駐留軍と再度連絡をつけることに成功した。ガズーニでは少数の兵士がおり抵抗したが、重砲をも随伴させたイギリスに抗することはできなかった。
こうなると、アクバルから人心は離散して行く。アクバルはバラヒサールに篭っていたシャー・シュジャーをおびき出し惨殺した。そして捕虜となったポッティンガーとエルフィンストーンを殺害すると脅迫を始めた。しかしイギリスの進軍に有効に反撃する部隊を組織することはできなかった。イギリス軍は脅迫に構わず、9月15日カブールを占領した。その時、驚くべきことにバラヒサール要塞の守備兵は無傷で残されていた。エルフィンストーンの冬季行軍の方針がいかに誤りかがわかる。
アクバルは人質と捕虜全員96人をボハラに送り、奴隷として売却することを計画した。しかし、ポッティンガーは看守の買収に成功し、囚われていたバーミアンで自由となった。この間にエルフィンストーンは死亡した。しかし軍法会議にかけられ不名誉な除隊を余儀なくされることを予想すれば、むしろ好運だったのかもしれない。
カブール占領後、イギリス軍はバーミアンに進出、人質全員を解放した。
イギリス軍は、カブール市民への報復を実施した。バザールは徹底的に破壊され、街中の略奪が許可された。シャー・シュジャーの息子を王位につけた後、10月11日、雪の降る前イギリス軍はカブールを撤退した。そして第2次アフガン戦争開始、すなわち35年後までアフガニスタンに再度入ることはなかった。
実はこの時保守党のピール内閣は事前に報復出兵完了後、アフガニスタン駐兵を停止することを決定していた。理由はアフガニスタンに駐兵してもそこの徴税から駐兵費用が賄われないことが明白だからだ。つまり第2回目の出兵は単純に報復だけが目的である。
第1回目の出兵には実はこの目的の鮮明さがなかった。もちろん、アフガニスタンの属国化=傀儡政権の樹立が目的にあった。しかしこれは駐兵をしなくとも達成できるものでなければならない。戦争を局地化し時間を制限する(局地戦化)明確な意思を持たないと、海外遠征は戦闘に勝利しても、しばしば失敗する。
日華事変、ベトナム戦争はその好例である。そして、この三つの戦争とも時間だけでなく局地の選定にも失敗した。むしろ費用が限定された方が判断に誤りを生じない。それには軍人や現地に判断をまかせないことだ。
これからすぐ後、シャー・シュジャーの息子は統治に自信を失い自らインドに脱出した。君主を失ったアフガン人はドスト・モハメドの復辟をイギリス人に頼んだ。今度はイギリス人も応じた。ドストはその死まで今に伝えられる善政をしき、また驚くべきことにイギリスに忠実だった。一体第1回目の遠征とは何だったのだろうか?
ドストの忠誠はイギリス人とシーク教徒との戦争で発揮された。イギリス人はこの戦いでもアリワールの戦いとチリャンワルの戦いと2回苦杯を喫し、最終的には勝利したものの苦戦した。この間ドストは常にイギリス側にたった。イギリスはラホールーペシャワール間のシーク教徒の国を奪った。アフガニスタン東部国境が確定したのはこの時である。カイバル峠を境とし、自然国境に違いないがドストの望んだペシャワール回復はついにならなかったことになる。
そしてイギリス人の最大の失敗はアフガニスタンがロシアの影響下に入ると錯覚したことだろう。確かにロシアの冒険商人は勇敢で、全世界どこにでも出没した。そしてイギリスの冒険商人と同じように、本国の軍隊の到着を待ちわびる。こんな事で、遠征軍を年中派遣し駐兵を実施したら、まともな国の財政は破綻する。ロシア人が中央アジアを平定したのは1870年代の後半である。