フェルディナンド大公と家族
フェルディナンド大公が皇太子になったのは、34歳の時である。この時まだ未婚だった。もちろん皇太子として次のハプスブルグ家の世代を儲けることは義務であったが、この時代のハプスブルグ家には大公と大公女があふれ、後継者に事欠いていたわけではない。なお、大公と大公女は、オーストリア帝国(ハンガリー王国は従わない)の皇位継承権をもつ男女に与えられる称号である。
そして、ハプスブルグ家の家訓として皇太子は、第一に、カトリックの外国王家から妃を迎えねばならない。フェルディナンド大公は、もちろん、これを知っていたが、周囲をやきもきさせながら、どの適格の王女・皇女にも興味を示さなかった。
貴賎結婚
フェルディナンド大公が始めてゾフィー・ショテックと会ったのは1888年、プラハ(当時プラーグ)における舞踏会と思われる。この時、軍務で駐在していた。
ゾフィーは、数あるハプスブルグ家の中で、富豪として知られるハプスブルグ=トスカナ家当主エルツェルツォーク・テッシェン公爵夫人、イザベラの筆頭女官であった。イザベラはこの舞踏会で娘のマリア・クリチーナをフェルディナンド大公の目に止まらせようと狙っていた。
だが、初対面でフェルディナンド大公はゾフィーに一目惚れしたもの思われるが、当日の記録には何も発見できない。もちろん何か会話があったとしてもスキャンダルは避けねばならない。
ただ、次のような伝説によって、この愛は露見したとされる。
別のハプスブルグ家の大公が、1898年秋、プレスバーグ(現ブラチスラバ)に遊ぶイザベラを訪ねたとき、いあわせたフェルディナンド大公とテニスをともにした。ところが、どうしたことか、フェルディナンド大公は懐中時計をテニス場に置き忘れてしまった。
たまたま居合わせた召使が、その懐中時計をひろい、イザベラに届けた。イザベラは、気の弾みか、あるいは娘の写真が裏側に張ってあるのを期待したものか、懐中時計の蓋を開けた。すると驚くまいか、その裏にはゾフィーの似顔絵があった。
もちろん、イザベラは懐中時計を返却したが、あわせて、それまで何の落ち度もないゾフィーを解雇した。誰でも、何かあったと想像し、懐中時計とゾフィーを結びつける。この事件の間もなくして、フェルディナンド大公はゾフィーとの婚約を発表した。
ゾフィーはブフスラウ・ショテック(Bohuslaw
Reichsgraf Chotek von Chotkowa und Wognin)伯爵の娘である。ショテック伯爵家はウィーンで代々主馬頭をつとめる家柄で、当主は、1898年には、ドレスデン領事だった。
ショテック家は、1556年にボヘミアにおける活躍が記録されており、1723年に伯爵に叙爵されている。先祖の二人は金羊勲章を叙勲されており、その家紋にはボヘミアの名門16家からの継承がみられるという。
だが、これでもハプスブルグ家を満足させることはできなかった。
ハプスブルグ家の1825年10月制定の家訓(standesgemas)には皇帝家にふさわしい門地として14家が記載され、次にふさわしいヨーロッパの主な門地が登場する。ここにはバイエルンのウィッテルスバッハ家やサックス・コブルグ・ゴータ家などが登場する。ビスマルクにいわせれば、この家はヨーロッパ王家の種馬にすぎないが。この中のベルギー王家やポルトガル王家は最近、ハプスブルグ家に花嫁を供給している。
エリザベート皇妃を失い、愛人のカタリナ・シュラットもいない今、フランツ・ヨゼフ帝はかたくなだった。ただちに、甥である皇太子に「ショテックはただの伯爵婦人であり、結婚は許されない」と宣告した。フェルディナンド大公の兄弟も反対し、またもっとも強硬な反対論者は宮内大臣のアルベルト・モンテヌノボだった。1899年夏、この問題は公表されたうえ、宮内官会議で否定された。
それでも、フェルディナンド大公は、皇位も、皇太子妃への権利と礼譲など全てを要求した。新聞は憶測記事をのせ、喫茶店はこの話題でもち切りとなった。フランツ・ヨゼフ帝は迷いだしたが、モンテヌノボとフェルディナンド大公は、公的な席で怒鳴りあいを始めた。国外ではフェルディナンド大公に同情的な声があがった。独帝ウィルヘルム二世、露帝ニコライ二世、そして教皇レオ十三世はフランツ=ヨゼフ帝に「認めたらどうか、このままでは皇室の安定が揺らぐ」と手紙をおくった。
だがハプスブルグ家内に、フェルディナンド大公に同情する声はあがらなかった。
1900年6月28日、モンテヌノボは勝利した。その日、ホフブルグ宮殿で枢密院会議が開かれ、大司教・主要閣僚・ハプスブルグ家の15人の大公が集まる中で、フランツ=ヨゼフ帝はフェルディナンド大公に、このような勅語を読み上げた。
ショテック伯爵婦人との結婚は適切ではなく貴賎結婚であります。そして今後ともこのように考えられます。私の妻、また神の祝福によって授かる子供、その子孫は、適切な結婚であれば得られたであろう大公としての権利・肩書き・紋章・特権をもつことがありません。とりわけ重要なことは、子孫の皇位継承権を放棄することです。
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ザルツブルグ大主教が掲げるフェルディナンド十字の下で、フェルディナンド大公はこの勅語に署名した。勅語はドイツ語とハンガリー語で書かれ、フェルディナンド大公の印泥が押され、また15人の大公が証人として署名した。枢密院会議は30分かからず散会した。
3日後、フェルディナンド大公とゾフィーの念願の結婚式は、北ボヘミアの聖フランシスコ熾天使教会堂で地方神父が司祭となってとり行われた。皇帝は出席せず、帝国の主要官吏も出席することがなかった。テッシェン公爵は、「ハプスブルグ家の何某が死亡し、喪中であるのでハプスブルグの苗字をもつ誰もが出席すべきでない」との意見を、全ての大公・公爵に回覧した。何某が、ハプスグルグの一体誰か、当時もわからなかったし、現在も不明である。
ただ、そのようになった。結婚式にはハプスブルグの苗字をもつ誰も参列することがなかった。
フェルディナンド大公夫妻はコノピシュト城でハネムーンを過ごした。この間に、フランツ=ヨゼフ帝は小さな贈り物をおくった。ゾフィーにホーエンベルグ公妃(Grafin
Sophie Furstin von Hohenberg)の肩書きを与えたのである。ホーエンベルグは南ドイツにあるハプスブルグ家の小さな荘園で、この肩書きは数世紀忘れ去られていた。
ウィーン社交界
ゾフィーは古典的な意味で美人といえないかもしれないが、多くの同時代の人々は感じのよい女性だと語っており、フェルディナンド大公の短気な性格を静めるには格好な人柄でもあった。
これから後の生涯でゾフィーは、考えられるあらゆる中傷、告げ口、罵詈雑言を浴びせられたが、落ち着いた態度を失わず、よく忍耐できたといえる。もちろん人のいない場所では泣き崩れる場面を目撃されているが、公的な席では頭を高く上げ、笑みを絶やすことがなかった。
14年間、フェルディナンド大公が出席せねばならない社交の席上で、ゾフィーは数ある大公妃の後に現れねばならなかった。音楽会でもオペラ座の観劇でも、夫と同じボックス・シートには座れず、同じ馬車にも乗ることもできなかった。
モンテヌノボは、ゾフィーが「見えない存在」でなければならない、と主張した。フェルディナンド大公がベルベデーレ宮殿で外交官を引見して立ち去ったあと、近衛兵はすぐさま退去した。近衛兵は、一人残されたゾフィーを守護する必要はなかった。ゾフィーがフェルディナンド大公の領地や城で、舞踏会を開催するときには、必ず同時に、別のハプスブルグの大公妃が舞踏会を開催し、社交儀礼から外国使節がゾフィーの舞踏会には参加できないようにした。
ベルベデーレ宮殿
フェルディナンド大公もゾフィーを伴ってウィーンに出向くことはその生涯にほとんどなかった。もちろんこの事はウィーンの社交界や新聞には当然とうけとめられたが、フェルディナンド大公の「気難しい人物」という印象を決定的にしたことも疑いない。
フェルディナンド大公と妻ゾフィーの間に、1901年、最初に生まれた子供は娘で、ゾフィー(のちノスティッツ=リエネク夫人:Grafin
von Nostitz-Rieneck)と名づけられた。
2番目の子供は男の子で、1902年ベルベデーレ宮殿で生まれマクシミリアンと名づけられ、その後すぐ1904年エルンストはコノピシュト宮殿で生まれた。三人の子供とも優秀で、フェルディナンド大公は幸せに恵まれた、と後に手紙に書いている。
弟カールの許されぬ婚姻
フェルディナンド大公は男三人兄弟だった。オットーとカールである。上の弟のオットーは派手好みのうえ浪費家であり一族の間の評判は悪かった。三人の兄弟ではカールが一番才能があると目されていた。だが、カールも長兄フェルディナンド大公の婚姻には反対であり、二人の関係は急速に悪化していった。
カールは小柄であったせいか、馬が好きでなく、3年間の士官学校の教育のあと、1889年憲兵隊に配属、更に中尉になると、チロル山岳猟兵連隊に任官した。この時、テッシェン公爵の勧告に従って、フェルディナンド大公の結婚式に参列することを拒否した。この時、貴賎結婚は「謀反行為」であると言ったという。
だが、この直後、カールも恋に落ちた。ウィーン工科大学の名誉参事をやっていた関係で、大学主催の年次舞踏会に出席する必要があった。その1901年の舞踏会でエマニュエル・クルーバー教授の娘に一目惚れしたのだ。その後2年間、カールは秘密を守り通した。だが1903年になると、噂は耐えられないほど広がった。カールはフランツ・ヨゼフ帝にベルタ・クルーバー嬢との結婚の許可を求めた。
この時、カールは自分の置かれたやっかいな位置に気づかなかったのかもしれない。フェルディナンド大公は直ちに猛烈な反対運動を始めた。カールは陸軍の退役を申し出た。フェルディナンド大公は陸軍の閲兵長官であり、KuK将校は結婚のさいには上官の許可が必要である。だが、このようなことで済むはずがなかった。1904年10月、カール大公少佐は健康を理由として退役し、ウィーンから去った。もちろん、結婚の許可はおりない。カールとベルタはメラーノ近郊の自分の領地にあったローゼンシュタイン城、ロッテンシュタイン城に引きこもった。1909年二人はスイスに逃避行に出、そこで1911年、秘密の結婚式をあげた。
この事実が周知となり、1911年8月、すべての肩書きが剥奪され、皇位継承権のリストからはずされた。フランツ=ヨゼフ帝はエコ贔屓するような人物ではなかったが、二人に小さな年金を与えることに同意した。カールは父カール=ルードウィッヒが旅行に出るときの変名ベルグに姓を変えた。二人に子供はできなかった。フェルディナンド大公が、1914年6月暗殺されると、アルステッテン城でとり行われた葬儀に参列するため、オーストリア入国許可がおりた。だが、そこでカールに会った親戚は、ただの老いさらばえた廃人がいた、とのみ記録している。そして翌年1915年47歳で、ミュンヘンで世を去った。遺体は領地のメラーノに葬られた。呪われたハプスブルグ家の歴史の一章に名前を残しながら・・・。
別の弟のオットーも、飲酒過多で、1905年41歳で死んでいる。ただし、その子孫がその後のハプスブルグ家を継承した。妹のマルガレータ=ゾフィー大公女は1886年、16歳のとき、修道院に入った。だが俗界に戻り、1893年、ウュルテンベルグ公爵アルプレヒトと結婚し、二人の息子と三人の娘を儲けたのち、1902年早世している。
孤児となった三人の悲劇
ハプスブルグ家の皇位継承は、フェルディナンド大公が暗殺され、代わりオットーの長子カールが皇太子になっても完全に決着がついたわけではない。ハンガリー王国は、ハプスブルグ家訓に従わず、王位継承はフェルディナンド大公の長子マクシミリアンが優先する。1917年、フランツ=ヨゼフ帝が薨去すると、この問題が表面化した。だが、ウィルヘルム二世は、かねてからこの問題に気づき、ロートリンゲン(ロレーヌ)大公の肩書きをマクシミリアンに贈与することをフェルディナンド大公に約束していた。これがあって、マクシミリアンはカールのハンガリー国王即位に異を唱えることがなかった。だが、第一次大戦の終了とともに、ドイツ帝国そのものが崩壊してしまい、この約束も反古となった。

アルトシュテッテン城
そして同時に、フェルディナンド大公の孤児三人は、二重帝国の崩壊とともにチェコから追放された。その後、三人はウィーンのアルトシュテッテン城に住んだ。だが不運はこれだけで終わらなかった。1938年、ヒトラーがオーストリアを併合しミュンヘン会談に臨むころ、突然三人を逮捕し、ダッハウ強制収容所におくった。理由は不明であるが、三人は7年間そこで拘禁された。
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