1916年12月政変

二大政党制


話は1914年、第一次大戦勃発時に遡る。この時イギリス議会はアイルランド国民党という要素を除いて、ほぼ「保守党」「自由党」の二大政党制にあった。イギリス下院は議席が673ほどで議席数は日本より多く、また完全小選挙区制を採用している。このため田舎に行けば、1万票以下でも当選できる。

有権者の大半はマニフェストなど読まず地縁・血縁を重視し、地元利益擁護を歓迎する。選挙に勝つためには地盤はやはり重要なのであり、前回基礎票を中心に票読みをするのは、日本と変わらない。そして2代目、3代目が多いのも同じである。

選挙区は日本と異なり、ウェスト・ニューウィントン、マイル・エンド、イースト・ハートフォードシャーなどと一つづつ名前がついている。そして議員が死亡したり辞職したりすると補選"By Election"が行われるが、日本と比べて頻度が高く、3月に1回はどこかで実施されている。従って、大物落選候補が補選狙いで選挙区を替えることはよく発生する。そして供託金は10ポンド程度であって立候補自体は簡単である。

この頃の下院構成は

保守党 
271
自由党 
272
労働党
42
アイルランド国民党
85

      
であって、自由党は、労働党とアイルランド自由党の協力を得てアスキス単独内閣を組織していた。保守党と対立する政策としては「アルランド自治の許容」「自由貿易堅持」「英国国教徒優先反対」などがあった。

そして、第一次大戦が勃発した。ドイツがフランス・ロシア・ベルギーと開戦する形勢となると、自由党内で即時参戦派と局外中立派の間で大きな亀裂が生じた。即時参戦派がアスキス首相、グレイ外相、チャーチル海相であり、局外中立派はモーレイ、ロイド=ジョージ、サイモンらであった。

結局、グレイ外相の操縦が功を奏しイギリスは参戦することになった。保守党は、即時参戦派に組した。

徴兵制導入問題

1915年に入ると、チャーチルが推進したガリポリ上陸作戦が失敗、更に西部戦線でも砲弾不足が深刻となり、砲弾スキャンダルという事態が生じた。しかし、この当時の戦争において攻勢に当たっての砲撃が効果があるか疑わしく、将軍たちの責任転嫁の色彩が強かった、それに砲兵というのは「残弾ナシ」といいたがるものである。

アスキスは、砲弾スキャンダルを保守党との連立=挙国一致内閣で乗り切った。この時、ロイド=ジョージは戦争指導を厳しく批判し、自ら軍需省という組織をつくり、砲弾と機関銃の大増産に乗り出した。これはある程度成功した。

だが、戦局は一向に好転しなかった。将軍たちは政治家の命令を受け取ろうとしなかった。イギリスの戦争指導は各省単位で行われたに過ぎず、また最重要の西部戦線においては、野戦軍司令官ヘイグがフランス軍と協力しながら独自で作戦を遂行していたのである。

挙国一致内閣ができても自由党よ保守党の間の亀裂は残った。論点は徴兵制導入と統制経済であった。統制経済についてはアルコール専売、配当制限が問題となったが、程度問題であった。ところが徴兵制は自由党にとり党を揺るがす。

ダービー、Edward Stanley, the 17th Lord Derby(1865-1948)陸相2回、駐フランス大使を務め、大戦中、募兵長官。フランスのラグビー選手権のダービー杯はこの人の寄贈による。

アスキスはなんとか段階的導入で乗り切ろうとし、初めにダービー・スキームを持ち出した。1915年春、志願兵募集は月10万が目標であったが、1914年の熱気は薄れ、達成できなかった。

1915年12月発表されたこのスキームの内容は18歳から40歳男子全員は軍務につくことが要請されるが、それは召集を受けた場合に限り、また妻帯者は除外されるというものであった。

このスキームは約1年間続いたが、その間、21万5千人が兵役に志願し、218万5千人が、召集可能リストに加わった。だが自由党員は徴兵制への過渡期的制度と恐れ、保守党員は生ぬるいと感じた。

1916年4月に入ると、ダブリンで暴動が発生し、クートではメソポタニア派遣軍が全滅した。ロイド=ジョージはカーソン(アイルランド)総督とレドモンドアイルランド国民党党首の間をとりもった。だがランズダウンとボナー=ローが反対した。妥協案は取り下げられた。

アイルランド国民党はアスキスに背を向け始めた。

ナイジェリア敵性資産接収問題


そして戦局への不満による分裂は保守党から生じた。1916年11月、直接はナイジェリアで接収したドイツ資産を競売で売却する(政府案)か英国臣民を優先するかの問題で、保守党のうち徹底抗戦を主張する65人(徹抗派)が英国臣民優先を主張した。政府案賛成は73人で残りは棄権した。272人のうちの反対票65人は重大な数字である。というのは、保守党党首ボナ=ローは、反対票65人の数字が大きく次回総選挙で非公認という締め上げがとれないと判断した。しかし、そうなると保守党は閣外に出るという選択に迫られる。

保守党が連立から離脱すると、自由党単独内閣になるが、このころアイルランド自由党はアスキス不支持に転じていた。ボナ=ローは、自由党・労働党連立ではイギリスを戦争から脱落させかねない、と危惧した。

ロイド=ジョージは、即座にこの危機を乗り越えるのは、自由党を分裂させるしかない、と判断した。側近のアディソンが反アスキス・徹底抗戦を主張する自由党議員の票読みに入り49人まで読むのに成功した。

ロイド=ジョージ内閣成立

これが自由党の弔鐘となることには、その時、誰も気づかなかった。また、自由党徹抗派の大部分は若い陣笠であって、選挙基盤が弱かった。ボナ=ローは保守党分裂を避けるため、ロイド=ジョージを首相とすることにむしろ安堵した。

1916年12月7日、閣内不統一によりアスキス内閣は総辞職し、ロイド=ジョージに組閣大命が下り、以降、連合国の最終的な勝利までこの内閣が戦争指導にあたった。連立政権は保守党主流派・自由党徹抗派・労働党が参加した。しかしながら、アスキス派は自由党の過半数以上を占め、野党に転じ、「交渉による和平」を主張した。ただ、連立政権の一致点は「戦争完遂」「徹底抗戦」であるので、他の手段として「交渉」を出したに過ぎない。

ロイド=ジョージらが戦争勃発時、非戦派だったのが皮肉である。ロイド=ジョージはこのあとロイド=ジョージ派と呼ばれた付き従った陣笠代議士を重用しなかった。

彼らの大半はオックス・ブリッジを卒業せず、毛織物業や土建屋を家業としており、社名に自分の名前をつけていた。非国教徒であり、メソジスト派が多かった。これまでにも固定資産税課税強化を訴え、いわばロイド=ジョージに似ていたのである。

陣笠の反乱による政変は英国憲政史上、この1回限りであった。

ロイド=ジョージは、政党政治とは無関係の内閣を標榜した。超然内閣の主張であるが、本人はいたって真面目であった。内閣の核である戦争閣議のメンバーは、ミルナー、スマッツ、カーゾンと労働党代表のアーサー・アンダーソンであった。だが、この戦争閣議ですら月に数回しか開催されなかった。

またこの内閣成立によって挙国一致内閣は崩壊した。自由党アスキス派という野党が出現した。ロイド=ジョージがアスキス派に対抗する唯一の手段は大戦の「徹底抗戦」であった。


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