蒋介石の決心
廬山会議における「最後の関頭」演説のあと、蒋介石は大本営人事を開始し、8月7日までにその内示を済ませた。作戦計画はファルケンハウゼンの献策によったもので、準備してあった上海を取り巻くゼークト線に日本軍を飛び込ませることであった。
蒋介石の手許には、まとまった空軍があった。公称は700機に昇るが稼動しているものは、200機程度であった。このうち上海決戦に参加したのは、ホークV戦闘機など約70機とノースロップ2E軽爆撃20機カーチスA12シュライクなどからなる69機、マーチンB11重爆3機であった。

カーチス ホークV
米海軍が艦載機(BF2C1)として発注した最後の単座複葉機
1933年に制式化されたが、軍縮方針により輸出に活路を見出させた。
全幅9・6メートル、全長7・62メートル、全高3・23メートル
エンジン:空冷9気筒785馬力、最大時速390キロ、武装7・7ミリ×2
手力による引込み脚を採用している。250キロ爆装、増槽装着が可能。
ファルケンハウゼンも空軍に期待しており、ホークVとノースロップE20の全部消耗させても、全世界へのメッセージ効果を発揮させねばならないと考えていた。ファルケンハウゼン計画の弱みは日本が上海租界や別の地点で長期戦を挑むことであり、勝機は短期戦によって日本陸軍を消耗させるしかないと考えていた。
中国空軍の最大根拠地は南昌(清雲浦)であり、ここにはイタリア人のつくった航空機製造・修理工場や訓練学校があった。蒋介石は、8月5日を期して、主力空軍機の杭州・南京周辺(周家口、揚州、広徳、曹娥など)への展開を命じた。
一方、日本海軍は陸軍より戦局を的確にみていた。上海海軍特別陸戦隊(上【しゃん】陸)攻撃の可能性を排除していなかった。手持ちの爆撃機は最新型の96式陸攻であったが、及川古志郎航空本部長は直ちに北支(山東を含む)・上海両睨みの態勢として、木更津航空隊20機を大村へ、鹿屋航空隊18機を台北へ移動することを命じた。連合艦隊は不活発であったが、空母『加賀』『龍驤』『鳳翔』からなる第3艦隊第1、第2航空戦隊は大連に停泊し、山東半島と北支を睨んでいた。海軍は上海と山東を警戒していた。
13日、国府軍88師87師2万人は上海北站を下車、上陸本部に向かって戦術開進し、八字橋で射撃戦となった。空母『加賀』を主力とする第3艦隊(長谷川清)第2航空戦隊(三竝貞三)は、大連を抜錨し南下した。この日、マーチン爆撃機が上海上空に飛来した。
上海空爆
14日午前9時15分、筧橋(杭州近郊)基地を発ったボートV92コルセア5機が上陸本部に銃撃を加えた。10時55分、広徳(江蘇・安徽・浙江三省の省境にあり、上海とは太湖を隔てて反対側)基地を発進したノースロップ2E5機が『出雲』に飛来した。10時22分、同じくノースロップ2E3機が『出雲』に飛来、対空砲火を浴びせたが、爆弾を投下し去っていった。
午後2時40分、広徳を発ったノースロップ5機からなる攻撃隊は、いったん揚子江河口に出て南下、それから上海南方で北に転じ、3時50分、黄哺江に浮かぶ巡洋艦『出雲』に1機が投弾したが命中しなかった。
残る4機は、そのまま上海租界中心部を爆撃、めいめい250キロ弾を投下し、4カ所で炸裂、市民2000人以上を死傷させた。多くの市民が街頭に出て、『出雲』爆撃を予期して、江上を見物していたのである。
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左側がキャセイ・ホテルで右側が横浜正金銀行上海支店のビル。2階に満鉄上海事務所があり、日本人避難民が集まっていた。ライシャワー兄が死亡した地点である。 |
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キャセイ・ホテルに隣接するパレス・ホテル前。前面の道はバンドで、見物人が多く、もっとも被害者が出た。この日早朝から、国府機が『出雲』を爆撃するという噂が流れており、バンドのビルの屋上や路上は大量の見物人であふれていた。 |
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南京路の大世界娯楽センター。屋根に命中し、中にいた行楽客が多数死亡した。 |
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西蔵路と愛多亜路の交差点 |
ノースロップ2E機は全金属製の低翼機であり、郵便運搬目的の輸出専用としてつくられた。250キロ爆弾搭載可能であったが、急降下はできず、250メートルまで緩降下したうえで上空で爆弾を落とすというやり方で、対空砲火にはもろかった。中島飛行機も、陸海軍名義で1機づつ購入したが、役立たずとみて満州国陸軍に偵察機として供与した。

ノースロップ2E
1934年イギリス空軍が購入。合計で61機制作された。
全幅9・5メートル、全長14・6メートル
最高時速360キロ、航続距離2655キロ
「8月14日午後4時少し過ぎ、私が『同盟』支社にいると、中国空軍の編隊が 上手から黄浦江上空に進んで来て、(第3艦隊)旗艦『出雲』の高射砲や機関銃が
反撃しているようだと、記者の一人が急いで駈けよって知らせてくれた。すぐ窓側に行き、黄浦江の上空を眺めると、マーチン爆撃機〔誤り]の5機編隊で、
『出雲』めがけて進んでいるではないか。私の肉眼では、編隊の高度は大体 6〜700メートルとみた」と同盟通信記者で近衛ブレーンの松本重治は書いた(『上海時代』中公文庫)。
「『出雲』その他の高射砲がパーン 、パパーンと鳴り響いている。ふと見ると、 5機のうち1機の急所に高射砲の弾が命中したらしい」
と続けているが、これは誤りである。ノースロップ機は、定石通り6機(当時は3角形3機で3組、9機編隊とするのが普通であった)で攻撃に向かったが、なんらかの事情で1機は戻ったのであろう。
この日(14日)、上海周辺のオイルターミナル、綿紡工場、埠頭なども空襲に合った。『出雲』に搭載していた95式水上偵察機(出崎良三空曹操縦)は、午後4時ごろ、このノースロップ機に反撃に出て、1機を撃墜(中国側によると射手は戦死したものの虹橋[現在の上海国際機場]に不時着)したという。水偵による撃墜という珍しい記録である。
一方、日本側は東シナ海を台風が北上中であり、空母や大村からの発進は断念された。
台湾にあった鹿屋隊(長、新田少佐)だけは、18機の96式陸攻18機を台北(松山基地)を夕刻4時05分(上海時間)までに発進させた。1隊9機(浅野少佐)は広徳基地、
別の1隊9機(新田少佐)は同時刻に杭州筧橋(現在は市内)基地爆撃に向かった。筧橋からはホークVが迎撃に出た。広徳爆撃を実行したものの、爆弾は基地外に落ちたという(日本側は飛行機約30機爆破と発表)。
筧橋に向かった9機のうち2機が空中戦のうえ撃墜され、2機が大破した。1機は途中基隆で不時着し、1機は台北まで着いたものの着陸時全損となった。日本側は2機撃墜、2機不時着せしめたという。中国側は被害はゼロであったのにたいし6機を撃墜したと自慢し「六比零」の大勝利であるとして国民の士気を鼓舞した。
これは誤爆ではなく、国府軍の意図した無差別爆撃である
「誤爆」と、この国府空軍による上海空爆について主張する日本人は絶えない。例えば源田実は「敵は過早に爆弾を投下し、租界の建物で見物していた多数の外国人に死傷者を生ぜしめた」(『海軍航空隊発進』文春文庫)と書いた。過早に投下すれば『出雲』の手前、現在の浦東地区(そのときは純農村で国府中央軍が進出していた)に落ちたはずである。また「多数の外国人」ではなく、ほとんどの死傷者は中国人であった。
蒋介石の租界に住む中国人の殺戮など戦略目的のためには意に介さないという悪辣な心情をナイーブな日本人は理解できないのである。
現在「誤爆説」「日本機説」「米英陰謀説」を唱える人士の多くは、中国共産党に盲従する社会主義者であるが、アメリカや台湾に近い人々まで主張するのであるから、噴飯物である。大体は南京大量虐殺論者でもあり、支那事変原因論について東京裁判以来の日本が侵略との虚構歴史を払拭し切れていないのであろう。
蒋介石は租界について中国の施政権の及ばない地域とみなしていた。国際法の無知であるが、これが租界に住む人々について敵対者とした一因である。また、ドイツ人を除くヨーロッパ人を同様に敵とみなしていた。国民党の結党の理念は「反英帝国主義」であった。蒋介石はドイツを手本にすべきだと叫んでおり、ドイツ人の人種的偏見に左右されていた。
「8月11日に、彼(シェンノート)は蒋介石夫人の命をうけて上海に行き、租界の外国人に対して戦争が間近に迫っていることを仰せつかった。しかし彼の言葉を信じる者は誰もいなかった」(吉田一彦『アメリカ義勇航空隊出撃』徳間文庫)という事実があり、蒋介石は租界に居住するアメリカ人には空襲を知らせようとした様子がうかがえる。
反面の事実として、蒋介石が戦争を仕掛けようとし、租界を空襲しようとしたことがわかる。
この空襲に加わったのはノースロップ2E機であるが、この機の爆装能力は250キロであり、魚雷を搭載できず、ダイブ・ブレーキがなく急降下爆撃も不可能であった。一方、水平爆撃は1000メートル以上の高度から爆撃する。これでは完璧な照準機があっても小さい目標に爆弾を命中させることはできない。
このため国府空軍は、低空の水平爆撃を実施したのである。目撃者によれば黄哺江対岸では高度600〜700メートル、バンド上空では250メートルという低空であったという。バンドの高層ビルは約100メートルであり、そこから高度を上げていった。低空水平爆撃は、地上砲火に極めて弱い。そして弾丸が命中したとき、ジュラルミン貼りモノコック・ボディーのノースロップ機の場合、機体全損になってしまう。アルミ板は溶接できず、穴が空くと部品としての板を貼り直すしかない。ところが中国工業にこのような部品供給能力はなかった。
集中した対空砲火が予想された『出雲』上空を飛行すると機体損失の公算が強く、初めからやる気はなかったのであろう(加えて、250キロ爆弾で巡洋艦を撃沈することはできない)。低空水平爆撃は目標の上空をどうしても通過する必要がある。上海租界バンド周辺で、もっとも高度を落としたことは、バンドまたはバンド直近後背地を意図して狙った証拠である。
5機のうち4機が租界に爆弾を「誤って」落としたことは起き得ない。250メートルの高度で前方進行方向がみえる段階で「誤って」落とすことがあるだろうか?そのうえ、4機までもが同時に「誤って」落とすことなどなど考えられないのである。
国府軍は9月に入り、8月14日の上海空爆は日本機によるものだというウソを発表した。中国政府とは清朝・国府・共産いずれの政権でも、平然とでっち上げを発表する。租界工務局は反撃に出て爆弾の信管がイタリア製であることを発表した。イタリア政府もまた自国製であることを認めた。またその信管は艦船攻撃用の遅効性信管ではなく地上用の着発信管であった。このため、被災現場写真にはいっさい爆弾孔がみられない。これも国府側の意図的・計画的な租界爆撃を証拠だてる。
8月16日、租界が再度爆撃され、数人が死亡、8月23日、デパート、先施(シンシア)と永安(ウィンオン)が 爆撃され、400人以上が死傷、
ニューヨークタイムズの特派員も2人混じっていた。さらに8月30日、アメリカの大型定期船「プレジデント・ フーバー号」に投弾、1人が
数日後に死亡した。いずれも、そのときの陸戦区域、上陸本部周辺とは相当に離れていた。このように連続して「誤爆」することが起きるだろうか?
上陸本部も爆撃・銃撃の対象になったとされるが被害はまったくなかった。国府空軍の目的は上海を空爆し、租界の番犬とみなした日本が反応し、それにより日本陸軍をトーチカ陣地に誘引することであった。このため租界攻撃を続行する必要があったのである。
ただし、日本外務省はこれら国府軍のウソに強く反論しなかった。国益を考えないいつもの外務官僚の無能である。
8月15日以降の空中戦
8月15日午前4時半(上海時間)、東シナ海馬鞍群島沖に到着した『加賀』から、94式艦爆、
96式艦爆、89式艦攻が発進し、上海周辺飛行場爆撃に向かった。
台風がようやく収まり出撃できた。ただし軽空母『龍驤』『鳳翔』は波浪のため艦が動揺、発進させることができなかった。内訳は、94式艦爆が16機、96式艦爆が13機、89式艦攻が16機の
合計45機であった。
一方の国府軍は、南京から杭州にかけて約50機のホークVを配備していた。94式艦爆は曹娥(寧波近辺)基地の攻撃に向かい地上でカーチスA12シュライク6機の破壊に成功した。しかし地上砲火により1機が撃墜され、1機は杭州湾にいた駆逐艦により救助された。96式艦爆は南京方面に向かったが目標を発見できず帰投した。
89式艦攻16機は途中9機と7機づつの2隊に分かれ杭州方面と広徳基地攻撃に向かった。ところが杭州に向かった1隊(長、岩井少佐)が途中で発見され、ホークVの迎撃を受けた。ここで89式艦攻6機が撃墜され2機が不時着を余儀なくされる大損害(2機の乗員は杭州湾で救助された)を受けた。
1回の空中戦としては支那事変における最大の被害である。もっとも旧式で鈍足の艦攻をもっとも内陸の基地攻撃に護衛戦闘機もなく向かわせるとセンスのない作戦計画がこの失敗を招いたことも事実であった。ホークVの最大時速390キロにたいして96式艦爆が310キロ、94式艦爆280キロ、89式艦攻
に至っては213キロに過ぎなかった。
89式艦攻の損害は、カーチス・ホークV戦闘機、延いてはアメリカへの憎悪となり、パネー号事件への伏線となった。
鹿屋隊の96式陸攻14機も、朝7時半、台北を発ち南京周辺飛行場を爆撃し、全期帰投した。木更津隊(長、林田少佐)陸攻20機は、朝9時10分に大村を離陸、南京と周辺飛行場(大校場、故宮)を爆撃しようとしたが途中十数機のホークVに遭遇、空中戦となり4機が撃墜され、6機が被弾した。
夜7時20分に済州島に帰投した。 大村―南京間が1100キロ、南京―済州島間が770キロだから、合計 1870キロに達した。
海軍が「世界初の快挙」とした「渡洋爆撃」は決して成功とはいえなかった。
9月16日、鹿屋隊14機は再度南京に出撃したが、ホークV10機が出現、新田隊長機を含む3機が撃墜された。木更津隊もまた1機を不時着で失った。
14日から16日までの3日間で、96式陸攻の20機が使用不能となり、稼動機数は18機にまで減少した。木更津部隊は概況次のように報告した。
- 支那沿岸附近に到達するに従ひ天候意外に不良にして、各中隊分離単独行動せざるベからざるに至りしは、予期せざりし所にして、止むを得ず低空爆撃を強行せざる可らざるに至り、地上銃砲火並に敵戦闘機の為、犠牲機を多数出したるは、当時一般の戦況天候回復を俟つの暇なかりしとは言へ遺憾とする所なり。
- 敵南京附近の防空施設は予想以上に完備せられあり。通報機関、防空指揮法等等閑視すべからず。
- この度の低空爆撃敢行は、当時諸種の状況上止むを得ざりしものありしとは言へ、此の種大型機の攻撃としては常道に非ざること明白なり。
- 本機の性能は実際の戦闘速力最高一五〇節附近にして、現有支那戦闘機のそれに比するときは極めて低性能なることを銘記するを要す。本機の燃料「タンク」は敵弾に対し極めて脆弱にして、一個の燃料「タンク」の火災が致命的なることは、一発動機の停止が致命的ならざるに比すれば其の意義極めて大にして速かに対策を講ずるを要す。
96式陸攻は当時、全金属製・引込み脚の斬新な機体であったが、ホークVのような旧式戦闘機にたいしても脆弱性を暴露したのであった。
96式陸攻
この3日間の空戦以降、陸攻隊は敵戦闘機が蝟集する南京周辺を避け、中国内陸都市の攻撃に向かった。支那事変以前は爆撃機の性能向上により戦闘機無能論が囁かれたが、一掃された。
支那事変緒戦で現出した空戦の示した点は、爆撃機無能であった。地上目標に爆弾を命中させるには、飛行機は速すぎるのである。
1990年の湾岸戦争に至るまで、攻撃機による誘導弾によらないピンポイント爆撃(戦術爆撃)は急降下爆撃によるしかなかった。艦船にたいしては雷撃(低空水平で接近し、魚雷を放つ)があったが、陸上では成立しない。急降下爆撃は、水平爆撃より、はるかに命中率は良かったが、機体についてダイブ・ブレーキや機体強度維持から他の性能を犠牲にせざるを得なかった。
急降下爆撃機は開発が難しい上、空中戦に弱く、また運用に当っては事故が起きやすい。じっさいに陸上でこの方法を用いたのはドイツのスツーカのみであった。第二次大戦ではピンポイント爆撃は難しく、都市への無差別爆撃に向かっていったのは、理の当然であった。
96式陸攻といえども、第二次大戦の基準からは戦術爆撃機に過ぎなかったが、高空水平無差別爆撃しか有効でなかったのである。空母を主たるプラットフォームとする海軍が専門的な軽爆撃機、雷撃機や急降下爆撃機の開発に向かったのは当然であったが、陸軍においても同様であり、かつ迎撃戦闘機の開発に主力を置くようになった。
9月19日の空中戦
海軍は主戦場である上海・南京における制空権の獲得が飛行場の爆撃により達成することが不可能であることを悟った。国府空軍爆撃隊も日本軍上陸地点への低空爆撃により、ノースロップ2E、カーチスA12シュライクを地上砲火により消耗させ、編隊運用が出来ないほどになっていった。
このため制式化がようやく決定した9試単戦(96式艦戦)を投入することを決定した。大連・周水子から大村に退いて待機中の第2連合航空隊は、上海の公大【クンダ】基地への進出を開始し、9月10日、集中を完了した。
このとき96式艦戦は、周水子の13空の12機、『加賀』の6機、合計18機しかなかった。

96式艦上戦闘機(1936年制式)
全幅11メートル、全長7・6メートル、全高3・2メートル
エンジン:中島「寿」9気筒、785馬力
最大時速435キロ、武装7・7×2
公大基地に集められた最新鋭の96式艦戦18機、96式艦爆18機、96式艦攻6機(それに加えて補用機が3分の1あった。普通いわれる予備機に相当する)。三竝貞三少将が第2連合航空隊として指揮することになった。三竝のたてた作戦計画は96式艦戦に依存して、南京周辺にあると予想されたホークV約50機を殲滅することであった。
そのため、これまで活躍した水偵16機を護衛として艦爆17機を囮として先行させ、敵戦闘機を誘き出し、96艦戦でたたくというものであった。
作戦は天候不良のために遷延されて、9月19日に決行された。午前7時半、指揮官和田鐵二郎少佐の操縦する96式艦爆を先頭に離陸を開始した。ところが96式艦戦は、飛行場がぬかるんでおり、離陸に失敗する機が続出、離陸できたのは12機になってしまった。
10時頃、南京近郊の句容基地からホークV12機とボーイング約6機が出撃、艦爆隊の後尾にいた水偵隊に襲いかかった。水偵四機が応戦し、敵戦闘機4機を撃墜した。水偵隊も未帰還1機を出した。
96式艦戦隊は南京に進入すると、待機していたホークV20機と空中戦になった。12機の96式艦戦は気流の関係で隊形が乱れ、単機ごとに突進した。
空中戦は15分も続かず、日本側が圧勝、21機(うち不確実6)撃墜と報告された。水偵隊も、敵戦闘機群と空中戦に加わり7機撃墜と報告された。日本側の被害は先の水偵1機と艦爆3機であった。
インメルマン・ターン
これでも不完全とみて三竝は午後3時、再度96式艦戦10機と囮の艦爆などを発進させた。4時15分には南京上空で敵のホークVと空中戦になり、うち7機撃墜と報告された。
翌日から5日間、南京と周辺飛行場に空爆が実施された。散発的に敵戦闘機が迎撃に現れたが、その都度、護衛にあたった96式艦戦に撃墜、撃退された。
これをもって、イタリア空軍によって訓練され、ホークVなどのアメリカ機で装備された国府空軍はほぼ全滅した。乗員も大半が失われたものと推定された。上海・南京間の制空権は完全に日本軍の手に落ちた。空の戦いとは機械同士の戦闘であって、機械を補充できる能力がある方が最終的に勝利する。
上海・南京の空戦では、空中戦によるより、飛行場の滑走路を舗装して、離着陸の事故をなくした方が損害が軽かったであろう。飛行機を自製できる日本と全量輸入に頼る中国とでは初めから対等の戦闘にならなかったのである。国府軍は、国軍の指揮を外国人傭兵に頼るという脆弱さに問題があった。
12月2日、南京にイ16が出現したが、ソ連軍に指揮され、ロシア人パイロットによって操縦されたものである。これとは別に、漢口で外国人傭兵による空軍も組織されつつあり、中国における空の戦いは第2段階に入った。
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