廊坊事件・通州事件


蒋介石の決心

盧溝橋事件は停戦協定が成立し、第29路軍と日本軍の間における戦闘は停止した。だが、蒋介石は戦争計画を発動させ、すでに第1次動員を下令していた。蒋介石の戦争計画は、ドイツ国防軍のファルケンハウゼンによってつくられた。

一般的に、「動員」から「開進」の間、すなわち動員下令から戦時編制になった軍隊が、野営地に到着するまでの間、途中変更はできない。途中変更とは動員の失敗を意味することになる。なぜかといえば、軍隊の移動が鉄道によるため、ダイヤによって支配されるためだ。

また、蒋介石の戦争計画は、ドイツ式であるため、開進と攻勢作戦計画が結合されていた。すなわち、攻撃力の中心である第4路軍(張治中:徐州が師管区の88師と87師からなる)の開進終了とともに、88師の一部が上海北駅から閘北にある上海海軍陸戦隊本部を攻撃することになっていた。

もちろん、日本側はこの計画の詳細を知ることができない。

7月11日、宋哲元は故郷の楽陵から天津に戻った。ただちに、腹心の張自忠を支那駐屯軍参謀長橋本群に向かわせ、「(支那駐屯)軍司令官のいっさいの指導に従う」と伝えた。橋本はこれを喜んだ。

だが、事態は宋哲元と支那駐屯軍の思惑を超えたところで進行した。すなわち、藍衣社は機をみて日本軍への発砲事件を起こし、また国府軍の動員は順調に進行していた。

日本側の対応

7月14日までに参謀本部へ11日の第2次動員に関する次ような国府軍情報が入った。

  • 12日天津発同盟によれば、中央軍の北上はますます活発をきわめ、劉峙の第2路軍、龍炳の第40軍は11日朝来鉄道輸送を開始し北上の途についた。これに伴い武器、弾薬、食糧の輸送も戦時の状態を呈している。
  • 12日、北上中の中央直系軍22万、中央傍系軍7・5万、旧東北軍3・5万、ほかに山西軍11万、山東軍6万、綏遠中央軍2万を算すという。
  • 12日南京発電によれぼ、蘆山の蒋介石は、12日午後、汪精衛、程潜、陳誠らの軍、政首脳部を招致して対策を協議したが、結局、和戦両様の準備をもって臨むことにし、万やむを得なけれぱあえて抗戦を辞せずとの結論に達した。この方針に基づき、午後七時、陳西、河南、湖北、安徽、江蘇駐屯の直系軍及び准直系軍に対し更に広範な動員令を発し、鄭州を中心とする隴海、平漢両沿線にこれら部隊の集結を令するとともに山東省主席韓復に津浦線北路の防禦を一任した。たお平漢、隴海、津浦の三鉄路局に対して軍用列車の集結を、また各汽船会杜に対して指定地点への船舶回航を命じたといわれる。
  • 12日、南京政府は軍事徴発令を公布した。同日、国民政府は、北支における地方当局の対日約諾は、中央政府の承認を要する旨を文書をもって通告した。
  • 13日南京発特電によれぼ、国民政府外交部は、中央軍の北上の目的は対日参戦でなく極カ事態の拡大を避けようとする意図であり、日本軍の攻撃に対する自衛手段にすぎない、と言明した。
  • 長江上流方面の情報によれぼ、12日、南昌に在る中央軍の飛行機約30機は編隊飛行により北上した。また武漢から下航した船客の談によれば、武漢一帯は軍隊、軍需品のため非常な混雑を呈していると。また蘆山において連日軍事会議を招集し戦備を整えている蒋介石は、13日、戦時職制による陸海軍総司令官の資格で全軍に号令している。徐州、蛙埠間に在った胡宗南麾下の第1師および教導師は、13日、徐州、鄭州に移動を完了し、その他の中央直系軍も続々鄭州を中心に隴海沿線に集中中である。
  • 支那駐屯軍からの報告によれば、12日以後、駐屯軍は中国側の協定実行を厳重監視中であるが、中国側は依然わが警戒部隊に対する挑戦的行為を恋すとともに、陣地を構築し、軍隊、軍需品を輸送する等着々戦備を整えている。中国軍は13目に北平大紅門において、また北平南方三粁の馬村で、14日にはその南方団河村で、通行する日本軍を射撃したので死傷者を生じた。戒厳令下の北平市は城門をことごとく閉鎖して外部と遮断し市内の警戒は厳重を極めている。物価は高騰を続げ、邦人に対する侮辱事件は跡を絶たない。宋哲元は、11日夜、ひそかに山東省楽陵から天津に帰還し事件の円満解決を図ろうとしているが、第29軍首脳の対日意見が二派に分かれ解決に苦慮している。

どこの国の参謀本部も、仮想敵国の動員に無反応でいるわけにはいかない。外電も動員について伝えており、新聞各紙は一斉に国府軍動員として報道した。南京政府(蒋介石)による、動員と集中が自衛目的であり、かつ北上が目的だという虚偽発表を除いて、これらの報道は正しかった。

13日午前、閣議に先立ち五相会議が開かれ、杉山陸相は「内地師団の動員は世界的大衝動を与えるだげでなく、支那側に有利な口実を与えるので、最も慎重でなければならない。本日動員の予定であったが、今しぼらく現地の清勢を確かめた上実行されるはずである」と発言した。

広田外相は「昨日ドイツ大使が来訪し、南京政府は局面拡大を避げる方針である、との情報を伝えた。これにたいし米内海相は青島など在留邦人引き上げの可能性について言及した。

主要閣僚が三者三様なのである。陸相は単純に迷っている。ところが広田外相は、現状についてドイツからの情報をもとに、南京政府が戦争決意がないと誤った判断を披瀝している。この時、ドイツは蒋介石と同盟を組んでいたのであり、ドイツ大使(ディルクセン)が蒋介石の攻勢を成功させるため日本に油断を誘う発言をすることは当然である。一方、海相は南京政府の戦争決意により、中国全土に戦火が及ぶ可能性について訴えている。

この段階で、日本側から戦争を食い止めることができただろうか?

一つの方法は蒋介石が、圧倒されると理解できるほどの大量の兵力を北支と上海に集中することである。だが、これは不可能である。別の方法としては、北支・上海から軍民ともに撤退することである。

これも不可能である。暴力に屈するという外見を呈するだけではなく、満州も奪われ、朝鮮半島も脅威をうけるというコースにつながる。このような譲歩は国家は戦争という過程を経なければ不可能である。

この時点で東京にいた軍人はほぼこの結論を理解していた。ただ、戦争が避けられないにしても、戦争になるべく被害が少ない形で勝利せねばならない。更に、国府軍が、北支・山東・上海いずれの地点で攻勢に出るかわからなかった。そのうえ、第29路軍は国府軍と同一の敵だろうか、という疑問が残った。

香月新司令官

支那駐屯軍司令官田代皖一郎はこの重大な時期に病臥中であり、ついに7月15日に心筋梗塞により死亡した。7月11日、香月清司が新司令官に任命された。そして立川飛行場から、直ちに出発することが命じられた。この時点では「政治問題回避・事件不拡大・局地解決」の三点だけ陸相から指示をうけたという。

だが、香月の乗せた飛行機は天候不順のため京城に一泊し、12日1400支那駐屯軍司令部に入った。香月の当面決定せねばならない問題は、第29路軍の向背の問題だった。

第29路軍兵士。カラー付シングルブレストの制服でヘルメットは支給されなかった。第1次大戦以前の旧弊な装備である。

支那駐屯軍の幕僚は混乱を極めていた。橋本参謀長や河辺(兄)旅団長は、宋哲元と妥協が可能であると考えた。北平特務機関も11日、自ら停戦協定を締結したから事態は終息に向かいつつあると、思いたかった。宋哲元も日本との妥協を欲していたのである。香月は、東京における大勢「第29路軍の向背は、国府軍に左右される」という論が、結局、正しいのではないかと考えた。

香月は着任とともに、第29路軍は敵となりうることを説明したが、現地参謀は「昨夜支那側ハ我要求受諾ヲ以テ、事態ハ終結セリ」という態度であった。(『支那事変初期ニ於ケル北支那作戦史要』 陸軍大学校 昭和14年作成)

一方、東京においても河辺(弟)を課長とする参本第2課は、「現地解決」を主張したが、武藤第3課長は「こんな抽象論は役にたたず」と一蹴した。河辺(弟)は兄からの情報により、「現地」からみる判断しかできなくなっていた。この対立は調停がつかず、「第29路軍に限定して解決できる」という考え方を参謀本部もなかなか払拭できないでいた。

石原莞爾

参本を事実上代表する石原莞爾はこの当時のことを次のように回想している。

「不拡大主義でやっても一度戦争となれぱ、どうしても全面戦争となる。決戦はできなくては持久戦となるだろう。従って開戦当初敵に大打撃を与え、そして屈服しないときは使用兵力に相応した地区を領有し、その治安を確保していく。
長時日の作戦になるとソ連が出て来る心配があるので、支那の最小限度の要点をつかんで、もしソ連がやってきたら、これをやっつける考えであった」(『石原莞爾中将回想応答録』)

15日には国府軍は第三次動員(第2作戦)を下令し、隴海線以南における集中は30個師団に達していた。すでに北上か南下かの形勢となっており、最早第29路軍だけを論じる状態ではなかった。

石原莞爾は、すでに蒋介石の開戦決心は固く、全面戦争は避けられないと予想した。これは河辺らを除けば参本所属員大多数の判断である。石原は、しかし作戦部長として、勝利への方策を発見せねばならない。

石原は戦争が持久戦になると考えた。この持久戦とは機動戦でなく陣地線(塹壕で両軍が向き合った、第1次大戦の西部戦線のような戦い)を意味している。また、ソ連について論及しているが、この時スターリンによる軍部粛清がピークに達していた時期であり、ソ連が攻勢が出ることは最も考えにくい時期だった。この段階で、勝利への方策を発見できず、「言い訳」を考え始めていたことがわかる。

広田弘毅

軍事情勢の急速な進展にもかかわらず、日本の外交官の動きは鈍かった。これまでとってきた宥和政策が誤りだった、と認めることができなかった。盧溝橋事件以来、在華大使である川越茂は休暇と称して天津に滞在していた。川越は支那駐屯軍参謀部と同様に、事件が第29路軍との交渉で終息しうるとみていたためである。

外相広田弘毅は南京駐在の日高信六郎参事官を通して国民政府外交部長王寵恵に対し次のように要求させた。

「帝国政府ハ去七月十一日声明ノ方針通、飽迄事態不拡大ノ方針ヲ堅持スト雖モ其ノ後二於ケル国民政府ノ態度二鑑ミ左記ヲ要求ス

  1. 有ラユル挑戦的言動ノ即時停止
  2. 現地両国間二行ハレツツアル解決交渉ヲ妨害セサルコト

    右ハ概ネ七月十九日ヲ期シ回答ヲ求ム


この申し入れにつき日高参事官は次のように述べている。(『廣田弘毅』 廣田弘毅伝記刊行会 1966)

「17日夜、外交部長を訪ねて公文を手交した上、日華間の平和を維持するためには何はともあれ11日の現地協定を実行して事件の拡大を阻止することが最緊要であること、また現地におげる日華両軍の兵力は日本側が比較にならぬほど少ないものであるから、事件の勃発以来現地の事態が切迫したために日本側では居留民の保護を十分にするためのみたらず駐屯軍の安全のためにも増援部隊を送る必要に迫られているのである」。

「従ってまず現地で協定を実行し空気を緩和することが緊要である。こういう時に当たって南京政府がこの上北支に増兵することは事態拡大の危険性を最も多く含むものである。ゆえに現在盛んに北上しつつある中央軍を速やかに停止して欲しいと申し入れるとともに、公文を英訳して参考のため在南京英米大使に送っておいた」。

これを聞いて、蒋介石はほくそえんだに違いない。広田は兵力寡少と日本側情報が「中央軍北上」に限られていることを暴露している。蒋介石は戦争開始の自信を深めた。

ただ根本には、広田または外務省があまりにも軍事に疎い問題がある。石原莞爾や参謀本部の大部分は、すでに国府軍が全面戦争に訴えつつあることがわかっていた。幣原以降の日本外交官は、明治の外交官と異なり政治家ではなく、外交にとり軍事情報や軍事分析が重大であることがわからなかった。

蒋介石蘆山談話とスパイの浸透

18日、陸軍省部あげて国府軍との戦争に入るとの認識に達した。ただ、決戦場が北支であるのか、上海であるのか国府軍の緒戦作戦を知ることはできなかった。この日、杉山陸相・梅津次官・石原作戦部長・田中軍事課長の四者会談がもたれた。

  • (石原)本年度の動員計画師団数は30コ師団、そのうち11コ師団しか支那方面に充てられないから、到底全面戦争はできない。然るにこのままでは全面戦争の危険が大である。その結果は、あたかもスペイン戦争におけるナポレオン同様、底なし沼にはまることになる。この際、思い切って北支にあるわが軍隊全部を一挙に山海関までさげる、そして近衡首相自ら南京に飛び、蒋介石と膝づめで日支の根本間題を解決すべきである。
  • (梅津)実はそうしたいのである。しかしそれは総理に相談し、総理の自信を確めたのか。北支邦人多年の権益財産を放棄するのか。満州国はそれで安定するのか
  • (田中)要するに総理が外交に自信がなければ在支権益の放棄、北支満州の敗退に終る危険がある。今や不拡大に徹して総権益を捨てるか、権益擁護のため不拡大を放棄するかの二者択一の関頭に立たされた。

石原莞爾は日中間の懸案を「トップ会談」で解決できるとみなしている。これは軍人の持ちがちな「ガキ大将同士」のような発想であって、片方が武力行使を決意した段階で、トップ会談など開催したところで打開の見通しは全くたたない。この場合、蒋介石に面会を断られるのがオチである。動員とは一旦開始されたら、トップであっても途中で止めることはできない。ドイツ式だと戦争を止めることすらできない。

ただし、陸軍内の話は根拠がないわけではなく、石原に勧められた近衛文麿は真剣に、トップ会談を考えたフシがある。ただ、話はねじれて結局、宮崎龍介と西園寺公一を上海に派遣し、二人は7月26日に宋子文と会見している。宋は「イエスともノーとも答えない」対応に終始してチョンとなった。蒋介石が断乎とした決心をすでにしている証しであるが、二人ともそういったことを理解するのに必須の軍政能力に欠けていた。

宋に日本の内情をジャレるように教えてしまった可能性は高い。また宮崎は中国へ渡る途中、神戸で憲兵に逮捕されている。当時、陸軍は国民党にスパイを入れており、日本の軍事情報が漏洩されているのに気づいていたためである。

また、石原は11個師団をもってしても、全面戦争ができないといっているが、上海決戦のそのさらなる決戦―大場鎮附近の戦闘における兵力使用は5・5個師団に過ぎず、この点でも誤っていたことになる。

一方、17日(19日発表)蒋介石は蘆山で演説を行い「対日開戦は避け難い情勢にある。もし不幸にして最後の関頭に立ち至らぱ、徹底的犠牲、徹底的抗戦に依り、全民族の生命を賭して国家の存続を求むべきなり」と強調した。しかもなお和平に対する希望を捨てず、和平解決の条件として、領土と主権の保全、翼察政府に対する中央政府統制の不可侵、中央政府の地方官吏に対する人事権の確保、第29軍の現駐屯地区に対する干渉の拒否、の四項目をあげた。後段(しかもなお以下)は中国人特有のレトリックで、「侵略者」となるのを避けるため、戦争宣言とみなされるのを回避しているのである。

ファルケンハウゼンは、7月21日、ブロムベルグ国防長官に蒋介石が戦争決意したことを連絡した。「蒋介石は戦争を決意した。これは局地戦でなく全面戦争である。日本はソ連の介入を懸念し、全軍を中国に投入できないから、中国の勝利は困難ではない。中国の歩兵は優秀で、空軍はほぼ同じ、士気も高く、日本の勝利は疑わしい」("The Sino-German Connection")。

ファルケンハウゼンのこの本国あて通信は、18日における石原莞爾の発言と符合している。参謀本部または陸軍省内部に蒋介石またはドイツのスパイが浸透していたことは確実である。

19日、日本国内では、蒋介石蘆山談話は開戦決意を示すものかどうか半信半疑で受け取られた。更に19日、南京政府より日高申し入れについて拒否回答があった。

20日、参謀本部は北支における武力行使について支那派遣軍に委ねる決定を行い、また同日朝、閣議で陸相は内地3個師団動員の閣議決定を求めた。だが、この提案は否決された。この時、米内海相は「南京政府は29軍を自分のものと思い、また中央軍の北上は自衛上やむを得ずと主張しつつある情況において、出兵するは、南京政府に対し挑戦することにならずや」
と発言した。上海陸戦隊だけが大事だという海軍エゴ丸出しであるが、蒋介石の真の狙いは上海にあるのではないか、という米内の危惧は爾後的中することになる。

だが南京政府の強硬態度および永定河方面の砲撃戦が伝わると、夜、閣議において「動員後も事態が好転すれば」復員する条件で内地3個師団を北支に派遣することが決定された。

宋哲元の寝返り

宋哲元(1885〜1940)山東省出身。武備学校で学び、1913年馮玉祥の部下となる。1926年第4路軍総司令。陝西省主席ののち南京政府軍事委員。中原大会戦では国府軍と戦う。1931年第29路軍長。盧溝橋事件のあとは1938年3月、第1戦区副司令長官。その後、四川省に逃れ、1940年病死。

新任となった香月清司司令官の7月12日以降も、宛平県城を挟んで、日本軍と第29路軍37師との睨み合いは続いていた。そして夜間に入ると、銃声や爆竹音が響き渡るのが連夜続いた。そして、7月13日には大紅門で日本軍トラックが爆破され、4人が死亡、14日には団河で日本軍騎兵が1人惨殺された。

これらの事件は、第29路軍による説明はともかく、藍衣社のテロである可能性が強かった。そして小康状態に入ったあと、7月19日宛平県城から一文字山に布陣する日本軍に砲弾が打ち込まれた。この頃から、永定河を挟んだ散発的な砲撃が繰り返されるようになった。

これらの事態があっても、日本側は背景がわからなかった。また北平特務機関や支那駐屯軍の参謀には依然、第29路軍を友軍とみなす傾向があった。20日閣議による内地3個師団の北支派遣が決定したとの報告が届くと、橋本群参謀長は反対意見を起草した。

内容は「29軍は全面的に支那駐屯軍の要求を容れ、逐次実行に移しつつあり」というものだった。香月司令官の意向は違っていた。香月は後日語った。

「今回複雑怪奇なる目下の情勢下に突如司令官に補され、着任すると現地支那通なる者の意見を聞くと、ほとんど各人各様でなんら一定の見識をもっていない。支那問題について私は確乎たる定見をもつことができなかった」(『支那事変初期ニ於ケル北支那作戦史要』 陸軍大学校 昭和14年作成)

この橋本・河辺(兄)ら支那通の第29路軍についての誤った分析が通州事件の悲劇の一因をなしたことは想像に難くない。

蒋介石は、態度が煮え切らない宋哲元にたいし、日本軍の圧倒する兵力の中央軍を北支に派遣することをテコに、日本軍に対し抗戦することを要求してきた。7月20日から熊斌参謀次長を北平に派遣し、宋哲元の説得にあたらせた。これはものの見事に成功した。それまで撤退しつつあった37師に代わり、132師が北平に入城し、南宛に布陣した。第29路軍が徹底抗戦の布陣に転換したことは明らかだった。

廊坊事件

近来、日本軍の軍用電線に対する中国側の妨害が頻々として生じていたが、25日、廊坊付近(北平南東約五〇粁)で故障があったので、通信隊の一部に歩兵1中隊(第20師団の歩兵第77連隊第11中隊、中隊長五ノ井淀之助中尉)を付けて、あらかじめ中国側に通報のうえ、これを派遺した。

同部隊は1630ころ廊坊駅に到着し、同所付近を守備していた中国軍(第38師第132旅の第226団)と折衝したのち、中国軍守備区域内を通過している日本軍の軍用電線を修理中、2310ころ、中国軍から突如として小銃、軽機による射撃を受げ、更に廊坊駅北方300米の中国軍兵営からも迫撃砲の射撃を加えてきたので、やむを得ずこれに応戦した。

支那駐屯軍は、0000ころ、とりあえず第20師団に救援を命じ、鯉登大佐の指揮する歩兵第77連隊が廊坊に急行した。次いで26日0230、事態の推移に応ずるため、同師団に対し、一部態勢の変更を実施する命令を下し、天津、山海関の間に在った同師団の部隊を逐次前方に移動させた。

廊坊においては、26日払暁、飛行隊が中国軍兵営を爆撃し、次いで0800ころ、増援隊が到着して中国軍を通州街道方面に潰走させた。26日午後、支那駐屯軍は37師と38師の北平近郊からの撤退を求める最後通牒を手交した。

広安門事件

北平広安門

26日、北平入城を命じられた廣部大隊(支那駐屯歩兵第2連隊第2大隊)は、1400、豊台駅に到着し、26両のトラックに乗り換え、広安門に向かった。事前に冀察当局と交渉し16時開門の約束であった。

しかるに中国側は、廊坊事件や最後通牒の手交などで硬化したためか、城門を閉じ戦備を整えた。中島、桜井第29路軍顧問らの折衝により1900開門したので廣部大隊が入城を開始したところ、先頭の3車両が通過したとき、城壁上の中国軍が廣部大隊を目がげて猛射を浴びせかけた。大隊は全速力で12車両が通過したが、後続隊は射撃により阻止され、城内と城外に分断されてしまった。

軍事顧問が支那兵の鎮撫に努めたがそのかいなく、2000、ついに廣部大隊もこれに応戦した。中国軍は続々兵力を増強して大隊を包囲した。急を知った豊台の河辺旅団長は2130、救援隊を派遺した。しかし折衝の結果、支那兵は離隔して集結し、日本軍入城部隊は公使館区域へ、城外部隊は豊台に引き返す案がまとまり、2200過ぎ停戦となった。27日0200ころ、廣部大隊は公使館区域の兵営に入った。

この二つの事件が第29路軍の、または南京政府の戦争への決心にもとづくことは明らかだった。香月は27日正午を期して、反撃を開始することを命令した。それでも、支那通筆頭である松井北平特務機関長は反対し、第29路軍に事前通牒を発し、攻撃開始を1日遅らせることを主張し、香月も折れた。

松井は理由として居留民引き上げが間に合わないことをあげたが、北平居留民は27日朝、2356人余り全員が大使館地区への避難を終了していた。更に、この避難勧告は北平だけであって、通州など他の北平の都市には出されなかった。松井の「遅らせる」意図は、事前に第29路軍を「逃がす」ことにあった。

同じ27日早朝、東京でも緊急閣議が開催された。ここで無条件の内地三師団の動員が認可されたが、外相は戦火が北支にとどまるか、と疑問を呈し、海相は上海・青島への陸兵派遣の考慮を要求した。また、同日貴族院・衆議院両院が開催され、北支事変における陸海兵の労苦を謝し、勇健を祈る議決が採択された。

通州事件

松井は攻撃の危機を宋哲元に伝えた。だが、27日1400、宋哲元はラジオで「第29軍は自衛護国のため、必死の努力をなし、南京の命に従いあるも、更に各界の指教を請う」と蒋介石に援兵を要求した。

第29路軍は、直ちに撤退を開始した。27日早朝までに主力である132師は南苑にある兵舎を引き払った。ただし、宋哲元は蒋介石への忠誠の証しとして、麾下の兵士に日本軍の兵站中心であった天津、塘沽、豊台と通州を急襲することを命じた。

92式偵察機。下は炎上する南苑兵舎

日本の陸軍航空隊は28日早朝、無人となった南苑や西苑を空爆し、兵舎を灰燼に帰せしめた。これら兵舎は、西原借款によって、段祺瑞治世下の北洋軍閥支援の一環として建設されたものである。

ただ、28日1100ごろ、復讐に燃える一木大隊清水中隊は、南苑を出て北平に向かう第29路軍副軍長冬凌閣、132師長趙登禹の馬列を待ち伏せし襲撃、この二人を戦死させた。

その日夜半、第29路軍は天津を急襲した。急襲したのは騎兵部隊で、その数は5000に達した。しかし、騎兵による都市施設急襲はまず成功しない。一時支那駐屯軍本部は窮地に陥ったが、分駐を余儀なくされていた各部隊は29日終日戦い、30日に至り敵を撃退した。

塘沽附近でも28日から大沽方面から日本軍の軍用桟橋や装甲艇に射撃が加えられた。塘沽警備隊は出撃を決意し、塘沽駅を下車中であった野戦重砲第9連隊を大沽に向かわせた。29日、大沽に砲撃し30日に一帯を掃討した。

ところが、29日1400ころ通州保安隊約3000人が突如兵変を起こし、冀東政府主席股汝耕を捕らえ、日本軍守備隊を攻撃するとともに特務機関及び日本人居留民を襲撃した。

このため特務機関員のほとんど全員が戦死し、在留邦人385名のうち223名が虐殺された。

同保安隊に対しては、かねてから抗日戦線参加の工作が進められていたが、27日の戦闘の際、関東軍飛行隊が保安隊兵舎を誤爆したのを噴激し、かつ第29軍戦勝の宣伝を信じて反乱を起こし、翼察当局から賞与を得ようとしたものであった。

当時通州には、同地守備に任ずる支那駐屯歩兵第1連隊の1小隊及び補給準備のため同地に宿営していた兵站自動車1中隊だけの総兵力約110名であり、よく敵の攻撃を拒止し辛うじて守備隊兵営を確保したが、居留民を保護する余力は全くたかった。

駐屯軍司令官は臨時航空兵団に命じ敵を爆撃させるとともに、豊台の支那駐屯歩兵旅団長に命じて支那駐屯歩兵第2連隊の主力をもって救援させ(30日朝到着)、通州一帯を掃蕩した。保安隊は29日1600ころから行われた爆撃を機に、戦闘をやめ北平に向かった。

香月駐屯軍司令官は、30日2000、次期作戦の準備をなすとして、戦闘終結を宣言した。7月7日以来の日本軍の戦死者は127人、戦傷者348人だった。総計61回の「事件」にたいしこの数字であり、戦線があり向かい合うような戦闘がなかったことを物語る。

参本は保定=独流鎮の線で制定することを決め、支那派遣軍は概ねその線の手前まで進み停止した。ここにおいて第29路軍との「戦争」は終結したと認識したものか、北平入城式が8月8日から3日間挙行された。宋哲元は7月28日に北平を脱出し、保定方面に向かったとされる。


北平に入城する支那駐屯軍歩2連隊(萱島連隊)


Hsi-Huey Liang, The Sino-German Connection, Amsterdam, 1978

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