普通、戦争の名前は勝者によってつけられる。だが、「阿片戦争」"Opium War"という名はアメリカ人によってつけられた。この名前に従えば、イギリスにとり「不義の戦い」(陳舜臣『実録 アヘン戦争』)となるようにみえる。もちろん現行の日本の教科書においても、イギリス側が阿片売却収入を原因として戦争が開始されたとし、大本営情報部が昭和18年に制作した宣伝映画『阿片戦争』も同様に説明している。当然のことながら、中国人は「正義」の側にたち、「帝国主義」の被害者であると主張する。
こういった見方は正しくない。イギリスは自由貿易を主張し、自国在外施設への中国官憲による暴力行為に反発し、戦争が開始されたのである。これにたいし多くのアメリカ人は、阿片貿易の片棒を担いだことを隠しながら(フランクリン・デノボ・ルーズベルトの母方の祖父、ワレン・デノボは、阿片貿易で巨富を得た人物である)イギリスを非難し続けている。そして、戦時中の日本の大本営にしても、対米英戦争を阿片戦争を引き合いに合理化したかったのである。
当時、阿片は禁制品か?
19世紀国際法において、禁制品"contraband"とは戦時禁制品を指した。そして、明治軍人は戦時禁制品を「密輸品」と呼んでいた。現在の用語とは大分異なるのである。19世紀前半には飛行機もなく、鉄道は未発達で、大半の輸出入は商船に依存していた。平時における船舶は船籍のある国家の領土と同じ扱いになり、船長は当該国法律にもとづいて司法権を実行する。そして、イギリスの19世紀中葉とは自由貿易主義が熱心に唱えられた時期でもあった。
「神のみえざる手」(アダム・スミス)が全体を支配するから、各人は自助によって最大の利益を追求することによって、各人が最大の幸福を得られるといった考え方であった。
だが1930年代、世界貿易における最大の交易品は阿片であった。
世界貿易をリードしたイギリス(植民地を含む)国内において、あらゆる種類の麻薬の販売・所持・吸引などは、いっさい自由であった。シャーロック・ホームズはコカイン常習者なのである。またルイス・キャロルの『アリスの不思議な世界』は麻薬酩酊状態を表現したものともいわれる。阿片は痛み止め・咳止め薬として、薬局やパブで公然と市販されていた。もちろん中毒者は多数いたが、誰も気にとめることがなかった。日常生活に障害をきたすような重度の中毒者は少なく、阿片窟のようなものは存在しなかった。
アメリカでは、阿片を輸入禁止にすべきであるという世論が一際強かった。多分にピューリタン信仰からで、禁酒法と同一性格のものであろう。1909年、アメリカはメキシコと中国を誘い、上海で三国による医療用を除く阿片海上輸送の禁止を話し合い、阿片輸入禁止法を施行した。そして1914年になり、ハリソン法を施行、阿片などの麻薬の国内における製造・販売・摂取を全面的に禁止した。
イギリスでも、1906年総選挙で大勝した自由党は、1907年、中国と2国間協定を締結し、薬用を除く阿片を輸出入禁止種目とすることに合意した。だがこれは阿片を禁制品としようとしたものではなく、2国間合意によって輸出入禁止種目を設けることを可能とする意図にもとづくものであった。イギリスで麻薬全般が国法による規制の対象となったのは、第一次大戦中からである。
日本においては、阿片は医師処方による薬剤指定とされ、販売から規制する方法がとられた。これによって麻薬取締りは厚生省所管とされた。1948年、麻薬取締法が施行され、医療用を除く麻薬類の製造・輸入・販売・所持は全面禁止となり、現行に至ってる。
ところが、中国における阿片禁止は意外と古くから行なわれていた。1796年には、関税表から阿片を取り除いた。これは事実上の輸入禁止措置であった。さらに、1799年には国内における芥子栽培を禁止している。ところが、これらは建前だけにすぎなかった。中国では天子から禁令が出されても、地方官が実際に違反者を処罰せねば、実効があがることはない。法令にたいする考え方が根本的に異なるのである。
中国における阿片禍の情況
中国の阿片輸入
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数量 |
価格 |
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1817 |
3698箱 |
墨$4084000 |
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1825 |
9066箱 |
墨$7927500 |
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1833 |
21659箱 |
墨$14222300 |
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1838 |
28307箱 |
墨$19814800 |
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1898 |
32913箱 |
£4388385 |
1両(テール:庫平銀)=銀37.3125グラム
1墨$(メキシコ・ターレル、太平銀)=銀27.4246グラム
1箱=133.33ポンド=60キログラム
金1オンス(30.225グラム)=3ポンド17シリング10ペンス=35米ドル
金銀比価は19世紀平均で1:15、現在は1:58である。
2007年6月の銀相場は1グラム=53円である。
これからすると、庫平銀1両は1977円、約2000円である。
当時の清国の国庫歳入は4000万両(墨$5400万)程度であった。一方、イギリスの歳入は、1850年前後で6800万ポンド(金本位制であり比較が難しいが、1ポンド=4墨ドルとすると墨$2億7200万に相当する)であって7倍の格差があった。ただし中国では、地租などの直接税は地方税であり、国庫歳入は塩税と海関税(輸出入税)などに限られる。
つまり、阿片2万箱とは、イギリスの国庫歳入の概ね5%程度であり、清国は40%程度を占めたということになる(現在の銀換算であれば206億円)。清国の租税負担率が低いことを考慮しても、イギリスの国民総生産が5倍以上あったことは確実である。これはイギリスが産業革命を成功させつつあることの反映であって、すでに都市人口は5割に達していた。大ロンドンの人口は730万人であり、清国北京の45万人を圧倒していた。
清国の阿片輸入はイギリスに限られた。これはベンガル産阿片が上質であったたと密輸は統計に出ないためである。ただ19世紀後半では、清国の阿片輸出も盛んであり、アメリカを中心に輸入と同量程度輸出していた(中国産は低品質で価格は半分程度)。
このイギリスの対清貿易は18世紀後半では東インド会社に特許状を出すことにより限定されていた。ところが、東インド会社は茶と絹の輸入により、入超に陥り、清国への輸出商品として阿片を考えた。イギリスは茶を中国から輸入し、インドへ綿布を輸出、インドは中国へ阿片を輸出するという三角貿易を想定したのである。
ただし、これはあくまでも東インド会社の経営方針であって、イギリス本国は全世界にまたがる大英帝国の一部で発生した些事にすぎないと考えていた節がある。しかるに、東インド会社はインド統治を行いながら、様々な営利事業を独占していた。この中には、直轄植民地であるベンガルの芥子栽培から阿片精製が含まれていた。
当然、東インド会社はベンガル産阿片の販売権を握り、中国向け、イギリス本国向け、レパント貿易向け全ての輸出を握っていた。ところが同じインド産でも、藩王国で産するマルワ産・マドラス産の阿片も中国向けに輸出されており、これら産品は東インド会社特許状に反するので「密輸品」と呼ばれていた。じっさいに輸出していたのはジャーディン・マセソンなどの冒険商人であった。東インド会社も中国商人との応接や海運などは、1820年ころから徐々に、これらの冒険商人に任せるようになった。
じつは東インド会社はこの頃から「大企業病」にかかり高コスト体質になっていたのである。一方、議会はこの変則的な貿易は自由貿易の原則に反するので、1834年、東インド会社の対清貿易の独占という特許を取り消した。
公行貿易
清国は建前上、明時代から続く海禁政策=鎖国政策をとっていた。ただし、私的貿易や海賊行為の取り締まりについて熱心ではなかった。それゆえ、海防については準備はなかった。倭寇が退潮してから、海からの武力による挑戦はないものと見込まれた。
ただ、この時代の清国の人口は3億5千万人に達していたが、それにたいする常備軍は、漢・蒙・満8旗20万戸に過ぎなかった。これのほかに緑営といわれる警察組織、郷勇といわれる民兵組織があったが、軍事力といえるほどのものではない。すなわち、欧米・日本の軍隊に太刀打できる軍事力はとうに失われていたのである。だが、愚昧な儒教官僚はまったくこのような外国の情勢を観察しようとせず、儒教イデオロギーから政策を決定するという方法に固執した。
満州人皇帝と儒教官僚は中国が自給自足であると信じていた。だが明代からすでに中国の科学技術は欧米に遅れをとっていた。例えば、日本人は室町以降中国の文物を取り入れることをほとんどしていない。戦国時代の日本人将兵の装備は日本独特のものかヨーロッパからに移入品ばかりなのである。もちろん、古来からの生活様式であれば、自給自足は可能であるかもしれない。だが、少しでも生活を向上させようということであれば、自給自足の主張は科学技術への柔軟性を否定しているだけのことである。
だが清国でも、民間による輸出意欲は高かった。清は通貨について秤量通貨による銀本位制(ただし補助通貨として銅銭)をとっていたが、中国は自国で銀をほとんど産しないのである。さらにいえば、人口が多くても、農業における労働生産性は低く、商品経済は発展できなかった。農家にとり現金収入となる茶と絹は重要な交易品だったのである。
清国も輸出の重要性に気づいたが、西洋諸国と対等の外交関係を望まず、あくまで西洋からの私的商人との取引であるという建前を崩したくなかった。これは江戸幕府の対清外交政策と似ていた。江戸期、中国商人は私商として取り扱われ、長崎の唐人屋敷に押し込められていた。
清国にとっての長崎は広東(広州)であった。広東の十三行街といわれる地区に、外国人居住を認め、そこに商館をつくらせた。そして公行と呼ばれる商人に輸出入を独占させたのである。公行は一種の総合商社のようなもので、小さな口銭しかとらない。さらに買弁と呼ばれる公行と外国商人の間にたつ通訳兼賄賂斡旋者があった。そして、買弁は外国商人に雇われているが、中国側の指定なのである。現代風にいえば清国の要求は、貿易を官営にすることであって、かつ外国商人を代弁すべき仲介者を政府によって指名することであった。
ところが、長崎の唐人屋敷にいた中国商人とヨーロッパ商人とは「国家意識」が異なっていた。すなわちヨーロッパ商人はたとえ商業拠点だとしても必ず国旗を掲げた。どの国法に従うかを明らかにせねば、国家の保護を受けられず、また他国の商人から信用をうけることもできなかった。
各国商人とも、この公行システムに不満であった。第一の問題は広東の立地であった。そこは珠江デルタ地帯にあり遠浅で、喫水の深い船舶は接岸できない。また後背地は茶や絹の生産地ではなく、それらは揚子江水運を利用して、中国沿海を通りジャンクで運ばれてくるのである。購入原価は高くならざるを得ない。
だが、本国の保護がないヨーロッパ商人は清国官憲に対抗できなかった。イギリス商人だけは違った。すでにインド植民地をもち、シンガポールを支配していたイギリスは海軍を派遣することができた。そして、本国のホイッグ・自由党連立政権の主張する「自由貿易」とは、自国軍隊の保護の下に、官営を排除し私的商人が相手国の私的商人と国際法にもとづいて交易することであった。官営を自明のこととする清国とは正反対であった。
さらに自由貿易は順法を前提とする。イギリス以外のヨーロッパ商人は天津・山東から福建まで公行を通さない密輸をやっていたが、イギリス商人はそれができず、阿片貿易も中間マージンや賄賂をとられる公行を通していたのである。
宮廷阿片論争
林則徐(1785〜1850)
福建省福州出身。1811年進士に合格。そのあと順調に官僚の階梯を歩む。江蘇巡撫から昇進して湖広総督(湖南・湖北両省を統括する。清時代、大半の総督は二つの省を管轄した)のとき、禁煙論を上奏し道光帝に認められた。
1938年11月欽差大臣となり、1940年8月両広総督を罷免された。そのあとイリに左遷されたが、陝甘総督に返り咲いた。そして雲貴総督を最後に引退、故郷の福州に戻った。しかし、1850年、広西省で太平天国の乱が発生、欽差大臣に再度任命されたが、任地に赴く途中、潮州で客死した。
林則徐は今日的な意味で成功した政治家ではない。自らは国民の健康を慮り、阿片に反対したが、皇帝の排外主義に追随し、むしろ銀流出防止が主眼の阿片消毀を実行した。そして、英国が武力をもって反抗すると、清国軍は一たまりも無く敗北した。則徐の外政への視野は狭く、戦争の原因をつくり、結果として中国を敗亡に追いやったのである。
このころ阿片輸入による銀流出について清廷で論争が生じた。
中国における阿片生産は明代から開始されていた。生産地は雲南・貴州・四川であって、清初には阿片吸飲についての記録がある(新村容子『アヘン貿易論争』汲古書院 2000))。当初から喫煙と近い位置にあり、煙草の一種として扱われたり、煙草と混ぜて吸われたりした。
ベンガル産阿片が輸入されたのは18世紀後半からであるが、急速に拡大したのはその品質のためであった。中国人吸飲者は、国内産阿片が「木を燃やした炎」であるのにたいし「石炭を燃やした炎」だと語っている。そして中国における吸飲法は反覆使用が特色である。すなわち水キセル・アヘンチンキ・煙草と廃物や灰が再利用された。これだと生産・輸入が限られても、吸飲人口は拡大する。
国内における阿片吸飲根絶と阿片輸入禁止は別物である。もし、国内で阿片吸飲と輸出が禁止できれば、阿片生産と輸入は停止できる。このようなことは日本やイギリスのような国では簡単であって、第一次大戦以降、国内吸飲禁止が徹底されると、阿片輸入は薬用目的を除いて停止された。ところが、中国では簡単ではない。生産地は奥地であり、芥子栽培以外の生業は簡単に発見できない。そのうえ、吸飲禁止の法令を行き渡らせることは至難である。この論争が生じた1836年においても、阿片吸飲の禁は既に出されていたが、有名無実であった。
最初に解決策を出したのは太常寺卿(儀礼・祭祀を司る長官)許乃済であった。1836年6月、道光帝に阿片弛禁論を提出した。
- 阿片貿易は物々交換として、実のあがらない輸入禁止令は廃止する。これによって白銀流出を防止する
- 官吏・科挙受験者・兵丁の吸飲を禁止する
- 弛禁は政体にかかわることはない。酒色でも生を損なう。附子・烏頭(トリカブト)にも毒性がある。
- よって、民間の販売吸飲は黙認する
この論の立脚点は、市場経済=自由経済を前提としている。国内の流通には関与できないので、輸入決済方法にのみ関与しようとした。
乃済を批判して、陳舜臣は「アヘンのような麻薬を、酒色と同列に置いたり、薬用に処方されるトリカブトとくらべたりするのは、あきらかに問題のすりかえである」と書いている(『実録アヘン戦争』)。問題の「すりかえ」を行なっているのは舜臣であろう。共産主義者は「すりかえ」(日本で政治文書に現れたのは『コミンテルン1927年テーゼ』和訳から)という用語を好んで使用するが、大体において自分の狭い料簡の中で気に入らないことを非難しているだけである。
乃済は、この時代に生きている人であって、阿片禁止が常識となった後世の視点から批判してはならない。そして当時問題になったのは中国にだけ発生した阿片禍なのである。その結果、阿片禁止の国は、清国だけだったのである。そのうえ阿片禁止に実効性がみられないとすれば、他国と同様の条件に置くことは十分に蓋然性がある。
阿片はトリカブトと同様に現在でも薬用に処方されており、「色」はともかく酒や煙草について大麻や阿片と同列に置く議論は現在でも盛んである。
だが、道光帝はこの論を取り上げなかった。
2年後の1938年、弛禁論にたいし有力な反論が現れた。黄爵滋である。
論の中心は次のようなもので、中心点は「違反者を処刑せよ」という厳罰論であった。
- 銀流出は財政欠陥につながる
- 港における取締りは有効でなかった
- 外夷との通商を停止しても、銀流出は防げない
- 阿片流通を取り締まっても、汚吏によって妨害され失敗する
- 芥子栽培を解禁しても、阿片輸入は衰えない
- もし、吸飲者を則死罪とすれば、吸飲者は減少し、輸入が減少、銀流出は止まるであろう
絵で書いたような「重罪を課す=犯罪減少」説であるが、当時の中国社会でも腐儒の戯言のようにしか聞こえなかったようである。だが、道光帝はこの論に魅力を感じ、各地の総督(軍官)巡撫(行政官)に意見を徴せしめた。
その中で湖広総督林則徐の文章がもっとも光った。その結論部分である。
−−−鴉片未だ盛んに行なわざる之時に当たりては、吸食者は害毒その身に及ぶに過ぎず。故に杖【ムチ打ちの刑】、徒【流刑】にて已に辜【罪】を蔽うに足れり。毒を天下に流すに及ばば、則ち害をなすこと甚だ大きく、法はまさに厳しきに従うべし。もし泄泄として【グズグズして】これをみれば。是数十年後に、中原に幾ど【ほとんど】以って敵を禦ぐ【防ぐ】べき之兵無からしめ、且つ以って餉【軍事費】を充たすべき之銀をして無からしむ−−−
(阿片吸飲者に)厳罰をもってすれば、財政が好転するというのだが、これは論理としては成立しない。阿片吸飲者を絶滅すれば貿易収支が好転するということだろうか。
それに加えて、今まで禁止していたにもかかわらず、阿片吸飲者は拡大していたのである。さらにいえば、このあとになっても阿片吸飲は拡大し続けたのである。
だが、道光帝は感銘をうけたようである。そして林則徐を欽差大臣に任命した。任務は「海防」であり、広東に居住し、海口【港】の事件を査弁することであった。さらに水軍の統帥権を与えた。
道光帝の則徐への命令の内容は、禁煙派の上表と完全に異なっている。禁煙派は、阿片吸飲者を厳刑に処すべきだと主張した。だが帝は、広東に駐在し、外国人にたいし武力をもって解決せよと命じているのである。1938年11月、則徐は上京し、帝とともに8日間にわたり打ち合わせた。そこで、武力行使の方針が固まったとみてよい。
道光帝と則徐が詳細に軍事的可能性を検討した形跡はない。このときイギリスは1761年に成立させたベンガル直轄植民地をインド全土に拡大する過程にあった。そして木造帆船の時代とはいえ、船舶のスケールは英中では勝負にならなかった。
阿片消毀
林則徐は、1839年3月10日に広東に到着した。3月18日、直ちに2通の文書(諭貼)を公行代表に手渡した。
1通は、全ての外国人から「今後永久に阿片を持ち込まない。もし持ち込めば、死罪として、貨物は没収する」という誓約書をとれというものだった。さらに外国人に現在の手持ちの全阿片を没収せよと命令した。
他の1通は、「各外国人に諭す」というものだった。英文・中文2通作成され、後日、英国の各新聞に掲載され有名になった。クウェーカー教徒を中心に組織された「阿片貿易反対のための英中学会」"The
Anglo-Oriental Society for the Suppression of Opium Trade"は、この林則徐の諭貼を、「聖典」として、理は中国にあると主張した。
イギリス国王は伝統に従って、その礼と従順を歴代示してきた。イギリスは朝貢礼にあたって「中国に商業にわたる英国民は常に中国皇帝の恩沢と公平に預かってきた」といってきた。
私個人はイギリス国王が深く天の公理を理解し天朝に感謝していることを喜んでいる。だが、長い年月の間に夷人の中には善人と悪人が混じるようになった。阿片を密輸し中国人を誘惑し、全地方に害毒を拡散している悪人がいる。
このような悪人は自分達の利益だけを考え、他人への悪を顧みない。天の公理のよって罰せられ、あらゆる人間に憎まれることになるだろう。
中国皇帝はこれをきき、激しくお怒りである。そこで私を派遣し問題を解決しようとした。ー中略ー
夷人はあるいは我々に害を加えようとしているのではなく、たんに利益を極大化しようとしているのかもしれない。だが、他人のことを考えることはない。あなたがたイギリス人の良心はいったいどこにあるのか?ー中略ー
イギリスでは、阿片吸飲に対する禁止は大変に厳しいと聞く。それならば、イギリス人はアヘン吸飲による危険な結果を明白に理解しているはずである。イギリスで害があるとして許されていないものを他の国に持ち込むべきではないし、ましてや中国には決して持ち込んではならない。
天朝が周辺の国々にわけ与える商品には、人間にとって有益なものは何一つないのである。例えば茶と大黄をとってみよう。外国はこれがなければ1日たりとも過ごせないではないか?もし中国がこれらの恩沢品の輸出を打ち切ったとすれば、夷人はどうやって生きていくのか?
それどころか、外国の織物は中国の絹がなければ織ることができない。ー中略ー反面、外国から中国に入るものは、「おもちゃ」に過ぎない。我々はそのようなものがなくとも困らない。もし中国が国境を閉鎖し通商を停止したらどうなるのか?にもかかわらず天朝は茶も絹も何もかも無制限に輸出を許可してきた。これは世界の他の人々と利益を分かち合いためである。ー略ー
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この文章は外国にたいする無知を示している。イギリスでは阿片吸飲に何の制限もなかった。これはイギリスに限らず、19世紀ではどこの国でも同じであった。例外として日本やシャムは医療用を除いて阿片を輸入していない。これの理由は国内において流通を規制したためである。そうすれば自由貿易では、需要がなくなるから、阿片が流入することはない。
さらにいえば、道光帝と林則徐の本意は国内における阿片禁圧ではなく、阿片輸入禁止=銀流出防止なのである。この点からも則徐の文章は欺瞞としかいいようがない。
さらに、「イギリス人が大黄がなければ暮らせない」というのは何かの聞きかじりだろうか?それにしても外交官がいうべきものではない。科挙官僚の無教養というべきだろう。
則徐はイギリス人を標的として外国人弾圧を強めた。
3月19日下令 外国人の広東からの脱出を禁止
3月21日下令 広東十三行街を包囲
3月22日下令 英国の持ち込んだ阿片の調査・没収を命令
このとき商務監督"Chief Superintendent
of the trade of British subjects to China"チャールズ・エリオットはポルトガル領マカオにいた。だが、イギリス商人から危急の報をうけ、直ちに広東に向かい、3月24日、到着した。
則徐はこれを好機ととらえた。十三行街を兵士千名で囲み、水と食糧を断った。エリオットは屈服し、3月27日、全ての阿片を引きわたすことを命じた。引きわたしだけで1カ月以上かかり、全てが終了したのは、5月18日であった。
6月3日、則徐は自らの功を誇るためか、公開にして百官を集め、広東郊外の虎門で2万箱の阿片を消毀した。3月の十三行街から阿片消毀まで、則徐は全て道光帝の許可をとったうえでの行動であった。ただ、武力行使について「大勝利」であると報告しており、道光帝が事態を正確に評価できなかった可能性がある。
エリオットは居留民にマカオへの退去を命令する一方、誓約書にいっさい署名しないことを求めた。ただし、阿片消毀までの事態を本国に報告し、判断が戻るというのは前後三カ月かかった。このため、エリオットは大半を自分だけで決定せねばならなかった。
広東所在のイギリス公館("factory"と呼ばれた)にはイギリス国旗が掲揚されていた。そして、没収された阿片はイギリス商人の財産であった。阿片消毀までの知らせが報道されるとイギリス世論は激昂した。中英に正式な外交関係はないが、中国兵が在外公館を封鎖し、脅迫のうえ館内およびイギリス船舶内の阿片を没収したことは十分に侵略行為を構成すると思われた。
エリオットとイギリス人はマカオに滞在したが、7月7日、九竜でイギリス人水兵と住民との間で喧嘩が発生した。則徐は、それを種に、エリオットのマカオからの退去をも画策した。ポルトガル当局は抗しえず、イギリス人は洋上に逃げた。だが、北に向かい漁村しかなかった香港島に上陸し、基地を設けた。9月に入ると、シンガポールから28門をもつフリゲート艦(第6等軍艦)ボレージ"Volage"が到着した。そして、10月26日、本国から珠江外の武力行使の許可が出ると、九竜沖にて中国兵船を攻撃した。中国兵船はたちまち撃沈された。
第6等軍艦
帆船時代、英海軍は主力艦艇を砲門の数で1等から6等に分類していた。第1等から第3等までは戦列艦"Line
of Battleship"と呼び、第4等から第6等までを"Frigate"と呼んだ。これら軍艦の艦長の階級は原則、大佐"Captain"である。
そして第6等軍艦の別名はスループ"Sloop"または"Jackass Frigate"「ノロマ・フリゲート」であり、往古の1本マストの軍艦を連想させるものだった。この理由は、艦長に中佐"Lieutenant"が任命されることがあったためだ。
第6等軍艦は9ポンド砲が20から28門搭載され、普通は上甲板にしか置かれない。乗組員は150から240人で、450トンから550トンである。28門艦の場合は、艦長、副官2人、主計長、航海長、軍医長、砲術長、掌帆長、木工長、士官候補生2人、合計11名の士官が乗艦した。
戦時において乗組員の多数は海兵であって、任務は敵艦斬り込みや臨検であった。ただ阿片戦争では、接舷・敵艦斬り込みはまったく発生しなかった。中国ジャンク兵船は、接近途中で英艦の砲弾(当時、9ポンド=4キロの鉄球)によってほとんど撃沈された。砲戦で決着がついた海戦は、19世紀前半における国家間の戦争としては、阿片戦争に限られる。
ボレージもヒヤシンスも第6等軍艦であるが、両艦で阿片戦争中、中国ジャンク兵船合計29艘を撃沈したという。
清国海軍とジャンク兵船について、"Chinese Repository"(訳せば『中国納骨堂』か?広東イギリス公館員の見聞記録)1836年版は次のように記している。
「嘲るにしても描写するにしても、文字ではその無力さを表現するのは難しい。ニュージーランドの戦闘用カヌーの二三艘に清国海軍全艦艇は及ぶまい。ジャンク兵船は全長約100フィートで2〜300トンであり、外洋ジャンクより小さく、奇妙な形をした材木の固まりである。帆は筵【むしろ】で、錨は木製、索はラタンである。反り返った上甲板をもち船尾は直線的に落ちている。
乗員は100人ほどで、兵装は乗員のもつ弓と6門の小さな火砲である。全体として軍艦というより兵員を乗せた船という印象である」。
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10月末になると20門をもつフリゲート艦ヒヤシンス"Hyacinth"も到着した。だが、クウェーカー教徒が船長以下高級船員を占めたトマス・クーツ号は、エリオットの命令に従わず、則徐の誓約文書に署名し、広東に向った。すると続いてロイヤル・サクソン号もこれに習おうとした。エリオットはこれを阻止しようと珠江河口に向った。すると、中国ジャンク兵船が現れた。
11月3日、両軍は川鼻で合戦をくり広げた。戦いは一方的で、関天培が率いるジャンク兵船4艘がたちまち撃沈された。だが、則徐はこの海戦を大勝利と天子に上奏した。道光帝は気をよくして、清英貿易停止の諭旨を下した。
「もししばしば抗拒するになお通商をゆるさば、とくに事体にならざるに属す。区区たる税銀に至りては、何ぞ討論するに足らんや。ー中略ー林則徐らをして情形を酌量して即ち英吉利【イギリス】貿易を停止せしむ。所有該国の船隻は、尽く【ことごとく】駆りて【かりて】口【港】より逐い出し【おいだし】、甘結【誓約書】を取り具うるを必せず」
則徐は、誓約書の提出があれば、阿片を除いて貿易を再開する方針であったとされる。道光帝は、則徐より強硬であった。1840年1月、林則徐は両広総督に任命された。
昭雪伸冤
エリオットは、1839年11月、パーマストン外相あて「イギリス臣民の財産が武力によって強奪され亡失された。これは1国の他国にたいするもっとも恥ずべき暴力である」と報告した。パーマストンは1840年早々には、清国に「平和と正義」をもたらす全面戦争を覚悟した。
インド帝国は、1840年1月31日、清国に宣戦を布告した。
ウェルズレー
イギリス海軍は1840年2月から、戦列艦4隻を中軸とした艦隊派遣の準備を進めた。戦列艦はウェルズレー、ブロンド、メルビル、ブレナムの4隻であり、ウェルズレー、メルビルそしてブレナムは74門をもつ巨艦であった。この他に2隻の第4等フリゲート、3隻の第5等、第6等フリゲート、8隻のスループ、4隻の武装外輪汽船、1隻の砲艦、27隻の輸送船からなっており、陸兵として4000名が乗船した。
艦艇は英本国、インド、ケープ植民地から集められ、武装商船を除いて48隻に達した。艦隊司令長官にはチャールズ・エリオットの従兄弟であるジョージ・エリオットが任命された。艦艇は5月までにシンガポールに集結し、6月香港方面に到着した。
パーマストンはこうして既成事実を積み重ねたものの、議会に諮ったのは4月であった。このとき議会は、少数派内閣で、与党は、ホイッグ・リベラル(自由党)・ピール主義者の三派に分かれ、野党保守党と対立していた。ホイッグ・リベラルは自由貿易を信奉しており、国権で商人の交易を規制するべきではないと主張した。これは暴力的な主張であって、鎖国している独立国家にたいし、武力をもって開国を迫ることを是認する考え方であった。さらに、個別国家による特定産品の輸出入禁止措置をも認めなかった。
だが、パーマストン外相の不信任動議、戦争に伴う予算措置についていずれも与党が勝利した。
阿片の「適度な消費」は存在するか?
林則徐は全面戦争が避けられないものとみて、広東や珠江河口周辺の砲台強化や守備隊の増強を計った。さらに200門以上の大砲を購入し、さらに河口を鉄製の鎖で閉鎖した。60艘のジャンクを集め、漁民や農民による民兵を組織した。そして懸賞金制度をつくり、74門艦焼亡2万墨ドル(砲門が1門減少するごとに百墨ドル減少)、艦隊司令官生け捕り五千墨ドル(死亡の場合1650墨ドル)白人兵生け捕り百墨ドル、インド兵20墨ドルと定めた。さらに加えて、官吏による慣例となっている懸賞金一割天引きを免除するとした。
なぜ生け捕り優先かといえば、清朝では、丁重なる天子への献俘の儀式があったためである。この儀式は1826年、カシュガルにおけるジャハーンギールによる反乱平定のさいにも執行された。ジャハーンギールはその紫禁城における儀式のあと、市場で四つ裂きの刑に処された。
2月、パーマストンはエリオットに艦隊派遣の目的を次のように訓示した。
- 英国臣民への侮辱の復仇
- 英国臣民の将来の安全の保障
- 損害の賠償
- 中国沿岸島嶼の割譲
- 広東公行貿易の廃止
- 上記を達成するために中国沿岸主要港の封鎖
- 戦費を含む賠償金支払い終了までの舟山列島の保障占領
- 中国側回答を渤海湾天津附近で得ること
エリオットは広東方面については封鎖部隊を置いたまま、6月9日、東支那海に沿って北上した。艦隊は沿岸における薪水の補給に不自由はなかった。多くの中国人が労役提供も含めて協力したからだ。唯一アモイで、英兵がパーマストンの親書交付のため上陸を試みたが、港湾守備の砲台が発砲する事件があった。
舟山列島では、7月5日、陸戦隊が無抵抗で定海を占領した。定海には3千人の守備隊がいたが、戦わず逃亡した。道光帝は浙江巡撫烏爾恭額の無能を責め「浙江の水陸営伍[軍隊のこと]の廃弛[規律が弛むこと]問わずして知るべし。区区たる小醜、敢てかくの如くに猖獗[悪いことがはびこる]するや、かの文武大吏は即ち張皇[あわてるさま]措[措置]を失い、平日豈、僅かに養尊処優[官職を得ること]のみを知らんや」と上奏文に書き込みを入れた。
道光帝はイギリス軍を「区区たる小醜」とみていたのである。そして、林則徐は広東でイギリス海軍を全滅させたのではないか、と群臣を責めたてた。しかし揚子江から南の港湾がイギリス軍に封鎖されているとの報告を天子にあげる勇気のある者はいなかった。
8月中旬、イギリス艦隊がさらに北上し、渤海湾に入り白河河口に出現すると、附近の住民は恐慌に陥った。天津にいた直隷総督埼善は、皇帝から禁止されていたもののあえてパーマストンの親書を受けとり、文面に小細工を加えた。親書は「皇帝に謝罪を要求し賠償金を支払え」とするものであったが、「皇帝にたいし昭雪伸冤[無実の罪をはらす]を求討[願い奉る]する」と修正したのである。
道光帝はこれをみて大いに安心した。イギリス人が広東で則徐と争論になり、その仲裁を自分に求めてきたと錯覚したのだ。8月19日、それまで皇帝の強硬方針に忠実であった則徐に「外は通商を断絶せず、内は犯法を捕獲して浄尽せず、空言を以って、責任を推委[転嫁]するに非ざるなし。実済無きのみならず、かえって幾多の波瀾を生み出す。これを惟えば憤怒に堪えず」という叱責の上諭が与えられた。翌月、林則徐は免黜された。
埼善は早速、帝の機嫌をとり始めた。英艦隊が来寇したのは、則徐のためであって、除けば、穏便に除去するとの論陣を張った。エリオットは、8月30日、大沽に上陸した。それから9月10日前後まで埼善と面談した。
この内容は不明であるが、「則徐は罷免され、新任の大臣が交渉にあたり、パーマストン親書について大半はすでに皇帝は了解した」と伝えようである。エリオットは半信半疑ながら、渤海湾が冬季結氷することを考慮し、9月15日抜錨した。
道光帝は、埼善が弁舌だけで英艦隊を南帰させたことを大いに嘉した。9月17日、埼善を欽差大臣に任命し、広東に向わせた。埼善はエリオットと再度広東で交渉すれば、戦火を交えることなく解決できると考えたに違いない。だが、道光帝はまったく別のことを考えていた。すなわち、湖南・貴州・四川駐在の八旗兵に動員をかけ、広東省に向わせた。つまり広東で決戦し英兵を殲滅しようとしたのだ。ただ、開進完了までに6カ月が予想された。埼善に期待したのは時間稼ぎであった。
一方、エリオットは戦争は外交に移行したと思った。艦隊と離れて舟山列島定海に立ち寄り、11月6日、欽差大臣伊里布と定海からの半地撤退を約した。
11月20日、エリオットはマカオに到着した。伊里布から頼まれた書類を汽船クィーンに埼善に届けようとしたところ、川鼻砲台から砲撃をうけた。だが、エリオットは中国側の「表では和、裏では拒」という偽善的態度を見抜けなかった。従兄弟の艦隊司令官ジョージ・エリオットは中国側の欺瞞性を説いたが、かえって「中国人がわかていない」と反論された。11月29日、ジョージは怒りのあまり辞職し帰国した。イギリスでも、「支那通」"China
School"が早くも発生していた。エリオットはあまりにも中国に長くいすぎて、自由党の自由貿易を理解することができなかった。
艦隊司令官にはブレーマーが代わった。
膺懲
1841年1月6日、道光帝は、埼善が膺懲の意思を理解していないとみて「英夷は情理では諭されない。大いに達伐を加えねばならない。厦門・福州における通商、阿片価銀の給還は許されない。その送呈せる書簡を収受してはならない。英夷に人を派遣してはならない。朕の意志は定まっており游移しない」と上諭した。
エリオットは川鼻砲台砲撃事件から連日のように埼善に大沽における要求の返事を求めた。埼善はとりわけ香港割地については如何ともする術がなく、回答を引き延ばすだけだった。エリオットは形だけ最後通牒を発したあと、艦隊に攻撃を命令した。
1841年1月7日朝、珠江河口両岸を扼する川鼻砲台と大角島砲台の砲撃を開始した。陸戦隊1500人も上陸し、中国守備兵と激戦となった。ここで中国兵は500人が戦死、300人が負傷した。イギリス側に戦死者は出なかった。これがこの戦争初めての本格的陸戦であるが、勝敗は一方的であった。実相はマスケット銃と刀槍・火縄銃との戦いであった。ただ、同時期戦われた第一次アフガン戦争のアフガン兵と比較すれば中国兵のパフォーマンスは大分劣る。
エリオットはこれで埼善は妥協するとみた。8日から交渉は再開された。埼善はそれでも粘り、賠償金2千万墨ドルを600万墨ドルまで減少させ、定海からの全面撤退を呑ませた。さらに皇帝に「恩施笛懇」[特別の厚恩を願い奉る]し「羈縻の計」(多少妥協すること)を上奏した。
1月20日、エリオットと埼善の間で川鼻仮条約が締結された。そこには、香港の割譲(ただし関税は中国側が徴収する)が含まれていた。だが埼善は勅許が得られないことを予想したか、サインのみで、中国の書式に欠かせない「関防印」を押さなかった。
埼善からみれば、定海からの撤退と川鼻砲台と大角島砲台の回収は香港島割譲に十分見合うものだった。エリオットにはイギリス居留民の早期貿易再開要求に応えねばならなかった弱みがあった。ただ、外交に商売の要素を入れては成功しない。
川鼻仮条約を皇帝から批准を得ることについて埼善に成算があったかどうか、はっきりしない。ただ、香港割譲については恐る恐る皇帝に「この際香港の給与・寄寓を許して、暫く羈縻を示すのが良策である」と打診した。道光帝は烈火の如く怒った。2月26日、「英夷の欺瞞侮辱を甘受し、大胆にも朕の諭旨に背き、夷書を接受して懇願するもので、実に情理の外である。こうまで無能無力であるのか」「尺土一民も皇土であるのに、欲しいままに英夷に香港を与え、通商を許すとは背恩も甚だしい」と上諭を下した。埼善は直ちに免黜され、鎖をかけられ、3月12日広東を発ち、北京に護送された。
2月に入ると、エリオットは広東周辺に徐々に大兵が集中しつつあることを察知した。そして、事実上皇帝から問責状態にあった埼善とも連絡がとれなくなり、中国側に批准の意志がないとみてとった。ブレーマーは珠江河口に艦隊を進めた。エリオットは機先を制すべきだと決心した。2月26日、黄档・永安・靖遠・鎮遠・威遠・鞏固の諸砲台を砲撃のうえ陥落させた。水師提督関天培は靖遠砲台で戦死した。
戦いはまたしても中国側の一方的な敗戦で、捕虜だけで千人以上、戦死者は数千に達した。陸兵はゴウに率いられ、3月3日、黄埔を占領した。中国側で陸戦の指揮をとったのは参賛大臣楊芳で、広東城内に展開を終了していた。ゴウは、3月6日、広東前面に到着した。エリオットはここで広東市内への進入を停止させ、外交への移行を提案し、一方的に貿易の再開を宣言した。これはイギリスやアメリカの商人を喜ばせた。楊芳は戦争準備を一方で進め、他方、3月20日、交戦停止と広東開港に合意した。楊芳には埼善後任の奕山【えきさん】到着(4月15日着任)までの時間稼ぎの意図もあった。
4月14日、道光帝は楊芳、奕山に「水勇を募集し、兵砲を準備し、奮力合撃せよ。朕は戦捷の報を待つ」と訓じた。エリオットは4月5日にほぼ1年ぶりに広東市内に入った。すると広東官憲が戦備に汲々としているさまに驚いた。翌月になると完全に事態は楽観できないものになった。5月17日、陸兵を広東に集中させた。
エリオットの推測は的中した。清国軍は5月21日深夜を期して奇襲攻撃をかける予定でいた。計画は火船(焚き木を積んだ艀)を極秘裏に英艦船に近づけ放火し、湖南・四川兵で広東市内十三行街を奇襲するというものだった。エリオットは広東在住の民間人に退去を要請し、艦船には十分な警戒を要求した。
だが、奕山らの計画は画餅に帰した。火船が接近すると英船は重砲火を浴びせ撃沈した。23日までに百艘以上の兵船・火船が撃沈されたという。さらに、広東における市街戦でも中国兵は圧倒され、退却していった広東市街を守備する砲台も逆に占領された。慌てて、中国兵は広東城内に逃げ込んだ。
イギリスの2万4千に達する陸兵は26日までに広東城の包囲を終えた。だが、エリオットはここで極端に宥和的方針に転じ、広東城から60マイル以上撤退することと、賠償金"ransom"600万墨ドルを支払うことで、虎門外に退出し、占領した砲台はすべて中国側に引き渡すことを認めた。
奕山、祁貢はこの和約を喜び、早速、道光帝にこの戦いを「英兵の溺死者・死傷者多く、中国側の損害は軽微であり大捷」だとして虚偽の報奏をなした。そのうえ、賠償金支払いについてはいっさい述べず、奕山は公行などに上納金を課し私的に支払ったものとみられる。
一方、イギリス本国では、1年間で民心に大きな変化が生じていた。国民は初め、この戦争を極東で発生した小さな民事紛争の一種のようにしか考えていなかった。だが、相次いで戦勝の報道がなされると、中国を徹底的に膺懲せよとの声が多数を占め、従来戦争反対派であった保守党も賛成にまわった。
パーマストン外相は、川鼻仮条約を「賠償金があまりに小額、定海撤退は時期尚早、家もないような不毛の地、香港の割譲に不満」として否認した。そしてビクトリア女王に「もしチャールズ・エリオットの説明できない奇妙な行動がなければ、要求するものは全て得られた。エリオットは指示に従わないばかりでなく、できるだけ最低の条件を得ようと努力する」と上奏した。
4月、メルボルン首相は上院で「確定条約が川鼻仮条約を基礎とするならば、政府はこれを批准しない」と演説した。パーマストンは、5月14日、エリオットを免黜し、代わりの「商務監督」にポッティンジャーをすえた。エリオットが極東を去ったのは8月24日であり、ポッティンジャーが到着したのは8月10日である。
その間、広東省には奇妙な平和が訪れた。5月30日、英兵がいっせいに広東を退去すると、途中平英団を名乗る集団が三元里に現れ小競り合いが生じた。インド兵1名が死亡したが大きな混乱はなかった。奕山の外省軍も北方の金山に引き上げた。
奕山は、この和平を恒久的なものととらえ、「英商人は額に手をあてて喜び、脱帽して感謝した」と上奏した。これにたいし道光帝は「英商人から、阿片を密輸しない、内地人民と勾結[裏で結託する]しない、新貿易港を求めない、との誓約書をとれ」と上諭した。英艦隊は敗北して退去し、残った問題は英商人との取り扱いだけだという認識であった。
だが、ポッティンジャーは着任早々、英商人を集め「商業利益を国民利益の上位に置くことはできない。自分は戦争の早期終結を目的としてここにきた。名誉ある和平を北京政府に強要するための手段を妨害するような商業的利益はいっさい考慮しない」と申し渡した。イギリスの戦争目的は「阿片輸出」「茶・絹輸入」「正貨獲得」ではなく、自由貿易体制の発展にあることを示した。
朕の用兵
パーマストンは、前年2月と同じ目的で同じ作戦を実行しろ、とポッティンジャーに命令した。これは1年間の軍事行動を全て無駄としたイギリス外交史上では珍しい決心である。エリオットの行動は、国家としての外交理念を理解せず、自らと中国人との「パイプ」や出入り業者を重視するチャイナスクールの醜い姿を露呈したというべきだろう。ともあれエリオットの中国滞在5年間は長すぎた。
ポッティンジャーはそれまでインド駐在の陸軍大佐であり、物腰は柔らかだが、芯に強いところあるアイルランド人だった。受けた命令は前年と同じであり、軍事的に難しいものとは思われなかったが、ただ一点留保条件がつけられていた。それは、中国皇帝の承認がある前に、ビクトリア女王に批准を求めるようなことがあってはならない、というものだった。
中国皇帝を屈服させるには、中国心臓部を狙う必要がある。ポッティンジャーはそれを揚子江と大運河の結節点にあたる南京=鎮江と定めた。香港に広東への抑えの兵力を残置したのち、イギリス遠征艦隊(司令長官パーカー)は、10隻の軍艦、4隻の武装外輪汽船で編成され、2515人の陸兵を伴った。
ポッティンジャーはエリオットと異なり、目標地点は情け容赦なく攻め立てた。厦門を8月26日、舟山列島の定海を10月1日、寧波を10月13日に占領した。とりわけ、定海では激戦が発生した。ここは、道光帝が重視した場所であり、官兵5600、水勇1200が配置され、3人の総兵、鄭国鴻・王錫朋・葛雲飛が指揮をとった。9月27日から艦砲射撃を浴び、6昼夜戦われ、最後県城が陥落し終了した。そして王・鄭・葛の3人とも戦死し、定海県令の舒恭寿は毒を仰いで自決した。
イギリス遠征軍が寧波で越冬している間、ポッティンジャーは香港に戻った。増援軍の受け入れと金山に下がった奕山が虎門まで進出し、九竜半島をうかがう形勢を示したためである。12月6日、道光帝も「かく防守ができた以上、早速虎門各処の砲台を修築し、兵を進めて香港を収復すべきなのに、なぜ袖手座視、穏忍苟安、功撃を企てることなく、退縮を計り、空しくただ軍隊を留め、資金を浪費するのか」と上諭した。
奕山は、前回の広東城包囲のさいイギリス軍が真面目な攻撃を加えてくれば、兵・市民もろとも全滅することがわかっていた。そして、エリオットは話せばわかる中華世界にいたが、今度のポッティンジャーは全く違い、もし中国側から功撃に出れば、そのまま殲滅されかねないと思った。奕山はむしろポッティンジャーの珠江河口を非武装にせよとの指示を守った。
イギリス増援軍はジョージ・エリオットが率いて続々とインドから到着した。合計668門をもつ25隻の軍艦、56門をもつ14隻の汽船、9隻の病院船と通報船、1万人の陸兵であった。
道光帝は浙東3城、定海・鎮海・寧波を占領されると、再度、大兵を用いることを決心した。広東戦で用いた貴州・四川・湖南の兵を北に振り向け、さらに甥にあたる奕経を揚威将軍に任命し、陝甘(陝西省と甘粛省)兵1万1千を率いさせ、浙江に向わせた。広東戦における中英の兵力パリティから、この程度の兵力では必敗と容易に判断できたはずであった。しかしながら、奕山は広東戦の勝敗について完全に逆転した報告をしており、朝廷の判断を暗くさせた。中国では戦敗をそのまま報告すれば重罰が下され、戦敗を勝利と報告すれば嘉賞されるのである。
奕経は紹興に本営を置き、1942年3月10日、定海・鎮海・寧波に同時攻撃をかけることにした。攻撃自体は奇襲が達成された。ただ、奕経の率いる予備隊を入れて1万3千人程度の兵力であり、3方面に分割したことは疑問である。攻撃が形をなしたのは寧波に向った総兵段永福に率いられた貴州兵4千であった。寧波城西門突破は失敗したが、南門を突破した。貴州兵は市内に乱入し、市街戦となった。市を挟むようにして流れる甬江では上流からきた火船が盛んに英艦、モデスト"Modeste"セソトリス"Sesostris"コラムビン"Columbine"クィーン"Queen"に火箭で火をかけようとしたが、全て撃退された。
市街戦においても水戦においても、攻撃は失敗した。中国兵死者は数百であったが、イギリス側に死者はなかった。鎮海では、近くの寧波における砲声が響き渡ると、陝甘兵は怖気づき、戦わず逃げ去ったという。海を隔てた定海には、火船とジャンク兵船が英艦を攻撃したが、失敗に終わった。ここでも数隻のジャンク兵船が撃沈された。
イギリス軍は寧波から内陸に相当数の中国兵が残存しているとみて出撃を決定した。5月15日、ゴウとパーカーは1200人の兵を率いて慈谿を攻撃した。そこにいた清国軍400人が迎撃したが、全滅し副将朱貴も陣没した。奕経もそこにいたとされるが、身一つで杭州に逃げ帰った。そして5月17日寧波をたち、英艦隊は北上した。目標は八旗兵の駐屯地であった乍浦であった。奕経は、この英軍の寧波撤退を大捷と上奏した。
乍浦を守備していたのは陝甘兵3千と八旗兵3千であった。18日、イギリス軍は艦砲射撃のあと、2200人を3方面から上陸させた。城門は爆破され2方向からイギリス兵は市内に突入した。あちこちで散発的な衝突が発生した。中でも天尊廟に逃げ込んだ300人の八旗兵はいかなる降伏勧告にも応じず発砲を続けた。最後に爆薬で建物ごと破壊すると50人の負傷者を残して全員が死亡していた。この市街戦は数時間に過ぎなかったが、阿片戦争でもっとも凄惨なもので、多数の一般住民も巻き込まれた。英軍が処理した屍体だけでも1400を超えたという。
イギリス艦隊は、5月23日、乍浦を退去した。補給の関係で、そのあとまた乍浦に戻るなどしたが、6月13日ついに揚子江に突入した。だが、清国軍は揚子江と黄埔江の分流地点に呉淞【ウースン】砲台を築いていた。英艦隊が艦砲射撃を加え、黄埔江に碇泊すると、突然砲台が火を吹いた。英艦隊も反撃にうつり、砲台はすぐ沈黙した。だがブロンド"Blonde"の航海士と二人の水兵を戦死させた。これは中国側海岸砲によるこの戦争唯一の被弾例である。英艦隊はそのまま黄埔江を進み、宝山砦と上海県城を無血占領した。ポッティンジャーも6月14日艦隊に合流した。
そのあと黄埔江から引き上げ、揚子江に戻った。18隻の軍艦、9隻の武装外輪汽船、雑多な補助艦艇で編成され、陸兵9千人、水兵3千人をのせていた。7月19日、艦隊は鎮江に向かい合う地点に碇泊した。
清国軍は鎮江に八旗兵を中心として5千の兵を置いていた。指揮官は副都統海齢で、死守を叫んだ。だが、乍浦における非軍人を巻き込んだ戦闘が伝えられると、住民に動揺が広がり、城外へ脱出しようとする住民と清国兵の間に乱闘が発生した。住民の支持のない海齢は徹底して戦うしかなくなった。二手に分かれて進入してきた英兵は東門で頑強に戦う八旗兵を蹂躙したあとも、一軒一軒をめぐる市街戦が発生した。そのうえ城壁にあげられた洋式砲は江上の英艦船を砲撃した。敗色が濃くなると八旗兵は妻子を殺害し自決する者が多かった。海齢は自宅に紙を積み上げ火をかけて自決した。
この鎮江戦の前、両江総督牛鑑は乾隆年間ビルマ遠征を例に引き、羈縻(妥協による和平)の策を上奏した。7月14日、これにたいし道光帝は「朕の用兵は実に千万已むを得ざるところから出ているのであって、ビルマ征伐などと比較できるものではない。憂憤は増すばかりである。もし敵を前にした兵士が朝廷が和すると知り、兵を已むと知れば、戦意は失われ、瓦解し、想像もつかない敗北となりかねない。朕は人を知る明がなかったことを自ら恨みまた恥じ入る次第である」と諭旨した。
朝廷が和すると知っても知らなくても、鎮江戦の結果は同じであったろう。この時点では、道光帝や軍機大臣など主要閣僚は徹底抗戦の積もりであった。だが、鎮江戦の大敗北が伝わると一挙に和平に傾いた。
それより前、広州将軍として広東に派遣された耆英は、乍浦失陥後、浙江で軍務を弁理することが命じられていた。この目的は牛鑑とともに、イギリスの和平条件を知ることにあった。道光帝の7月14日の諭旨は、牛鑑や耆英から和平条件が香港割譲や自由貿易にあることを知り憤懣やるかたなしに陥ったのであろう。パーマストン2月要求はこのとき初めて道光帝の耳に入ったのである。
道光帝は、「撫」と称して、一度は通敵したとして罪に落とした伊里布を再度官職につけ、8月8日、イギリス側の意向を探らせた。伊里布の通訳張喜は外輪汽船コーンウォリスを訪問し、ポッティンジャーの下僚である中国語のできる宣教師モリソン"John
Robert Morrison"と面会した。モリソンは、伊里布に「前回と同じだと伝えよ」といったという。
じつは、鎮江陥落の直後から、道光帝は和平しかないと観念し、牛鑑、耆英に盛んに訴えた。だが、イギリス側は牛鑑に「全権委任」がなければ交渉に応じられない、と断っていたのである。8月10日、イギリス艦隊は明朝を期して、南京を砲撃すると張喜に伝えた。牛鑑と伊里布はこのとき南京におり、恐慌状態に陥った。早速、張喜をモリソンに派遣し賠償金"Ransom"300万墨ドルを支払うので、攻撃を待って欲しいと哀願した。モリソンはこれにたいし、「金」の話ではなく、「全権委任はどうなっているのか」と聞いたという。張喜は「耆英が全権使節として近々到着する」と伝えた。
8月11日、耆英が南京に到着した。12日、張喜と耆英の随員塔芬布【とうえんぷ】はモリソンを訪問、耆英・伊里布の全権委任状を手渡した。そのあとモリソンは上陸し南京儀鳳門外静海寺において張喜と会談をもった。モリソンは「『伊中堂』(伊里布のこと)『張大老』(張喜のこと)がいうならば、賠償金3000万墨ドルについては2100万墨ドルまで負けましょう」といったと伝えられる(張喜『撫夷日記』)。そして、全権委任状に関連して、中国皇帝が耆英・伊里布に便宜行事(交渉)の全権を与えたという原文"original
document"を要求した。しかし、張喜は持参せず、後日提出すると約した。
8月13日、イギリス軍は揚子江岸の高地を占め、重砲を運び込んだ。そして、中国側が寿春鎮に大兵を集結中なので明日より南京を攻撃し、陥落させたあと安徽省に向うと中国側に伝えた。
耆英は「夷目(ポッティンジャーのこと)は要求通り皇帝が譲歩しなければ、兵端を啓き、他省をも侵擾するという。調防官兵は敗戦してここにきた者ばかりであって頼みにならず、江南の民風は柔懦で男女は号泣している。已に照会を提出しており、商定は議を尽くした(英夷の要求を全部呑んだ)」と上奏した。
8月18日、道光帝は「耆英の上奏をみたが、江南数百万の生霊は開戦となれば保ち難い。耆英らも英夷の要求を応充した。朕も民命を重んじるしかない」と上諭した。
8月20日、ポッティンジャーと耆英がコーンウォリス艦上で面会した。24日にはポッティンジャーが静海寺に答礼した。そして8月29日、コーンウォリス艦上で南京条約が締結された。こうして戦争は終結した。
阿片戦争の評価
道光帝(1782〜1850、愛新覚羅綿寧、The
Emperor for celestial dynasty)
この戦争は、徹頭徹尾、道光帝の戦争である。道光帝が戦争を引き起こし、また敗戦を認めることによって戦争は終了した。清国軍は動員数と集中速度に劣り、装備は旧弊であり、作戦能力は拙劣だった。ジャンク兵船は、イギリスの第6等軍艦に最初から勝負にならなかった。だが中国側は、同じジャンクで同じ戦術で、最後の段階まで戦った。もし、合理的な判断ができれば、交渉による和平に持ち込むか、イギリス軍を上回る装備・兵力を準備するかを選んだはずである。つまり、独裁的権力を握っていた皇帝は合理的な判断ができなかったのである。
道光帝(諱は綿寧)は乾隆帝の第15皇子永炎(嘉慶帝)の二男(ただし長子は早世した)として生まれた。幼少のとき乾隆帝に見込まれ、帝王教育を授かった。ただし、清朝は建国のときから儒学を国是としていたため、ただ節約と古法遵守を教える孔孟の学しか学ばなかった。
その節約態度は徹底しており、ズボンにつぎあてをしてはいていた。このため大臣もこれにならい、一様にズボンに穴をあけ、つぎはぎをしたという。こういった性格であるため、執務態度も謹厳実直そのものであった。近世に入ると、独裁者のこなさねばならない事務量は中途半端で済まない。これは清廷においても同じで「蠅頭細書」(蠅の頭のような細かい字)の決済書類が毎日数丈持ち込まれた。道光帝は最初は全部目を通したが、日夜読むに努めても、溜まる一方になった。これ以上の執務は不可能となり、側近の曹振繧ノ相談すると、「数本を抜き出して、そのうちの字画の誤りを朱筆にて指摘すれば、臣下は皇帝が全部目を通していると思うでしょう」とアドバイスされ、そのようにしたという。
その曹振繧ヘあるとき、出世の秘訣をきかれ「何もない。ただただ跪拝【ひざまづき】して、こちらから話すことはいっさいしないこと」だと答えた(蕭一山『清代通史』巻中)。
そして、阿片戦争までの治世30年は、内乱・暴動は相次いだが、「一統垂裳」(無為にして天下が治まる)であった。阿片戦争の前、イギリスは、1816年にアマースト、1834年ネーピアを、北京政府との直接外交を実現すべく派遣した。
しかるに、ネーピアの場合、清国側は兵士を動員してイギリス公館を包囲するという暴虐をなしている。陳舜臣は「稟(請願)するような卑屈なことができなかったのだ。とすれば清国側からみればりっぱな不法入国であり、不法滞在である」(『実録アヘン戦争』)と書く。暴力行為を合理化する舜臣の言こそ不法であろう。外交使節への暴力行為が不法であることは、たとえ敵国からの外交使節であっても同じである。明らかに、清国は対等の外交を認めなかったのである。
だとすれば、外国使節に卑屈な行為を要求し、対等の外交関係を認めない中国人には、南京条約や虎門条約を「不平等」条約という資格がないことになる。
道光帝はアマーコスト事件やネーピア事件を「勝利」と感じ、イギリスを小丑(弱小国家)とみなした。ネーピア事件のあと阿片輸入により銀流出が始まると、イギリスとの全面的通商禁止が唯一の解決策と思ってしまった。決して、国民の健康不安を慮ったものではない。なぜならば、阿片戦争終了後も、国内で阿片の生産・流通について具体的取締り策をとらなかった。
それではなぜ、あくまで対英強硬方針をとったのであろうか?
第一の理由は英国軍事力の過少評価であるが、第二には満州人皇帝としての出自に理由がある。清朝建国のとき、満州人は呉三桂ら漢人軍官を味方につけ、明朝打倒に成功した。この逆の現象で、イギリスが漢民族と手を結び清朝打倒に走ることを警戒したのだ。それがため、自らが対英強硬を貫き、満漢一体を示そうとしたのだ。
だが、これはイギリスについての完全な誤解である。
アマーストとネーピアがなぜ公行でなく、清国政府と交渉しようとしたのかといえば、「自由貿易」"Fair Trade""Free
Trade"のためであった。この考え方は、ナポレオン戦争が終了し、ウィーン会議によってヨーロッパ・コンサート(欧州諸国協調)ができてから、急激に支配的意見となった。これの要諦は「私企業による競争的貿易」であって、各国政府の干渉をなくすことにある。
アマーストもネーピアも、阿片輸出増強のためでも、貿易収支好転のためでもなく、英中の商人同士が直接平和的に交易できるよう働きかけにいったのである。阿片戦争はこの二人の外交の延長線上にある。そして、イギリスは自国商人の財産が武力によって没収されたため、反撃に出たのである。この場合、財産が阿片であろうが綿布であろうが金銀であろうが重要ではない。このときのイギリスは最早、泣き寝入りはできないと感じた。自由貿易とは厄介なもので、政府は貿易に干渉してはならないが、貿易に干渉する政府には外交を通じて説得する必要があり、説得できなければ武力行使も許されるとする。
自由貿易を強制するための武力行使のもう一つの例は、アメリカのペリー艦隊の日本来航であろう。このときアメリカ大統領フィルモアは徳川幕府による鎖国、すなわち政府による私貿易禁止を武力をもって改めさせようとしたのだ。阿片戦争におけるイギリスが暴力をふるわれたので反撃に出たのと比較すれば、よりいっそう侵略的といって過言でない。さらにいえば、徳川幕府も擬似華夷秩序を追求していたが、三跪九叩礼など外国使節に屈辱的な礼を要求しはしなかった。
さらに、アメリカ第6代大統領ジョン・クインシー・アダムスは、1941年12月、マサチューセッツ歴史学会で、
「ボストン茶会事件を契機にアメリカ独立戦争は始まったが、この戦争の真の原因がボストン港に茶箱を投げ捨てたことではないように、阿片戦争も阿片が原因ではない。真の原因は他にある。それは『叩頭』である」と述べた。
イギリスの戦争目的は「自由貿易」だけであって、領土的野心はなかった。獲得した香港は離島にすぎず、自由港として、どの国の商人も居住可能とし、円滑な貿易が可能となるようにしたものにすぎない。このとき、イギリスによって重要なことは茶と絹の輸入であった。円滑な輸入のためにはむしろ、中国の領土的一体性は欠かせない。阿片戦争末期、イギリスは北京はおろか本貫の地である奉天を攻略することも十分可能であったろう。そして浙江省全部植民地化もできた。だが、そういった植民地化の意志を、イギリスは初めからもっていなかったのである。イギリスが漢民族と組んで清朝を倒すというのは妄想にすぎない。
第一次大戦まで、ロシアとドイツを除いては、各国とも中国領土一体性を尊重していた。そして、ドイツとソ連が不可能と悟ると、満州事変以降、日本が、満州国というベールを被せながら中国領土一体性否認を主張した。各国の支持が得られなかったことはいうまでもない。

陳舜臣『実録アヘン戦争』中公文庫1985
矢野仁一『アヘン戦争と香港』中公文庫1990
新村容子『アヘン貿易論争−イギリスと中国−』汲古書院2000
Beeching Jack, The Chinese Opium Wars, London, 1975
Ingris Brian, The Opium War, London, 1976
Woodcock George, The British in the Far East, London,
1969
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