森島守人による幣原外交批判

森島守人による幣原外交批判

森島守人による幣原外交批判

森島守人による幣原外交批判

森島守人による幣原外交批判

森島守人(1896〜75)はキャリア外交官であって、終戦直後マッカーサーの外交権接収指令により、ポルトガル公使を最後に退官した。その後、社会党左派に属する衆議院議員となった。以上の経歴から森島は社会主義的な信念をもつ外交官であったが、同時に幣原外交にも批判的であった。

この点で自ら幣原外交の信奉者と自認する石井猪太郎とは異なる。一方、革新同志会のリーダーであった有田八郎も戦後になり社会党の推薦で都知事選挙に立候補しているが、やはり幣原外交には批判的であった。幣原外交が英米協調・対中宥和からなっていたため、このように様々な見解を生んだ。

森島は幣原外交を具体的に批判している(『陰謀・暗殺・軍刀』岩波新書1950)。

守島守人(1896〜1975)
石川県出身。東大卒。1936年東亜局長。ポルトガル公使ののち1946年退官。1955年から社会党左派に属する衆院議員。

幣原外相がワシントン会議後の国際的風潮を理解し、かつこれが実現に渾身の勇を揮った点において、第1人者たることは何人も否定しえないが、同外相は日清戦争における陸奥、日露戦争における小村と面目を異にし、あまりにも内政に無関心で、また性格上あまりにも形式的論理にとらわれすぎていた。

満州にたいする幣原外交の挫折は要するに内交における失敗の結果で、当時世上には春秋の筆法をもってせば、幣原が柳条溝を惹起したのだと酷評した者すらあった。

幣原外相はかつて議会の予算委員会の席上で、ロンドン海軍制限条約に関し、条約はすでに御批准になっておる、この点からみても国防に心配はないとの形式的答弁をして大問題を起したことがあったが、私自身で直接経験した一挿話を紹介したい。大正9年から12年にかけ私の米国在勤中、気軽で洒落の好きな幣原大使はよく若い者の間に伍して笑戯を交えていた。

ある官補が「川向こうの両親から急病だととの報せをうけたが、折り悪しく橋の上に狂犬がいる。橋の手前に住んでいる若夫婦はどうして橋を渡るか?」というおとし話を持ち出した。

落ちは夫婦喧嘩をして行くというのだが、理詰めな大使は犬の食わぬのは抽象的な喧嘩で人肉は喰うのだとて、どうしても承服しなかった。

一場の笑い話にすぎないが、私はこの形式的論理が幣原の性格の一面を反映するとともに、幣原外交の一半を物語ったものだとの感触をいだかざるを得ない。

幣原外交は英米との協調を基調とし、中國の合理的要望を尊重する立場を固持して來たが、いたずらに理想に走り脚下の現實を無視したため、かえって逆効果を來したことが少くとも三回はあったと思う。

第一は大正十二年の北京関税会議の際のことだ。日本の全権は会議の劈頭、中國の関税自主権承認の意向を表明して、英米その他をして唖然たらしめたが、日本内地でも自主的外交だとて輿論の絶大な支持を受けた。

しかし当時の日本では、中国の関税自主を許す準備を整えていたわげではなく、また会議も関税附加税だけの会議で自主権まで一足飛びに飛躍する'必要があったわけではない。この英米との打合せを欠いた日本の独自の行動こそ、中国に関する日英乖離の端緒をなしたもので、いたずらに名にとらわれて実を無視したものと批評すべきであろう。

第二は、昭和二年国民革命軍が南京、上海方面に迫った時のことである。英国は波濤の如く押し寄せた革命軍の力の前に、漢口や九江の租界を手離したが、上海だけは通商上の拠点としてあくまで死守する決意をかため、出兵をさえ断行した。その際、わが国に対し共同出兵を慫慂して來たが、幣原外交はこれを一蹴した。

共同出兵の形により日英の毅然たる協調を示せば南京事件のような不祥事を豫防し、ひいて田中内閣時代における政策的山東出兵に対し口実を与えるようなこともなかっただろうが、この共同出兵の拒否こそ、日英乖離を、うながした第二の出来事だった。

第三は昭和四年佐分利駐華公使任命の際のアグレマン問題である。當時中国公使の任命についてアグレマンを求めていた國はなかったにかかわらず、幣原外相は中国の好意を迎うるため、アグレマンの慣例を新に開いた。

この実情に先んじた取扱いは、後年小幡公使に封するアグレマン担否尚題を惹起し、久しく中日國交上の癌をなしたのみならず、領事認可状の問題をも附随して、ハルピン大橋総領事の赴任の場合、中國がその職務執行を認めないとの事件さえひき起した。田中外交を現賞にとらわれ過ぎたものと批評するならば、幣原外交は理想にとらわれ過ぎたものと批評し得るであろう。

第1から第3の森島の指摘は的中している。

第1についていえば、各国で交渉している最中に日本が「抜け駆け」で宥和策を示しても、中国は決して感謝せず、日本に弱みがあるとうけとることである。1989年天安門事件のあと、宮澤内閣の下、河野洋平や加藤紘一が、西欧諸国が実行していた経済制裁を抜け駆けで解除し、さらに天皇訪中を強行した。この三人組が「自主外交」を唱え、国民が支持したのも同じである。

だが、江沢民は教科書問題を持ち出し、「歴史問題」を前面に出す外交に転換した。日本は難癖をつければ常に譲ると考えたのである。

第2についていえば、テロへの対処は各国と協調すべきだという点である。軍縮交渉で妥協したところで、なんら「協調」にはならない。むしろ敵意を増すだけなのである。「協調」とは共同出兵がもっとも実があがる手段である。

ただ、現在でも国際テロにたいして「何もすべきでない」と説く日本人は多い。森島は常に「日中友好」ではなく「中日友好」と書くほど、中国との友好関係を重視し、かつ社会党左派に属していても、「国際テロ」にたいしては毅然たる態度をとるべきだと主張した。

第3は中国が日本の外交使節の人事について容喙することについての批判である。ただこの結果、今でも外務省チャイナスクールが存在している。

アグレマンとは外交使節人事について事前通知することである。接受国は、以前スパイをやった人物、刑法犯であった場合、ペルソナノングラッタ(好ましからざる人物)として、受け入れを拒否できる。だが、こういった極端な場合を除けば、拒否することはしないのが慣行である。ところが、それまで各国は中国への外交使節の任命について、いっさい事前通知をしていなかった。事前通知は「コンサートオブヨーロッパ」と呼ばれる諸国(つまりヨーロッパ・日本と北米、南米大国)の間のみ行なわれていた。幣原は、このグループに中国を入れるべく、テロ事件を引き起こした直後の蒋介石にアグレマンを呈示したのである。

そこで蒋介石は、またもやアグレマンを形式と受け取らず、弱い日本が譲歩してきたと考えたのである。この中国が外交使節を拒否する悪癖は、今尚、日本や韓国にたいしてのみ残っている。

幣原外交は現在の日中外交にも翳を落としているのである。

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