シベリア出兵が、昭和に入っての陸軍に与えた影響は小さくない。最大のものは無益な出兵だったという見解である。なぜかこの点で今日のマルクス主義歴史家と戦前の軍部は奇妙な一致をみせる。
この無益論は非常に奇妙な前提にたっている。すなわち出兵には利益=国益が伴わねばならない、とする見解である。
戦争は営利事業ではない。もし勝利して不動産や金を受け取ってもペイしない。資源などは買えばよい。 フランスのフォシュは、ドイツ軍国主義の憎むべきところは、戦争を営利と考えることだと喝破した。この利を短期的利益と考えれば妥当している面がある。日本とドイツのそれまでの戦争では、勝利に伴って利得が生じていた。賠償や領土である。
日本の戦前の愚かしさはここに起因しており、現在の我々もいまだに克服できていない。要するに徴兵軍による戦勝で賠償・領土を得てしかるべきだとの見解だ。アメリカは第1次大戦以降外征を数多く行ったが、賠償、領土という点で利得を受けていないし求めてもいない。(休戦講和による引渡し武器を除く)第1次大戦で日本は山東半島、南洋群島における利権、イギリスは自治領の獲得領土・パレスチナを得たが、アメリカは150万人が海を越え、10万人に及ぶ戦死者を出したがなんら国益を主張することなく、また国内世論もそれを求めなかった。
これがアメリカが豊かな国であるとか、HAVE(持つ)の国だと言うのはどうだろうか。歴史上は領土が大きい国は却って貪欲である。ソ連を見れば容易にわかる。なにしろ日本の降伏の1週間前に参戦し、これまでに失った領土の他、千島を奪っている。それだけでなくドイツのケーニヒスブルグ(ここは700年間ドイツ人が統治している。)、フィンランドのカレリアなど全く従来居住もしていなければ、統治もしていない(カレリアは帝政ロシアの一部だが同時にフィンランド公国の土地)ところを奪っている。またかつての東ヨーロッパは、どうみてもソ連の保護国乃至は、植民地だろう。
第2次大戦直後のソ連が異常だったのか、社会主義・共産主義が領土拡張的だったのかはわからない。とにかくソ連は領土の広い国であることは事実だ。
この点で大領土国の中国も似た面があり、チベット・新彊・満州などは以前漢民族は居住も統治もしていない。つまり第1次大戦以降、戦争によって領土を拡大したのは、失敗したドイツ、イタリー、日本を除き、ソ連・中国と英国自治領(オーストラリア・南アフリカ)だった。
アメリカ、イギリス、フランスがなぜ領土拡大を棄てたかと言えば一つは保護国をもっても本国国民の利益にならない、という点に気づいたためだろう。また植民地は役人のポスト確保以外役に立たない。
植民地が原因で経済が発展したのではなくて、産業革命が成功して経済が発展したのだ。経済の発展が軍事力の向上をもたらし植民地の維持・獲得を可能にさせたのだ。東條英機があくまで中国本土からの撤兵を拒んだとき、日華事変の英霊に言及した。日華事変の英霊(戦死者)は1941年12月(太平洋戦争開始時)までの6年間で5万6000人であり、ほぼシベリア出兵の10倍に当たる。ただこのうち3万8000人は上海攻防戦前後で生じており、残りの期間では2.5倍程度と推定される。シベリア出兵の中心となった戦いは騎兵による斥候・衝突であり、本格的な遭遇戦は発生しなかった。というより赤軍がまだ極東で軍の体裁を整えていなかった。日華事変で中国(国民)軍はその後の2回の大反攻を除き、攻勢作戦を実施しなかった。
東條は叫んだが日華事変は決して、第1次大戦の基準からみて上海攻防戦を除き、兵の損失が大きかった戦争ではない。またこれは太平洋戦争全期間にもあてはまる。第2次大戦は独ソ戦を除いて兵員被害の少ない戦いだった。そして日・英・米の戦争指導者は、開戦時からこれを予想していたのではなかろうか。(ただ日本の戦病死者、民間被害者は大量だった。)
結局、 これらの国が領土拡大に熱中したのは社会主義国家も日本の戦前のような官僚国家もある意味で官僚の利益を前面に出し国益(国民益)に敏感でない面があったのだろう。
軍人は外交を理性的にとらえることができない。残念ながら外交官はある程度訓練の必要な職業である。シベリア出兵で驚くべきなのは陸軍将校がみせたアメリカへの態度である。ある書のいわくアメリカ軍がボルシェビキに寝返った、との事である。この戦いに参加した高級将校が1950年代に残した手記である。
国民軍は寝返るはずがない。日本軍が敵国軍に寝返るだろうか。中世の戦ではなくこれが起きたのは20世紀である。この陸軍将校の呆れ返る程の敵愾心は誰かがコントロールせねば国家は運営できない。
国家の「最良の子」に全部の判断をまかしてはいけない。
しかもこれは日本に限った話ではない。太平洋戦争終了後、アメリカは日本の占領地の行政権を得た。ところがその広汎な地域にアメリカは止まる意思がなかった。滅亡した旧宗主国や野心家・独立主義者がめいめいその権利を主張した。
日本軍は粛々と撤退した。この真空をどう埋めるのか。ベトナムではフランスが領有権を主張した。当然主張するだろう。アメリカ太平洋軍首脳は4年間、日本軍と戦ってきた。当然東洋人に対する敵愾心が発生した。真空地は白人が支配すべきだと。
しかも日本人は艦隊をもち近代産業があった。中国人はその人口と広大な地域がある。ベトナム人には両方ない。日本人と中国人のようには扱えない。アメリカ太平洋軍は軽率にも国務省(外務省)と相談なくフランス軍兵站のため艦船を派遣した。
国務省は警告を発し、すぐさまフランス以外、オランダやイギリスに対する支援は停止させた。しかし一旦始められたベトナムでのフランス人支援は1年半だけ続けられ、その後も独立主義者が同時に共産主義者でもあったため、機密費を使った援助が行われた。アメリカとベトナムの長い関係が出来上がったのはここからだ。
出兵=軍事行動は政治家・外交官が決定するより他にない。戦略出兵すなわち勝つ作戦にもとづいて軍事行動を起こしてはならない。軍人はシベリア出兵について批判的だった。つまり政略出兵だったと言うのだ。これは実際には恐ろしい議論である。軍事行動が政治、外交によって規定されることを拒絶しているのだ。普通国家間の戦争は外交の延長で、または外交上の懸案を解決するために発生する。
これは戦争理論というより、国家間の戦争・係争の本質から来ており、古代や中世の国家においてもあてはまる。元冦は鎌倉幕府が服属国となることを拒絶したという外交結果から発生している。またこの時服属国となった方がよいかのごとき言辞もあるが、これは20世紀の英・米・仏の第2次大戦の戦後処理からの発想で中世にはあてはまらない。鎌倉幕府は適切な処置をしたと解すべきだろう。それでも服属国オプションがなかったとは言えない。
つまり、戦争となる前に交戦両国が双方存立しうる条件を提示するのが普通である。もちろん奇襲や圧倒的軍事優位により、外交努力を片方が必要を感ぜず、戦争に勝利しうると考えることはある。しかしそれでも、隣国が軍事バランスが崩れた状態を関知しないことはまずない。それよりむしろ危険なのは新戦術や巧緻な作戦の立案だろう。第1次、第2次大戦ともこの新戦術の採用が開戦原因となった。
具体的には、シュリーフェンプラン、ヒトラーの黄色の計画、山本五十六の真珠湾奇襲作戦だ。ただすべて奇襲側が最終的に敗北している。
外交と戦争の関係についてはクラウゼビッツの戦争は政治の延長である、という卓説で示されている通りである。これにたいしシュリーフェン、ルーデンドルフが異を唱え、戦争目的のために政治を従属させるべきだと主張した。
シュリーフェンは戦争勝利のためには外交上の不利益を無視してもよいと考えた。これがベルギー中立侵犯を招いた。また戦争勝利の秘策が作戦にあると考えるのは、軍人官僚の思いあがりだろう。ベルギー侵入路確保=短期戦勝利とイギリスを敵にまわすことを秤にかければ明らかではないのか。現に同時代人のウィルヘルムU世もベートマンホルベークもこの重大さはわかっていたではないか。
ルーデンドルフの主張はこれと同根だが動機が違う。
つまり戦争完遂のためには国内政治が軍事統帥(作戦実施)のため犠牲にならなければならないとした。レーニンがこの施策を社会主義だと言ったのは有名だが、実際は軍部独裁の隠れ蓑だろう。その根拠について理屈を述べたに過ぎない。
昭和の軍人は政略出兵すなわち政治家や外交官に言われるのではなくて、(勝利できる)作戦にもとづき出兵する(=戦略出兵)を理想とした。背景はシュリーフェンに似ているというより役所の縄張り意識の感がある。実際にこれは不可能だから陸軍軍人のなかには外交官としての活動をする人物まで現れまた、蒋介石との交渉は実際に陸軍が担当した。
次ぎにシベリア出兵が陸軍派閥抗争に影響した部分がある。ただこの抗争は複雑であり未だ定説はない。1980年代にはいり、陸軍の佐官級の人物が相次いで手記を書いており徐々に真相があきらかになりつつある。
意外であるが派閥抗争は作戦や政策をめぐって行われたのではなくて、人事抗争が中心だった。いわゆる青年将校とは隊付き将校をさし、いわゆる陸大出のエリートは例外はあるが反乱または反乱計画に参画していない。また例外組みの長勇などは前線に追いやられ戦死している。
つまり星・ポストまたは定年後のポストをめぐって対立していた。この点はドイツとは異なる点で注目して欲しい。ドイツの参謀将校も星を増やそうとしたが人事権者は皇帝(ワイマール共和国では大統領)と補佐する参謀総長が握っておりはっきりしていた。日本ではこれが三長官(大臣・参謀総長・教育総監)並列の合議だった。これは内部での勢力争いを確実に引き起こす。すなわち官僚の統制は外部からの権力によらないと失敗する。
更に統帥権の独立を言うが、多田参謀次長(閑院宮が参謀総長だが作戦実務には参画しなかった。)は日華事変のとき不拡大を主張したが、容れられなかった。すなわち統帥権は参謀本部になかったのだ。この時、拡大の急先鉾は近衛、広田で上海での戦勝に気を良くしたものだった。
シベリア出兵当時も本質において異なる所はない。上原参謀本部長は大きな役割を果たさなかった。ただ前半は山縣有朋が存命中で田中義一参謀本部次長を手下として実権を握っており派閥抗争と呼べるものはなかった。
後半になると長州閥(田中義一が筆頭)と上原(参謀総長・薩閥をつぐ。)派の対立が顕著になった。
そして張作霖爆殺事件で田中が急死したあと長州閥は宇垣・寺内をかつぐが、実際宇垣はその気がなく長州閥は雲散霧消した。直接には張作霖事件がきっかけだが、陸軍部内の田中のシベリア出兵策への反感があったのは疑いない。
すると陸軍には上原派しか存在しなくなった。また奇妙な点だがこの派は大分を除く全九州・土佐人が参加していた。大分県人が別行動をとるのは戦国時代の大友氏以来の伝統だろうか。そして九州の顕著な伝統を曳いていた。すなわち若衆宿の伝統からか将官にあたる人物でも下級将校を可愛がった。(有末精三らによる異論もある。)
この上原派が皇道派にうけつがれる。そして2・26事件以降の粛軍人事で皇道派も消滅した。この皇道派というのは近代人に成りきれない所に特色があった。たとえば上海攻防戦のとき、杭州湾上陸部隊を指揮した皇道派の柳川平助(中将)はフォシュを尊崇していた。しかし柳川がフォシュの冒頭の言葉、「営利で戦争を開始してはいけない。」を理解していたようにみえない。
つまりシベリア出兵が失敗とみなされたことにより、長州閥が凋落し上原派の興隆を招いた。しかし最終的な失策は田中義一の張作霖事件の対処にあったのだろう。また、軍人から政党政治家に転進しようとした事が批判されたのかもしれない。この後そのコースをとる軍人はいなくなった。これも昭和初期の政治を暗くさせることにつながった。
シベリア出兵の後半の三年間は尼港事件の惰性である。尼港事件にたいする世間の憤激は今日から想像することは難しい。
また、当時の国民は陸軍を自国政府より身近なものと受け止めていた。宇垣軍縮は国民の間で不評だった。とくに連隊本部のある都市での軍の権威は絶対的なものがあった。そして連隊長は、当時国民の視座と平行だった。つまり身内と言えた。
尼港事件で戦死した連隊長石川少佐は連隊本部のある水戸に居住していた。水戸で連隊葬が営まれたとき、未亡人と子息は全て白装束で参列した。その意味は敗軍の責任をとって自決の覚悟があるというものだった。
このような戦争の犠牲に鋭敏な感覚は、第1次大戦の時代では日本特有とも言える。西部戦線での大量殺戮に遭遇した諸国は始めから犠牲は覚悟とも思える無関心さを示した。そのうえ石川少佐は敗軍の将ではなくテロに倒れたのだ。
また将校に対する責任追及の厳しさも日本特有である。第1次大戦の戦闘方法(実質的には朝鮮動乱まで続いた。)では下級将校の死亡率は一般の5から6倍に達する。将校は字が読め、外国語ができ(捕虜尋問のため)、弾着計算のため三角関数の理解が必要だから、どこの国でも高学歴者が多かった。このため高等学校、大学卒業者が西ヨーロッパでは採用された。このため兵卒とは距離があるのか、将校団にたいする愛着も憎悪も希薄である。
日本では日華事変まで将校は士官学校卒業生と少数の下士官からの選抜のみでまかなわれた。この後も上海攻防戦で第34連隊(静岡)が大きな被害を出したことから、連隊長夫人が自決した。この時、34連隊は補充も含め5600人中1800人の戦死者を出した。この戦いは典型的な塹壕戦だから、攻撃側がこの程度の損害を受けることは当然で、第1次大戦の基準からは、むしろ成功である。
ところが夫人の留守宅は投石を受けまた非難の投書が殺到したという。
この時、唯一予備師団(特設師団)として第101師団(東京・本郷)も参加した。参謀本部のエリートが、この師団について守備でしか使えない、老兵ばかりだと報告した。これは全く事実と乖離している。この師団は、武漢三鎮まで遠征し、まれにみる精強さを示した。第1次大戦で示されたように予備師団は装備さえ同等にすれば、現役師団に劣ることはない。
この時、第101師団幹部留守宅には警護のため憲兵が配置された。
このように国民の被害にたいする鋭敏さと下級将校追及の厳しさが、アクロバット的な作戦が称揚された背景にあるのではないか。
日本はベルサイユ条約調印国として国際連盟に加入し常任理事国となった。第2次大戦後の国際連合で常任理事国ではないから奇異にみえるが当時の軍事力から判断して当然だった。もちろん現在では軍事力だけで見るのは十分ではないかもしれない。
現在の国連分担金は日本20アメリカ20EC40の比率である。これに対し、ロシア2中国2である。つまり日本人は一人当たり中国の100倍、ロシアの20倍負担している。これをどう考えたらよいのだろうか。この比率はハードカレンシー(国連官僚の重視する購買力ではない。)で計算したGNPに基づいている。
つまり、当時も現在も日本は国力でみる限り大国なのだ。日本の問題は世界平和にたいする責任という自覚が欠落していたことだ。シベリア出兵はレーニン主義者にとっては容認しがたいかもしれないが、当時ロシアに成立した過激派政府(日本政府はこのように呼称した。)が連合国の大義に従う平和に反する政権で、ロシア人に利することがないとみなし、干渉に出たのだ。
その意味の多国籍軍出兵であり、国益が仮に世界平和にないとすれば無意味なものだった。しかし現在から見れば干渉が成功すればレーニン(注)、スターリン政権による数千万人に及ぶ刑死、拷問死は防げた公算がある。
(注)シベリア出兵はレーニンが政治的権力を掌握していた頃起きた。現在マルクス主義歴史家の少数の人々、とくに日本共産党を支持する人々にはレーニン時代は正しかったが、スターリンがそれを破壊したと言う見解が存在するようだ。
この見解はフルシチョフのスターリン批判より1992年のエリツィンの権力掌握までソ連政府の公式見解だった。果たしてそうだろうか。
レーニンからゴルバチョフの間、それ以前とそれ以降とに比較して断層が存在する。政治的には潜在力を含めてソ連はその間超大国だった。つまり外交で他国に頼ることがなかった。
ところが内政では、あらゆる所に自由が存在しなかった。そして日本とドイツの戦間期とまさに共通していた。すなわち外交的に独立したとき日、独、ソの三国は国内政治体制を全体的なものにせざるを得なかった。もちろんドイツと日本の政治体制はソ連とは比較にならない程自由もあったしまた国民がその体制を支持していたのも事実だ。
そして思想的には日本の近衛、松岡ら文民と陸軍の皇道派軍人そしてヒトラーはレーニン主義の影響を受けていた。その意味でレーニン型社会主義が、戦間期の不毛な社会主義・国家主義論争の大本とも言える。
スターリンとレーニンは単に同様の考えをもっていたが、レーニンがマルクスなどの引用がより巧みであったにすぎないのかもしれない。またスターリンはレーニンの政治方針の混乱を多少まともに現実に即させた功績があるのかもしれない。ただ証明しろまたは文書をあげろと言われると、根拠はない。
そしてその後の中国への数多くの出兵も始めは治安維持を目的とした。ところが満州事変以降、日本の保護国=植民地獲得という国境線の変更は、本末転倒で平和にたいする障得となったと旧連合国からみなされた。結局国民にたいし、戦争とかその犠牲について説明できる文民政治家が欠落していたのかもしれない。
戦争は経済の発展をもたらす。なぜかと言えば、交戦国において応用科学技術が発展するからだ。従って戦争に参加しなければ分け前にあずかれない。なぜならば、軍事技術は容易には拡散しない。そのうえ軍事技術は民生技術と違い、コストを無視しており通常の経済のもとで発展させることは至難である。(不可能ではない。)
これは歴史の皮肉である。ただ第1次大戦は化学を除いてあまり科学技術に貢献しなかった。この戦争では作戦立案と小銃をもった兵士が決定的であり、まだ人間が機械力を上回っていた。
第2次大戦は全く違った戦いだった。この戦いで使われた技術は暗号解読から原子爆弾まで、最早人間が普通に知覚できる能力から(基礎教育を受けなければ)は遠い。日本のソニーにしてもホンダにしても、基礎は陸海軍の技術から派生または技術将校が開始した。アメリカの第2次大戦後の有力産業、航空機・電子計算機・原子力発電はすべて軍事技術からの発展である。
戦争は経済に影響を及ぼすが、経済が戦争を引き起こすことはない。そして戦争が与える影響として中立国または非交戦国の景気が向上するというのがある。これは再検討の余地は存在する。と言うのは戦争の質による所が大きい。例えば第1次大戦により日本の造船、鉄、海運などの業界の企業利益が向上した。ここは事実だ。だが生産能力を拡大させたのは造船産業だけだった。ただ厄介なことに造船業は船しか作れない。
当然のようにみえるがこれは当然ではない。当時の技術では自動車工場は簡単に飛行機工場に転換できた。ところが造船工業は工夫次第では大型クレーンを利用して大型工作物製造が可能だが、それだけである。つまり資金さえあれば参入が容易な反面転換がきかない。これはもし受注が縮小すれば、反動で稼働率が低下することを意味する。
日本で第1次大戦が製造業に与えたは造船業を中心とする金属関係の産業に限られた。もちろんこの好況は周辺あるいは大部分の業種に好況をもたらし、地価の上昇がみられたことは事実だ。しかし生産能力を大幅に増加させたのは造船・金属工業が中心である。奇妙なことに軸となる一貫製鉄は当時半官半民の日本製鉄が独占しており、成長はみられなかった。
八幡製鉄所と絡んで日本政府としては珍しく、21ヶ条要求のなかで漢冶金工業所の合弁を要求するなど、経済要求を行った。にもかかわらず。当時高炉製鉄だけでなくベッセマー製鉄法など新技術の発展(ドイツが中心)が見られ、こちらは民間の転炉・平炉業者がとりいれた。日本製鉄はこの時すでにこれら業者とコスト競争力を失っていた。失った原因は役所仕事による高コスト体質のためで業種としての高炉業ではない。この事は戦後川崎製鉄、住友金属など平炉業者が高炉業に乗り出し一挙に能力を拡大させたのを見ればわかる。
平炉・転炉による製鉄業は鉄屑が必要なためアメリカからの輸入に頼った。南部仏印進駐によりアメリカは鉄屑輸出を禁止したから日本の製鉄業は危機に陥った。これがアメリカに挑戦した理由だと言うむきもある。だが実際は日鉄擁護のため高炉参入を統制したことが原因だ。もとになる高炉製鉄を増やさねば、鉄屑は出ない。戦間期の日本の高度成長の失敗は国有企業の存在と独占企業の存在による所が大きい。
一方アメリカは、製鉄・造船・自動車などでも主として民生用の生産能力を向上させた。アメリカにこの時軍需産業と呼ぶべきものはなかった。AEF(アメリカ外征軍)の装備はライフルから野砲までヨーロッパで輸入した。ただこの時すでにアメリカは一人当たりGNPでも西ヨーロッパ諸国を上回っていた。この事は経済の発展と植民地と関係がないことを教える。またアメリカは資源が豊かな国だが競争力の点で圧倒しているのは石油だけで、石炭・鉄鉱石は優位ではない。
この時代の重要産業は製鉄業だが、その原料の鉄鉱石や石炭はアメリカでは内陸に偏っており、ヨーロッパ諸国より臨海製鉄が成り立たないだけ不利な面もあった。第2次大戦後、これを原因として日本に地位を奪われることになった。
ただこの時のアメリカはオートメーション法による製造(標準化・機械化・合理化)に優れ鉄に限らず製造技術は他のどの国をも上回っていた。第1次大戦中とその後大規模な民生産業への投資が行われた。現在でもニューヨークからワシントンまで鉄道に乗れば、煉瓦作りのこの時の工場が林立しているのに驚かされる。これは確実に生産能力の拡大をもたらした。
日本とアメリカを比較すれば、アメリカの方が一人当たりGNPという意味で相当(5倍)に進んでいた。日本の生産能力向上は軍需とより結びついていた。アメリカは民生用である。このため日本人は軍縮をきいて非常な反感を覚えた。アメリカ人は予算の軍需から民生への転換だから喜んだ。これはのちの対立感情に大きな影響を及ぼした。
日本が造船を中心とする軍需が中心となったのは、日本が当初から参戦していたが、アメリカは当初中立だったせいである。(アメリカは中立の場合、当時交戦国への武器輸出を禁止していた。日華事変で日本が宣戦布告をせず、結果として当初国際法に反する捕虜殺害が行われたのはこのためである。鉄屑は武器原料とみなされていた。)
また、この需給ギャップは日本により早く恐慌をもたらした。昭和恐慌は直接には地価の下落が発端だが発生は1927年でありアメリカより2年早い。ただ立ち直りも早かった。ヨーロッパでは、アメリカの銀行が短期運転資金を急速に引き上げた結果債務過多の企業が倒産した。しかしアメリカほどの恐慌ではない。
つまり、第1次大戦が恐慌をもたらした。反面この恐慌が第2次大戦をもたらしたとは言えない。ヨーロッパの第2次大戦はヒトラーが引き金を引いた。だがその時ドイツは恐慌の影響は既に克服していた。ナチスの政界への大躍進も恐慌の結果ではない。またベルサイユ条約による賠償支払いより外資の流入の方が大きく、ドイツ経済は飛躍的な発展を遂げていた。1930年代の経済の自律的回復は、これ自体、ヒトラーの政策によるものと言えない。ヒトラーは民衆が車を欲することを知っていたが、しかし経済政策としてそのために何か実行したことはない。また公共事業も活発だったが、軍事だけに傾斜していなかった。要するにドイツ経済はワイマール共和国のもとでハズミがついていた。あとは均衡財政主義をすて、積極財政をとりさえすれば発展する余地があった。アウトバーンなど高速道路網もヒトラー登場前に計画が出来ており、一部着工されていた。
アウトバーンはメルセデス=ベンツなどドイツ自動車の高性能の結果、必要性が出たものである。一人当たり自家用車の保有率はアメリカの方が高かったが、大量生産品であり、高速性能はドイツ車よりも劣った。この自動車製造法の違いは現在も残っているのは面白い。
つまり、インフレによりドイツマルクは相対的に安く、製品は輸出競争力があり、自動車工業は安心して設備投資ができた。ワイマール共和国の無秩序と言えるほどの自由放任政策も大きかった。
1943年製、メルセデス=ベンツ、モデル770W150。4500CCのエンジンでスーパーチャージャーがついている。巡航毎時220Kmの高速が可能だった。自動車の技術はここで確立されてしまったと見ることが出来る。この車体はヒトラーが購入したもので残存している唯一のものである。現在カナダ、オタワの戦争博物館に展示されている。
日本の場合、過剰設備は造船と一部軽工業だけで立ち直りは早かった。しかし金解禁などのデフレ政策(公務員給与の一律30%削減など今日から見れば愚かな政策も実行した。)により成長率が鈍化した。金解禁は通貨発行量が自然に存在する金に制約されるという致命的な欠陥を含むとともに、平価は日本円を高く設定したため、輸出競争力が減退しますます軍需シフトとなった。
当時日本の徴税体系は間接税(酒税・タバコ専売納付金・奢侈品税)と固定資産税のウェートが高くまた、いずれの時代でもそうだが増税は人気がなかった。そして均衡財政主義をとったから、軍需を除く公共投資はほとんど出来なかった。結果として軍艦製造などの軍需によりかかる不健全な経済となった。日本のGNPは当時アメリカの10分の1程度だが、保有軍艦の比率は実質75%程度に達していた。これは不自然だがこれがないと経済は崩壊しただろう。また日本は戦前から武器輸出を秘密主義のせいか嫌う国で、輸出を行わず反面鉄屑や石油の輸入が増大するから、外貨繰り悪化の原因となった。
このように第1次大戦との係わりは日本経済に深刻な影響を及ぼした。しかし当時の経済政策は儒教倫理をもとにした反税主義、反インフレ主義をベースにしており、合理的なものではなかった。ヨーロッパ、アメリカ並みの徴税を確保し機動的な利子率及び通貨発行量の調整が実施されていれば、より急速な民需中心の経済発展が可能だっただろう。
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