セミョーノフはGregori Michaeilovic Semyonovで1890年外蒙古、オノン川河畔にロシア人を父、モンゴル人を母に生まれた。父もトランスバイカルコサックで、コサック騎兵として第1次大戦に従軍した。休戦時には大尉に昇格していた。この間、聖ゲオルギー勲章を受賞している。
それからトランスバイカルコサックを率いてソ連共産党と最後まで徹底的に戦ったことは周知である。
1921年、白軍の最終的敗北を受け鳳山丸という汽船でウラジオを脱出、上海に同志とともに向かった。ところが、ここでも白系ロシア人同士の対立が絶えず、1922年3月アメリカに向かった。ところが米国官憲(OSS)はセミョーノフを債務不履行を理由として拘留し、日本軍との関係を尋問した。また同地の白系ロシア人が米国政府に入国拒否を申し立てた。この白系ロシア人間の争いには必ず金銭が関係している。当時各国へ亡命した白系ロシア人は、貴族・帝政ロシア軍将校が多く、豪奢な生活を続ける半面、勤労意欲はなく生活に窮迫するものが多かった。
またセミョーノフは女性関係にだらしがなく、アメリカのニューヨークに着いたとき日本に置き去りにした妻ゾレータをさしおいて、新夫人エレーナを同伴していた。
このような事情もあったがセミョーノフはアメリカ市民権を獲得した。それにもかかわらず、1922年6月日本に舞い戻った。つまりこれから後の活躍はアメリカ人セミョーノフのものである。この時31歳に過ぎなかった。もっともコルチャックからセミョーノフは中将に任官されており、コサック退役将軍でもあった。
日本政府は受け入れ方針に苦慮したようだが、結局長崎に一時滞在したのち、天津に送り込んだ。妻のエレーナがそこで娘を育てていたためとされる。実際は天津には陸軍の特務機関があり、トランスバイカルコサックの再結集を狙ったのだろう。1923年には天津でソ連共産党分子によるとみられる集団テロに遭遇し、拳銃で応戦したという記録がある。この時でもソ連共産党は執拗に白系ロシア人組織内にスパイを送り込み。主要人物の暗殺を図っていた。同種の事件はヨーロッパを中心に全世界で起きた。
1924年レーニンが死亡、セミョーノフはこれがチャンスとばかりに再び長崎に戻り要路に満州での武力反攻を訴えた。それでも女癖の悪さは治らず、この頃第3の妻を迎えている。
この頃から日本の新聞はいわゆる金塊事件を取り上げた。これはセミョーノフが横浜正金銀行(現東京三菱銀行)東京支店に預けた邦貨にして106万円相当の金貨をめぐっての返還訴訟である。このセミョーノフ金塊とは別に、田中義一が政友会総裁となった時、持参金とした400万円相当の金塊事件もある。両者は別であるが、出所はロシア中銀本店に保管してあった外貨準備で一緒である。戦後一時期ソ連政府がこの問題を蒸し返したが、それでは日本国政府のもつ帝政ロシアへの債権も返済してもらわなければならない。
この金貨相当の円とは1ドル=1円当時の平価に修正された金額で要は106万ドルを意味する。ドルの1919年からのインフレ率33倍をかければ3300万ドル=40億円の現在価値となり恐ろしい金額である。
セミョーノフも裁判に力をいれ横浜の鶯山町に転居したが、1926年再び天津に渡った。これは、陸軍が最終的に関係を維持することを決意したためと思われる。陸軍は1925年北樺太からも最終的に撤退し、満州の対ソ防衛を本格化せねばならない局面となっていた。この頃から陸軍はセミョーノフに月1000円の俸給を支払ったと言われる。多額だが、トランスバイカルコサック亡命者全体に向けたものだろう。
ところが1929年、大審院で突然の示談が応訴人の帝政ロシア軍人会(パリ所在)との間で成立した。結局セミョーノフは3分の1、33万ドル相当金貨が受け取れることになった。セミョーノフがこの資金をどう使ったかはっきりしないが、中国・満州在住の白系ロシア人の武装化の企てに費消されたとされる。満州事変勃発時、大連に渡り、そこの白系ロシア人社会で隠然たる地位を築いた。
1945年8月ソ連軍は満州に来寇、大連にいたセミョーノフを捕縛、モスクワに拉致した。おそらく事前に周到な逮捕計画をたてていたのだろう。極東軍事裁判にセミョーノフの上申書が提出されたが拷問を受けた節が窺える。1946年8月モスクワで国家財産略取のかどで、絞首刑を執行された。最後の言葉は「私はアタマン・セミョーノフだ」と言うもので、コサック一代の英雄に相応しいものだった。
むろんコサックのいないロシアなどいかなる名前にも値しない。大ロシア人の母なる大地の獲得の時、常にコサックは先頭のまた先頭に立っていた。
なお、ゾレータとエレーナ両夫人は1960年代まで存命しており、その子孫も日本で生活している。
千谷 道雄 『歴史と人物:さすらいの将軍数奇な運命』 昭和52年1月号、中央公論社