白軍として最後まで粘り強く戦ったのは南部のデーニキン軍だった。しかし赤軍南方軍(トハチェフスキー)と第4軍(フルンゼ)は1920年2月24日、ドン河畔からマンチャの間で総攻撃に出た。デーニキンは3月ウクライナ全域で防衛線を突破されクリミヤ半島方面に逃走した。
デーニキン軍は4月には数千人しか残らなかった。そこでデーニキンはウランゲリに指揮権を譲渡した。ウランゲリは赤軍がポーランドに向かったあと勢力を盛り返し12月まで戦ったが敗れ、最後の白軍将兵はイギリス軍の艦船で脱出した。
このデーニキン軍に代わって中心都市キエフに入城したのはポーランド軍だった。ポーランドは非常に領土的野心の高い国でレンベルグを含むウクライナ西部を要求していた。実際ポーランド人はそこで少数派である。4月25日ウクライナ独立主義者と共に暫定国境線のカーゾンライン(イギリスのカーゾン外相が設定したソ連−ポーランド国境。現ウクライナ・白ロシア−ポーランド国境とほぼ同一。すなわちモロトフ=リッペントロップ協定秘密議定書の線。西部戦線の休戦とともにドイツ軍がカーゾンライン上を通って復員していった。このため双方とも距離をおいて防衛線を設定した。白ロシア人・ルテニア人とポーランド人の居住地帯を分ける最も納得しうる境目といわれる。白ロシア人・ルテニア人ともロシア語の方言を喋り意思の疎通に問題がない。)を突破した。
ポーランド軍
デーニキン軍を追放した赤軍は再度陣容を立て直しポーランド軍に向かわねばならなかった。新たに西方軍(トハチェフスキー)南西軍(スターリン)が編成された。
6月6日遠くカフカスから戻った南西軍の赤軍第1プロレタリア騎兵軍(プジョンヌイ)12000騎が突如、キェフ南方を行軍中のピルツスキー指揮下のポーランド軍主力2万人を急襲壊滅させた。赤軍は6月11日までにキエフを奪回した。西方軍も北部で攻勢に出、6月14日ビルナを占領した。これは帝政ロシア軍がゴルリッツ突破戦のあと失いついに奪回できない地点だった。この時トハチェフスキーの西方軍は約20個師団30万人で構成されていた。この軍は6月末までにトルンとグラウデンツで下車し、歩兵部隊と騎兵とによりワルシャワを包囲した。
1934年元帥昇進時の記念写真
上、左がプジョンヌイ(赤軍第1プロレタリア騎兵軍司令官)下、左がトハチュフスキー中央はウォロシロフ(第2次大戦開始時の赤軍参謀総長)右上はブリューヒャーだが、張鼓峰事件の責任者として1938年銃殺された。この事件も戦後、マルクス主義歴史学者の手で日本軍が完敗したと説明されることが多いが、謬説である。日本の老兵からなる国境警備隊に約4倍の1個師団半でソ連軍が計画的に襲撃したものだが、ソ連軍は陣地に篭る日本軍に歯が立たず、4倍に昇る、4000人の損失を出した。結局モスクワで停戦協定が結ばれ、中間線で決着がついた。この襲撃を外交上得策でないとして見せしめのため殺されたのだろう。
トハチェフスキーTukhachevsky,Mikhail(1893-1937)
黒海近くのアレクサンドロフスコエで没落貴族の子弟として生まれた。1908年にモスクワ第一エカチェリーナ幼年学校入学し、以降アレサンドル軍事研究学校に進み、1914年少尉に任官した。第一次大戦勃発とほぼ同時で、直ちに従軍したが1915年2月ドイツ軍の捕虜となった。そして六回の脱走未遂を経て、1917年8月、脱走に成功した。ペトリグラードに戻ったトハチェフスキーは1918年4月共産党に入党した。そして赤軍に加わり、その年9月には第一軍司令官となるなど、当時の赤軍のスター的になっている。翌年コルチャコフ白軍をウファで敗退させたが、これはロシア内戦で最大の戦いだった。ソ連ーポーランド戦争のあとは、ラッパロ条約によるドイツとの軍事的提携に熱心だった。1937年、スターリンにより粛清・処刑された。
新生ポーランドに危機が迫っているのは明白だった。作戦本部で中心になったのはフランスから派遣されていたウェイガン(フォシュの参謀長。第2次大戦のフランス戦では敗軍の将となった。)で北部から圧迫をかけてきたトハチェフスキーにたいして南西軍との空隙を生じていることを利用し両軍の中間のウィスワ(ウィスチュラ)川を渡る突破作戦を立案した。
MAP(ウィスワ川の奇跡)
ウェイガンの判断は的中した。退路を断たれることを恐れたトハチェフスキーは8月23日全軍に撤退命令を出した。しかしあまりにも西に進んだ第4軍は背後を断たれたが、ドイツ領東プロイセンを実力で踏破脱出に成功した。ニーメン河畔グロドノでの激戦は更に1週間続いたが赤軍に利が無かった。
この戦いは戦局が不利となっていたポーランド軍が最後乾坤一擲の勝負で挽回した戦いとして記憶されウィスワ川の奇跡と呼ばれた。南部でもスターリンの軍はルウォウ(レンベルグ)占領後あとが続かず敗退した。レーニンはこの戦争の敗北を認め、1920年10月12日リガ講和条約を締結した。新国境線は北は白ロシアの大部分、南はレンベルグを含むガリシアをポーランドに与えた。
この戦いの赤軍の敗因は後で様々に検討された。レーニンはスターリンがレンベルグを占領しないで包囲に止め、プジョンヌイの騎兵隊をワルシャワ方面に向ければ勝利できたと判断した。スターリンは責任をとらされこの直後政治局員をはずされた。また一方でトハチェフスキーが行軍を急ぎすぎ兵站を無視したという批判が西側からなされた。しかし行軍を急がねばもともとワルシャワ包囲ができなかっただろう。恐らくウェイガンのとった作戦の着眼点が優れていたこと、及びポーランド軍が危機にあって大量の募兵に成功したためではないかと思われる。レーニンはこの後日本を含む西欧列強との直接武力対決を回避する方針で臨むようになる。
シベリア出兵に戻る
尼港事件に戻る
に戻る