オムスク政権の成立と崩壊

日本はシベリア東3州を狙い、アメリカはチェコ軍の救出を考えた。英仏は足並みは乱れたが、東西呼応しての白軍の支援で一致しつつあった。また背景となる現地軍は、日本軍がセミョーノフ軍、英仏軍はチェコ軍とコルチャコフ軍という形だった。現地についたとたんチェコ軍はウラジオからモスクワ・キェフ方面に逆走したからアメリカ軍は行動目標を失い、日本軍につきまとった。

実際はザバイカル州以東は日本軍の指揮権が認められていたが、もちろん日本の目標、領土獲得を口外できるものでなく連合国の統一は全くとれなかった。第2次大戦後に至るも、旧軍人は回想録でアメリカ軍の真の目的は日本軍の監視にあったと述べている。敗戦後ということを割り引いても、他国と同盟ないしは共同して戦う意味が全く理解できていないのが残念だ。

シベリア東部3州

そして英仏の目的は常に流動的で、この共同出兵を余計難しくさせた。日本の戦争目的設定は田中義一によってなされたが、実際は山縣有朋がリードしていた。山縣は2重人格のような所があり表面の大義に忠実な場合と卑近な利益につられる時と両方あった。もともと欧州留学・滞在経験が元老のなかでは唯一なく、奇妙な欧州コンプレックスを同時にもっていた。そして軍事上実際に多国籍軍を指揮するという局面にたつと方針を失ってしまった。またこの時、海軍は米内光政が政略を指導する立場にあったが陸軍の方針に反対することを極力避けた。事情は不明である。

1918年秋になると西部戦線は連合国の最終攻勢が成功しつつあり、東部戦線の再構築というオリジナルの目標は急速に失われた。

このドイツ敗北によって英仏はボルシェビキとの協調はむしろ不必要だと理解し始めた。これが出兵4国の方針を決定した。またシベリアは冬季に入り戦闘は難しい形勢となる。

なかでもイギリスは一転干渉に最も熱心となりアルハンゲリスクへ派遣された軍の監督のもと北ロシア政府を樹立した。フランスもかつての分担通り、ルーマニアにいたペルトローク軍をベッサラビアに派遣、そこで帝政ロシア軍のいわば正嫡であるデーニキン軍の支援を開始した。また沿バルト海では1919年に入りドイツ国防軍の支援によりニコライユデニッシの率いる軍がペテログラードに進軍を開始した。

この時はドイツ国防軍は白軍支持だった。ところが1919年7月ゼークトが参謀総長(隊務局長)となると急速に赤軍に接近するようになった。1920年からの赤軍の機動性の回復はこれと関係がある。なぜゼークトが連合国の方針にそこまで反対したのかそしてフォシュらがなぜドイツ国防軍を敗軍にもかかわらず敵視したかは疑問が残る。

オムスク政権の成立

1918年9月、イギリスのノックスは1個大隊を率いて、チェコ軍団が既に占拠しているオムスクに入りコルチャックを擁立した。コルチャックは全ロシア臨時政府の成立を宣言した。

コルチャック

参謀本部は困惑した。現地軍は従前から擁立していたホルワット−セミョーノフの支持、従ってオムスク政権の不承認を訴えた。しかし英仏との外交を考慮すればできる話しではない。そのうちホルワットの方はコルチャックに服従する姿勢を見せ始めた。

だが現地軍が連合国軍の統帥について調整や情報収集ですら出来ていないのは明白だった。とくに各国代表武官会議を議長として円滑に運用することすらできなかった。司令部内で相手にわかる外国語を話すのは広良一大尉だけでフランス語だったと言われる。

実際のところ軍をもたないホルワットは無力でありまた現地軍は越冬準備にはいっており、戦闘は中断を余儀なくされていた。

ユフタ事件

1919年2月26日、プリアムールのユフタ周辺で、第12師団歩兵第12連隊の田中支隊(1個大隊規模、1個野砲中隊を随伴)が零下40度の厳寒のなか突然地方ソビエト共産党員、ドルゴセイエフスキー指揮下のパルチザンの猛攻撃を受け全滅に近い打撃を受けた。

戦い自体は不定期遭遇戦で、敵の捕捉をあせり各支隊が兵力不足のままパトロールに出て、数倍の敵に直面し各個撃破されたものである。ドルゴセイフスキー傘下には約1000人の徴募兵がありそのうち半数は凍傷にかかっていた。両軍とも移動は馬橇で、零下40度のなかの行軍だから地理に明るい方が有利と言えた。

これまでのシベリアの戦闘体験からは1個大隊規模(死者750人うち凍死450名)の支隊が襲撃されることが希なうえ、そのうえ敗退すると言うのは実に信じられない出来事だった。

この事件はボルシェビキ(トロツキー)がパルチザン戦を広言しているなかで起きたことで、参謀本部に重大な衝撃を与えた。すなわち現行の3個師団体制をエスカレートさせないとするならヨーロッパ・ロシアの政治動向とこの出兵の成否は関係せざるを得ない(当たり前だ。)と判断された。ただドルゴセイエフスキーは各集落を業略しながら壮丁を徴募するというやり方で兵力を集めており、これをパルチザンと言うのか疑問であるが。

ただこの時代の参謀本部はむやみにエスカレートさせないという点で健全だったとも言える。従来オムスク政権にたいしては現地軍の意向もあり疎遠だったが急速に関係を強化させることで一致した。

ハバロフスク近郊を疾駆する帝国陸軍騎兵部隊

1919年3月陸軍は外務省による大使派遣に先駆けてオムスクに特務機関(高柳保太郎)を設置した。

オムスク政権による攻勢

1919年春のキャンペーンシーズンに入った時、白軍は各戦線で好調に見えた。すなわち南部のデーニキン軍は北モスクワ方面に向かい、ニコライユデニッシ軍はペテログラードに向かい進んでいた。ところがオムスク政権軍だけは足踏みを余儀なくされた。

コルチャックはウラルコサックに総動員をかけ西に進んだ。募兵は順調に進み兵力は寄せ集めだが25万人を数えたという。これは南部のデーニキン軍の最盛期と同数で、全ロシア臨時政府を名乗る陣容は一時であるが存在した。しかしコルチャックは海軍提督であって陸戦の知識はなかった。単純に徴募した兵を利用できる鉄道で前線に送り込んだだけだった。コルチャック軍自体も各個撃破されたうえ、他の白軍も同様な結果となった。

最大の激戦はウファで起きた。5月28日、赤軍第5軍(トハチェフスキー)は市内に突入した。白軍は25000人の捕虜を残し撤退した。これは内戦で単一の戦いでは最大のものだった。

この敗戦は、その時英仏以外は認識できなかったようだが、赤白内戦の分水嶺となった。日本はこの戦況は陸軍のオムスク特務機関にしか伝えられなかったが、そこでも真相を理解できた人間は少なかった。外務省は情勢の把握に完全に失敗した。この時点から軍民双方のの判断ミスが累積し取り返しのつかない事態に導いて行く。

7月17日、ウラル山脈まで押し戻された。7月24日チェコ軍反乱の場所チェリヤビンスクが陥落した。この敗戦の事情はチェコ軍にあった。といよりフランスはチェコ軍の消耗を恐れ前線へたたせることに消極的になっていた。また英仏軍と言っても2個大隊ほどでオムスクから出ることはなかった。

その間日本軍の支持を得たセミョーノフだけは活発で、旧ロシア帝国銀行(中央銀行)の金塊を強奪したりした。結果コルチャックと日本、セミョーノフの関係が改善されることはなかった。

金塊問題

戦局は6月に入ると一転した。ユデニッシ軍はペテログラード前面で大敗を喫した。更にデーニキン軍もツーラで戦線が膠着した。ウラルはそのなかでも最も不振でコルチャックは日本の武力に期待せざるを得なくなった。

オムスク政権の崩壊

8月に入ると、イギリスとフランスの大使が軍とともにオムスクを去っていった。コルチャックは最早日本のみしか頼りにならないことを悟り日本軍のザバイカル以西の出兵を依頼した。これにたいし日本は10月加藤大使の赴任とともに1個小隊をオムスクに派遣した。これがユーラシア大陸で陸軍が最もに西へ進撃した記録となった。

ただこれは恐ろしい外務省の判断ミスである。この時の外務次官は幣原喜重郎でその無能さから行けば仕方がなかったのかもしれない。幣原はこの種のミスを以降も繰り返す。(外務大臣は後藤新平で政党人)この大使到着と同じ月後半、イギリスは本国の訓令を理由に全員撤退した。ボルシェビキはすでにオムスクの前面まで迫っていた。

オムスクからの退却は凄惨を極めた。フランスのジャナンはチェコ軍をしてボルシェビキ軍と戦わせることを断念した。。チェコ軍はロシア人白軍将兵をはねのけ鉄道でイルクーツクに逃亡した。日本軍はジャナンを追及したが、コルチャック一人と25000のチェコ軍と引き替えにできない、という返事だった。日本軍は第5師団をイルクーツクまで進め敗軍を収容した。オムスクには最後まで残り殿軍を務めた。

オムスクから日本の特務機関員と一緒に最後に逃走したコルチャックはイルクーツクでチェコ軍に拘束されその後ボルシェビキに引き渡された。翌年処刑。

日本軍の3個師団はこの時戦闘にはほとんど参加していない。シベリアの冬季戦では基本的に動いた方が敗北する。そもそも冬季シベリアで鉄道によらない移動を行うとき半数の脱落を覚悟せねばならない。日本軍は無理な冬季作戦でユフタ事件にみられるような損失を蒙った。そしてシベリア東部3州に逼塞していると、突然白軍の敗北が確定、英仏チェコが白軍を見捨てるなかで、今度は敗軍の白軍を一人で支えるという役割となった。

シベリア出兵はこのような陸軍および外務省の情勢判断の誤りに起因して長期化した。なぜならば失敗を認める勇気に欠け、当初目標の達成が不可能と知るや国内政治対策で新しい目標なるものをデッチ上げるという繰り返しとなったためである。ただ根本的なことは自軍が敗北しなくても同盟軍が敗北すれば敗れることがあるということだ。この教訓は簡単には理解されない。アメリカのベトナムでの敗北もそれだった。

旧軍の将軍達の手記には帝政ロシア軍の優秀な将星に指揮された白軍が俄仕立ての赤軍に敗北するとはどうしても信じられなかった、と述べているものが多い。もっと重要なのは白軍の敗北は出兵そのものの失敗と直結することだ。


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