オムスク政府は1920年1月に消滅した。その時までにシベリア東部3州に再度ソビエトが設立され活発な活動を再開していた。とくに1年半前セミョーノフを敗亡の淵まで追いやったラゾは何食わぬ顔をして再びウラジオストックに現れ、臨時政府を名乗った。その際、白軍のロザノフと浦塩で市街戦となったが、日本軍は介入しロザノフを救出したがそこで戦闘は終了した。しかし日本軍以外が兵を出さない事はラゾに安心感を与えたようだ。
アメリカは前年、オムスク政権隆盛の頃から、日本軍の行動がシベリア3州の保護国化にあるのではないか、と疑い始めていた。この疑いは事実なだけに厳しい。1919年9月にはオムスク政権に代表を送らないことを明らかにし(この時英仏はオムスクから大使を引き上げていた。)かつ日本にも自主的な共同しての撤兵を求めた。
この時点で日本国内でも意見の分裂が見られ始めた。参謀本部はこのままでは不名誉な撤退になりかねず駐兵を主張した。この頃田中義一は陸相となっていたが「いかなる勢力とも交戦を禁止する」という奇妙な命令を出すに至る。これはアメリカと歩調を合わせたものでボルシェビキと戦闘行為はせず、ただ白軍との間にはいり一段上に立ち内戦を中断させるという意味だった。
これでは無償の保安官になってしまう。もちろん始めからその覚悟であればそれでよかったのだ。
一方アメリカ派遣軍(クレーブス)の出兵目的チェコ兵の救出は現実的なものではなくなり、ウラジオストックで無為の日を過ごしていた。クレーブスは後年になり回顧録で目的は日本軍の監視だった、と言い始めたがそうではなかろう。そんな目的であれば7000人は不必要だ。また撤兵後マニラで、地元民の98%はボルシェビキを支持していたと語った。これはトンでもない大うそである。制憲議会でシベリアの人口の20%しかボルシェビキを支持していない。ただボルシェビキが最も活動的だったのは事実だ。クレーブスは兵舎を出ることがなくボルシェビキの軍事活動をそれへの支持と錯覚した。そして前半はともかく、以降は戦闘に出て兵を損なうのを避けたかったのだろう。
情報参謀のアイケルバーガー(日本の占領に任にあたった第8軍司令官)は全く無駄な日々だと言っておりそれが真相だろう。ただチェコ軍救援が目的ならばアメリカ人も英仏のコルチャック擁立をせめてチェックすべきだった。このあたりは日本の浦塩総司令部の語学能力不足による調整不能が最大のネックと思われる。この時代の陸軍軍人の回想録を読むと、アメリカ軍がボルシェビキと内通したと述べているものがある。そういったメンタリティーでは統一指揮は不可能だ。せめて海軍軍人を中軸にした方がよかった。
連絡武官会議で日本側は本国訓令をただ読み上げあとは黙って茶を飲んで無言だったという。日本歴史上始めての多国籍軍指揮でありもう少し形を作るべきだった。
1920年1月8日、アメリカ政府は撤兵を突然通告して来た。これにたいし日本政府はアメリカに駐留継続を要請した。そのうち2月に入ると英仏は撤退を完了してしまった。
アメリカ軍は欧州でも1919年6月までにラインラント駐留の16000人を除き撤退していた。この状態で引き留め策は無理だろう。それでも英仏軍よりは長く滞在してくれた。撤退は3月開始され4月1日に終了した。日本政府は閣議で駐兵の理由を、朝鮮・満州の過激派の脅威阻止に変更した。ボルシェビキがこの時点で満州・朝鮮に兵を進める可能性はゼロだから、これは思想的な事をいうのだろうか。心の中を物理力で阻止することは不可能だ。しかしこのやり方、イデオロギー上のことで外交・戦闘行為を規制する、は1936年防共協定でピークに達する。
実際本気かはいずれのケースも疑わしい。当時反共ということであれば何でも許されるとう雰囲気があったのだろう。情況が当初の方針と適合せず、その失敗を認める勇気がないだけである。そもそもシベリア3州領土化構想が政治的にも経済的にも無理だし、仮に実現させるためにはロシアが分割されねばならずそれは欧亜にまたがる問題だ。自立可能な欧州側で無理となれば自立不可能な極東はもっと無理だ。また自立不可能な土地を得ても補助金が増えるだけだ。役人の定年後の就職先は増えるが。
だがこの時、ボルシェビキにも極東で強く出られない事情が発生した。
ソ連・ポーランド戦争である。この戦いは1920年10月までにソ連の敗戦で終了し以降レーニンは日本を含む連合国とは直接の武力対決は避けまたかっての交戦国ドイツとは1922年ラッパロ条約により友好的関係に入りポーランドを両側から包囲する形を作った。
アメリカ軍が撤退した4月1日から日本軍は浦塩臨時政府と緊張緩和のための会議を設営した。会議自体は日本軍は臨時政府を共産党偽装政権とみなしていた(実際その通りだが)ので順調には行きかねた。ところが4月4日夜半突然銃撃戦が発生した。
事情は駅付近にあった日本軍徴用倉庫の歩哨が突然発砲を受け応戦したことがきっかけといわれる。翌朝より第13師団(西川虎次郎:第12師団と交代)は赤系兵士の武装解除を開始した。これも謀略の臭いはするが現在でも真相は不明だ。更に残念な事件が起きた。銃撃事件が起きたとき周辺の不穏分子3人を捕縛したところそのうち1名がラゾと判明した。身柄は第13師団本部に預けられたが、翌朝食事を与えたところ衛兵に「こんなもの食えるか」といってプレートごと投げつけた。このため激昂した兵士がその場で射殺してしまった。
この事件は秘密とされた。遺体は海軍の手により栄誉礼をもって水葬に付された。一代の風雲児の傷ましい死だった。
ウラジオストックには現在、ラゾの銅像が中央部に建っている。草莽期の革命家であり、その後あまり批判されない存在なのだろう。ロシア側のラゾの死因についての多くの説明は、白軍に引き渡されたのち、ボイラーで焼殺された、乃至残虐に殺害されたと言うものである。日本のマルクス主義歴史学者もこの説を踏襲する。
日本軍兵士による殺害説は、太平洋戦争後の旧軍人の手記、回想録によった。白軍に引き渡したのち殺害されたものであれば、旧軍人が新たに新説をなしてロシア説に反論する必要がないはずで、それに従った。
浦塩司令部は全軍に赤軍などの武装解除と抵抗された場合直ちに討伐にはいることを指令した。武装解除は沿海州南部は順調に進んだ。しかし他の地域では全く進捗しなかった。とくにプリアムール州では、もともと日本軍は孤立しているうえ兵力の分散を余儀なくされていた。第14師団(白水淡)はハバロフスク市内で3日間の銃撃戦のうえ赤軍に約2200人の損害を与えたのち全域を占領した。ところがその後は全周を包囲され退路を絶たれた状態に陥った。ハバロフスクには約1個連隊4000人の兵がいた。白水は降伏どころか、全滅するまで抵抗するので後詰を至急派遣せよ、という無線が送った。第13師団長は実力による解囲を主張した。
しかし東京はこの時やや冷静だった。話し合いによる解囲を要求し、4月29日から日ソ会談が浦塩の軍司令部で持たれた。交渉は簡単にまとまりソビエト軍が鉄道両側から30Km以上離れることで成立した。この時停戦委員のソビエト側主席はウートキンだった。この協定は5月停戦協定と呼ばれた。
日ソ両国の停戦委員がハバロフスクに入り、包囲は解除された。しかしこの直後ハバロフスク駅頭でウートキンは白系ロシア人に暗殺された。これは背後に第14師団参謀がいたというのが通説である。日本の参謀教育に紳士の文字はないのだろうか。だがソビエト側はこの5月停戦協定を局地における軍事上の優位性にも拘らずよく遵守した。結果として沿海州とプリアムール州での両軍の武力衝突はその後あまり発生しなくなった。ただニコライエフスクを例外として。
トリアチピン撤退後のニコライエフスク。背景は臨時郵便局で日本人職員3人が犠牲となった。
ニコライエフスクは北部沿海州の中心都市だが行政上樺太州に属し、アムール川の河口にあった。冬季は流氷に閉ざされ海上は通行できない。陸上も鉄道はなく当時すべて内陸とは馬匹または冬季は犬橇の連絡だった。3月11日、無政府共産主義連隊を名乗るトリアチピンとその情婦レベデワが率いる赤軍部隊約2000人は駐留している日本軍2個中隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊石川正雅少佐)に攻撃をかけた。この時ニコライエフスクには帝政ロシア軍の砲4門が郊外に隠匿されており、赤軍はそれを発見し砲撃をかけたという。
ただ赤軍と称してはいるが、トリアチピンは一旗上げ組にすぎないと思われる。ハバロフスクにいた赤軍本軍との連絡も希だった。当時地方の権力を握りたいため突然赤軍を名乗ることは珍しくなかった。ソビエトがない所では赤軍のお墨付きで何とも名乗れた時代だった。また二人は後の極東共和国政権が言うようにただの狂人であったのかもしれない。
この攻撃により2個中隊は全滅し民間人など生き残り122人が抑留された。浦塩軍司令部は陸海軍合同による救出部隊、2個連隊(1万人)を組織した。
救出部隊が迫る頃、5月24日赤軍は突然無差別の殺戮を開始した。武装解除事件を3・11尼港事件が原因だと錯覚し救出隊により報復を受けると恐れたためであるという。合計で、将兵318人、民間人358人の日本人が犠牲になった。またニコライエフスク撤退に当たり全ての木造建物を焼却したうえ市民1000人以上(5000人という説がある)を虐殺した。7月、指揮官のトリアチピンとレベデワは赤軍ではなく匪賊の頭領だとして処刑された。
5・24虐殺は統制違反だったと思われる。すなわち3月の攻撃については孤立した日本軍を狙ったものだが、5月の虐殺については赤軍本軍の了解なしで主として財産目当てで行われたと推定される。
この時ザバイカル州を除いてシベリアに既に白軍は存在しなかった。武装勢力は赤軍だけだから日本軍の武装解除方針も強く反対する必要がなくむしろ休戦のほうに力がはいった。そして現地軍の段階ではソビエト側は日本の撤兵を要求しなかった。また日本も駐留地区のソビエトの施政を妨害しなかったから双方無害とみたのだろう。むしろ市街戦などの混乱の際は介入しただろうからソビエトの施政権を承認したとすら言える。そして現地軍の参謀が見通したように、デーニキン・ウランゲリ軍が敗北した段階で白軍勝利の目はすでになくなっていた。
要するに白軍が存在しない条件で日本軍と共存する方針に転換したのだ。その本旨がニコライエフスクに到達しなかったのだろう。この方針は現地日本軍は政治に全くタッチしようとしなかった(能力がなかった)から極めて賢明だった。
参謀本部も事態の本質、現地での政治と無関係の駐兵が何を意味するか理解するようになった。このような事態は実は多く発生する。これを避けるには厳しいようだが一旦撤兵して更に現地に混乱を発生させるしかない。当時の日本の政治はイデオロギーを許せないとしたようだ。しかし本当に許せないイデオロギーだとしたら現地に不満が増大するはずだ。また外交の観点から冷徹にみると共産主義は内部の人民には厳しいがそれ程侵略的ではない。
ソ連が英米またはドイツの了解なく侵攻した地域はフィンランドとアフガニスタンだけだろう。国家社会主義の方が侵略的だ。
ところが実質的な停戦協定を模索する一方(沿海州と黒龍州は実質的に停戦となっている。)でせめて樺太北部を得たいという意見が閣議ででるようになり、政府としての意見がまとまらない。これも実はすべて尼港事件のためである。
トリアチピンの正体
トリアチピンが革命を標榜するだけの強盗または狂人にすぎなかったことは、当時すでに明らかにされていた。日本政府はレーニン政府がニコライエフスクに於ける武装蜂起勢力として認めていたことを論拠にあくまで補償と謝罪を要求した。
これに対しのちの極東共和国代表(レーニン政府の利益を代表していた。)は、狂人ですでに処罰された人間の責任はとれないと反論した。
これが大連会議の主題の一つでもあった。
ところが第2次大戦後になりソ連による日本人兵士抑留者への洗脳工作が開始された。この工作の際、多くの日本人兵士が尼港事件により共産イデオロギーにたいし反感をもっていることが明らかになった。このためコワレンコ(ソ連共産党国際部副部長)が中心となりトリアチピン英雄説の捏造を開始した。ただこのコワレンコという人物は共産主義よりも国家主義的傾向のある人物で、粗暴な歴史的知識しか持ち合わせていなかった。
コワレンコはトリアチピンの日本人虐殺は日本側の外交使節虐殺が原因であり、また地元民の殺害や市街に焼き討ちは白軍討伐のためで、本来パルチザンの英雄だという途方もない説をでっちあげた。
もちろん大半の兵士はこれを信じようとしなかった。ところが、当時の日本共産党が、尼港事件が共産主義宣伝の阻害要因となっていることで、これに飛びついた。
この説が一部の歴史教育者によりいまだに真実だとして説明されている。それでは、ニコライエフスクの市民が全員白軍だったのか、またなぜトリアチピンは3ヶ月後ボルシェビキによって処刑されたのか、全く説明できない。つまり史料批判のもととなる所の説明がない。
ただこういった洗脳工作をしても、そこは日本人が読めばすぐわかる矛盾点が隠されている。つまり日本人協力者が心底では協力していないためである。石川正雅少佐が尼港にいた2個中隊の司令官だがこの事は当時の誰もが知っていた。洗脳史料は全て正雄で統一されている。
また中国(共産)もより一層激しい洗脳工作を行った。日本軍の掃討作戦を、焼き尽くし、殺し尽くし、略奪し尽くす三光作戦と命名したというシナリオから成り立っていた。ところが「光」という文字に中国語にある「し尽くす」という意味は日本語には存在しない。すなわち三光では日本語では固有名詞以外言葉にならない。
いくら(マルクス主義)教育者と言ってもこういった洗脳工作にもとづく歴史の叙述はやめるべきではないのか。日本人だからそうすべきでないと主張する気はない。現在のロシア史家も認めていないのだ。エリツィン大統領は抑留を正式に謝罪している。出典を調べればわかることではないか。
ただし、コワレンコの肩をもてば、ハバロフスクで停戦協定の交渉に当たった、ボルシェビキの代表、ウートキンを日本側が暗殺した経緯(第14師団参謀某)があり、それをソビエト側が気づき混同して議論を展開したことはあるかもしれない。それでも尼港事件の事実とは関係がない。
また憶測であるが、石川少佐はトリアチピンの攻撃をよく持ちこたえたが、5月停戦協定を知り、市の内側の防衛線を解き休戦交渉をしようとしたところ逆に急襲された、という説が存在する。確かめようがないので割愛したが、日時はこちらの方が適合している。
石川正雅少佐の名誉と市民も含めたテロ被害者の無念を思わず、何が教育者か。
要するにこの時日本軍は駐留するだけの無力な仲介勢力となっていた。またこの時点の軍事的状態を日華事変と比較するのは適切ではない。このときの方がはるかに日本軍は点でしかなかった。すなわちプリアムール(黒龍)州では鉄道駅から兵営までしか日本軍は統治していない、逆にいえば軍政どころではなかった。面積比というより、武装力・警察力がボルシェビキにしかなかったのだ。日華事変では点と線のなかに制服の敵兵士がいれば日本軍は討伐できた。シベリアでは冬季、11月にはいると動くこと自体が命がけだった。要するに情報力が直接軍事力の次ぎに重要で、通行可能性・敵の部隊配置がわかれば、やすやすと地域が支配できた。この点ではフィンランド冬戦争と似ている。
首相の原敬はここで難しい判断に迫られた。野党の憲政党(加藤高明)は撤兵を要求していた。加藤の意図はおそらくシベリア出兵自体を政争と絡めたかったのだろう。これは健全な野党のとる政策としては問題がある。本来、実際起きた戦争行為の停止を政争の具にしてはいけない。
作戦に支障をきたすばかりでなく、有利な外交すら困難となってしまう。しかもこれは誰にでもわかる事だ。加藤がオフィスを得たいがためにこのような主張をしたとするなら憲政の根幹(議会制民主主義)を破壊する。停戦でだけでなく微妙な外交をめぐっても同様の事態となる。
これを防ぐためには野党の指導者を常に重要な外交に関与させるべきだ。これは今日的な問題でもある。イギリスでは現在そうしている。ただしアメリカではしていない。
原は元来出兵反対論者だった。ところが尼港事件が難しい立場に追いやった。すなわち国民が激昂し始めた。ここで冷静な撤兵論を唱えることは、事実上責任を負うのと同じだと思われた。田中義一陸相が水戸での連隊葬に田中が出席を決めると、「殺される」という理由で止めにはいったと言う。
この時代の常識として不必要に人命を犠牲とすることは、たとえ不可避的な軍事作戦でも厭うべきだと考えられていた。そこが政党政治が実現していた時代の良い点だろう。原は少なくとも戦果をある程度犠牲にしても戦場での損失を最小限にせねばならないと考えていた。この考えが大きく崩れるのは日華事変の上海攻防戦からである。
尼港事件と5月停戦協定以降日本軍は討伐などの軍事行動は控え、専ら都市の治安維持活動に専念した。それに伴い被害も激減した。
最後に原は撤兵せず別の理由北樺太の確保、朝鮮独立主義者の弾圧などをとりあげ駐兵を継続させる方向に決めた。9月に最終的にチェコ兵が無事浦塩を出港したのでそれが名誉ある撤兵の良い理由とも思えるのだが。チェコ兵の大半は舞鶴に上陸し1ヶ月の日本での休暇を楽しんだのち故国に帰った。チェコ兵はこの軍をレギオン(軍団)と呼んだ。レギオン帰りはその後社会の中心を形成した。
コルチャックはオムスクから脱出する際オムスク政権の後継者はセミョーノフとする書付を残していた。
1919年11月オムスク政権の崩壊とともに、残存する部隊はザバイカル州に逃げ込んだ。部隊は約1万人で、最後の指揮官で撤退中に病死したカッペリの名前をとりカッペリ兵団と呼ばれた。
一方原敬は、8月ザバイカル駐留第5師団の撤退を決定した。これは軍部といっても省の反対を押切ったもので、当時は統帥にたいし政治が優位にあったことがわかる。とにかくこの頃にはシベリアの実情が知られ、世論も尼港事件の決着は求めるが占領継続や領土化に賛成するものは少なくなった。とにかく冬は零下40度という寒さでまたシラミの害が甚だしく多くの兵士がチフスに倒れた。一方50人程度の北洋漁業関係者が鮭がとれるといってニコライエフスクに集合して気勢をあげたりもしたという。実際は結氷地区のため秋に漁はできず、質の悪いものでしかない。
セミョーノフのトランスバイカルコサックは、日本軍が始めから応援しまた期待に応えていた部隊だった。軍人であれば、政府の要求する同盟軍、米英仏チェコよりも頼もしくまた信頼しうると考えただろう。文民政治家にもかかわらず原はこのあたりの機敏を重視する人物だった。にもかかわらず、撤退を決断せざるを得なかったことは、ザバイカル州のみならず全域に亘って、軍事情勢を挽回することが不可能と判断したのだろう。この原の判断は的中することになる。
日本軍がザバイカル州から撤退するとザバイカル州には赤軍2個師団が残るばかりで、セミョーノフの軍隊とカッペリ兵団を圧迫し始めた。
10月15日、日本軍との5月停戦協定を破り赤軍は一斉にチタ方面に攻勢に出た。10月22日チタは陥落した。セミョーノフ軍は満州領内まで逃走したが、一部は張作霖軍に武装解除された。セミョーノフは関東軍と連絡をつけることに成功し旅順で保護された。
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