間島出兵


間島出兵は、1919年秋に行われた極めて限定的な作戦である。時期はシベリア出兵と重なっている。また、出兵についても、シベリア出兵と関連がある。というのは、日韓併合(1910年)により総督府統治が開始されたが、そのとき李氏朝鮮には引き継ぐべき軍隊はなかった。すなわち1907年に常備軍を廃止していたのである。

そして誤解もあるが、日韓併合による混乱はほとんどなかった。韓国名物の街頭暴力デモもほとんど収まった。一方、日露戦争による軍拡は常備13個師団を17個師団まで拡大したのであるが、軍縮機運により、2個減師を前提として、朝鮮に2個師団を駐留させることに決定した。これが第19師団(羅南)と第20師団(龍山)である。いずれも、1917年(大正6年)に結成された。第19師団の師管区は仙台である。

さて、事実上の第一次大戦のヨーロッパ戦線への関与となるシベリア出兵が決定されると、内地から輪番で派兵されることになった。すると、朝鮮軍2個師団は無柳をかこつことなる。これが出兵の第一の動機である。

琿春への馬賊襲撃

さらに2回、琿春にたいし支那馬賊の襲撃があった。第一回は、9月12日午前4時で、約500名の馬賊が市街中心部を襲撃し、家屋40戸を焼却し、人質を拉致した。

琿春駐在の張作霖軍(支那軍)の呉営長(大隊長に相当)指揮の部隊にはある程度の数の兵隊がいたが、これを傍観し、さらに一部兵士は略奪に加わった。さらに、9月3日、琿春西北方約8里の大荒溝にある支那工兵兵舎を襲撃し、34名の大部を拉致し武器全部を奪取した。

10月2日、馬賊約400名(うち露人数名、朝鮮人約100名、支那官兵数十名)が襲撃し、帝国領事館分館、官舎に放火し、各所に新式爆弾を投じた。更に旧式37ミリ砲を高地に据え、威嚇しながら邦人居留地から支那街にむけ略奪をほしいままにした。

前日夜、領事は急使を派遣そ夜12時には対岸・慶源守備隊と連絡をつけたが、各所との連絡に手間取り、特務曹長以下10名を派遣したが、賊は退却したあとで間に合わなかった。邦人14名が死亡した。

出兵検討

10月2日午後2時、第19師団長に属する慶源守備隊は将校以下80名を琿春に派遣した。大庭朝鮮軍司令官も直ちにこの処置を承認した。更に羅南からも応援を得て、10月3日までに安部少佐のもとに歩兵1個中隊、機関銃1個小隊が支隊として編成され、琿春居留民はようやく安堵の色を浮かべた。

だが、馬賊は琿春北方に留まり、数も7〜800名に増加した。10月5日、馬賊は再度安部支隊の通信所を襲撃したが、今回は遺棄死体6を残して撃退された。師団長は、これに驚き、本格的掃蕩作戦を準備することを決心した。そして牧第75連隊長を琿春に派遣することにした。

間島方面

琿春情勢が悪化する中、10月6日、朝鮮総督府間島派遣・平松警視より情勢悪化により、頭道溝・局子街・龍井村の3ヶ所に歩兵各1個中隊派遣の依頼があった。

このため師団長は琿春に集中しつつある部隊のうち4個中隊・騎兵半小隊を龍井村に派遣することを決心した。その後、琿春が落ち着くにつれ、間島に1個連隊をおくることが可能となり、山田大佐が龍井村に派遣された。同時に朝鮮軍は、10月6日、参謀総長と陸軍大臣に間島出兵(剿討)に関し意見具申した。

同日、閣議が開催され、日本臣民(朝鮮人の意味)の利益保護・警備のため軍隊を派遣し、直ちに支那に通告、共同作戦を実施する、もし聞き入れない場合は自衛上止むを得ず単独に不逞鮮人討伐を実行する、と決議された。閣議決定は、支那側の非協力を前提としており、西間島地区(延吉から白頭山まで)における治安維持活動を行う目的にほぼ限定した。

当時、間島には李朝末より多くの朝鮮人が移住しており、北部朝鮮には縁戚がいて盛んに保護を求めていた。というのは張作霖軍閥は支那(漢民族)色が強く、馬賊を取り締まらないばかりでなく、支那人の移住朝鮮人への迫害を放置していたのである。このため、朝鮮人は自警団のようなものを結成したが、それが匪賊化していた。そこに旧式儒者を中心した政治的アクティブが紛れ込み、反日パンフレットを配布するなどしていて、総督府として看過できなくなっていた。

10月7日午後11時、参謀本部次長は間島方面の討伐を実施することに決定し、第19師団長の指揮する歩兵6大隊騎兵1中隊半、山砲8門、工兵2中隊、飛行機4をもって不日討伐を開始することを伝えた。これに策応して浦潮派遣軍の1部隊をポセト湾に上陸させることに決した。

東支隊

10月15日、第19師団第37旅団長東少将が龍井村に到着した。それまでにも、小競り合いが発生していたが、本格的剿討はこの日からである。師団長は歩兵2個連隊を基幹として本部を龍井村に置く東支隊を編成した。

その日までに、地元民から金佐鎮賊徒が青山里に露営しているとの内報が入った。この情報に限らず、洪範図賊徒を含め2集団についての情報は日本軍に筒抜けであった。つまり、これらの集団は地元民に全く支持が得られていない。普通ゲリラ集団は、農村すなわち人家を拠点に行動するのであるが、青山里には猟師や樵【きこり】の家以外ない。すなわち金佐鎮賊徒は山林に露営していたのである。更に地理も不案内であって、村民を拉致して目的地まで案内させるのが常だった。

戦闘が起きた青山里は老嶺附近の山間部である。老嶺山系は満州と日本海側を分ける分水嶺であって、古洞河は松花江を経由して黒竜江へ、海浪河は直接日本海に注いでいる。また、作戦中に降雪があるほど冬の寒さは厳しいところである。朝鮮軍司令部も11月中旬までに作戦を終了するよう厳命している。

東は青山里剿討のため、次のように部署した。

@山田討伐隊 5個中隊からなる
A加納騎兵連隊
B支隊予備隊 2個中隊からなる

青山里剿討戦

中軸部隊は山田討伐隊だが、更に二つに分け、本隊は三道溝(現在の和龍市)経由、中村大隊は蜂蜜溝経由で青山里に向かうことになった。また加納騎兵隊は大迂回を敢行し、五道陽盆から古洞河を遡行、老嶺の背後に達するとされた。

山田討伐隊は10月18日、龍井村(頭道溝北東東20キロ)を出発した。そして10月20日、青山里に到着した。ところが未明、賊徒600は奥地に遁入していた。これがため同日夜はそこで宿泊し、翌21日払暁、選抜1個中隊(安川少佐指揮)捜索を開始した。すると老嶺に向かう4キロほどのところに、前夜の露営地を発見、進むこと7〜800メートルで射撃をうけた。だが交戦30分で賊は撤退を開始した。

青山里地図

この戦いで戦死者は4名、賊は16の遺棄死体を残した。夕刻までに、山田討伐隊は部隊をまとめ、三道溝に集結した。なぜ追撃しないかと疑問をもつと思われるが、当時の歩兵は携行食糧を5日以上もてないためである。また、このときの中隊は平時編成であり、約100名ほどである。つまり、実戦に参加したのは安川選抜中隊の約100名だけである。

また、金佐鎮賊徒の行軍速度は1日5キロほどに過ぎなかった。これは、輜重部隊をもたないゲリラ部隊であれば、仕方がない。要は、日本軍歩兵の行軍速度が猛烈なのである。

魚朗村の銃撃戦

東は金佐鎮とは別に、洪範図の率いる500が頭道溝西24キロの山中占拠しある、という情報を得ていた。このため10月19日、支隊予備の出動を命じた。だが、二道口子や蜂蜜溝附近を捜索したが発見できず、臥龍洞に宿営した。また前野大隊は道に迷い、南陽村(臥龍洞西方9キロ)に宿営した。

一方、加納騎兵連隊は迂回を命ぜられたが、悪路のため行動不能に陥り、五道陽盆から漁朗村に宿営した。ところが22日午前5時30分ごろ突然敵の攻撃を受けた。金佐鎮配下の士官生徒隊300とみられ、874高地南側を占拠し頑強な抵抗を続けた。交戦は5時間に及んだが、午後0時30分飯野大隊が戦線に加わると、遂に撃退した。戦死者3名を出したが、敵死傷者は60名に達した。俘虜5、小銃22、弾薬2200、軽機関銃1を鹵獲した。

古洞河谷の銃撃戦

敵は四散したが、西南山地密林に逃れたものと推定された。捜索につとめ、騎兵連隊は魚朗村=五道陽盆線を警戒した。ここで東支隊長は自ら支隊予備の歩兵150機関銃3を率いて蜂蜜溝北方2キロの渓谷に沿って追及することにした。25日午後4時、賊の前夜の露営地を発見した。

そして、25日午後10時、煤煙を発見し、12時夜襲を敢行した。敵は四散しながら抵抗を続けた。無益の損害を避くべき1743高地に兵力を結集した。味方に損害はなく、敵の死傷30、小銃10、弾薬1万を鹵獲した。捕虜の尋問によると、この賊団は洪範図指揮する300、金佐鎮30であった。

この1743高地とは、この方面の最高峰であり、すでに冠雪していた。

このあと東は、まだ老嶺附近に敵が潜伏しているとみなし、哨戒線をつくったが、敵を発見することができなかった。ただし、金佐鎮と洪範図は、このあと生存が確認されており捕捉に失敗したことは確実である。ただ、この二人が戦いの現場にいたかどうかは定かでない。また、機動的な剿討作戦はこの東支隊以外は実施しなかった。

エピローグ

朝鮮人だけからなる匪賊活動は、これで終焉した。ただし、間島地区に住む朝鮮人の法的地位は微妙であった。すなわち、彼らは日本臣民とみなされ、日中間の条約により、治外法権が認められた。これがため、日本側は領事裁判のため領事館を設ける必要があり、また中国人(現在、この地区の人口比率は70:30で朝鮮系が多数)に対しては、特権階級を形成した。

中国官憲の取締りも免れ、一村単位やグループ単位で強盗団を組み、朝鮮領内や満州で活発な非法活動に従事した。

間島出兵における日本軍の活動は短期作戦とはいえ徹底性を欠いている。この理由は無益な損失を避けたこともあるが、リーダークラスを除いては匪賊の氏名が特定されており、殲滅する必要がなかったことがあげられる。すなわち帰順=自宅に戻ること、が実現すればよかったのである。じっさい、リーダー以外大半の匪賊構成員は帰順したとみられる。土台、この装備では冬を越せない。

この前後、日本軍は捜索活動を行い、多くを逮捕し、武器弾薬を押収した。そして厳寒期の手前に少数の残留部隊を残して満州から撤退した。間島出兵における日本軍の戦死者は11名、敵に与えた損害は1100名である。他に900名を逮捕・帰順させた。

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