クラスノシチョーコフ
レーニンは極東情勢にあまり興味がなかった。1920年度中はソ連・ポーランド戦争のため余裕がなかったこともあるが終始2個師団程度の正規軍赤軍を派遣することしか考えなかった。これで日本軍に対抗することは困難と理解していた。またたとえ現地で接戦を演じることができても、日本がより大量の軍を派遣できることは承知しておりまた消耗は避けたかった。
この点では日本軍と一致していたとも言えた。レーニンは1920年4月極東共和国の設立を決めた。これは紛争をヨーロッパロシアに波及するのを食い止めるとともに、日本の緩衝国家設立要求とも一致させる奇策だった。
だが1920年度中は活発でなく僅かにワモプ軍事代表が浦塩総司令部を訪ねるくらいだった。赤軍2個師団はそのまま極東共和国軍となり、一部チタ方面で第5師団と交戦した。
1920年10月23日、チタに首都を移した。この時首相は(*)クラスノシチョーコフで、以前共産党国際部の東洋部長だった。結果として極東ロシアには浦塩臨時政府とチタ政府(極東共和国は当時こう呼ばれた)が平行して成立することになった。しかし前年4月の武装解除以降浦塩臨時政府は軍隊をもたず、日本の浦塩派遣軍(大井成元)に依存する状態だった。また一応制憲議会選挙当時の議会制度を維持していたが第1党農民党、第2党社会革命党、第3党社会民主党(ボルシェビキ)で当時の日本人からはいずれも過激派だった。
(注*)クラスノシチョーコフ
Alexander Krasnoschokov (1880-1937)
シベリア情勢は、クラスノシチョーコフの登場により、始めて落ち着きを取り戻した。それまでの日本派遣軍に挑戦したのはいずれも名称から示されるように無政府主義者または単なるゴロツキで、赤軍の名称を借りて地域の政治権力を握ろうとした、または動産目当ての者たちだった。
また、ようやく復員が進みまたヨーロッパロシアの飢餓からの脱出組みでロシア人男子がようやく多数を占め始めた時期だった。それまでは中国人と朝鮮人の合計人口がシベリア東部三州全域で上回っていた。
クラスノシチョーコフはユダヤ人で1902年アメリカに亡命、そこで教育を受けた。1917年二月革命のとき日本経由で、ロシアに帰還した。そこでレーニンの信頼を得て、誰もつきたがらない共産党国際部東洋部長に就任した。極東共和国のアイデアは疑うことがなく、クラスノシチョーコフのものである。
クラスノシチョーコフは、終生アメリカへの憧憬を胸に秘めていた。また極東共和国を共産党の駆け引きまたは過渡的なものでなく、本当に独立させる気持ちがあったとも言われる。
ただシベリアを独立させるためには、中国または日本の支持が必要だ。ところが、反中国人意識があり、シベリア在住の中国人は過酷な処置、大概は殺害された。張作霖軍が、極東共和国軍としばしば交戦に及んだのはそのためである。一方、アメリカには1921年経済使節団を派遣するなど交流を目指した。アメリカの支持でシベリアの経済的自立を図ろうとした最初の人物だろう。
極東共和国がソ連に吸収された後、クラスノシチョーコフはモスクワ国立銀行総裁に就任した。1923年に背任の疑いで逮捕、収監された。一年後出所し文筆活動に入った。1937年、スターリン大粛清のとき何物かに密告された。嫌疑は反ソ、親米、親日活動をしたというものだった。なぜ反ソー親米・親日活動をしたか問われ「幸福を探しに」と答えたのが、記録に残る最後の言葉だった。同年中に銃殺された。
またここに登場するロシア人で1937年を越えられた人物はいない。
日本の出兵は、表向き過激派政府の打倒が理由だった。やはり打倒すべき対象だったのだろうか。
そして農民党は常にボルシェビキの圧迫下にあり、議会議長は常にチタ政府との合邦を主張した。
ウラジオストックでの白軍決起
1921年5月21日、カッペリ兵団と旧セミョーノフ軍の残党は突然ウラジオストックで決起、旧帝国旗(現ロシア国旗)を掲げ、民警を武装解除した。浦塩臨時政府は北部に逃走した。
中心となったのはカッペリ兵団の残党だった。しかし旅順に匿われていたセミョーノフは日本の汽船をチャーターし浦塩に戻ろうとした。
カッペリ兵団のメルクーロフは直ちに沿黒龍臨時政府を樹立し、その主席におさまった。ところがセミョーノフは新政権の軍権を要求し、メルクーロフと対立した。双方とも日本軍の好意を期待したが中立を維持、結局セミョーノフが引き下がる形となった。この事件も陸軍の謀略に見えるが現在までの所、煙も出ていない。
陸軍もさすがにシベリアに飽きてきたのかもしれない。ただ居留民会の活動は活発で、とくに国内世論に悪影響を及ぼしていた。この状態にあって私有財産の保護、円滑な商取引は近い将来困難となることがはっきりしており、外務省は冷たくとも警告を発し、退去させるべきだったのだろう。
極東共和国側はこのクーデターを日本が裏で誘導したものとみなし、抗議活動を活発化させた。モスクワ政府はその建前にもかかわらず、またなぜかアメリカは除外して、イギリス、フランス、イタリーに日本の暴挙を非難する通告書を送付した。3国とも日本への非難を理由がないとして、連絡自体をイギリスが代表して拒絶した。
大連会議
極東共和国は日本との交渉を希望した。
1921年3月に英ソ通商協定、5月に独ソ通商協定が成立し、外務官僚が焦りを示した。7月9日にはワシントン会議の開催が幣原駐米大使により公表された。ソ連はワシントン会議から除外されたことを恨み、ジェノア会議開催、極東勤労者会議開催など様々な手をうってきた。外務官僚は翻弄され、アメリカにソ連と通商協定を結ばないことを哀願した。拙劣な外務官僚は、ソ連が希望する極東共和国との会議の開催も一手であるとして、陸軍に希望を伝えた。
8月19日、外務省はアメリカに「門戸開放・機会均等主義」を表明したのち、極東共和国との交渉に入ることについての内諾を得た。アメリカ軍は撤退済みであるから、このような内諾は必要ではない。
8月26日、大連で第1回会議が開催されることが決まった。浦塩派遣軍政務部長兼総領事、松島肇を交渉委員とした。
ソ連との直接交渉については、8月末から12月初旬にかけて、川上俊彦駐ポーランド公使が、5回にわたってカラハンと会談した。カラハンはアメリカ商人バンダーリップとカムチャッカの森林開発協定を結んだことをいい、動揺を誘った。他方、チタ政府(極東共和国)の「全権委員」ユーリンはアメリカ駐大連領事に「日本はぐらついており、ワシントン会議に非公式代表派遣が許されるべき」と訴えた。極東共和国遣米使節団は「日本がシベリアを植民地化しようとしている」とアピールした。
大連会議では、日本側は17カ条の協定案を呈示し「沿海州から自主的に撤退する」ことを明らかにした。陸軍の早期撤退希望に沿ったものであった。チタ政府側はこれをきいて居丈高になり、ソ連代表の参加、日本の撤兵期限明示を要求した。日本側の最低要求は尼港事件の謝罪であったが、ヤンソン(極東共和国外相)はそれすら個人の仕業であるとして拒絶した。
ワシントン会議極東問題総委員会では、ヒューズ代表が前年5月31日の米政府覚書を反復した。極めて不可解な態度であるが、幣原駐米大使の無能の表れとみるべきだろう。フランス代表は日本の方針を認めるむね表明した。
このとき、極東共和国と外交交渉をもっていた国は日本だけであったが、アメリカのみが警戒感を示したということであろう。これが、日本とソ連どちらに向けられていたのかをアメリカは意図して曖昧にしたのである。
チタ政府は、1922年に入ると、チタ政府軍のウラジオストック入市を要求した。浦塩軍司令部は外務省に軍事条項についての交渉を止めるよう要求した。1922年4月16日、会議は決裂して終了した。