英仏は第1次大戦開戦直後から日本に地上部隊の派遣要請を依頼していた。一つは西部戦線に派遣すること、別に東部戦線の一定割合を負担することが考えられた。この要請にたいし早くから海軍は前向きに検討を開始していた。一方陸軍は消極的だった。一般的に陸軍の作戦本部は仮想敵国以外との戦いには常に消極的である。
日本の陸軍参謀本部は1940年、ヒトラーの電撃戦の成功まで決して好戦的ではない。意外かもしれないがこれは他の国の陸軍参謀本部と同じ傾向を示しただけだ。ドイツでもヒトラーの外交的強硬策に最後までクーデター未遂も含めて抵抗したのは参謀本部だった。ところが陸軍省は政治との係りが生じるから比較的積極的となる。
石原莞爾は関東軍にいた時、満州事変を引き起こした。参謀本部作戦部長の時は日華事変の拡大に反対した。そして日本の軍人・官僚は配属先で意見を変えてしまう。すなわち現地軍にいると独断専行的意見、省にいると現地軍を支持し政治運動(外交または宮中参内)に関与、参謀本部では慎重論となる。軍人は全世界で共通の傾向を示す。
総じて陸軍は政治家に指図され、聞いたこともない地名の土地に出かけるのを嫌う。本心は自国領土で敵を迎撃することしか使命がない、と考えている。そもそも着て行く制服・戦闘服もない。動員は可能だとしてまず参謀となったつもりで考えて欲しい。次ぎの設問に答える必要がある。しかも考える時間とその準備期間は限定されている。
- (欧州の)西部戦線で日本のカーキ色の制服・戦闘服(冬季装備)で良いのか。
- 糧秣・食器は現地に適しているか。医療施設は十分か。
- 勤務ローテーションは変更の必要があるか。
- 兵営設営のため現地で調達できないものは何か。
- イギリスもカーキ色だったがフランスでは迷彩の効果として冬季を除いて緑系統の方が良い、すなわち日本の南方装備に近い。変更を認めるか。
- 小銃も日本の口径は独特だ。日本の野砲は運動性が低い。果たして現行のままでよいか。騎兵は必要ないとして砲兵のための馬匹・飼料の搬入はどうするか。迫撃砲には少し自信があるが口径の違う種類を工夫しすぎた。どれを選択するか。
- 重砲はどうするか。輸送方法は。海軍から借りるのも手だが、もったいをつけられる。
- 塹壕戦となり土質はどうか。工兵隊をどの程度加えるか。軍夫を現地で雇えるか。
- ヘルメットはまだ研究中だ。ガスマスクぐらいは現地で調達したいがサイズはあうのだろうか。
- 毒ガス戦を実行すべきか。
- 塹壕戦に向けた訓練は必要か。
- 総じて兵站はどうするか。
- そもそもこれだけの装備が間に合うか。
- 同盟国軍との連絡はどうするか。
- 索敵や弾着確認のため飛行機が必要だ。機体、整備、要員訓練、基地の設営はどうか。
- そして最大の難関、指揮系統はどうするか。
- 更に難関、果たして現行の作戦で勝てるか。
陸軍と海軍とは根本的にこれらの点で異なる。海軍は全くこういった問題は生じない。
更に問題なのは忠誠のあり方である。日本軍は原則として徴兵軍でかつ全員が天皇への忠誠を前提に統一を計っている。もともと徴兵軍はナポレオンが始めたものだが、当初から誰の命令に従うかという点が重大だった。直接選挙による大統領制でかつ大統領が総司令官であれば問題ないが、議員代表制であったり君主制だと問題が残る。ワイマール共和国初期の欠陥すなわち民主制にかかわらず忠誠がどこに行くのかわからないというのはこれに起因している。それでも忠誠の対象すなわち君主なり大統領が命令すれば済む問題だから伝統が関係しているのかもしれない。
2・26事件は憲法を制限し軍部独裁を狙ったクーデターだが、反乱将校が最後まで尊皇を訴えたのはそれを原因としている。また途中で下士官以下が討伐を受けると知って決起将校に従わなくなったのもこの忠誠のためである。ともかく遠隔地で忠誠の対象が異なる軍隊が共通の敵にたいして戦うというのは難しい。動機付けが日本の場合将校にたいしてはやや金銭に傾いていた。
すなわち恩給と勲章(金鵄勲章には功級により年金がついていた。)である。日本で将校が反乱を計画するが兵卒は従順なのはこれと関係があるかもしれない。英仏とくにイギリスの勲章の多くは年金はついていない。ただ受勲すれば新聞に掲載されるし帰郷すれば駅には子供の鼓笛隊が迎えに来た。つまり名誉のウェートが高い。
更に、フランス内での兵站は厄介だ。BEFはフランス国内の鉄道管理権を一部フランスから譲り受けていた。当然また現地で行政問題も生じる。そしてBEF派遣を成功させたイギリスのウィルソン参謀本部作戦部長は毎年、フランダースで自転車を借り周辺旅行した。最後は動員X日にモーブージュの駅を下りてすぐの交差点のカフェで英仏参謀将校の打ち合せをするという所まで決めたという。それでもドーバー海峡港湾都市からBEFまでの兵站はうまくゆかず、若い頃のシンガポールの降将パーシバルが自ら鉄道のダイヤをひきそして駅員に命令し貨車を動かした。
これらはAEF(アメリカ遠征軍)派遣ですぐに生じた。AEFは派遣を決めてから前線を引き受けるまで1年2ヶ月かかった。小銃からヘルメットまで全て現地で調達した。
要するに、他国に遠征することはその国の指揮に入らない限り相当の困難が伴う。そして日本軍はそうしないとする誇りがあった。
つまり近代的徴兵軍とは簡単にできるものではなく況や大量の海外派兵となると更に困難が伴う。そして実際のところ渡洋して徴兵軍を独立行動で敵地へ遠征させた国は20世紀では日本、アメリカ、イギリス(インドシナ派兵を加えればフランス)しか存在しない。すなわち植民地獲得、維持のための植民地軍の派遣・警察活動的な多国籍軍参加と本格的な大徴兵陸軍の派遣とは根本的に異なる。
陸軍は実際のところ欧州への派遣は不可能だと考えていた。不可能の理由は、派兵するならば20個師団を編成せねばならず、それが精強な戦闘振りを発揮して勝利の直結すると他国から嫉妬をうけるというものだった。しかしこれは子供ぽい理屈で本当は派兵する意志も能力もなかったのだろう。20個師団というのはBEF(60個師団を派遣)を基準に人口で考えたらしいが、そのためには欧州に60万人滞在させ国内に30万人の予備を保有し間接部門50万人で支える必要がある。果たしてできただろうか。
また英仏はロシア軍と平行して日本軍を東部戦線で戦わせることも考えた。ところがこれは西部戦線より更に実現性がない。まずシベリア鉄道は1日往復38便の能力しかない。そしてうち12便は鉄道維持だけの目的で使われている。残りは2便を除いて軍用に使われた。すなわち海路の方がはるかに簡単であり地図上の距離は関係がない。
要するにスエズ経由マルセイユ上陸という当時の客船コースでしかない。米軍も潜水艦攻撃を避けるため、スコットランド上陸ドーバーと直接マルセイユと二つコースをとった。日本の逡巡に比べアメリカは参戦すぐに欧州派兵という決断を行った。しかもアメリカは当時徴兵制でなく志願兵を募っての派兵だった。そして戦死12万人、戦傷者22万人を出して国民が動揺しないのだから驚くべきだろう。しかも領土も賠償金も大戦中から興味を示さなかった。日本の3個師団をシベリアに派遣、4600人が戦死して政府が領土を求めて撤兵を遅らすというのは、いかに当時の大国の常識に反しているかわかる。
参戦要請ではないがロシアからは装備・武器弾薬の供給要請があった。この当時日露関係は非常に良好だった。イギリスとは開戦時の地域制限論争が気持ちのうえで最後までつきまとった。これに対しロシアの要求は日本の実情を考慮し非常に懇切ではあり丁寧(*)なものだった。朝野では日露同盟論が沸きあがったという。この気分がシベリア出兵に影響したことは確実だ。戦時中の帝政ロシアは自ら総動員によって開戦原因を作ったためか同盟国にたいして誠意でこたえた。
(*)ニコライU世は大正天皇の即位式(1915年11月京都)に花瓶と手箱を贈った。ダイアモンドをあしらった工芸品で当時500万円を越えると噂されたという。ニコライU世の工芸趣味はイースターエッグで有名であるが、この2品は他の国のものを圧倒していたという。
日本も小銃や野砲の供給でできる限りのことをした。当時全世界で武器供給能力のある国は日本のみだった。アメリカは生産能力は圧倒的だったがこの時は民生品に限られていた。1916年のロシア軍の攻勢、ナロッチ湖の戦いとブルシロフ攻勢はこの日本の援助と関係がある。