長春会議
カッペリ兵団はウラジオにのみ勢力をふるっていた。前年12月、チタ政府軍がウラジオ付近に現れたが、日本軍が出て撃退した。沿海州の軍事情勢はそのまま安定した。3月、チタ政府は沿海州行政権の人民委員会への委譲を発表した。
ジェノア会議が欧州で開催され、ソ連代表が招請された。英仏はソ連がドイツへの賠償請求権をもつこと引き換えに親英仏にたつことを期待したが、独ソは突然4月、ラッパロ条約の締結を宣言した。内田外相はチタ政府が、モスクワからのジェノア会議の結果待ちという支持に従った結果、大連会議が決裂したと非難した。
この間、ダリタ通信員アントノフは松平恒雄欧米局長を訪ね、しきりに日ソとチタ政府の会談を提案した。松平は駆引きのない男で、尼港問題を協定締結=撤兵以降に商議してもよいという事実上の棚上げを認めた。アントノフはシベリア開発などをほのめかした。これ以降現代に至るまで、外務官僚は「承認問題」「国交回復」に関連して、必ず経済問題を持ち出す。これは醜い態度である。外務官僚こそ、国交回復で自己の点数を稼ぎたいのである。「魚」や「材木」など商売で外交を論じる商人がいたとすれば、外交官から「外政への商売関与」を防がねばならないのではあるまいか。
極東共和国にとって、大連会議は唯一主要国との窓口であり、自ら閉ざす理由はなかった。ラッパロ条約でドイツと結んだことはレーニンの成果だったが、それはドイツ共産革命の断念と英仏との敵対という負債も生じた。日本は、独ソ対英仏の対立、アメリカの孤立主義という局面にたっていた。ソ連と結べない以上、英仏またはアメリカのどちらかを選ぶしかなかったのであるが、この決断は外務官僚には荷が重すぎた。それより以前にこういった変化を分析できる能力が欠けていた。
会議の開催は8月末、長春と決められた。日本側は松平恒雄と松島肇を全権に任命した。9月4日、会議が開催され冒頭からヨッフェが、「秘密外交」を排すると、意味のないことをいい始めた。さらにソ連政府を排するのはワシントン会議における陰謀の結果であると論難した。会議はまったく進捗せず、3日で休会となった。
日本側は尼港事件の決着がなければ、北樺太から撤退しないと強硬方針に転じ、会議は9月25日決裂した。
撤兵
シベリアに軍がいる事が忘れられて来た。1922年6月高橋是清内閣が倒れ加藤友三郎内閣が成立した。陸相は山梨半造のままかわらなかった。政府は発足12日後シベリアから撤兵すると声明を出した。これは山梨のイニシアチブで進められたが、とくに反響を呼ばなかった。もう誰もが興味を持たなくなっていた。
陸軍は長春会議を構うことなく、8月15日、撤兵を宣言した。8月26日から全シベリアからの撤兵を開始各段の問題もなく10月25日完了した。
シベリアでは沿黒龍政府の崩壊が同時に進行した。この時、樺太を除いて日本軍は2個師団ウズーリに駐留させていたが、最後の兵を載せて2隻の軍艦がウラジオストックを出港したときと、極東共和国軍の市内への乱入は同時だった。日本軍はその前、旧カッペリ兵団の残存部隊が北方で破れるのを見ると最早助力せず武装解除して敗北を認めさせる側にまわっていた。それは同時に出兵が失敗に終わったことを自らも認めることだった。白軍の最後の戦いは日本軍の撤退の日、10月25日だった。
白軍が掲げた帝政ロシア旗がウラジオストックに戻るのはそれから70年後である。共産主義と最後まで戦った兵士に日本軍はあらゆる他の大国の軍と異なり優しかった。日本軍は白軍将兵救出のため商船2隻を用意し、更には東支鉄道脱出口を開放させた。この時ボルシェビキは国外移民に1925年以降ほど厳しくなく、このウラジオ口はそれまで有効な脱出口として機能し続けた。
11月19日ソ連は極東共和国を合併した。
日ソ国交回復
1925年1月25日芳沢・カラハン協定により日ソ国交が回復した。これはアメリカより8年早かった。この時まで北樺太に日本軍は1個師団残留していた。完全撤兵はこの時だ。
この戦いは第1次大戦の後遺症だが、初めは重なっていた。この時の日本の指導者は大アジア主義の影響を受けていなかった。日本と中国が共同して欧米諸国と戦うというのは、論理の世界からは無理があり、以降もまともな政治家が信念として保有したわけではない。西園寺(*)、松方は親仏、原、幣原は親米、加藤(高)は親英といずれも連合国を支持しておりまた親といっても気分上のことで政策で対立するものではなかった。
もちろん大戦中に陸上兵力を派遣すべきだとの声は強かった。しかし誰もが短期戦と思い躊躇しているうちに西部戦線の悲惨な塹壕戦が伝えられ、今度は損害を考慮して派兵は見送られた。だが終盤となり小規模な派遣と見通されるシベリア出兵であれば、領土・威信・義理すべてをカバーするように思われた。そして日米共同出兵の形がとれ8ヶ国の多国籍軍の指揮権も得られた。
しかし中心となるべき陸軍は多国籍の軍人をリードするだけの抱負、識見、能力に欠けていた。とくに東部戦線の構築と白色政権樹立に生死をかけて戦っている英仏に迫力でかなうことはできなかった。一方アメリカは対英仏に、日本の大兵力展開を自分の外交的力、すなわち日本への影響力を行使することにより見せつけるという外交カードとして利用した。これはウィルソンのパリ講和会議でのリーダーシップの発揮に有益と考えられた。そしてウィルソンはボルシェビキをも善意により取り込めると考えた。
しかしこのような外交的駆け引きは戦後世界で列強の一員としてあれば十分だと考える日本とは距離があった。すなわち余りにも急速に事態が進展したためしばしば自分で方針や目的を決定せねばならない立場に追い込まれた。これは日本の追求する戦争のやり方ではなかった。本来他の連合国に依頼されて動くはずだった。
第1次大戦以降ヨーロッパは没落した。そして世界の中心はアメリカに移った。日本はこの潮流にいち早く気付いた国かもしれない。第1次大戦終了後しばらくしてイギリスは世界政策のなかではアメリカに決して抵抗しない道を選びその一環として日英同盟を廃棄した。日本は不愉快ながらも幣原外交のもと親英米路線を守った。しかしシベリアから早期に撤兵しないことは日本が近隣での領土拡大を狙っているとアメリカに思わせた。
それでもアメリカは伝統的外交カード日本を棄てることはできず、不承認政策で臨んだ。この不承認政策はアメリカが武力行使を行った国にたいする最も弱い措置だった。だが陸軍が大アジア主義を標榜し本当に武力行使を始めたとき、イギリスのとった策、アメリカ追随を容れることはできず、結局広田弘毅らは論理矛盾を内包する独自外交を追及することになった。
エピローグ
1924年2月張作霖の奉天軍は突然満州里で鉄道を遮断した。張作霖は東支鉄道の通行許可料を要求した。だがボルシェビキは欧亜の旅客を黒龍(アムール)鉄道に誘致、お客もやむなくそれに従った。浦塩〜舞鶴航路は栄えたが、大連はさびれた。5月東支鉄道暫行管理協定、9月奉露協定が成立し、張作霖とボルシェビキは鉄道利権を折半した。この中でボルシェビキは従来保有していた東支鉄道沿線の駐兵権を放棄した。
ただし張作霖やボルシェビキに鉄道管理能力はなく、従来管理していた白系ロシア人の鉄道技師が引き続き運営を行った。ただこれらの人々の中にボルシェビキは浸透しており、いわば通行許可料のようなものを折半して取り合ったと言うべきだろう。南満州鉄道に利権をもつ日本がなぜこの事件に介入しなかったのかが不思議だが、幣原無原則省益外交では全てが無理だった。このような外交のため現地の軍人および居留民が不満を内向させ始めた。張作霖の武力行使は批判されねばならず、共産主義を標榜し帝国主義を批判する国が鉄道通行料を搾取することに注意を喚起すべきだった。
ところが当時の国内世論はむしろ芳沢=カラハン協定の成立による日ソ国交回復を無邪気に喜んでいた。そして外務省により八方美人外交を賛美する世論誘導が行われた。外務省は国内世論ではなく国際世論の中で満州が元来漢民族の土地ではなく中国は外国人に内国人待遇を与えないことが問題であることを主張すべきだった。つまり中国は条約上の責務を果たしていないこと、無限定な領土拡大意欲のあることを指摘せねばならなかった。これはシベリア東部三州を領土化することより、日本の国益にとりはるかに重大なことだ。
また当時シベリア鉄道・満州鉄道は欧亜をまたがる最短時間(しかしあまり楽しくない)の交通線であり、旅客を中心として非常に利益のあがる路線だった。おそらく歴史上この戦間期の短い一瞬しかなかった出来事だろう。
1925年、ソ連は事実上外蒙古を保護国とした。モンゴルはむしろそれを中国人の圧迫から逃れる方法として歓迎した。おそらく唯一希望してロシア(ソ連)の保護下にはいった民族だったのだろう。
1928年6月4日、関東軍の河本大作は張作霖を爆殺した。閔妃暗殺事件以来の日本の官憲によってひき起こされたテロ事件だった。
1929年、張学良も父の顰に習って、東支鉄道をめぐりソ連と紛争をひき起こした。きっかけは10月、ソ連ハルビン領事館に武装部隊に押し入らせ家宅捜索したことだった。捜索理由は東支鉄道の赤化工作だった。この事件は張学良が列強がこの理由であれば支持が得られるだろうとのことで企てたものだった。だが外国領事館施設を官憲によって実力で捜索することなど許されるはずがない。この解決にソ連がただちに武力による侵攻を実施したことは止むを得ないだろう。ソ連軍は奉天軍など問題にせず、満州里から進撃しハイラルを占領した。
なぜかアメリカが中ソ両国に警告を発した。11月、不戦条約にもとづき厳重な注意を促がすという内容だった。自国が原因をなしてない場合、アメリカは従来もその後もこのような偽善的な喧嘩両成敗的仲裁に乗り出し大概は失敗する。この事件は張学良が弁明できずに悪いのだ。散発的な銃撃戦が約半年続いた。翌年4月、単純な駐兵に嫌気がさしたかソ連軍は来た道を辿り撤退した。張学良軍は部隊として活動できる状態ではなく条約義務の履行を約束した。幣原は回想録によれば、「紛争の渦中に巻き込まれる惧れがあるから…秘密裏に…両国と緊密な接触を保つことにつとめた」とのことである。日本外交の愚かしさがこの幣原の表現のなかにある。武力行使となにもしない事の間に外交はあるのだ。
1932年12月ソ連は辛亥革命への干渉を停止し、蒋介石不在の南京政府を承認した。それまで大量の軍事顧問の派遣、中国共産党への支援、武器援助によって直接内乱に関与していたが北伐の完了と国民党への浸透戦術の中止により国交を回復したものだ。これは従来の北洋軍閥との対立に終止符をうつものだった。1933年アメリカはソ連を承認し翌年国際連盟に加入した。
1934年2月、ソ連は東支鉄道を日本に売却した。これをめぐって永田鉄山と小畑敏四郎との間で大論争が生じた。日本が資金面でソ連シベリア政策の後押しをするのはこれが最後ではない。つまり、現在も続いている。この代金は国庫から満州鉄道への出資の形をとったが日本の納税者の負担であることは疑いない。もちろんそれに続く、満州開拓も大部分はそのようになった。これは終戦とともに全てソ連により再度接収された。みずからが当事者であるポツダム宣言に反している。
1934年頃からソ連は外蒙古からウズーリ川に到るまで、トーチカと塹壕を組み合わせた国境防衛線の構築を開始した。その内側にいた中国人の運命は現在に至るも判然としていない。大部分が虐殺されたと考えられ、おそらく百万人を越える。そして外蒙古でも仏教指導者にたいする迫害がソ連の指導下開始された。
関東軍がセミョーノフを最後まで世話した。家族は鎌倉に居を構えていたが本人はあくまで大連に止まり再起の道を探った。旧部下の面倒もすべて手配したという。この点でトランスバイカルコサックは幸運だったのかもしれない。現在でも多くの生き残りの人々の子孫が日本やアメリカに住んでいる。
林三郎 『関東軍と極東ソ連軍』 芙蓉書房 1974