首山堡の戦闘
鞍山站停車場
第2軍は得利寺で大勝したのち、大石橋でもロシア軍を追った。そのあと海城で降雨のため停滞し、8月23日出発し蘇馬台・湯崗子・候家屯手前に開進した。8月28日、東支鉄道の鞍山站を占領した。ここはロシア軍の遼陽にいたる最初の抵抗線と予想された場所で、敵がいないことに拍子抜けした。
ロシア軍は鞍山站に第1線、遼陽と鞍山站の間の首山と北大山を結ぶ高地に第2線、遼陽市街地に第3線の防禦陣地をつくっていた。工事は4月8日から始められ、6月中旬に竣工した。その後、榴散弾に対する防禦のため掩蓋工事を追加した。東シベリア工兵第2大隊が中心となり、中国人を臨時雇用した。
日本軍は設堡陣地と呼んだが、多数の堡塁に特色があった。堡塁は10フート半(7・45メートル)の高さの胸壁をもち、銃眼を穿っていた。前面には稲妻型の塹壕をもち、堡塁と堡塁の間には角面堡があった。角面堡は三角形で3フートの高さの胸壁で囲まれていた。
その前面には鉄条網と電気式着火装置をもつ地雷原があった。クロパトキンは、8月26日、鞍山站からの撤退を命令した。東部の弓張嶺で敗北し、退路に不安を感じまた湯河が増水したためという。この決心が日本満州軍司令部に大混乱をもたらした。
日本軍は鞍山站に大量の軍需物資と砲8門が遺棄されていることにまず驚いた。この報告を受けた満州軍司令部の松川・井口は、クロパトキンが遼陽からの自発撤退を開始したとみなし、即座の両翼包囲によるロシア軍殲滅を策案した。
ところが、秋山騎兵隊からの伝令はまったく別の情報を伝えていた。すなわち首山・北大山には堡塁が連なり、有力な部隊が守備していると伝えてきた。ところが満州軍司令部は敵は弱体なので攻撃すればすぐ撤退するといい張った。
松川・井口は(『機密日露戦史』)、
「遼陽の敵は多分退却するならん。もとより遼陽周囲攻撃陣地にありて小抵抗を試むべきはその後方関係上当然なるべきも、これを明知するために首山堡の占領速やかなるを要す。第2軍参謀長が首山堡の防禦工事堅固なる理由をもって慎重なるは最も不可なり」といって大山巌名で攻撃命令を下した。
松川・井口は落合豊三郎第2軍参謀長と不仲であった。また、藤井第1軍参謀長とも同様であり、松川の子分であった松石参謀副長を藤井と争わせることを謀った。この戦いのあと二人は落合を更迭し、松石に代えることを画策したが失敗した。
満州軍と第2軍との関係は切断されたに近かった。
8月30日の攻撃
軍は、8月30日未明を期して前進を開始した。西から第4、第6、第3師団が並んだが首山=北大山への前進部隊は第3師団のみとされた。
第2軍は攻撃に慎重であった。児玉源太郎は理論上は最左翼である第4師団の急行を期待し、
「第4軍は苦戦して敵の回復攻撃を撃退中なり。第2軍は、一意首山堡に向かい敏速に攻撃すべし」と命令した。第4師団長はまったく命令を無視した。元々、児玉と小川は不仲であるうえ、児玉は政治家であるのに反し、小川は純粋軍人で気質が合わなかったのである。
第2軍のほとんどの部隊は高粱畑を進んでいった。ロシア兵は高地の遮蔽堡塁にこもり、日本兵をみると瞰射してきた。収穫前の高粱は高さ3〜5メートルに及び、伐採せねば前に進めない。高粱を倒した線にめがけ、ロシア兵は縦射した。
正午までに第3師団全部隊は前進を停止し、現在地で塹壕を掘ることに決した。それまでに相当数の犠牲者が出た。白昼、敵前の正面攻撃であるから避けられなかった。
クロパトキンは大石橋から先着したシベリア第1軍団(長シタケリベルグ)を首山=北大山に部署し、鞍山站から後退したシベリア第2軍団は遼陽市内に入れ、予備隊として機能させた。シベリア第1軍団は得利寺における大敗北から補充を受けて立ち直りつつあった。シベリア第2軍団は大石橋で損害を受けて回復できなかった。両方とも敗残の軍隊であることに変わりはない。
シタケリベルグは首山山頂で、英米からの二人の観戦武官を従え指揮した。午後、日本軍はまったく前進できなかった。夕刻、報告を受けたクロパトキンは久しぶりの勝報に喜び、全軍に旅順第1回攻撃の撃退と併せ、勝利への階梯に向かいつつあると布告した。
橘周太
この日の首山への攻撃は第3師団34連隊第1大隊から午前5時開始された。以下はその大隊に属した内田清一軍曹の後日談である。
首山への突撃を開始したのは31日の午前5時で、橘(周太)大隊長は第1大隊を率いて山に向かいました。山は2段の配備をなしていて、麓及び頂上に立派な掩堡が築かれていました。橘大隊は鉄条網、狼穽(落とし穴のことで、底に串があったという)などの間を辛うじて入ってようやく取り付いたそうですが、それが6時ごろでようやく夜が明け放たれたというばかり、霧が薄くあたりを立ち込めていました。橘少佐は勇戦奮闘、難なく第1の掩堡をとったということです。
続いて敵が頑強に抵抗するのを追っ払って、いよいよ山頂に上った。そのときある必要から日章旗を立てたり、万歳を唱えたりしたそうですが、山頂があいにく狭かった上に敵の予備隊がすぐその下に沢山集まっておったものですから、暫くするとそれが盛んに盛り返してきた。
橘少佐は剣術の達人で有名な人でありますから、攻め上るときにも随分先に進んで敵の一人二人を手づから斬ったそうですが、いざ敵が盛り返し来るというのをみて、ござんなれ、目に物見せてくれんという勢いで、その軍刀を振り翳して、頻りと敵と格闘しました。
けれど、四面からその1点に向けて打ちかかる敵の砲がいかにも激しい。橘少佐は最初に、刀の鍔から手に抜ける小銃弾を受け、間もなく、下腸に1丸を被ったが更にこれに屈せずして、いかにしてもこの山の占領を確実にしたいと、頻りに自ら指揮をなされていたそうです。
けれど、敵の逆襲がいかにも激しいので味方は段々追い返される、果ては山頂が保ちきれぬという有様になった。この時、橘少佐は臀部に弾丸を受けられたそうで、この傷痍が重く、そこに倒られてしまった。
それからのちは私が介抱して、とにかく角掩壕の中へと引き入れて、力を尽くしたが、何分にも敵の逆襲が激しいので、味方はドシドシ退却してしまう。少佐は少佐で「どうしても引くな、死ぬならこの山頂で死ぬ」というので。この取り扱いに一方ならず苦労した。
けれどもどうしてもここに居られぬので、「これは山を棄てて退くのではない、貴下は重傷を負われているので」と色々なだめすかして、抱いて山を下りる途中、また一つ弾丸がきて、少佐の胸を貫いたので、二人ともそこに倒れ、少時、何も知りませんでした。
そのうちに気づくと、味方はすでに大方退却してしまって。傍らには味方の死骸が累々と山を築くばかりになっているし、敵の砲は大分激しいので。余儀なくはうようにして、少し低い窪地に入り、そこで小時介抱しました。
少佐はこの間にも絶えず「占領したところを棄てるな、皇太子殿下の誕生日にこう多くの兵を殺して申し訳ない」といいづめいっておられました。午後4時くらいになり目はうるんで動かなくなって、自分でももうとてもいけぬと覚悟したらしく、6時ごろになってついに瞑目されてしまいました。
それから日暮れを待って、傷者の比較的軽症なるものを集め、急造の担架を作って、それに乗せて陣営地に帰りました」
橘周太は死後、中佐に昇進、海の広瀬中佐と並ぶ陸の軍神となった。現在、長崎県に橘神社が建立され、境内に銅像が立っている。この日、首山にとりついたのは34連隊第1大隊だけで、一部が首山にとりついていたまま撃退され終了した。
この日、首山で戦ったロシア軍は東狙第1師団の1、3、4、36連隊に属する11個大隊で予備隊は1個中隊を除いて全部払底したという。
市川紀元二
市川紀元二銅像(静岡護国神社銅像)増井喜彦氏2010年撮影。
首山堡の戦闘ではもう一人の戦争英雄、市川紀元二を生んだ。首山に向かった34連隊(静岡)の他に6連隊(名古屋)は北大山(背後に新立屯という名の村落があり、戦闘はその名で呼ばれることもある)に向かっていった。このとき6連隊第1大隊第2中隊の中隊長であった松井石根(東京裁判によりA級「戦犯」として刑死)が市川について語っている。
8月31日、第3師団は新立屯附近、即ち首山堡の夜襲を行った(正確には払暁攻撃。戦場は北大山)。このとき、6連隊の大部分も当時有名になった橘大隊長の属していた34連隊とともに夜襲した。ところがいろいろな事情のため夜襲は一斉に行われなかった。
敵の障害のため妨げられた(第2大隊と第3大隊は鉄条網を突破できなかった)ということもあるが、とにかく夜襲は一番左にいた橘大隊と私の中隊だけが実行して、その他は中途で夜襲を止めてしまったのだ。そこで橘大隊は孤立の状態に陥って、大隊長がああいう奮闘をして壮烈な戦死を遂げたのだ。
初め中隊は夜暗を利用して前進し、急坂を攀じって敵の鉄条網の線に達し、鉄条網を壊して侵入していったら地雷火があった。その地雷火がパッときた。幸い不完全なものであったから、さして損害はなかったが、僕等は火の粉をかぶった。
そこで攻撃前進が一頓挫したのだ。それと同時に敵の射撃で負傷者が続出し、味方が崩れかかったが、それを叱咤激励してまずそこに止まった。その間に僕は負傷した。この股の貫通銃創だ。その他の者も地雷や小銃弾で負傷して惨憺たる情況であった。
前へも進めず、後にも引けなかった。ちょうど崖の中腹に地雷の爆破した穴があったので、その穴の中に踏み止まった。そうしているうちに夜が明けた。みるというと、右に18連隊、左に33連隊、その次に34連隊がいるはずなのに、18連隊も33連隊もいないで、ずうっと向こうの崖の中腹に34連隊の一部が齧りついているのがわかった。
橘大隊は緩斜面のところでしばしば逆襲を受けてやられたのだが僕のところは急斜面で彼我の距離は僅か50メートルしかなく、敵の話が聞こえるくらいだったから、敵が我らを突き落とそうとすれば容易であるのだが、地形が余りにも急傾斜であったのと、友軍の18連隊か何かが右から援護射撃を盛んにしてくれたため、我々は持ちこたえられたのだ。
このとき中隊付き将校の全部は傷つき、健全だったのは市川少尉一人だった。市川少尉は夜襲にでかけるとき、水筒をもっていなかったので、もっていったら良いのではといったところ、
「いや僅かの間ですから水筒は要りますまい」
といった。その言葉に非常に感動したのだが、その時には死を決していたことは明らかであった。成る程小さい体(市川の身長は1メートル50センチ)の人だから七つ道具を持っていくのは不便であったろうし、一切のものを取り去ろうと思ったのであろう。
しかし水筒をもっていかないという決心は、まあどうせ夜の明けるまで生きていぬと覚悟していたという心持がわかる。この心持がついに全軍において抜群の功績をたてた原因になったと自分は思っている。
9月1日の朝になって、師団は、崖の中腹に僕の中隊と橘大隊の一部がヘバりついているのがみえるので、もう一遍、昼間の総攻撃をやることになった。総攻撃は午前11時ごろ開始され、漸次我々の方に近づいてきた。それでもう殆ど我々のいる所に到着せんとしていたものだから前夜から我々がせっかく頑張っていたのに今となって後からきた隊と一緒にいくのは残念である。
僕も立ってみようと思ったが立てない。それで「市川いかんか」といったら「いきましょう」という。それでどうっと突撃して出た。この時市川少尉についていった者は十四五人だと思うが、市川の獅子奮迅の雄姿に励まされて、一同どうっと斜坂を駆け登った。この時敵が射ち出した砲弾、小銃弾はあたり四方に落下飛散して随分すさまじかったが、さらに市川少尉は山頂に達して敵の陣地へ飛び込んだ。
この時は昼間で衆人環視の中だった。ただし敵陣では格闘もあったが大部分は逃げていたのだ。そうしているうちに18連隊も33連隊も突貫してきたのでここに完全に陣地がとれた。つまり市川少尉は首山堡占領の魁をした訳だ。
市川紀元二は静岡県豊田郡中泉村出身で、1年志願(大学入学などの理由で徴兵猶予となった場合、その間、志願して1年間入隊し、予備役将校に選抜される制度があった)であった。東京帝国大学電気工学科卒業で京浜電鉄に勤めていた。実弟の青山士は、パナマ運河ガツン閘門の設計に参加、帰国後荒川放水路の設計主任となった人物である。
この戦闘の後、市川は中尉に進級、全軍に布告された。生存者にして即日進級の栄誉を受けたのは第二次大戦終了まで市川以外一人もいない。奉天会戦の直前、松井石根は転属し、市川が後を継いで中隊長になった。しかし、中隊は奉天会戦最大の激戦干洪屯の戦闘に参加、市川はそこで戦死した。
日露戦争後銅像建立の話が二つ持ち上がった。一つは学士会からで、山川健次郎総長が学内の反対を押し切り、東京帝国大学工学部前に建てられた。太平洋戦争直後、構内に隠匿されたが、昭和32年、静岡護国神社に移築され現存する。別の一つは静岡在郷軍人会からで、掛川駅に建てられたが、第二次大戦中供出されたとされる。
作戦評論
首山堡戦は、満州軍司令部の情勢把握の失敗、作戦計画の誤り、ロシア軍部隊運用の無知・無理解から日本軍将兵に大量の犠牲を負わすことになった。総じて決心の問題ではなく策案の失敗であり、参謀の無能というべきであろう。松川・井口の失敗であるが、旧弊な軍事学に固執した総参謀長児玉源太郎が責任を負うべきものである。
情勢把握の誤りとは、堅固な陣地に立て籠もっているといった報告を受けながら、鎧袖一触で突破できるみたことである。伝騎が着くのに1日かかるような後方に総司令部を置いたことも要因であろう。
作戦計画の誤りとは「両翼包囲」計画である。これによって第2軍は堅固な陣地への正面攻撃を命令されてしまった。
総司令部のロシア軍部隊運用の無知とはそのままドイツ軍事学の無知でもある。クロパトキンは、補充を得たシベリア第1軍団を前面に置き、敗残のシベリア第2軍団を遼陽市街地で予備隊とした。第1軍団のうち突破されたり、消耗した部署があれば、そこに予備隊(=第2軍団の一部)を派遣して埋める部隊運用の仕方であった。
日本陸軍はこの方法を「建制崩し」といって嫌った。第2軍団の部隊が臨時であっても第1軍団の指揮下に入る事に耐えられなかったのである。
ドイツの制度を真似た郷土連隊主義からくるセクショナリズムが一つであるが、ロシア軍のような「車懸り」的運用をやると(戦略的)攻勢移転が難しくなることが一つであろう。攻勢移転をやるためには、指揮系統を崩してはならない。
松川・井口はこの戦いの間、頻りに首山堡方面からのロシア軍の突出(=攻勢移転)を懸念した。もし、ロシア軍の部隊運用を知れば、これがないことは知れるはずであった。本来、首山前面には少数の兵を置き、全体を東に移し、太子河を多点で渡河すべきであった。司馬遼太郎は
「落合の見込みははずれた」「奥軍は軽戦で敵をしりぞけつつすすんだが、首山堡にいたって状況が一変し、攻守ところを変えるほど手ひどい打撃をうけるのだが、落合は最初それでも戦況の理解に柔軟性を欠いた」(『坂の上の雲』(四)
と書くが見当違いであろう。橘周太の34連隊第1大隊には増援部隊がおくられなかった。松井中隊には両側につくべき部隊がいなかった。さらに翌朝の総攻撃は午前11時という遅延ぶりであった。第2軍は訓令違反をやったのである。また攻守などところを変えていない。
落合のこの戦いへの消極性ははっきりしていた。第2軍は、東支鉄道に沿って進軍したため、南山・得利寺・大石橋ともっとも苦難の戦いを強いられ、「軽戦」とは何の謂いであろうか?落合には柔軟性がありすぎたのである。
落合豊三郎はこの戦いのあと革職された。『孫子例解』を書くほどの博学家であったが、訓令違反をやればどうのような仕打ちを受けるか理解できなかったのかもしれない。もちろん落合の臨機の判断によって、多数の将兵が救われたことは事実である。
また失敗した作戦には、軍神を登場させるという手法が定着した一戦でもあった。