戸水寛人(*)・富井政章・金井延・寺尾亨・高橋作衛・小野塚喜平次・中村進午の東京帝国大学教授、学習院教授は桂太郎首相に意見書を提出した。(*)戸水は金沢出身の士族。明治19年に帝国大学法科大学英法科を卒業、22年に英独仏に留学して、ローマ法を研究した。帰国後、「ローマ法の専門家」と持ち上げられ27年帝国大学教授。32年7月、文部省から帝国大学推薦で博士号を授与された。当時は「洋行帰り」に無差別に博士号を乱発していた時期だった。ポーツマス条約のあと38年8月、東京帝国大学総長山川健次郎は、ポーツマス条約反対などの政治活動を理由に、戸水を休職処分に付した。しかし、処分に対する手続き上の責任のため山川の方がかえって辞職した。翌39年1月、戸水は復職、戸水側(=反政府側)の勝利となった。これを戸水事件といい政府による国立学校人事干渉事件の第一号とされる。41年、衆議院選挙に立候補、当選している(そのあと5回連続当選)。
およそ天下のこと、一成一敗間髪を入れずよく機に乗ずれば、禍【わざわい】を転じて福となし、機を逸すれば幸い転じて禍となす。
外交のこととくに然りとなす。しかるに顧みて七八年来、極東における事実を察すれば往々にしてこの機を逸せるものあり。
遼東還付のさい、その不割譲の条件を留保せざりし@は、これ実に最必要の機を逸せるものにして、今日の満州問題を惹起する原因といわざるべからず。
のちドイツが膠州湾を租借するや、薄弱なる海軍力Aをもって長日月を費やし、もって我が極東に臨む彼の艦隊や顧みて後継の軍力ありしにあらず。進んで依拠すべき地盤ありしにあらず。
渺々として万里に懸軍するの有様なりしをもってこの機に乗じ、掲ぐるに正義をもってし、臨むに実力をもってせば、たとえ彼裕大な欲望を有するも、何をもってかこの正義とこの強力に抵抗することを得んや。
当時もしドイツをして膠州湾に手を下すあたわずんば、露国もまた容易に旅順大連の租借を要求することあたわざりしや明らかなり。
然るに我邦逡巡なす所なく、遂に彼らをしてその欲望を逞しうするを得せしめたるは、実に浩嘆の至りにたえず。
機を逸するの結果また大ならずや。
北清事件のあと諸国の兵を撤せんとするにさいし、詳細に満州の撤兵に関する規定を立てなばB、もって今日露国をして撤兵に躊躇するの余地を存せしめざるべからざるや。
これまた外交の機を逸したるものといわざるべからず。
今や第2回撤兵の期既に過ぎ而して露国はなおその実をあげず。
このときに当り空しく歳月を経過して、条約の不履行を不問にふし、若しくは姑息の政策により一時を彌縫せんとするがごとき終わらば、実に千載の機会を逸し、国家の生存を危うくするものとなすべからず。
噫、我邦既に一度遼東の還付に好機を逸し、再びこれを北清事件に逸す。
豈にさらにこの覆轍を踏んで失策を重ぬべけんや。既往は追うべからず。ただこれを東隅に失うも、これを桑楡に収むるの策を講ぜざるべからず。
特に注意を要すべきは、極東の形勢漸く危急迫り、既往の如く幾回も機会を逸するの余裕を存せず。
今日の機会を失えば、遂に日清韓をして再び頭を上ぐるの機なからしむるに至るべきこと是なり。
今日は実に是千載一遇の好機にして、しかも最後の好機たるを自覚せざるべからず。
この機を失いもって万世の患を遺すことあらば、現時の国民は何をもってかその祖宗に答え、また何をもってか後世子孫に対することを得ん。
今や露国は次第にその勢力を満州に扶植し、鉄道の貫通と城壁砲台の建設等により、漸くその基礎を堅くし、殊に海上においては盛んに艦隊の勢力を集注し、海に陸に強勢を陪蕩しもって我邦を威圧せんとすること最近の報告の証明するところなり。
ゆえに一日を遷延すれば、一日の危急を加う。
しかれども独り喜ぶ、刻下我が軍力は彼と比較してなお些少の勝算Cあることを。
しかれども、この好望を継続し得べきは僅々一歳内外を出ざるべし(もしそれその軍機の詳細は多年の研究の結果これを熟知するも事機密に属するをもってここにこれを略す)。
この時に当りて等閑機を失わば、実にこれ千秋の患を遺すものと問わざるべからず。
今や露国は実に我と拮抗し得べき成算あるに非ず。
しかるにそのなす所をみれば、あるいは条約を無視し、あるいは馬賊を扇動し、あるいは仮装をもってその兵を朝鮮にいれ、あるいは租借地を半島の要地に得んと欲するが如き傍らに與国なきが如し。
今日すでに然り。他日彼れその強力を極東に集め、自ら成算あるを知らば、そのなす所知るべきのみ。
彼れ地歩を満州に占むれば、次に朝鮮に臨むこと火をみるが如く朝鮮すでにその勢力に服すれば、次に臨まんとする所問わずして明らかなり。
ゆえに曰く。今日満州問題を解決せざれば朝鮮空しかるべく、朝鮮空しければ日本の防禦は得て望むべからず。我邦上下人士が今日において自らその地位を自覚し、姑息の策を捨てて根底的に満州問題を解決せざるべからざる所以まさにここに存す。
今や我邦なお成算あり。これ実に天の時を得たるものなり。しこうして、彼れなおいまだ確固たる根拠を極東に完成せず。
地の利全く我にあり。しこうして、四千有余万の同胞は皆密に露国の行為を憎む。これ豈人の和を得たるものに非ずや。
しかるに、この際決する所なくんば、これ天の時を失い地の利を棄て人の和に背くものにして、地下祖宗の遺稟を危うくし、万世子孫の幸福を喪うものといわざるを得ず。
あるいは曰く。外交の事は慎重を要す。英米の態度これを研究せざるべからず。独仏の意向これを探知せざるべからずと。
まことにその如し。しかれども諸国の態度は大体においてすでに明らかなり。独仏の我に左袒せざるは明亮にして、また露国のためにその戦列に加わわざるもまた瞭然たり。
なんとなれば日英同盟の結果として、露国とともに日本を敵とすることは同時に英国を敵とする決心を要するものにして、彼らは満州のためにこの決心をなさざるべければなり。
米国の如きはその目的満州の開放にあり。満州にして開放せらるればその地主権者の清国たると露国たるとを問わず単に通商上の利益を失わざるをもって足れりとす。ゆえに極東の安全清国の保全を目的とせる外交においてこの国を最後の侶伴となさんと欲するは自らの行動の自由を束縛するものに外ならず。ゆえに米国の決心を待ちて強硬の態度をとらんと欲するは適切の手段に非ず。
もしそれ英国に至りては、ただつぶさに日英条約によってその意志を確かむべきのみ。
該条約の解釈上、D日本もし一国を敵とするとき英国は厳正中立を守るの義務あり。これ今更交渉を要せざることなり。
かつ4月8日より今日まですでに二ヶ月余を経過す。この期間は英国の意志を確かむるにおいてすでに十分なりといわざるべからず。
英国に対する交渉の時期は、すでに五六週間の過去に属す。
もしさらに事を交渉に託して遷延日を広うし、もってこの千載の好機を逸するが如きことあらば、天下の恨事何かこれに過ぎん。
論者あるいは曰く。朝鮮は如何なる理由によりても他国の勢力に帰せしむるべからず。この説また大いに可なり。しかれども朝鮮を守らんと欲せば満州を露国の手に帰せしむべからず。
殊に注意を要するは外交争議の中心を満州に置くと、これを朝鮮に置くとは、その間に大径庭あることこれなり。
けだし露国は問題を朝鮮によりて起さんと欲するが如し。何となれば争議の中心を朝鮮に置くときは、満州を当然露国の勢力内に帰したるものと解釈し得るの便宜あればなり。
ゆえに極東現時の問題は、必ずE満州の保全についてこれを決せざるべからず。
もし朝鮮を争議の中心とし、その争議に一歩を譲らば、これ一挙して朝鮮と満州とを併せ失うこととなるべし。
要するに満州問題は朝鮮の利益と干連して論ずるの必要なく、満州問題は満州問題として解決するを要す。
満州において些少かつ有名無実の空利を得るがために、朝鮮における我邦の権利を制限拘束し多大の譲歩をなすが如きは実に現状より一歩を譲りて不利の地に退くものに外ならず。
顧みて法理上よりこれを論究すれば、露国の撤退はその義務たること言をまたず。しこうして、その撤兵とは単に満州の甲地より乙地に兵を移すの謂いに非ず。鉄道の守備隊そのものを撤退するの意なり。
満州還付協約第二条に曰く
清国政府は満州における統治および行政権を回復するにあたり千八百九十六年八月二十七日露清銀行と締結せる契約の期限ならびにその他条款の堅守を確認しまた該契約第五条にしたがい鉄道およびその職員を極力保護するの義務を負担しまた等しく満州在住の一般露国臣民およびその創設に係る事業の安固を擁護するの責務を承諾す
この条文中に引用せられたる露清銀行との契約第五条をみるに
鉄道および鉄道に使用する人員は清国政府より法を設けてこれを保護し云々
とありしからば、満州鉄道の保護は清国の法に随いてこれを保護せざるべからず。
しこうしてF清国の法は未だかつて露国兵の鉄道を保護することを認めず。
ゆえに露国が自ら兵をもって鉄道を保護する、これ条約に基づきたるものに非ず。また法律に拠りたるものにも非ず。
されば満州の撤兵とは満州各所の兵も鉄道守備兵もいっさいこれを撤去するの意にして、露国は万国環視の裏にこの誓約をなせしものなり
これをもってこの不履行により危急存亡の大関係を有する邦国は、最後の決心をもってこれを要求するの権利あり。
ゆえに我邦は鋭意この撤兵を要求せざるべからず。
たとへ露国政治家たるものの甘言をもって我を誘うことあるも、満韓交換またはこれに類似の姑息退譲策に出でず。根底的に満州還付の問題を解決し最後の決心をもって大計画を策せざるべからず。
これを要するに、吾人はゆえなくして漫りに開戦を主張するものには非ず。また吾人の言議の的中して後世より預言者たるの名誉を得るはかえって国家のために嘆ずべしとするものなり。
噫、我邦人は千載の好機の失うべからざることを注意せざるべからず。
姑息の策に甘んじて曠日彌久するの弊は結局自屈の運命をまつものに外ならず。ゆえに曰く。今日の時機において最後の決心をもってこの大問題を解決せよと。
- 太字は原文(明治36年6月24日付け東京朝日新聞朝刊4面記事)では「ヽ」で強調されている箇所
- 副詞・代名詞漢字は平仮名に修正した
- 旧送り仮名は現代使用に変更した
- 明らかな誤字・不統一は修正した
- 旧漢字は当用漢字に変更した
- 新たに句読点を設けた
この意見書は、明治36年5月31日、桂首相に届けられた。桂は「政策のことはいいが軍事のことまでいうか」といったと伝えられる。後日になるが、これを読んだ他の要人の反応も否定的であった。ところが、6月11日、東京日日新聞に一部が報じられた。おそらく戸水らのリークであろう(但し政府側から洩らされたという異説がある)。そして、全文を公表した方がよいということで、朝日新聞に発表された。扱いは4面下段であり、センセーショナルなものではない。
ただし、原敬は「我国民の多数は戦争を欲せざりしは事実なり、政府が最初七博士をして露国討伐論を唱へしめ又対露同志会などを組織せしめて頻りに強硬論を唱へしめたるは、・・・」(『原敬日記』明治37年2月21日)と書いている。
この記述のため「七博士意見書」を政府の「ヤラセ」であったかのようにとらえる向きは今日にも多い。だが意見書の内容は政府の満韓交換論に正面から反対する内容であり、そのあと戸水が政界入りしてからも冷遇されたことを考慮すれば、原敬の政府「ヤラセ」論は根拠を欠くといわねばならない。
したがって、「七博士意見書」は戸水が主導した跳ね返り大学教授が、せいぜい新聞情報程度で書き上げたとしか思えない。その証拠として、次のような政府関係者ではまずしない誤りを犯している。
- 遼東還付条約について@であるが、日本は干渉と下関条約批准を分離したことを忘れてはならない。すなわち、三国干渉があった段階で下関条約で認められた割地を取り下げる約束を三国にしていたのである。この段階で、新たに遼東半島不割譲を清国に認めさせることは、下関条約を否定することであって、日本の行動としては自家撞着なのである。
- ドイツが膠州湾を租借したとき、その弱小な海軍力に乗じA開戦しろとの意見である。これは空論であろう。というのは、まだ2年ほどしか経過しておらず、ロシアがドイツに共同して参戦する可能性について否定できないのである。そのうえ当時、ジョセフ・チェンバレンがドイツと英独同盟をめぐり交渉中であり、イギリスの助力を得られたか疑わしい。
- 北清事変北京議定書評定の段階では、中国と和平について条件をつめていた。ロシア兵も北京の保障占領を実行して圧力をかけており、日本とロシアは同じ地平にたっていたのである。この段階で、ロシア兵の北京撤退を要求できない以上、満州撤兵Bについて圧力をかけるなどできる話ではない。
- 軍事力において日本が有利との指摘Cであるが、間違いないことはロシア人はそうはみていなかったことである。さもなければ、開戦までの交渉においてロシアがいかなる譲歩もしなかったことについて説明がつかない。さらに、日本有利とする根拠は極東だけの比較であって、陸にせよ海にせよ、ヨーロッパからの援兵が即時あれば、不利は免れない。すなわち日本有利とするには、援兵の時間を考慮せねばならず、これは多年の研究をもってしても学徒に出来ることではない。
- 日英同盟条約第1条で、条約発動用件は列国の朝鮮への侵略的行動と中国における騒乱と限定しており、七博士のいうように、D単純にロシアに攻めかかっては、イギリスは局外中立を守る必要は生じない。軍事同盟は締結することによって戦争の抑止を図るが、それには日英同盟は失敗しているのである。
- Eはロシアの満州進出阻止を戦争の目的とせよというが、日英同盟はそれを許していなかった。さらに日本政府要路は、満韓交換論で日露が妥協できるとみていた。七博士は、そのときの外交交渉についてまったく無知であり、こういった議論するにあたっての十分な情報を欠いていたのである。
- F清国の法は未だかつて露国兵の鉄道を保護することを認めず、というが、清国はロシア兵の鉄道保護のための駐兵を、李鴻章・カシニー密約で認めており、条約が国内法に優先するのは当然である。李鴻章・カシニー密約について知らないことはともかく、現状でロシア兵がいることをもって、想像をつけねばならないことと思われる。
七博士は十分な情報がなく、また日本政府の妥協案「満韓交換論」をロシアは拒否し、あくまでも朝鮮半島全域にこだわったことについて無知であった。そのうえ当時の学問レベルでも法理を十分に理解していたとはいえない。
ジャーナリストも同様であるが、学者が基本的情報を与えられずに外交方針を論じることは危険なのである。