防護巡洋艦

防護巡洋艦(Protected cruiser)とは、装甲巡洋艦の前身とされ、英海軍の分類概念(よりいえばジェーン海軍年鑑の分類)である。ただし、ロンドン海軍軍縮会議で8インチ主砲をもった巡洋艦が重巡洋艦(Heavy cruiser)と分類された結果、その系譜に属すると分類されることもあるが誤りであろう。

内部装甲

1880年代におけるヨーロッパ造艦界論争の中心軸は、速射砲は戦艦主砲を制することができるかどうか、であった。平時における軍艦デザインは用兵畑より、造艦畑の意見が優先される。兵科将校は艦隊勤務であり、論争の舞台となる海軍学校上級コースにいなかったし、造艦に興味はなかった。

一方、海面をめぐるヨーロッパ各国の争いの中心は地中海であった。イギリスは二国標準主義(仮想敵国はロシアとフランス)をとり、エジプトを諦めないフランスを警戒していた。第三共和制フランスは、ドイツを主敵としていたが、地中海制海権やマグレブ諸国を簡単に諦めることはできなかった。

ところが予算の壁があった。造艦とは常に相反する条件の折衷である。低舷側にすれば鉄鋼使用量は減少するが凌波性は劣る。フランスとイタリア、中国が低舷側艦を好むのはこれが理由である。地中海や黄海から出る必要はなかった。

ただし、ドイツとの戦争になれば、大西洋で戦う必要があった。

フランス造艦界に新しく速射性重視を主張する一派が出現した。"Jeune Ecole"と呼ばれ、多数の中口径を搭載する巡洋艦の設計を主張した。この派はさらに「内部装甲」"inner protection"を主張した。

速射砲とは6インチ砲と4・7インチ砲を指したが、自身も6インチ速射砲から守る必要がある。そのための装甲を内部につくろうというのである。


内部装甲(赤線)

ジャン・エコールの中心的存在はエミール・ベルタンであった。ベルタンの主張は高速かつ6インチ多数を搭載する巡洋艦であった。ジャン・エコール多数派は内部装甲のコストパフォーマンスの延長で、装甲の上層部(上表の赤線の屈折点)から舷側をたてれば(青線)、重心が下がり、かつ低舷側の狭い部分を装甲化すれば鋼材の節約かつ装甲強化が計れるとした。内部装甲でなく全体装甲と称した。

艦形は従来からあったタンブル・ホームと同じになる。彼らは戦艦をもこの艦形が有利とした。こうして設計されたのが戦艦『ブーベ』やロシア戦艦『ツェザレウィッチ』であった。

ベルタンは反対した。傾斜時のメタセンターが安定せず、転覆しかねないとしたのである。だがベルタンは少数派であった。このベルタンに着目したのは日本海軍であった。ベルタンを日本に招請し、かつ三景艦『松島』『橋立』『厳島』を基本設計させた。

エミール・ベルタン"Louis-Emile Bertin"(1840-1924)
ナンシーで生まれた。1858年、エコール・ポリテクに入学し、造船工学を学んだ。1885年、日本政府の招請により来日、1886年から1890年まで滞在した。その間、佐世保海軍工廠と呉海軍工廠(弾薬庫部分)の建築を指導した。
また三景艦7隻や22隻の水雷艇を設計した。日清戦争における海戦勝利に寄与した。伊東佑亨は明治天皇に「彼は、たんに設計だけではなく、艦隊編制にも関与し、速射砲使用や海岸防禦についても指導した。在日中、帝国海軍のため休みなく働いた。その努力の結晶は目を見張るべきである」と紹介した。写真の左下胸に輝く勲章は勲一等旭日章"Order of Risingsun"で昭憲皇太后が手ずから与えたものである。

フランス本国では、タンブル・ホーム派が主流を占めた。予算をめぐり常に議論が沸騰し、技術を軽視してコストパフォーマンスが重視される議会制の弱点である。1880年代後半に設計され、舷側に積層装甲を施したフランス巡洋艦『デプイドロム』は異様な姿であった.この艦は「装甲巡洋艦」の第一号といわれる。兵装は6・4インチ砲6門、7・6インチ砲2門(ただし、前後でなく上甲板上)であって、フランス人は配置をダイアモンド式と呼んだ。


デプイドロム
1888年完工、6676排水量トン
マストにはエレベーターで昇れる。マストに小銃の狙撃手を配置するため

線で覆われた部分が装甲であった。ただし装甲は厚くない。タンブル・ホームによって重心が下がり、その分上部構造の重量負担を増やせる。ベルタンの主張、「メタセンターが安定しないため、外洋では凌波性が劣るばかりでなく、転覆の危険性がある」は退けられた。予算が優先され「戦闘において装甲は重要でなく、肉薄し速射砲を打ち込むことによって勝利する」という精神論が優先された。

「装甲」巡洋艦と呼ぶべきではなく、防護巡洋艦の行き着く先であり「全体装甲」艦と呼ぶべきであろう。1886年に起きた畝傍事件は本国に影響を与えなかった。


ラ・ブリュア

フランス海軍は、タンブル・ホームの巡洋艦をつくり続けた。『ラ・ブリュア』は4800トンであり、巨大なバルジから直立する乾舷という外観を呈した。7・6インチ2門、6・4インチ6門という兵装であり「コストパフォーマンス」抜群であった。日本がアルゼンチンから購入したイタリア製の『日進』『春日』にやや見劣りするだけであった。ガリバルディ級と呼ばれる両艦とも8000トンであり、真の装甲巡洋艦第一号の『浅間』は1万トンであった。『日進』『春日』も売値75万ポンド(≒300万ドル)で抜群の安さと評されたのだが。

『ラ・ブリュア』は姉妹艦を3隻もち第一次大戦にも参加した。しかし転覆の危険性から地中海とエーゲ海・紅海から出られなかった。平時においても外洋3海里外には出動できず、艦隊抑止力だけの存在といわれた。兵器でもコスト削減によって「品質」を落としては意味がないのである。

1894年完工であるが、設計18ノットであった。のちに重心改善のためエレベーター付マストは廃止された。

ベルタンは日本海海戦のロシア敗北の主因はタンブル・ホームが原因であると強く指摘した。タンブル・ホームの戦艦は以降建造されなくなった。しかしながら既存のタンブル・ホーム艦艇については予算の関係から廃棄できず、第一次大戦における戦艦『ブーベ』の転覆という悲劇を招いた。

ロシア戦艦謎の沈没

防護巡洋艦の嚆矢

イギリス海軍は航洋性を重視しタンブル・ホームは取り入れず内部装甲と速射砲多数搭載のベルタンの主張のままの巡洋艦を建造した。高舷側であり、後代の軽巡洋艦にもつながるチリ海軍向けの『エスメラルダ』であった。

『エスメラルダ』
3000排水量トン
10インチ砲×2、6インチ砲×6
公試18ノット(当時としては異常に速かった)

チリはこの艦を1895年に日本に売却した。チリのバルパライソ軍港から、太平洋をほぼ斜めに突っ切り、無事佐世保に到着した。しかしながら、日清戦争に間に合わなかった。山本権兵衛はその航洋性に高い評価を与えた。

英海軍とジェーン海軍年鑑は『エスメラルダ』を防護巡洋艦の第一号とする。日本では二等巡洋艦『和泉』となり、日本海海戦で活躍した。

ただし、1890年代に入るとハーベイ鋼が発明され、内部装甲の考え方は廃れた。それと同時に防護巡洋艦もなくなったと考えるべきであろう。むしろタンブル・ホームが残ったのである。

日本海軍の防護巡洋艦

畝傍事件は、当時の日本海軍にとり重大な事件であった。海軍省主事山本権兵衛は今後の主要艦艇の発注先をイギリス中心とすることを命令した。そして、巡洋艦については浪速を標準とすることになった。浪速は巡洋艦同士の戦闘を考慮して、内部装甲でなく乾舷に多少の積層装甲が施された。それのためか世界的には防護巡洋艦と呼ばれた。そして浪速には前後単装のバーベット上の8インチ砲が搭載されていた。だが、山本は日本回航後、8インチ砲を取り外し、軽い6インチ速射砲に換装することを要求した。

畝傍事件

これは時代を画する決定であった。ただし、副砲は4・7インチであり(砲塔式ではなく)主砲を6インチ砲としたのである。6インチ速射砲はケースメートに置かれたが、日本の巡洋艦の砲塔式主砲を前後に置く形式の嚆矢ともいえるものだった。

浪速の日本到着とほぼ同時に砲塔式8インチ砲をもつ『浅間』の設計が開始された。


浪速
3700トン・設計18・5ノット・6インチ砲×2、4・7インチ砲×6
イギリス・アームストロング・エルジック製・1886年2月完工

防護巡洋艦の特徴は、4・7インチまたは6インチ速射砲を兵装の中心としていることで、前後にある砲塔やバーベットに置く大口径砲は単装であり「トドメを刺す」ことが主たる目的とされた。ただ、1800年代エンジンは未だ発達途上であり戦艦と同じ馬力のエンジンを搭載しても18ノットを超えることは難しかった。

そして、巡洋艦設計のさいの最大の問題は速度であった。速度の向上は他の要素、兵装や装甲と比較して実に大きな犠牲を払う。エンジンを大きくし艦形を細くすれば、兵装や装甲を落とさねばならない。だが、速射砲が海戦における「決定的兵器」であるとすれば、巡洋艦は戦艦によく対抗できるのでないかと思わせた。さらに、日清戦争の黄海海戦が発生すると、これは確信にかわっていった。

日清戦争黄海海戦

有力海軍は争って、速射砲を満載した巡洋艦の建造を開始した。そしてエンジンが改良され、巡洋艦は20ノットを超える速度が可能となり、戦艦の16〜18ノットを明らかに凌駕するようになった。そして1890年代末にハーベイ鋼が発明されると、従来の積層装甲鋼鈑に比べ、格段に軽量・安価となり、巡洋艦にも全体装甲を施すことができるようになった。

内部装甲は無意味となった。ただし艦体設計におけるタンブル・ホームは残った。コスト・パフォーマンスが良かったのである。フランスの影響下にあったロシアはともかく、ドイツの1890年代のプリドレッドノート級戦艦ブルンブルグ級は見事なタンブルホームであった。日本はじつは、第一次大戦における戦利艦としてブランデンブルグ級の『ワイゼンベルグ』を受領した。しかし、日本に回航させずヨーロッパでスクラップとして売却した。

日本海軍はフランス海軍の至宝ベルタンの示唆を最後まで忠実に守った。タンブル・ホームは太平洋の海戦では役に立たない。

そしてこの艦種は装甲巡洋艦と呼ばれるようになり、戦艦と会敵してもその優速をもって振り切れる、または砲戦でもひけをとらないと思われた。つまり万能艦として位置づけられたのである。


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