得利寺附近の戦闘

得利寺附近の戦闘

得利寺附近の戦闘

得利寺附近の戦闘

得利寺附近の戦闘

日露両軍の集中

鴨緑江渡河作戦が5月1日、南山の戦闘が5月26日に終了すると、ロシア満州軍(総司令官、クロパトキン)は戦略の根本的見直しを迫られるようになった。第1には、日本軍が3路に分かれて遼陽に進撃することがはっきりした。第2に旅順要塞が遮断された。

開戦前、旅順艦隊は大同江河口から北の制海権を維持し、日本軍の上陸を許さず陸戦の累を満州に及ぼすとは思っていなかった。連合艦隊は根拠地佐世保を離れて活躍することはできず、済州島沖に艦隊決戦が起きると曖昧に想定していた。

クロパトキンが前年1903年7月、日本訪問のあと旅順を訪問したとき、アレクセーエフ極東副王に、旅順要塞の強化は堡塁強化よりも、要塞兵増加が効果的だと説いた。海軍出身のアレクセーエフは一蹴し、旅順艦隊は遼東半島に日本兵を寄せ付けないと豪語した。

ロシア帝国をつくったのは陸軍であったが、ロシアをいつも戦争に巻き込んだのは海軍であった。スウェーデンやオスマン帝国との戦争の原因は常に海峡であり、艦隊が全滅したのち陸兵が敵の芝生に踏み込みようやく勝利を得た。ロシアにおいては、海軍はロマノフ皇帝家と国民のペットであった。

開戦劈頭、旅順艦隊の幾ばくかが撃沈され、あるいは大破されると、ロシア海軍は、ロシア本国からのバルチック艦隊の回航をまち、決戦を挑むという健全な策に落ち着いた。アレクセーエフは、クロパトキンが満州軍総司令官として奉天に赴任すると、戦前の意見を引っ込め、旅順にもう1個師団(東シベリア狙撃兵第7師団)を送り込むことにすぐ同意した。

ロシア陸軍も鴨緑江防禦線がいとも簡単に突破されるまで、天下無双のロシア兵に日本兵が対抗できるなどとは思ってもいなかった。ロシア陸軍の敵はヨーロッパ正面に轡を並べるドイツ陸軍だけと思っていた。

ロシアの駐日武官ワノフスキーは、1900年本国に、

「日本軍が精神的基盤を自分のものにし、その上にあらゆるヨーロッパ式軍隊の編制をなして、それによってヨーロッパの最弱国に太刀打ちできるようになるまでには数十年、あるいは百年かかるであろう」

 と報告した。戦争が始まってから判明した事実は、よりヨーロッパ式の編制がなされていたのは日本軍であることであった。

旅順に増強された東狙第7師団は、南山で日本第2軍(司令官、奥保鞏)を迎撃し、大損害を与えた。大本営はかねてからの編合計画の通り、乃木希典を司令官として第3軍を編成し、第2軍は鴨緑江方面からと大孤山に上陸する独立第10師団とあわせ、遼陽方面に北上させることにした。

動員とともにロシア軍は、7個東狙(東シベリア狙撃兵)旅団の定員を増加させ7個師団に改編した。旅順への増派によって1個減少した6個師団にさらに砲兵などの特殊兵科を増員させ、3個軍団(軍団とは日本にない編制で2個師団を併せたもの)に編合した。

5月中旬までに2個軍団の編成がようやく終了した。このときシベリア鉄道は全線開通せず、7千キロ離れたペテルブルグからハルビンまで50日かかったという。1日7便が精一杯であり、欧露からの移送は月2個師団が最大限であった。

ロシア満州軍はウラジオストック周辺を除く正面に日本軍が後備旅団を除いて12個師団を集中するとみて、それに均衡する6個軍団配備を要求し、翌年の奉天会戦で実現したが、それにたいする補充兵大隊までに手が回らなかった。このため、ロシア陸軍の1個師団定員は約2万であったが、充足しないことが多く、1万5千前後のことが多かった。

解囲

シタケルベルグ(Karlovic von Stakelberg, 1851-1911)
バルト・ユンカー(男爵)の子孫。1969年軍務につく。騎兵科出身。露土戦争に従軍し、カザン竜騎兵第25連隊長。1890年カスピ海コサック旅団長。北清事変では、第15騎兵師団長。1901年中将に昇進し、シベリア第1軍団長。

5月19日、奉天でアレクセーエフとクロパトキンとの間で激論が交わされた。それまで旅順艦隊をあてにして、日本軍の満州への進入は不可能だとしてきたアレクセーエフが一転して、旅順要塞解囲のための陸軍使用を要求した。

クロパトキンは反対した。陸戦における格言の一つに「攻勢は分進合撃、退却は離心分散」というのがある。攻撃に出るときは数カ所の離れた地点から出発し、一点に集中するべきであり、退却の場合は一点から数方向に分かれるべきだというものである。

遼東半島の地形は遼陽を要として扇状に南に広がっている。日本軍は九連城・大孤山・金州から遼陽に向かい分進合撃の形をとるとして、ロシア軍がこれを迎撃することは至難である。内線作戦をとり、そのうちのどれかに攻撃をかけたとしても側背をとられる公算が強かった。地形からは待つべきなのである。アレクセーエフはこういった陸戦の基本的知識を欠いていた。

両者は怒鳴りあいの結果、ペテルブルグの意見をとることで一致した。5月21日、ニコライ二世はアレクセーエフを支持し、旅順要塞の解囲に向け努力することを命令した。クロパトキンはやむなく、動員を終了した2個軍団のうち1個を進発させることを決心し、先鋒としてサムソノフ騎兵支隊に得利寺確保と南方への偵察を命じた。

遼東半島から奉天、遼河にかけての地帯は南満州とも呼ばれたが、冬は零下40度、夏は40度に達する寒暖の差が厳しい場所である。人口は稠密であり、北朝鮮と比較すれば人家は濃かった。

禿山がお椀を並べたように連続しており、農業は谷間における畑作であった。人家は山すそに20戸程度固まっていて、附近には針葉樹の疎林があるのが普通であった。6月から雨季に入るが、道路は北朝鮮より整備されており、泥濘に陥ることはなかった。

ロシアは北清事変のさい、ブラゴフェシチェンスクで中国人虐殺を働いており、満州人には不人気であった。ロシア軍に漢字のわかる将校が配属されることは希であり、徴発しながらの徒歩行軍は困難がともなった。

ハルビンを基点として南は旅順までの東支鉄道南線が通じていた。26日に南山戦が終了すると得利寺から北の鉄道運行は可能であったが、それより南の情況は、普蘭店駅が日本軍によって占領されていること以外不明となった。

クロパトキンは、得利寺までの鉄道を利用することを考えた。ステッセル旅順要塞司令官は、塩大澳に上陸した日本軍は6個師団であり、北方に向かうのはそのうち2個師団であろうと予測する連絡をおくってきた。自分のところに多くくるとみただけであった。

6月6日、営口に集中を終えたシベリア第1軍団(長、シタケリベルグ)と第35師団の第2旅団を得利寺に集合すべく、クロパトキンはシタケリベルグに

「旅順口方向に前進し、成るべく大なる敵の兵力を自己の方向に誘致し、もってその関東半島に行動する敵兵力を微弱ならしめること。北面に配置された敵軍が微弱であれば、速やかに撃破し、敵優勢であれば決戦を避けること」

 と命令した。「敵優勢であれば」以下はいわずもがなであろう。

瓦房店

シタケリベルグ兵団が南下するに先立ち、偵察のため派遣されていたサムソノフ騎兵支隊(初め、シモノフが指揮していたが、6月14日、病のためサムソノフに譲った。サムソノフは第一次大戦緒戦のタンネンベルグ戦における敗将)は、得利寺を基点に活発な活動を展開した。

 日本軍も南山戦の最中に秋山好古騎兵旅団を斥候として得利寺南方に派遣したため、5月29日からサムソノフ支隊と接触した。得利寺駅から次の南の駅は瓦房店であるが、その中間に曲家店という小さな集落があり、そこで両軍騎兵隊は銃火を交わした。

 秋山の方がより執拗に曲家店に止まり、哨戒にあたるロシア騎兵を襲撃した。ロシア軍は得利寺南方の山稜を利用して即興の防衛線をつくろうとしていた。日本騎兵はこれが事実上の初陣であったため、ロシア騎兵を深追いすることが多く、5月31日までに死傷者78、馬匹41の損害を出した(ロシア騎兵の死傷者は37という)。苦戦に陥った秋山は上田有沢第5師団長に援兵を要求した。

 上田は騎兵旅団の活動が捜索の域を超えているとして、これを拒否、瓦房店以南への後退を命令した。ロシア軍は、5月28日から営口から鉄道により逐次南下を始めており、5月中に得利寺附近には3個歩兵大隊と3個野砲兵中隊が集合を終えており、妥当な判断であろう。

 6月5日、シタケリベルグ中将も特別列車で得利寺に到着した。防衛線を得利寺南方4キロに設定したが、塹壕は座射が可能なほどの深さにしか掘られていなかった。戦闘の目的は旅順との交通線の回復であったが、兵力は2・5個師団にすぎず、日本軍6個師団が金州地峡周辺に集中していることを考えれば、まず北方に向かうとみられる2個師団を誘引する必要があった。

 シタケリベルグは、瓦房店附近に前衛を配置し、日本軍が出現したらすぐ後方に退き、準備された防衛線で迎撃し、機をみて逆襲に転じる(攻勢移転する)策で臨むことにした。6月6日、歩兵2個大隊は瓦房店にいた秋山騎兵隊を撃退し、停車場を占領した。

 約1・2キロの幅の防衛線には鉄道の東部には東狙第1師団(長、ゲルングロス)、鉄道と山嘴にルチコフスキーの指揮する一隊、山嘴から西にはクルーゼの指揮する一隊を部署した。さらに総予備として、得利寺停車場近くの梁家塋に第35師団の第2旅団(長、グラスコ)が区処された。

 6月9日、連合艦隊司令長官は第2軍司令官の要請をうけ、第6戦隊を渤海湾に入らせ、そのうち砲艦宇治・赤城は蓋平停車場附近を艦砲射撃した。第6戦隊残部は復州湾を遊弋した。このとき、シベリア第1軍団の最後に得利寺に向かう予定の東狙第9師団(長、コンドラトウィッチ)主力は、蓋平より乗車準備中であった。

 シタケリベルグは、日本軍が蓋平=営口方面に強行上陸する可能性があるとして、東狙第9師団の2個連隊の南下を取りやめさせ、クロパトキンに営口方面の警備強化を依頼した。サムソノフ騎兵隊にも復州方面への進出を禁止し、望楼による監視を命じた。

 これは見事な陸海共同作戦というべきだろう。艦砲は4・7インチ砲といえども陸では120ミリ重砲に相当し、そのうえ砲身が長いので弾道は直進する。陸兵にとり艦砲は重大脅威なのである。

ところが「爾後陸軍のためを思って積極的に計画した本戦役中に珍重すべき海軍側のこの企画は、頗る複雑なる大本営の横紙破り的紛糾を生じ、遂に中止するに至った」(谷寿夫『機密日露戦史』)。

大本営で横紙破りをやったのは、児玉源太郎、井口省吾、松川敏胤らであった。以降、この主の陸海共同作戦はガダルカナル戦まで実行されなくなった。

奥第2軍司令官は北上を命ぜられていたが、第6師団の上陸終了を待つべきか否かで迷い、普蘭店附近に軍を停滞させていた。防衛線をつくるとともに、敵を迎撃する胸算であったが、敵は前進せず、6月12日、翌日を期して、前進することを決心した。

布陣は右翼から第3師団(長、大島義昌)、第5師団、第4師団(長、小川又次)で、瓦房店まで7キロの地点まで、東西28キロの幅で前進した。

14日、軍司令官は林家屯(瓦房店の南9キロ)に達した。第3師団前衛は王家屯で初めて敵と接触したが、前衛をなす歩33はそのまま前進し、瓦房店を再度占領した。主力は左翼縦隊と右翼縦隊に分れ、午後6時までには目標地点に達し、砲兵旅団は陣地構築を開始した。

第5師団前衛も歩33と協調して前進し、午前10時半に瓦房店停車場を占領した。後続部隊もおのおの目標地点に達した。午前5時半、第4師団は歩37を前衛として復州街道の前進を開始した。小川師団長も午前11時半、大雅化屯に達した。師団長はここに止まり、1時20分宿営を命じた。

得利寺停車場

シタケリベルグは、14日の戦闘について防衛戦勝利と報告した。日本海軍が去ったのを見届け、夜間、蓋平に配置されていた東狙第9師団に属する2個連隊を招致し、鉄道線西部を増加させた。クロパトキンもいったんは喜び、翌日正午までにトボリスク連隊を増援部隊として派遣することを約束した。

一方、日本軍は所定の位置まで前進を果たしたが、歩兵部隊については現在地において陣地構築に努め、砲兵隊については山頂後方に陣地を設営し間接照準射撃を専らにすることにした。この試みは不定期遭遇戦におけるものとしては史上初めてである。

『公刊戦史』には、この陣地設営について柴大佐が命令したとの記述がある(『公刊戦史』の戦闘序列には参謀長についてはフルネームの記載があるが少将以下のライン将校についてはない)。所属からは野砲兵15連隊長の柴五郎大佐であろう。柴は北清事変に大功があり、もしこの戦術を発見したとすれば戦術史にも特筆されるべき人物ということになる。

 残念なことに本人はこの件についてなんら書き残していない。『公刊戦史』『砲兵沿革史』など政府刊行物には、大砲の進歩について触れられていても、砲兵戦術については無関心である。柴五郎は会津士魂を残した無欲・謙譲の精神の持ち主であった。それでも大将に昇進したことは内々に評価があったことは確実であるが、昭和陸軍にその精神が残らなかったことは惜しむべきだろう。

シタケリベルグはかねてからの計画通り攻勢移転をはかることにした。日本軍右翼を東狙第1師団の3個連隊をもって攻撃し、総予備であるグラスコ旅団を迂回させ日本軍右翼を殲滅する計画をたてた。

払暁からゲルングロス東狙第1師団長自ら指揮をとり、日本軍第3師団を攻撃した。日本軍砲兵隊の威力はすさまじく、師団砲兵であった1個野砲兵中隊8門は、7時までに2門に減少した。ロシア側砲兵陣地は直接照準を旨としたため、平地におかれた。このため日本軍弾着観測員は発火を確認しやすかった。

ロシア兵は日本軍陣地に殺到したが、前夜即興でつくった浅い塹壕にこもる日本兵はさかんな銃撃を浴びせ、砲兵の援護のないロシア兵は伏射で応戦するしかなかった。超越前進すると期待されたグラスコ旅団の到着を待ちわびたが、いっこうに現れなかった。

グラスコはシタケリベルグの命令「優勢な兵力が現れた場合前進を停止する」を額面通り受け取り、前進を躊躇したのであった。第3師団と東狙第1師団の射撃戦は激烈で、「文字通り雨霰の弾丸に見舞われ、しまいにはどれが生きて引金をひいているのやら分からないので、私(粟田作之助後備大佐)は1人1人肩をゆすぶって、生存者を調べた」(『参戦20将星日露大戦を語る』)という具合であった。

10時ごろになると、日本軍砲兵隊は榴散弾をもってロシア砲兵を圧倒し、ほとんど沈黙させるにいたった。この日の奥の作戦は第3師団を現在地に止め、第5師団を前進させ、大房身から復州河(徒歩での渡渉に支障がなかった)を超えて西側山間部で有利な地位を占めるというものであった。

前夜、蓋平から到着したコンドラトウィッチ東狙第9師団長がこの西側方面の指揮を任され、山嘴北方高地に陣取った。日本軍の前衛部隊が大房身から迂回の形勢を示したため、前夜到着の総予備2個連隊を向かわせた。ところがほぼ同時に、新手の有力な日本軍が山嘴西方高地稜線に登場したのが望見された。

小川第4師団長は、軍司令官から「第5師団の側面を援護し、場合によっては敵の右側を脅威せよ」という命令をうけていた。第4師団はすでに復州周辺を占めていたが、小川は独断専行をもって、安東旅団に「山間部を迂回し、得利寺停車場を攻撃せよ」と命令した。安東旅団は砲兵1個大隊を伴って潘家屯を6時半に出発した。

シタケリベルグはこのとき、第4師団の存在すらつかんでいなかった。サムソノフ騎兵隊の望楼は日本軍の動きをつかみ、ヘリオグラフ(鏡の反射を利用した通信法)で軍団司令部との連絡を試みたが、当日は湿気が濃く届かなかった。なおこの戦いの両軍とも電話線の準備はなく連絡は全て伝騎であった。

安東少将は馬家房西南高地に達し、そこに砲列を敷かせた。歩38と歩9は勇躍前進し、敵の側背を攻撃しつつ、一部は梁家屯に達した。そこは得利寺停車場西方3キロであった。

11時半、梁家屯東部にロシア軍1個大隊ほどが現れ、散兵線をつくって抵抗を開始した。シタケリベルグは、このとき同時に、全軍総撤退の命令を出した。撤退にあたってはまず砲兵隊を退かせねばならない。山嘴附近にあった砲兵陣地が撤収を開始すると、コンドラトウィッチはそこを収容陣地とすることを指定した。

東狙第9師団の2個連隊は第5師団と射撃戦を展開中に撤退命令がきたため、潰乱しながら山嘴まで後退することを余儀なくされた。だが、日本軍の銃火はその北方にも及んできた。

正午、クロパトキンの約束した増援部隊トボリスク連隊は得利寺北3キロの地点に停車した。するとそこにも日本軍の銃火が及び、部隊は直ちに下車、散開しながら応戦した。負傷者は陸続として停車場に到着し、最終列車が出発したのは1時すぎであった。

シタケリベルグは後衛司令官にサムソノフを任命し、収容陣地を停車場、その後方と徐々に退かせた。東部方面の東狙第1師団は、グラスコ旅団が到着しないため、11時、独断で退却を開始していた。この師団は停車場を避けて、その東方をそのまま北行した。

日本軍は追跡しなかった。奥第2軍司令官は南山の戦闘について反省し、敵の準備された陣地を強攻することを慎重に避けた。機動戦に徹したのである。午後3時になると、暖気を含んだ豪雨が戦場を襲った。四面漆黒となり、ロシア軍は夜を徹して北行、翌日早朝には北瓦房店(紛らわしいが、得利寺は北瓦房店と瓦房店の間)をすぎ、万家嶺停車場に到着、安全地帯に入った。

ロシア側虚偽発表

 ロシア陸軍省は戦後になり、戦死者489、負傷・失踪者3152と発表した(これに対する日本側死傷者1145)。これは真っ赤なウソである。

日本側『公刊戦史』には「16日より18日まで第3師団の戦闘地域において埋葬したる敵の死屍は1652余に及べり 土民の言に據れば敵のもっとも死傷多かりしは龍王廟砲兵陣地附近にして戦闘間は皆鉄道により後送せしも退却の稍前に至り多くは花紅溝口付近において土葬もしくは火葬せりという」と注記がある。

ロシア軍将兵は認識票を身に着けており誤認は考えられない。第5師団および第4師団の戦闘地域を加えれば、日本軍によるロシア兵屍体埋葬数が4千を超えたことは確実である。当時の南満州は人口稠密ではあったが、著しい貧困地帯であった。山野には、多くの中国人遺棄死体が散在し、その多くは着衣が奪われていた。

埋葬された屍体から着衣を奪う盗難事件が続発するくらいであった。ロシア軍が戦闘地域を鉄道線路から大きく離すことができないのは、匪賊による襲撃を恐れたことも理由の一つである。道に迷って退却していくロシア軍将兵が匪賊または「土民」により殺戮されたことは容易に想像できる。

クロパトキンは陸軍省に少なくとも死傷者1万以上と報告しており、当時の多くのロシア軍将兵の記録もそれを裏付けている。加えるに、日本軍にもっとも果敢な肉薄攻撃を加えてきた東狙第1師団の第1、第2、第4の連隊長、ファストノフが戦死、オセルスキーが重傷、メルチャンスキーが重傷のうえ捕虜となった事実がある。

最前線に出た連隊長のいずれもが重傷を負ったり戦死したりすることは、当時においても珍しい出来事である。そのうえゲルングロス、コンドラトウィッチ両師団長、他に4人の連隊長も負傷した。日本軍が鹵獲した砲は16門(ロシア軍側の記録は18門で、2門の砲身が遺失したことになる)でいずれもが大破していた。

ロシア軍将兵とは「死をも怖れぬ」といった点で恐るべき敵だったのである。ロシア(ソ連)側戦後発表は、ノモンハン事件、独ソ戦でも過少な被害として真実を伝えなかった。こういった虚偽発表は日露戦争の他の戦闘においても発生したことも疑えない。

日本側『公刊戦史』のロシア政府「正式発表」を重視する姿勢にも問題があろう。日本軍師団の記録は「注記」として小さくしか扱わず、自白優先主義が権威主義か、ロシア政府発表を大書した。戦後になり、両軍戦死者の拮抗は、日本の30年式歩兵銃の小口径(6・5ミリ)による威力不足のせいであるとされた。

虚偽発表から戦訓をつくることは危険である。第2次大戦直前、新制式小銃(99式)の口径を7・5ミリに改悪したなどは、それによる顕著な失敗の一例であろう。この戦闘におけるロシア側死者は1万以上、負傷者は1万5千以上と推定される。ロシア軍参加将兵が4万2千であるから、致命的な打撃をこうむったといえよう。

作戦評論

得利寺附近の戦闘は日本軍の圧倒的な勝利であった。日露戦争における不定期遭遇戦は、沙河会戦とこれの二つであるが、より徹底した勝利であったと評することができる。当時の日本軍も同様に思い、遼陽まで向かうところ敵なしで前進した。

第2次大戦後にいたって評価は大きく変化した。司馬遼太郎は、

「北進してきた第2軍と得利寺方面で衝突し、シタリケルベルグは大いに勇戦し、日本軍を各地で圧迫しつつも、このときかれがおかした重大な錯覚は、第2軍の兵力を実質より数倍大きくみたことであった。
 結局、かれは退却した。もしかれが正確な敵情をつかみ、あの初動期の南下のいきおいをもってついには第2軍の司令部にまで突入するくらいのいきおいで突進してくれば、日本軍はささえきれずに大潰乱したに相違なかった」


 と書いている(『坂の上の雲』三)。

 この記述は、論点がまったく逆(シタケリベルグは日本の第2軍を大きくみたのではなく、第4師団を見落とし、過少にみたのである)であることはさておき、日本軍の作戦能力を小さくみている点で語るに落ちる。シタケリベルグが退却を考慮せず突進してくれば、殲滅されたであろう。

 第一次大戦のドイツ軍の緒戦作戦を策案した参謀総長シュリーフェンは、日露戦争を評して、

「遠い満州であったゆえ、幾月にもわたり難攻不落の陣地で互いに拮抗した戦いができた。西ヨーロッパでは、こうした贅沢な戦争を許すわけにはいかない。陣地戦を維持するため、数百万車両を使っての鉄道輸送は長期間耐えられるであろうか?殲滅戦への機会を発見するしかない」

("Cannae")と書いた。

 日露戦争でも鉄道が主題であった。日本軍はこの戦闘が終わると、大連=得利寺の鉄道復旧、車両修理と安東=鳳凰城の軽便鉄道の建設に没頭した。陸戦とは兵站に勝り、数で優勢を占めた方が大体勝利する。アメリカ南北戦争から戦争は鉄道時代に入った。シュリーフェンが鉄道の発達が戦争に大きな影響を与えるとみたことは正しい。

 シュリーフェンの別の結論、「鉄道は長期間の負荷に耐えられない」「鉄道時代でも殲滅戦は可能である」は正しいのだろうか?

 第1次大戦をみると鉄道は、4年3カ月の長期戦に耐えた。殲滅戦は自国領内では可能であったが、他国領内ではほぼ不可能になった。自国領内では鉄道を利用した内線作戦にかけることができるからだ。第1次大戦緒戦ではシュリーフェン・プランが失敗することによってドイツ軍は敗北した。

 その根本原因は、シュリーフェンのこの日露戦争の評価に関連している。よりつきつめれば、あるドクトリン「殲滅戦に勝利することが戦争勝利である」が誤りであり、ドクトリンにもとづいて作戦をたてることが誤りなのであろう。

メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel, 1842-1906)
ケルン出身でありユンカーではない。1867年、プロイセン参謀大学卒業。普仏戦争の勝利をみて山縣有朋が招聘を計画したという。触れ込みは大モルトケの推薦であるが、そもそもドイツが日本に軍事顧問を派遣することに熱心であったのか疑わしい。来日は1885年であり、3年間、陸軍大学校の教官を務めた。教育内容は不思議なことに作戦策案ではなくて、軍政や動員に関してが中心であった。当時の陸軍はフランス式の鎮台方式であって、地方行政と連結していた。これを師団区を設け地方連隊主義に変更することを勧めた。これ自体は日本に適合しており以前から計画されており採用された。

本人の勤務態度に問題があり、酒や住居に喧しかった。むしろ陸大をエリート教育機関に仕立てようとする思惑がメッケルの虚像をつくりあげたといってよい。井口省吾は日露戦争後の陸大校長時代、メッケルの胸像を正面に置こうとして山本権兵衛から「陸軍は外人を崇拝するのかね」と皮肉をいわれた。

帰国後はウィルヘルム二世に女性問題で嫌われ少将のまま予備役編入になった。

ドイツ式思惟の表現であるこのドクトリン主義は陸大教官メッケルを通して、大本営にも悪影響を及ぼした。メッケルとは何者か?普仏戦争で中隊長程度を務め、戦術について知識・理解は及ばず、ドクトリンのみをオウムの如く繰り返し、官舎の内装程度しか興味を示さなかった男である。

 メッケル愛弟子を唱える陸大1期生が松川・井口であり、そのティーチャーズ・ペットが谷寿夫であった。谷は、戦後になってロシア軍に従軍したドイツ人観戦武官レッフレルの得利寺戦についての評、

「決戦に至らずして退却する敵が近く停止するを、何故機を失せず攻撃せざるや。当時日本軍は他の諸軍との関係上この追撃が孤立進出するの危険なきを証して余りあり」

 を引用して、

「真なる哉」

 と激賞した(『機密日露戦史』)。谷は完全に誤っている。ロシア政府正式発表に惑わされたこともあるが、ドイツ的「殲滅戦」ドクトリンからのままである。谷は「山がち」の地形であるとして、事前に目標追撃のルートを設定すべきであり、行軍進路を「着眼」しておくべきだったと、力説している。

「殲滅戦ドクトリン」を無批判に受け入れ、その上で作戦軸だけを考える陸大着眼戦術の萌芽であろう。驟雨が落ち始めた15日午後3時、追撃戦を実行して、ロシア軍に如何ばかりの損害を与えることができただろうか?主力はそれまでに鉄道で北方に脱出済みであった。着眼した山道を通り鉄道列車と競争したところで意味がない。

 ロシア軍は後衛陣地を固めて、日本軍の追撃を待ち構えていた。こういった手負い決死の敵に正面からぶつかったところで損害を大きくするばかりであろう。鉄道は殲滅戦を困難にさせるのである。

 そのうえ、逃げるロシア軍を取り巻く環境はどのようなものであったか?南満州は西ヨーロッパとは異なる。落武者を襲撃して着衣をかっさらおうとする住民が虎視眈々と、ロシア軍敗兵を眺めていた。ロシア軍は日本軍の追撃がなくとも消耗するしかなかった。

 南満州における戦闘では、いったん突き崩され、敗勢に陥れば秩序だった敗走など簡単にはできない。では、日本軍の勝因は何であろうか?

 最大の要因は第4師団半部安東旅団の迂回行動であろう。それを効果的にしたのは、東狙第1師団による日本軍右翼第3師団への攻勢ならびにその拒止であった。彼我遠隔した場合の迂回はまず成功しないが、第4師団長小川又次の命令による安東旅団の得利寺停車場への外線をとっての横撃は見事なものであった。

小川又次(1848〜1909)
小倉藩士。第二次長州征伐に幕軍兵として参加。兵学寮卒業。西南戦争に従軍。日清戦争では、山縣第1軍の参謀長。日露戦争では第4師団長。遼陽会戦で負傷し帰国した。1905年、大将。

小川は、タイミングについて独断専行で決心したといわれる。当時、連絡線が途絶した情況であった。小川が「今謙信」とあだ名された理由は十分あるといわねばならない。戦場における勝機のつかみ方は、教育や試験、いわんや定理・ドクトリンのようなものからは簡単に得られない。

 小川はまたメッケルと大喧嘩したことでも有名である。おそらく陸大教育のあり方そのものに批判的であった。それでも、のちの陸大教官が日露戦争の『公刊戦史』や『機密日露戦史』を書き散らし、ロシア正式発表を鵜呑みにし、実戦の清華を台無しにしてしまうことまでは見通せなかったに違いない。

 得利寺附近の戦闘の2日後、朝鮮海峡でウラジオ艦隊により常陸丸が撃沈され、近衛後備旅団の多数が遭難した。日本の朝野は、得利寺戦勝利よりも、この事件により深刻な打撃を受けた。

 第2軍参謀であった鈴木壮六は、

「南山戦の復讐がなった」「(得利寺戦が注意を引かなかったのは)国民性の然らしむる所で仕方がない」

 と達観したが、この戦闘以降、日本軍はロシア軍に連勝を続けた。勝利のモメンタムをつかんだという意味でも重要な一戦であった。


日露戦争に戻る