1929年総選挙では労働党が勝利した。だが、相対多数に過ぎず、5月、労働党のマクドナルドにより挙国一致内閣がつくられた。1929年10月、ニューヨークで株式市場が暴落すると、ポンド危機が発生した。
第1次大戦以前のイギリスの貿易収支は、綿製品と船舶の輸出が支えていたが、戦後は両方とも輸出は激減した。大戦中に輸出マーケットを喪失したのであった。欧州ではイギリスだけが貿易赤字であり、フランスやイタリアの貿易収支は黒字であり、通貨危機は生じていなかった。
イギリス経済には4つの問題があると囁かれた。@財政赤字A外貨準備の不足Bポンド危機C失業率の高止まりであった。これらの問題の原因は一つであると思われた。
それは「輸出不振」と結論づけられた。1929年以降の緊縮予算によって財政赤字は解消された(いっこうに貿易赤字は減らなかったが)。赤字解消の大半は軍事費削減によってもたらされたが、ますます造船産業を苦境に落としいれ、失業者を増加させた。
もし輸出を増加させることができれば、雇用を増加できる。そうすれば税収が増加し失業手当支出は減少する。さらに輸出増は、外貨準備を増強させ、ポンドの価値は維持できる。
この理屈に誰も反論できなかった。
では、輸出を政策的に増加させるにはどうするか?少数の人間は自給自足経済を主張し、外界の荒波から大英帝国を守るべきだといいだした。彼らの結論は自由貿易をやめ保護貿易政策をとることだった。
この主張は保守党党首ボールドウィンによって支持された。彼は当時のイギリス人を代表する人格をもっていた。日曜日に教会にいく習慣はないが、義務教育で宗教的情操を与えることは必須であると主張した。ヨーロッパに興味がなかった。ドイツよりフランスの方が好ましいと思っていたが、それがためにイギリスが戦争に巻き込まれてはならないと思っていた。
1931年ポンド危機は深刻となり、ついに金本位制度を停止し、33%の切り下げを余儀なくされた。保守党は保護貿易導入のため、マクドナルドに議会解散を要求した。
労働党は、保護貿易または自由貿易について、いかなる見解も持ち合わせていなかった。改めて産業国有化と市場統制によるポンド危機解決を主張、閣内にあって保護貿易を主導しようとしたマクドナルドやスノードンを除名した。
自由党はサイモン派とロイド=ジョージ派に分裂していた。ロイド=ジョージは自由貿易死守の主張を崩さなかった。サイモン派は入閣者がいて、保護貿易に屈服した。
1931年10月、議会は解散され、総選挙となった。保守・自由・労働にまたがる連立派は公認証書(クーポン)は出さず、選挙区ごとバラバラに戦った。保守党は、自由・労働連立派のたつ選挙区を除いて万遍なく候補者をたてた。
労働党も万遍なくたてようとしたが、自由党有力候補者のいる選挙区は立候補辞退した。自由党は万遍なく候補者をたてられず、122選挙区だけであった。ロイド=ジョージ基金が選挙費用を出し渋ったためであった。
選挙の争点は「保護貿易」採用の是非であった。それでも有権者は保護貿易がどうしてイギリス問題の解決になるかはわからなかったが、イギリスが最大の植民地帝国であることはよく知っていた。また、産業国有化は第1次大戦の国有軍需工場の悪い記憶が残っており、貿易赤字解消の処方箋になるとは思えなかった。
選挙結果は保守党の圧勝であった。
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1929年総選挙 |
1931年総選挙 |
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保守党 |
260 |
470 |
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労働党 |
287 |
52 |
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自由党 |
59 |
32 |
1932年2月、新任の蔵相ネビル・チェンバレンは輸出税法案を議会に提出した。法案説明演説で、1900年代、同様の税制を主張して敗れた父、ジョセフ・チェンバレンの功績についても論及した。このとき与党席には525人いて、野党席にほとんど議員はいなかった。この7月に、オタワで帝国特恵関税創設のための会議が開かれた。
だが、1932年以降現在に至るまで、陶磁器・高級紳士服・ウィスキー業界を除いて、イギリス輸出産業は好転していない。これはなぜだろうか?一つの理由は保護によってかえって競争力が失われたことであろう。
二番目には、輸出増大は単なる消費サイドの政策にすぎず、生産サイドとりわけ設備投資と貯蓄増強の政策がなかった。銀行や投資家は国内産業に資金を回さず、利回りの高い植民地やアメリカに回したのであった。