海軍出身の軍官僚が首相に上りつめたのは米内光政で4人目である。山本権兵衛・斉藤実【まこと】・岡田啓介に次ぐ。第一次山本権兵衛内閣のとき、山本は現役士官であったが、在任中起きたシーメンス事件により予備役に退いた。
そのあとの3人はいずれも、首相就任とともに予備役に退いた。陸海軍とも予備役に退くと、原官庁からは全く情報が入らなくなった。この傾向は陸軍においてより顕著であった。陸軍人からみれば予備役軍人は民間人(地方人)と変わらない。
米内光政は短かった阿部信行内閣(昭和14年8月〜昭和15年1月)のあとを継いだが、昭和天皇の信頼は厚かった。阿部は陸軍出身であったが、昭和初期の軍政畑で、軍政ラインに乗せられやすかった。とりわけ軍事課長の有末精三に全てを任し、各方面の顰蹙を買った。
昭和天皇は、阿部内閣組閣にあたり、陸相人事にははっきりとした意見をいった。「梅津か畑にせよ」ということであった。これがため畑俊六が陸相になった。畑は作戦一筋であり、軍政経験がなかった。昭和天皇にとっては、これが畑の魅力であったろう。
米内はこの経緯を知っており、畑を留任させた。
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畑陸軍大臣の日誌
『現代史資料』陸軍4みすゞ書房
(7月4日)午後(沢田)次長来訪、此の如き消極退嬰の内閣にては到底何事も出来ず、速に挙国一致の体制をとり得る内閣を樹立する様陸相の善処を望む、部内に於て頗強硬なる意見にしてこれを放任するに於ては遂に軍紀を破壊するに至るべきことを憂ふとて申出でたり。此申出なるものは覚書とて総長宮殿下の捺印あるものなり。ここまで追ひ込まれては余として当然進退を明にせざるべからざることゝなれり。
大本営陸軍部参謀総長より陸軍大臣への要望
昭和十五年七月四日
帝国としては一日も速に支那事変の解決を喫緊とす。而して之が為には国内態勢の強化を前提とするのみ在らず、又変転極りなき国際諸情勢に対しても積極機敏に処理すること急務なり。
然るに現内閣の施策する所を視るに、消極退嬰にして到底現下の時局を切抜け得べしとも思はれず、延て国軍の志気団結に悪影響を及ぼすの惧れなしとせざるを以て、此際挙国強カなる内閣を組織して右顧左眄することなく断乎諸政策を実行せしむること肝要なり。
右に関し此際陸軍大臣の善処を切望す。
七月五日
外相は遺憾の意云々の新聞記事に就て未だ釈然たらず。何事も申入なきも当方としても何等働きかくることなし。参謀本部方面頗焦燥しあり。夜秋山〔定輔〕翁を訪ひ近衛工作を依頼す。
〔別紙〕
七月五日
一、対ソ交渉
中立条約が考へらるゝならば提出の準備ありとの申出をなしたり。目下電報翻訳中。
一、クレーギー回答はもう少し遅れるとのことなるが、相当難色あるべしとの観測なり。
一、対ソ援蒋ルートのこと。
ソは軍備に忙しき為援蒋の余地なしとのモロトフの回答。
一、蘭印問題に対する日本の見解をオツトーに伝へたる時、在日和蘭公使は如何に認むるやとの質問あり。之に対しクヰーンの代表者なりと見なしありと答へたり。蘭印より独が実カを施行するの余地なし。
一、蘭印経済問題は四相会議に於て検討することゝす。
拓務大臣よりの発言、
香港には封鎖を強くし、ビルマに関しては方法もなし。実力行使する能はず。香港を苦しめて成行を見る。
一、日蘇交渉は速に独に通報す。情勢によりては独を利用す。
七月六日
近衛公は本日軽井沢に赴き十日帰京すとのことにて其結果を待つことゝし、午後侍従武官長の来訪を求め、経緯及余の決意を説明し、尚総長宮殿下にも将来の見透しを申上げ置きたり。
七月八日
次官をして内府(木戸幸一)と面会、陸軍側の内情並余の終局の決心を伝達せしめ置きたり。心構へをなさしめんとする目的なり。
七月九日
本日閣議前首相に面会、近衛公対策は出来上りたるやと問ひたるに、何れ帰京の上石渡〔荘太郎〕を遣はし公の真の心中を問はしむる積りなりとのことに、余より何れ公と直接話し合ひさるゝことならんが、余の率直なる意見を述ぷれぱ、公がやるといふならぱ軍人
宰相らしく快く之を公に渡し、我等も公に協力するの態度が可ならずやと云ひたるに、総理は余も同感なり、何も政権にかじりつき度などの考なし、独り近衛公のみならず誰でも我々はベストを尽しあるが、ベツターをなすものならば快く渡す考なり、この考は未だ何
人にも語りあらずとの返答に、余は共総理の決心を聞き甚愉快なり、尚総理に御含み置きを願ひたきは、昨今軍の部内に於て、支那事変を遠に処理するためには国内体制を一層強化し、変転極りなき国際情勢に対応し機を失せず手を打つためには此際新政治体制を希望しあり、実際現内閣及現外相にては国の内外の信用なしといふ見地なり、かゝる空気が一層発展するに於ては、余は軍の統制及団結の見地より或は進退を決せざるを得ざることゝなるべし、此点予め御諒解を乞ふと述べたるに、首相は了承せりとの返事なりき。
午后四相会談后、首相より近衛公帰京の上石渡を遣はしよく其心中を確かしめ、公が我カよりよきことをなすならば我等は協カを吝まざる積りなりとの意見なり。三相之を諒としたる形なり。其后に首相は余に対し、先程の進退問題とは君のことなるかとの問ひに然り
と答へ、又それは時機の問題なるべしとの問ひに然りと答へ置きたり。
〔別紙〕
七月九日、
一、ビルマルート禁絶に対する英国の回答
此の如き小間題にて日英間に重大なる問題を惹起することは困ることなるが、根本的の問題を解決の方法なきや、即日支が速に戦争を終結することなり。英は之に協カするも可なり。
外相 今此問題は困るが英が圧迫を加ふるにあらざれぱ不可能なるべし。
英 圧迫は困るも説得は可能なり。
外 援助を止めざれぱ出来ざるべし。
英 米と共にするも可なり。条件が明なれぱ橋渡をなすべし。
外 相談せしや。
英 日支の紛争伸裁に就ては話合ひたり。米は出来るだけのことは分担して可なりとの意志表示なり。
外 話は急ぐことなり。禁絶は英の再考を求む。一週間か十日なり。
英 提案は如何に考ふるや。
外 日蒋の代表が某地点に会合して停戦を議する周旋をなすのならぱ不可能ならざるべし。
外 禁絶と此中裁交渉とは別問題となすの意見。
新南群島の処分。
モロトフは乗気なり。
.七月十日
本日総長殿下、総監と共に葉山に伺侯、軍拡に関する上奏並人事内奏をなす。重要なる御下問次の如し。
1)、中野学校新設に伴ひ、先般神戸英領事館襲撃事件もあり、此の如き又内政に関する謀略などやらぬ様十分の監督指導を要す。
2)、内地に設くる軍司令官が濫りに地方長官などを圧迫する様なことがあってはならぬ。
桐工作等に関し種々御下問ありたるが、桐工作がうまく行かぬ時は第三国を仲介に利用することゝなるが、英は今やカなく支那は信用すまじく、米は実力ありて最適当と考ふるも之を利用し若し条件が不十分なるが如きことあらぱ国内的に面倒となり、結局独といふこ
とになるがうっかり頼むと後にて難題を持かけらる、が如きなしとせざるを以て、此辺十分準備行動を要すべしとの御言葉なりし。
〔別紙〕
七月十二日
(外)
一、独伊と接近せぱ米との工作は見限らざるべからず。
一、ソに対しては交渉を取急ぐは不可なり。
一、本動員は香港に対するものにして、英より見れば日本の敵性明瞭となり、米国としても敵性を事実と暴露することゝなり、影響なしとせず。
(外)
一、南洋に関しては独伊英米何れなりとも千渉は排除せんとするものなり。仏印に於ても然り。従て返事は期侍せず。
一、蘭印に関し独は政治経済上如何なる考へを有するかを確むる必要なきや。
一、対米問題が対独伊対策の根本なり。
対米関係を考慮に入れ対独問題を具体的に関係者にて研究せしむることゝす。
〔一策〕
七月十四日
西原電
十二日よりの会見に於て仏印総督は左の如く懇請せり。
有田外務大臣が左の声明又は署名ある秘密の手紙を総督に交付せらるしに於ては、総督の権限内に於て有ゆる軍事又経済協カを日本に致すべし。
左記日本監視委員及広東軍代表(佐藤〔賢了〕大佐)並に仏印当局は意見交換の結果、仏印の現状を維持し且欧洲戦乱の東亜に波及するを防止し、又東亜に於ける平和の迅速なる回復に協力す。
余及軍務局長より石渡書記官長に対する意見開陳にも係はるず政府は居据りに決心したりとの情報あり、一両日中に強き意志表示をなすとの情報ありたれば、余とレては其前に首相に面会し先づ政策上現内閣が速に退却するを可とすべく、延てこれが軍の統督上重大なる余の責任となるべきことを伝達し置くを可なりと思ひ、本夕七時錦水別館にて食事を共にしつゝ十分意見の交換をなす如く約束し、余より先行し待居たるに新聞記者に追尾せられ総理は遂に来らず、止むを得ず準備しありし覚書を鵜池秘書官に托し総理の一覧を乞ひ、次で電話にて読んで貰ひ度旨連絡し置きたり。
七月十六日
本日閣議前に首相に面会、一昨夜の書類は見られたりや、これに対する御意見如何と問ひたるに、総理は威丈高になり、これより公式のことなるが、
- 苟くも大命を奉じて内閣を組織したる以上、大義名分に則する立派な理由なけれぱ陛下の御前に御暇を頂戴するといふことは私としては申されぬ。
一咋夜頂戴した意見によれば、第一段は陸軍はかく思ふといふ、国民はかく思ふと陸軍は考へている、それ丈けのことで陛下に申上ぐるを得ず。陸軍がこういふからとて陛下に申上ぐる能はず
- 将来かくあるべしといふ希求の下に内閣をやめるといふこと
は私の辞職の理由とならぬ。
- 陸軍部内の統制に就ては申上げず。
- 乍併陸軍大臣が此の御意見の通り御考へになり、又他に考へる余地なくば辞表を出して貰ふの外なし。
とのことに、本朝首相が余の意見に対しもう少し考へるとか或は不同意なりといふ時は直ちに提出する様辞表を準傭しありたれば、直に之を提出して執奏を乞ひたるが、総理は然らば後任を出して呉れとのことに、余は撰定は困難なるべしと答へたるに、然らぱ后任は出ないと諒解して可なりやとの総理の言に、それは困る、何れ三長官に謀りて夕刻までに御返事すべしと分れ、直に此旨秘書官を招致伝達し、午后一時半より総長室にて三長官会議を開催し、余より経過を報告し、総監より大臣の処置は止むを得ざるものと認む、大臣の意見は陸軍全体の意見なれば後任はなる人もあるまじく、撰定至難なるべしとの意見に之に同意し、其后直に寺内、杉山、岡村三軍事参議官の参集を求め、経緯及后任の件を図り同意を得、三時より四相会議に臨み総理に、一昨夜の意見は陸軍の意見を代表したるものなり、依て総理の意のある処はよく伝へて后任者を詮衡したるもなる人なく撰定至難なりと答へたるに、総理は了解せり、
余の決心定まれりとて四時半より臨時閣議を開き、総理よりこれは臨時閣議にあらず、余の決心を開陳するものなりとて、
現内閣は就任以来大いに努力し成績を上げ来りたるも、陸軍大臣より政情の信念に於て異なるものあり、延て軍の統督期すべからずとの理由を以て辞表を提出せられ、后任め撰定は到底期待し難く、かくては内閣成立せざるを以て重任を解かれ度闕下に骸骨を乞び奉る決心なり、諒承ありたし、
とのことに一同異議なく、直に辞表を取纏め、総理は直に葉山に参内せり。首相が余の意見を閣議に図ることなく、直に決心として吐露したる点は、論争をさけたるものとして其態度は多とするに足る。
七月十七日
本日人事内奏の為葉山に参内したるとき、内奏の后余が辞表提出の経緯を詳細に申上げ御詑申上げたるに、咋日のことは遺憾ながら、従来の大臣と異なり辞表にはつきりと理由を記したるはよろし、との御言葉を戴き感激に堪えず。
又二十日頃まで待てなかつたかね
と御下問あり、総理より辞表の提出を要求せられ急転直下し、為に聯合艦隊への行幸が御取止めとなりたるは誠に恐催に堪えざる旨を奉答せり。
本夕近衛公に大命降下、夜直に華族会館にて会見を求められ後任陸相の推薦を求められたるを以て、何れ三長官に謀りたる上にて返答すべしとて色々雑談して分れたり。
七月十八日
牛前八時半官邸にて三長官会議開催、東条中将を推すに異議なく、午后二時之を内奏して御許を得たり。唯此手続が将来先例とならざる様にとの武官長の注意あり。
それは首相を押付ける形となり又之に従はざるときは違勅となるべしとのことなるが、首相たるべき人が其選定を陸軍に委任され部内にて之を撰定したる以上かれこれ異論の串づべき筈なく、此手続がよきものと信ず。 |
畑日誌とも日記ともいわれるものの抜粋であり、次の内容である。@7月4日、参本(沢田参謀次長)から3国同盟へ前向きになるように閑院宮レターをみせられ、圧力をかけられた。A7月8日、次官(阿南)と内大臣に自分の(昭和天皇へ)辞意を伝えた。B7月9日、米内首相に総辞職を迫り、快諾させた。だが不穏な形勢がみえた。C7月14日、米内首相翻意のため、再度閑院宮レターをみせ圧力をかけた。
ところが、@〜Cすべてについて、関係者は事実関係を否定し、本人も戦後になって、一部否定している。加えてあったことが確実な7月10日の阿南・沢田の訪問は書かれていない。
すなわち@については訪問した沢田は言う事を変えながら訪問そのものを否定した。
Aについての当事者である木戸は米内倒閣と3国同盟を阿南にいわれたとしている。
BとCについて米内は全面否定である。
日誌といっても、当時の陸相は主として引き継ぎのため、必要事項を書きとめることを習慣としていたもので、後日編集可能であった。しかも辞任1年以内に書かれたもので、(畑がそう思い込んだ)陸軍全体の意に従った内容となっている。終戦後あからさまに述べている閑院総長宮や沢田次長への憤懣やる方ない批判は全くない。
畑が参謀本部または陸軍全体の意向に忠実に、職に恋々とせず、昭和天皇の信任も一顧だにせず、米内内閣倒壊に動いたとは信じられない。
『木戸日記』下には次のような記述がある。
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ー木戸内大臣の日記ー
7月5日(金)
午前七時半、警保局長、続いて警視総監より電話あり。其の要旨左の如し。
前田一派の予てより画策せる直接行動は愈々機熟し、今朝七時に決行との内偵を得たるを以て、五時半より検挙に着手し、市内六七ヶ所の集合箇所に於て進行中なり。目標は米内首相、町田、牧野伯、原田男、一木男、池田氏、岡田大将、湯淺氏、松平宮相等なり。
ピストル九、手榴弾二、日本刀三十本、揮発油ビール瓶入三十本、外に決起主意書多数を押収せりと。
7月8日(月)
阿南次官来訪、左の如き要領の話ありたり。最近四五日の中に政変を見るに至るやも知れず。軍は世界情勢の急激なる変化に対応し万善を期しつつあるところ、米内々閣の性格は独伊との話合ひを為すには極めて不便にして、兎もすれば手遅れとなる虞あり、此の重大時機に対処する為めには内閣の交迭も不得止との決意をたせる次第なり。而して陸軍は一致して近衛公の出馬を希望す。十日に近衛公帰京の上は陸相会見せらる上こととなるべく、之を契機として米内首相に重大進言を為すこととなるべし。外務大臣の人選が最も困難なるべしとの余の質間に対し、軍はそれ等のことは一切近衛公に御任せする積りなりとのことなりき。
7月13日(土)
十一時出勤。
十一時半、武官長と面談、
昨日陸軍大臣に面会、左の如き話ありたり。
一時は首相も内閣の進退につき諒解せし様子なりしが、最近の閣議は硬化したる様子にて、政策の行づまりど云ふにもあらず、総辞職の理由なしとの論なりしとのことなり。
7月14日(日)
其の際政変云々の件につき御話出たるが、陛下には米内々閣を今日も尚御信任あらせらるゝところ、内外の情勢により内閣の交迭を見るは不得止とするも、自分の気持は米内に伝へる様にとの思召あり。可然時期に難有思召を伝ふる様取計ふべき旨、奉答す。 |
湯浅内大臣の後継である木戸幸一は社会主義的傾向のある親独主義者であって、昭和天皇の自由主義的、親英米的傾向を近衛文麿と一緒になり矯正しようとしていた。
7月5日の前田一派によるテロ計画は、じつは陸軍省武藤軍務局長が背後で尾を引いていた。陸軍軍政畑は機密資金を一手に握っており、かねてから院外団や暴力団との関係が深かった。前田のテロの目標に、西園寺の内大臣推薦者、一木、岡田、米内・牧野・湯浅など三国同盟反対者、武藤に抵抗した町田(民政党党首)が含まれていた。このとき、近衛は事務所にテロリスト井上日召を抱えており、宮中の情報は武藤らに筒抜けであった。
まず動いたのは陸軍省次官の阿南惟幾である。内容は米内倒閣であって、木戸が賛成の言辞を吐いたのは確実であろう。この動きは水面下であり、畑陸相は7月13日まで次官や軍務局長の動きを知らなかった。木戸は米内に替えて、近衛を推すことを、10日前後には昭和天皇に言上したに違いない。
7月16日以降の動きはある程度確かである。
7月16日、
午前9時、畑陸相辞表提出(阿南の木戸への電話では、首相より求められた)
午後2時半、陸軍三長官会議(畑・閑院宮・山田乙三)。後任出さず。
午後6時半、米内、閣議室に閣僚を集め、之は閣議でないとして総辞職の決意を披露、畑陸相は苦い顔をしていたが、直ちに一場の挨拶を述べた。
7月17日、
百武侍従長の招電により、原枢密院議長、若槻、岡田、廣田、林、近衛、平沼の6総理経験者が西溜の間に参集、後継内閣の首班者選定の会合を開いた。木戸が終始会議をリードし、近衛を後継首班とすることが決められた。
阿南が直属の上司である畑をまったく無視しながら、倒閣工作を木戸・近衛と進めていることは驚くべきであるが、沢田茂参謀次長の全面的とはいえない支持があった。次の一節は東京裁判における沢田の「証言」と「回想」である。内容は両者で大きく異なる。
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ー沢田参謀次長の証言ー
『東京裁判法廷記録』
昭和十五年(一九四〇年)六月の末、私は作戦視察のため中国大陸に居りましたが、緊急の電報で呼び戻されました。帰って見ますと、陸軍と内閣が対立してをりました。
陸軍はドイツと密接な関係を希望し、内閣は真向からそれに反対してをり、参謀総長閑院宮殿下はドイツの勢力を利用して、事変を解決することを希望せられ、陸軍と内閣との対立を御心配されその解消に意を注がれました。
同年七月上旬頃殿下は"ドイツの仲介により日華和平の促進を図ることは余の熱心な希望であるから、そのつもりでよく陸軍省のものと相談せよ"と申されました。
阿南陸軍次官を訪ねて二人でこの問題を討議したが、阿南次官は"参謀総長がドイツを利用して和平を促進すると云ふ御意見を緩和されない限り、ドイツ利用に反対する現内閣を更送以外他に方法はあるまい、現内閣の性質上改造程度では到底その希望は達成できないであらう"との意見であった。
私はこれは畑陸相の内意であるか否かを確かめたところ、阿南次官は、"これは次官以下のものの考へである"と申した。そこで私は事態はきはめて重大である、陸軍の輿論と内閣が対立してゐるのだから、今一度総長のお考へを聞いた上で会はうと言って別れ
た。
私の報告を聞かれた総長は"余の意見が陸軍部内の大多数の意見であると云ふのならば、この意見にさらに努力してもらひたい。
次官の考へでは内閣更迭の外に手はない、と云ふことであるが、若しこの非常手段に出づるとすれば、大臣(畑俊六)に対しては真に気毒ではあるけれども、事変解決といふ国家の大事のためには、忍ばねばならぬ"と仰せられた。
私は再び次官を訪ね、総長のお考へを述べておきましたが、その時も阿南次官は、最初の意見を変へてはゐなかった。数日後私は、参謀総長の御命令で一通の覚書を認め、この文書に参謀総長が署名捺印してこれを畑に渡すやう御命令になり、私は直ちにこの文書を畑陸相に交付した。
そのやうな次第で、畑陸相は総長の御署名をされた文書をいただいたので、その翌日か翌々日であったか直ちに辞表を提出した。従って米内内閣は総辞職した。
元来米内内閣は保守的性格を有し、ドイツと提携しこれを利用して時局を収拾することに反対の、意見を有してゐたため、陸軍部内の大多数は、同内閣は事変解決に弱力で、時局担当の能力がないと認め、これを倒壊して和平推進を図らんとする意向が強力であったのである。
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「そのような次第で、畑陸相が文書を受け取り、翌々日辞表」については、7月12日または13日に畑が文書を受け取り、14日に辞表提出という流れを沢田は想定していた。この文書受け取りは畑が首相に手渡したとされる件と混同されている。
次の『回想録』で、沢田自身も畑が7月4日に受け取った件について、畑の誤解であるとしているのはこの混同による。また沢田が混同していることは阿南の動きを沢田はまったく承知していなかったことを示す。米内・昭和天皇は、木戸を通して、政変について了解していたのである。
真相は阿南が7月4日に畑に偽造文書を渡し、そのあと畑がそれを7月13日に米内にみせたのである。沢田が両方を混同していることは、じっさいの手紙を渡す現場には立ち会っていなかったことを証明している。 |
『参謀次長沢田茂回想録』芙蓉書房1982
前述のように私は七月一日、東京に帰ったが、途中国府津で、とくに出迎えに来た柴田芳三庶務課長から、私の留守中に、東京で陸軍と内閣との聞にごたごたがあり、東京はいまもやもやしているからと、その概略をきいて「ははあ、これが私に早く帰ってくれと言ってきた電報の原因だな」と考えつつ、昼過ぎ大本営に帰った。
すると暫くして、各部長打ち揃って私のところにやってきて、留守中におきた内閣とのごたごた話をし、こんなことでは困るので、次長たる私の考慮をお願いすると申し出た。そこで
そのごたごたの内容を質したが、いま私の記憶にあるところでは、次のようたものであった。
有田(八郎)外相が、時局についてラジオ放送をするというので、その内容について陸軍側から今ドイツ・イタリアとの提携強化というようなことを外務大臣が一言いったのでは、アメリカに悪影響を与える恐れがあるので、それはこの際控えてもらいたいと申し込んだ。
外相もそれを考慮して放送したのだが、何しろドイツの大勝利のために日本国内にもなんだか強気の風が満々としていたので、外相としてはどうしても強気の放送をしたいところだったろうが、陸軍に押えられてそれができたかったので、ドイツイタリア提携も言い得なかった、という意味を新聞記者に洩らした。
これが陸軍省の若手運中の間で間題となり、憲兵隊が須磨(弥吉郎)部長を呼び出して取り調べをするということにまで発展し、米内、有田に対する不満がますます強くなった。
そこで私は各部長に対し、本件は次長が一人で解決するから部長以下は口出しするなと申し渡し、それからゆっくり対策を考えた。その結果、私とLては、思い切って内閣更迭をしてもらうほかはないとの結論に達した。
その理由としては、これからどうしてもドイツ・イタリアとの提携を強化していかねばならないのに、米内総理はもともとドイツぎらいで、さきに平沼内閣の海軍大臣として、当時に起きた日独同盟論に対して強く反対、ついに内閣瓦解となったこともあり、これでは心から日独提携強化という新政策に乗り出せるわげのものではなかろうし、また先方ドイツでも米内内閣を信用することはなかろうと、なんとしてもこの際、内閣を変えた方が万事好都合である。
その次に私が心配したのは、もしこのままでうやむやに推移していげば、陸軍部内に不祥な軍紀事件を起こすのではないかと思ったのである。それは畑(凌六)陸相の部内に対する威厳が、さきの衆議院(注)におげる斎藤隆夫代議士(民政党)の反軍演説以来、なんとなく重みを失いかけたようた感じのあったところへ、今度の有田外相の放送事件である。
この放送事件は、そう問題にしなければしないでよい程度のものであるが、それを若手将校が騒ぎ立てて大きくするところに間題があると考えた。
〔注〕衆議院におげる斎藤隆夫代議土の反軍演説に対して、畑陸相がその日即刻なんらの反駁をも加えず、翌日に至って陸軍側の所見を述べたことは、売られたケンカに対する処置としては、いかにも手ぬるいという物足らなさを陸軍部内に与えたことをいう。
そこでその翌日、私は阿南陸軍次官を訪ね、次のように話しかけた。
「私の留守中に、ちょっとともめごとがあったそうだな、統帥部としてはこんなことでは今後の戦争指導に大きな支障がおきると思うから、この際、陸軍省において真剣に内閣更迭をはかってもらいたい。
大臣がその気になって辞表をお出しになり、陸軍から誰も後任が出なげれば、内閣更迭はできるんじゃあないか、ぜひ大臣に相談してもらいたい」
これに対して阿南次官は「承知した。よく相談した上で返事をする」とのことであり、なおその際、阿南が「次の陸軍大臣は誰がいいか」と一言うので、私は「そりゃあ東條がよかろう」と答え、阿南も異存はなかった。
私が東條を押したのは、大臣侯補としては当時、.梅津(美治郎)、東條(英機)の二人というところだったが、統師部としては梅津に関東軍司令官を当分つづけてもらいたいとの考えがあった。
また阿南が梅津と同郷の関係で、梅津が大臣になれば私は次官をやめると前からときどき繰り返していたので、この際私が梅津を押すことは、同時に阿南にやめろということになり、私情としてそれは言うにしのびなかった。
元来、省部間の慣例と大本営服務観定によれば、戦争指導に関する大本営側の意見は、まず次長から次官に移し、それから大臣、総長問で協議決定し、ついで陸軍大臣から内閣にはかり、事により内閣単独で、あるいは内閣・統師部の連絡会議で決定することとなっていたので、私はまず次官に私の考えを申し出たのであった。
それから私は、次官の返事のあるまで陸軍省の人とは誰にも会わなかった。そしてそのころ、私の手元に提出された前述の「世界情勢の推移に伴う事局処理要綱」を研究した。
阿南に会って暫くしてから、私が退庁しようとしていたら、阿南がやってきて、相談があるとのことだ。
その相談というのは、いよいよ内閣更迭を決心した。ついては、その更迭を求める統帥部側の一札をくれまいか、というのであった。
私としては、こういう政治間題は陸軍大臣の独自の意見として統帥部を誓れにせず陸軍省だげで取計らつてもらいたいと思つており阿南にもそのことを言ったが、どうしても一札ほしいと言う。
私としても、もともと自分でいい出したことなので、この際、相当の責任を辞すべきでないと考えた。
しかし内閣更迭という政治問題に、皇族たる参謀総長が関与することは、皇室のことも考えると、なんとしても避げておきたいと思い、阿南に対し「総長の名前で書くことはできないが、次長の名前ならば書こう」と言ったところ、阿南はそれでよろしいとのことであった。
そこで二人が、その案を相談した。その結果たまたまでき上がっていた「事局処理要綱」の趣旨をとって、大要次のように書いたと思う。
時局に関する参謀次長の要望
今や帝国は内に長期持久の確固たる態勢を作り、外には独伊との提携を強化し、もって現下の新時局を整理すべき時にあり。これがため国内政治態勢の強化につき、速やかに陸軍大臣の善処を要望す。
昭和十五年七月 日
参謀次長沢田茂 印
日付は七月四日と思うが、この書類は、終戦時焼き捨てられた。畑大臣の日記にのせてあるこの書類の内容が、あまりにも私の記憶と違い、内閣を非難するような強い字句があるが、それは私にまったく記憶がない。
また大臣は、その書類は参謀総長の署名であり、載仁という閑院宮殿下のご捺印があったといわれるが、それは絶対に私だけの取りはからいであって、殿下のご印はいただかなかった。
「この書類はオレが持っていくよ」と言って、阿南が持ち帰ったが、畑日記では、私が直接大臣につきつけたように書いてある。そのへんは、どうも違うように思う。
もし大臣の書類についての日記記述が、大臣に関する点で間違いないとすれぱ、それは阿南が持ち帰って大臣に渡すまでの間に、なんらか細工でもしたのではないかと疑わざるを得ないのである。
この阿南との会見にあたり、阿南はてっきり大臣と相談してきたものと、私は一人がってんをしていたので、前記の一札を要求する人が誰であるかということを確めることなく、当然のように大臣の要求と考えていた。
今日になって、いろいろな話をきくと真に辻棲が合わない.ところがあるが、これは陸軍省側に相当腹芸のできる阿南次官と、陸軍きっての策士武藤軍務局長とがいたことに、なんらかの疑惑をかけないわけにはいかない。
しかし、もともとの言い出しは私にあるので、その責任は甘んじてこれを受げる。
七月十日すぎだったと思うが、阿南次官から、大臣が呼んでいるからと電話があり、さっそく阿南と一緒に大臣室へ行った。実は、この問題が起きてから始めて大臣にお目にかかったので、私は大臣に対し「委細はすでに次官からお聞きのことと思いますが、とにかく私の恐れるところは、軍紀上の不祥事を起こすようになりはしないかということです。この際、特に大臣のご決断をお願いします」と普通の口調で申し上げた。
この点も畑日記では、私が書類をつきつげて非常に強い語調でどなり込んできたといわんばかりに書かれてあるが、どうも納得がゆかない。書類は前述のように阿南が持ち帰って以来、私は一度も見たことはなく、当然この日の大臣との会談の前に、大臣に見せてあったものと考えていた。
畑大臣が、米内内閣の組閣にあたり、陛下から米内大将に協力せよとのお言葉をいただいていたことは承知していたので、その畑大臣に米内内閣を倒せとお願いするのは、私情においては誠にすまぬことだと思っていたが、これまた止むをえない次第だと考えた。
なおまた少し思い過ごしであったかもしれないが、この頃なんだか重みが減ってきたように感じられる畑大臣が、へたして軍紀上の不祥事に出会うようなことがあれば、それこそほんとにお気の毒であり、今が大臣の退き時ではないかとひそかに考えたこともあった。
その後、大臣とは官邸で土曜日(7月13日か?)の会食をしたこともあったが、本問題に関しては、なんら突っ込んだ話はなかった。
七月十日すぎの大臣との会談の際、大臣から「君らは、あとの総理に誰を望むか」とのお尋ねがあったが、私は「それは陸軍省の方でお考えになることで、統帥部としては別に意見はありませんが、私個人の考えとしては、近衛公はどうであろうかと思います。
私は「それは支那事変に関し、公は後始末の責任があるからです」と述べ、阿南も別に異存はとなえなかったが、大臣は「近衛さんになったって、たいした変わりばえはないじゃないか」と言われた。
私の近衛説は、前もって近衛さんと。連絡をしたことはなにもなかった。数日前に新聞で、近衛さんが、日本に新政治体制を築きたいということを発表したのを見たことはあったが、それは今回の私の近衛説には、何らの影響を与えていなかった。
そののち阿南からの連絡で、彼が大臣の命を受げて近衛公を訪間し、公が時局担当の決意あることをきいてきたことを承知した(*)。しかしその他の経緯については何も知らないうちに、内閣はいよいよ総辞職をするに至った。 |
歴史史料を批判する上では、時間前後しての矛盾の場合、先行した史料を優先する。ただし、沢田茂東京裁判証言は任意性が薄いという点を考慮せねばならない。描写の点では、両者ともに微妙ではるが迫真性がある。
まず閑院宮関与であるが、これはあったことが確実であろう。というのは東京裁判における任意性をいうとき、弁護側要請による陸軍組織防衛が問題となる。このとき検事側も弁護側も木戸を除く宮中関係者不訴追の方針をとっていた。
本来であれば、沢田は閑院宮弁護にまわらねばならない。ところが裁判証言は逆である。沢田はあとになって、宮中関係者弁護の方針をいわれ、回想録では脚色したのであろう。要するに「陸軍勢力」や「陸軍の圧力」と称されるものは閑院宮である。
閑院宮の意図は「支那事変」解決である。それがためには「防共協定」の復活である「日独同盟」を締結し、ドイツの仲介で蒋介石と交渉しようとした。じつはこのとき「桐工作」が失敗に終わりつつあった。今井通夫ら支那通が仕組んだものであるが、「全権確認」ができず、ものの見事に失敗した。支那通は阿片戦争・アロー号戦争・日清戦争で現れた中国外交の「全権否認」による誤魔化しを知らなかったのであろう。交渉による和平とはまず蒋介石の要求する「休戦」に応じ、第三国による調停を受けるのが常道である。
閑院宮はトラウトマン工作の再興を狙ったのである。それにはトラウトマン工作を潰した米内光政は許しがたい存在であったろう。
ただ、沢田の言い分では本人は畑を標的としたようである。この辺りの事情はわからない。
このあと畑に引導をわたそうとする阿南が登場する。この男は次官であるにもかかわらず、大臣を追い落とそうとした。7月4日に沢田に「一札」を書かせた。ここでも裁判証言と回想では異なっている。畑の証言では参謀総長宮の印判が確かにあったという。
阿南は、内容をより過激にして、参謀総長宮の有印文書偽造を謀ったのであろう。
7月10日、阿南と沢田は、畑に引導を渡しにいった。畑とすれば、まさか部下である阿南が自分を更迭させたいと思わなかったであろう。この阿南にはめられたという事実を戦後になっても畑は認識できず、阿南の十三回忌や十七回忌に参列している。ともあれ畑は沢田が自分の辞任を強引にすごみきたと思った。木戸日記では、13日の閣議では米内・畑双方が、何もないように振舞った。
おそらく、その直後、阿南は参謀総長宮の偽造文書を畑に示した。それでも畑は自分の追い出し策動ではなく、米内倒閣だけと思った節がある。加えて、阿南が畑の命令をうけて、近衛を訪問し、組閣要請したという(*)のは全くのデッチ上げであろう。阿南の虚言癖・二重人格は、沢田は「腹芸のできる」という表現により、確実であろう。自分が武藤や木戸・近衛と三国同盟を画策したにもかかわらず、表に出ず、閑院宮と沢田を主導者に仕立てたのである。
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ー戦後になっての畑陸軍大臣の証言ー
畑俊六『巣鴨日記』全編小見山登編著日本人道主義教会1979
「まあ米内君も亡くなって十年も経ったことだし、自分もあと十年、二十年と生きられるわけではないので、裏ばなしを御披露するが、但しこれから話すことは両君にことはっておくが、自分の目玉の黒いうちは伏せておいてもらひたい」
と、前置きして、大要次のやうな回想談を洩らした。
「実は閑院宮様のおっしやるには、支那事変の解決を早期にするためドイツを利用したい。これは陸軍の大部分の考へでもあるやうだし、自分もまた同意見であるが、米内の姿勢は反対のやうである、陸相としてこの際米内とよく相談をし、若し米内の協力を得られないやうであれば、陸相を辞任してもらひたい。さすれば後任問題で陸軍が応じなければ、米内も辞職をせざるを得まい。米内を潰す以外に現状を打開の途はないと思はれる畑、自分の意見に協力をしてほしい。と仰せられた。
自分は、支那事変の解決についての持論を申上げたが、宮様のドイツ利用の御意志は根強く御翻意は困難と見て取ったので、善後策は別に講ずることとして取りあへず御承けした。
君らもものを書く仕事をしてゐるのだからよく知ってゐるであらうが、日本人はどうも古い昔の貴族政治の頃から、勢力均衡が崩れて収拾困難な世上がつづき、乱世の兆が現れると、対抗する双方が申し合せたやうに天皇家御一門や、それに準じる宮様、公卿を担いで事を謀る習性がある。
早い話が明治の御維新のときもそれが踏襲され、佐幕派の時の老中安藤信正によって幕府の立直し策に、公武合体論とかで、孝明天皇様の御妹、和宮内親王を、将軍家茂に降嫁上奏した政略結婚があり、叉勤王武士団側でも五摂家の三条実美公等世に云ふ西奔七公卿の利用があった。
閑院宮様の場合とてこれと同じである。と自分はその時つくづく思ったことである。
とにかく、侍従武官長として御側に仕へた折、深く感じたことであるが陛下は真底戦争を嫌がって居られ、叉世界の趨勢についても卓抜した御識見を有され、ドィヅとの提携、イタリヤを加へての三国同盟についても、軍事同盟化を経て世界大戦にと変貌してゆくことを大変危倶遊ばされてゐるやに拝してゐたので、自分としては陸軍大臣として内閣と、陸軍部内との板挾みと云ふよりは、閑院宮元帥と、大元帥陛下との御意見の差の板挾みのはうが、まことにつらかったのである。
皇族の最長老としての閑院宮元帥の御顔を立てねばならぬが、更に優先して大元帥陛下の御意志に添はねばならず、自分の生涯に於てこれ程苦痛を味はったことは他にはなかった。
米内内閣を潰すと云ふことは従来の政治の流れを反対の方向に押しやることとなり、陛下の御寝襟を益々悩ましたてまつることとなり、さう思ふとこの重大さに身は引きしまり、一両日深思熟考の末漸く一つの案を立てると米内に会ひ、大要次のやうな打合せを講じた。
自分としては立場上閑院宮様の御顔を立てるため、一応形式的に陸相辞表を出すけれど、総理大臣としてはこれを飽くまで受理しないで慰留してほしい。君が若し受理するやうなことがあると今後の日本はきはめて多難な時局に遵遇し、その収拾は容易ならざるものがある。君が自分の辞表を蹴ってくれたら、自分としてはその慰留に応じ閑院宮様のおことばに固執することなく辞表を撤回し、二人協力して難局を打開しようではないか、自分の辞表を握り潰してくれ、と申し出た。
米内は自分の提案に対して賛意を表しよしさうやらうと誓約したので、自分としては翌日であったか翌々日で協ったか形通り辞表を提出した。ところが案に相違して誓約を反故にし、アッサリこれを受理したので後継陸相は暗礁に乗り上げ内閣は崩潰した。
米内は法廷において他のことについては比較的事実を証言したが、このことに関してだけは口をつぐみ云はうとしなかった。
法廷において本人が云ひたがらないものを、ああだかこうだかと今更ら云ふのも弁解がましく、又それを云ふとすれぱ宮様の御名前を出さねばならず自分としてはこのことは今日まで胸三寸に蔵ひこんでゐたのである。
その後米内は自分に会ひにきて只すまぬすまぬと云ふだけであった。米内君が誰れによってどのやうな圧力をかけられたか、米内君自身の変心によるものか否か、自分は陸相辞表以来本人にこのことに関しては一切聴きもしなかったし、その実情は判らぬままである」。 |
畑俊六(1879〜1963)
旧会津藩士の子として東京に生まれる。兄英太郎も陸軍大将。府立一中、陸軍幼年学校、陸軍士官学校(第12期)卒。野砲兵1連隊少尉として、旅順攻防戦に参加。東鶏冠山方面で左胸貫通銃創をうく(そのとき受勲したのが、左胸に輝く勲5等金鵄勲章)。陸大卒。34歳のときドイツ駐在。ドイツ滞在中第一次大戦勃発。8月帰朝。1918年、パリ講和会議に西園寺公望の随員として渡欧。参本第一部長。教育総監。中支派遣軍司令官。侍従武官長。陸軍大臣。支那派遣軍総司令官。1944年元帥。
終戦直後杉山・永野が死亡すると、戦後唯一の元帥として生き延びた。
畑は7月10日までの内閣倒壊の企ては閑院宮と沢田が、木戸・近衛と仕組んだものとみなしたが、自分と米内には昭和天皇の信任が厚いとみて、尻すぼみになるとみなした。生涯、陰謀は沢田以下の参謀本部の面々が、閑院宮をかついで起したと信じた。
7月15日、米内と畑は、乗り切りの手段として、いったん畑が辞表を出し、それを米内が昭和天皇の上意を含ませながら慰留、総辞職を防ぐ策で臨むことに一決した。16日、畑が辞表を米内に出すと不思議なことに前日の打合せと違い、米内はそれを受理、そのまま全閣僚の辞表提出に動いた。
畑が裏切られたと感じた。
それに先立つ7月14日、木戸は昭和天皇に内閣更迭を申し出、受け入れられた。木戸がどのような説明をしたか明らかではない。ただ、昭和天皇の米内への信任を一挙に突き崩すに値するものであったに違いない。もちろん個人としての新任を失わなかったことは『木戸日記』の記述で明らかではあるが。
畑の「新」証言に矛盾は感じられない。米内の行動が説明に難しく、何か隠していることは確実であるからだ。
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ー米内首相の証言ー
『東京裁判速記録』
九月二十二日
サントン 畑は彼の辞任前、あなたに手紙または覚書を渡さなかったか?
米内 はっきり記憶しない。
サントン では、あなたの記憶を新たにしたいと思う。畑が辞職する前、あなたに渡した手紙または覚書には、次のことが書いてあつたのではないか。「現下の状態は世界情勢の一大転換期に際会し、国内体制の強化、外交方針の刷新は焦眉の急となっている。しかるに政府は何らなすことなく、いたずらに千載一遇の好機を逸する憾がある。かくては事変処理完遂のためにも支障を来す。すべからく、この際、人心を一新し、新体制の確立を促進するため、現内閣は大乗的見地より、その進退を決意してはどうか」という意昧の手紙を、畑はあなたに渡したか?
米内 そうですな、そういつたような意味はなかつたと思います。
サントン しかし、あなたは、いま、畑があなたに手紙を渡したという事実は思い起しましたか?
米内 思い起しません。
サントン この記事は、昭和十五年七月十七日の東京朝日新聞に、次の題のもとに報道されたのではありませんか。その題は「米内・有田の外交政策の清算」というのです。
ラザラス弁護人 これは全く金曜日と同じことを繰り返すにすぎない。証人は知らないと答えている。また、かかる覚書、あるいはノートは受け取つたこともない、と否定している。かかる質問をつづけることは、証人と議論することになるので異議を申し立てる。
裁判長 この証人の答によると、こうしたノートまたは覚書を受け取つたことは全くないと言つておるし、受け取った記億もないと言っている。その点については、全くはっきりしない。サントン検察官は、当時の東京の一流の新聞をもって、この証人の記憶を新たにしようとしているのである。
サントン 証人に七月十七日の東京朝日新聞を見せて下さい。(証人に渡す)
米内 こういう話は、石渡君に対して当時の陸軍省軍務局長が言ったことになっているが、私の考えでは、畑陸相はそんなことは言わなかったと確信している。なぜかというと、組閣以来、畑陸相は米内内閣に対して意見というものを一つも述べておらぬ。閣議においても何も話したことがないことは、米内内閣のやることについて、何ら反対していなかったという証拠になると思う。
サントン あなたの手もとにある新闘は、昭和十五年七月十七日の東京朝日新聞の記事であることを認めるか。
米内 これは朝日であることには違いないですな。
サントン その中に「米内・有田の外交方針の清算」という記事を見受けるか?
米内 まだ、新聞に書いてあることをはつきり見ませんが、新聞がどう書こうと、私の考えておることには一つも間違いない。
裁判長 その記事の中には、畑からあなたに渡されたノートに関して何かありますか。その記事の中に、畑があなたに渡したと称するノートの言及かありますか?
米内 私は米内内閣の外交方針は、間違っておったとは一つも思つておりません。
裁判長 それは私の質問に対する答ではありません。その記事の中に、畑があなたに渡したノートと称するものに関して、何か言及があるかないかを聞いたのです。
米内 そのノートを私が受け取つた記憶がありませんから、それに対して返事するだけの何ものもありません。
裁判長 もう一回、あなたに、この質問に答える機会を与えるが、その朝日新聞に掲載されている記事の中に、畑があなたにノートを渡したということが書いてありますか?
米内 さあ、どの辺にそれが書いてありましょうか。
神崎弁護人 裁判長、あの縮刷版は字が小さくて読むことができないのです。
裁判長 証人に答えさせます。弁護人から、証人がそう言うべきことを聞きたくない。
米内 よく見えません、はつきり……。
サントン 法廷に申します。拡大鏡があったら、それを証人に与えてほしい。
裁判長 持っておれば証人に使わせなさい。裁判所は持っておらない。
サントン 朝日新聞は日本で最大の発行部数の新聞ではありませんか?
米内 その通りです。
(拡大鏡を渡す)、
サントン 拡大鏡を使って、さきほどの裁判長の質問に答えて下さい。
米内 こういう意味のことは、畑君から聞いたことも受け取つた覚えもありません。
裁判長 証人は、.畑からあなたに送られたという記事が出ているか否かに答えて下さい。ただし、あなたが証言台を下がる前には、答えるべきであります。そうでなけれぱ、あなたは信憑性のない証人として法廷を去ることになります。
米内 もう一遍言つて下さい。
(通訳 裁判長の質間は、その新聞の中に、畑.があなたにノートを渡したというようなことが書いてあるか、ということです)
米内 見えません。
裁判長 では、そこにないかもしれない。
サントン 今あなたに示された記事を読んで下さい。
裁判長 その記事の中に、実際、畑から米内首相に与えたノートが出ているかどうかにっいて、確かめなければなりません。
サントン 証人に、いま示された場所を読ませてよろしいか?
裁判長 よろしい。
米内 こういうことはありません。畑君からこういう書類を受け取つたことも、聞いたこともありません。
裁判長 それは返事になりません。私が聴いた証人の中で、この総理大臣は最もばかげた証人です。
サントン 今あなたに示された場所を読上げて下さい。
米内 わかります、いま探しています。
サントン あなたは、拡大鏡なしでは読めないことを忘れたのではありませんか?
米内 明かりがつきましたね。
(朗読)
次は十一日、陸軍省軍務局長は石渡書記官を訪問し、陸相の意向を敷衍し、十四日夕刻、畑陸相は改めて米内首相に対し文書をもつて重大進言を行なった。その文書の内容は、現下の状態は世界情勢の一大転換期に際会し、国内体制の強化、外交方針の刷新は焦眉の急となつている。しかるに政府は.何らなすところなく、いたずらに千載一遇の好機を逸する憾がある。かくては事変処理完遂のためにも支障を来す。すべからく、この際、人心を一新し、新体制の確立を促進するため、現内閣は大乗的見地より、その進退を決定してはどうかというはつきりしたもので、まさに内閣の心臓に:…
サントン では、あなたは{こういうことを申し述べようというのですか。当時の陸相が首相に対して出した重大な手紙で、しかもそれが東京における第一流の新聞に報道され、その記事は実際にその手紙の内容を引用までしてあるような記事が発行されたにもかかわらず、あなたとしては、この手紙は全然知らたかつたと言うのですか?
米内 その通りです。全然受け取つておりません。 |
米内にたいするこの尋問は、東京裁判の山であった。ウェッブ裁判長の"Stupid"は全世界に報じられた。ただし、キーナンは「なんという頭のよい提督」だと述べた。
現在の日本の裁判所でも、米内の「全然受け取つておりません」は偽証罪に当たるであろう(畑の『陸軍大臣日誌』は東京裁判では証拠未提出)。なぜ、米内は他の証拠から立証されかねない偽証を敢えて行ったのであろうか?
米内光政の国家や昭和天皇への至誠は疑うべくもない。ここに登場する畑・木戸・沢田・阿南・閑院宮はやはり自分の組織益や私益で動いているのであって、米内の至誠に匹敵できるとは思えない。
米内内閣総辞職の謎を解く最大の鍵は、木戸日記の7月14日の条の昭和天皇が米内の辞意を認めたという記述であろう。ずっとツンボ桟敷に置かれた畑が陸相に未練があるのではないか、とみなしたため、米内は意図して辞表を出すように誘導したのであろう。それでも、米内はなぜ辞職を決めたかという疑問は残る。
畑の直感「米内への圧力」もまた事実ではないだろうか?その圧力とか「海軍」ではなかろうか。海軍はこのときすでに三国同盟を容認する方向に向っていたのである。
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7月10日 |
ラジオ放送、近衛が(軽井沢から)戻れば陸軍が倒閣運動と報じる。 |
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11日 |
阿南→原田「現在どうしても外交と作戦が一致しないから、これを一致させるためには、どうしても内閣が代わってもらわねばいかん。近衛公の奮発を望む」 |
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12日 |
阿南・武藤→石渡「どうしても現内閣は円満に退いてもらいたい。外交は4相会議とかいろいろな連絡で非常にうまくいっているから、外交のことはもういわないけれども、要するに近衛新体制を現実にするため引退して欲しい」
米内→畑「阿南・武藤が石渡のところにきていろいろいっているが」
畑→米内「自分もけっきょく内閣が辞めた方がいいと思う。これはやはり私的な意見だから」(以上吉田海相が米内から聴取)
吉田→原田「木戸大臣は陸軍色が濃すぎる」 |
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13日 |
石渡→原田「新体制については近衛と交渉し不安な空気を一掃したい」「陸相が総理に手紙をよこして嫌がらせめいた様子」
原田→近衛「政府に新体制について会見したいというのであれば、帰る口実ができる」
米内→原田「いやもう倒閣の策動がはっきりわかったから、自分は会うことは考えていない。石渡を出す必要もない」 |
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14日 |
木戸、昭和天皇から倒閣の了解を得た。 |
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15日 |
昭和天皇→木戸「南方作戦に関することは政府との打合せが済んでいるのか」
米内→畑「この数日前から貴下は倒閣的な運動をしているようだが細かいことはいうに及ばん。結局自分も軍人であり、貴下も軍人である以上、はっきり態度を決めようじゃないか。辞めたいなら辞める。辞めたくないなら辞めないではっきりしてもらいたい」
武藤、『朝日新聞』に手紙と陸相辞表提出とリーク。 |
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16日 |
(午前9時)畑、辞表提出。
松平(内大臣秘書官)→原田「総理は、陸軍大臣と意見を異にするため陸軍大臣の後任を推挙することは非常に困難だ、ということであったので、(午後)7時に参内して、到底内閣はもって行けないから辞めたいということを陛下に上奏した」 |
結論として木戸の策謀は悪辣であるといわざるを得ない。阿南と武藤も問題ではあるが、両方とも、表面的には、三国同盟による外政方針の変更を求めたのであるが、本心ははっきりしない。人事を中心に権勢を振るいたいという欲だけのようにも思える。
この事件のあと、東條は阿南と武藤双方を忌避することになるが、武藤は対米戦回避に向うことになる。
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