セルビアの領土拡大

セルビアはその領土の拡大を全て軍事力でなしとげた。これは19世紀と20世紀に達成された。しかし、それまでは軍事力により居住地を追われる歴史だった。

セルビア人が歴史に登場するのは、東ローマ帝国のヘラクリスの治世(610−41)で、サロニカに上陸したとされる。その後北部に移動を開始した。そして14世紀頃ネマンニッチ王朝の頃、ギリシャ正教に帰依しており、クロアチア人がカトリックのため分裂する形となった。

この当時のセルビア人とクロアチア人を分ける境界はドリナ川だった。セルビア人の多くはストデニッチャとペッチャを結ぶ線の周辺に居住していたと見られる。そしてコソボポーリエの戦いで敗れた結果、ベオグラード、スメデレボ周辺に移動した。この移動は敗戦の結果であり多くの移動したセルビア人は奴隷に売られ、また処刑された残りの人々だった。

当然、トルコの支配下に置かれたが、セルビア人は屈することがなかった。また移動したドナウ川沿岸は以前の居住地よりも肥沃で、むしろ人口は増大した。トルコ人はキリスト教徒の子供を誘拐するか脅迫により拉致し、イスラム教を教え込み、長ずるに及びイェニサリという軍団を組織した。この軍団の中枢を担ったのは、セルビア人の子供だったと言われる。

この頃より、オーストリア=ハンガリーとオスマン帝国の衝突が繰り返されるようになり、ハプスブルグ朝も傭兵としてセルビア人に期待するようになった。このため屯田兵として帝国の辺境地にセルビア人を居住させた。

現在ダルマシア北部、セルビア人がクライナと呼ぶ地域へ居住するようになったのは、この頃である。またコソボポーリエを中心とするコソボには回教徒のアルバニア人が住み着いた。

左はユーゴ内戦時、セルビア人が軍事的に支配した最大版図である。それでも、セルビア・ボイボディナ(第1次大戦の結果、ハンガリーより取得)・モンテネグロを除くと、セルビア人が多数派というわけではない。

近代に入ってからの帝国は長続きしない。英仏植民地帝国がピークを維持したのは数十年に過ぎない。スターリンの東ヨーロッパ帝国も同じ運命をたどった。満州里、ビルマのアキャブ、ガダルカナルを囲む大日本帝国は1年を大きく超えることがなかった。

1992年冬、ミロシェビッチ(Milosevic, Slobodan)が作った新セルビア帝国は1389年コソボポーリエで滅亡したセルビア帝国より版図は大きい。しかしこれは数ヶ月しか続かなかった。1993年春クロアチア人はクライナで反攻に出、そのままあらゆる地点で押し返すことに成功した。止めは1998年のNATOの介入によるコソボの解放で、セルビア人は1912年のバルカン戦争以来の宗主権を失った。ただし大戦中は中断している。

1815年、ミロシュ・オブレノビッチによって達成された半独立以降、独立戦争・露土戦争・第1次・第2次バルカン戦争・第1次大戦と領土を増加させ続けた。

この事はセルビア人にある種の自信を植え付けたに違いない。

その頃、拡大したセルビア帝国の海の出口はモンテネグロが担うことが暗黙に了解されていた。モンテネグロに山側の後背地のサンジャックが与えられたのは、ドイツのカイザーの支持に基づいたものである。

セルビアは惨戦の末、第1次大戦を勝ち抜いた。そしてセルビア人がモンテネグロ人に投げつけた言葉は「オーストリア兵が来た時、セルビアの女はどうしたか。爆弾を投げつけた。ところが、モンテネグロの女はどうしたか。オッパイを差し出した。」というものだった。

モンテネグロ人は元来セルビア人のうちで山に篭ってトルコ人と戦った人々だが、これ以降セルビアに胸襟を開くことはなくなった。


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