南京掃討戦

掃討戦は並行追撃と目標追撃に分かれるとされる。並行追撃は敵の逃走方向を追うものであり、目標追撃は予め到達地を設定し敵の退路を断つものである。

この追撃戦は世界の戦史でもあまり例を見ない程の攻撃側成功例である。またこの戦いは一見南京攻略を目的にしたように見えるがそうではない。目的は敵野戦軍の殲滅にある。中国軍は南京攻略と誤解しむしろ敗兵を収容、更に防衛隊を組織するなどむしろ殲滅される数を増やしかねない行動をとった。むろん、敗兵は揚子江対岸に逐次移し国崎支隊などが対岸に回りこむ前に脱出を図るのが正解である。ただ中国軍が索敵に努力した形跡はない。

まず上海戦に参加の6個師団半のうち並行追撃追撃に参加したのは4個師団であり、そのうち2個師団は松井石根の第2次攻勢(大場鎮攻略)に参加せず、全く無傷の部隊だった。更に目標追撃として別途2個師団(第13師団と第18師団)を撫湖と鎮江に展開させた。

この時、第3師団(コードネーム幸;当時4単位、名古屋)と第13師団(鏡;仙台)が最強師団とされ、最良の装備が与えられていた。両師団とも本部割り当て分を加えると3万人を越える。また不思議なことに両師団とも太平洋戦争では殆ど活躍せず、無傷のまま九江、長沙で終戦を迎えた。当時、参謀本部は日本の1個大隊(750人)で中国軍1個師(8000人)に相当すると豪語したが、第3師団の前面には敗残とは言え常に中国軍10個師が存在した。

この退路を断つ作戦は成功し、第13師団、第18師団、第6師団が上海からの敗残兵を捕捉したと考えられる。この三つの師団の戦闘詳報などで敵の殲滅数、処断数などが優に万を越え特に多いのはこのためである。また図の通り、南京から逃亡できる公算は12月10日前後には断たれた。中国南京保衛軍司令官唐将軍は降伏すべきだった。

このような巧妙な作戦計画が即興で考えられたものとは思えず参謀本部作戦課で経年研究されたものが引き出されたのだろう。もちろん日本のことで原作者は不明である。ただ原案は太湖対岸を収束点としてより上海に近い所で捕捉するものだったと見られる。作戦軸が太湖から南京へ円形でなく四角を描いており、これは並行追撃で敵の逃げ足が予想外に早かった時生じる形である。おそらく途中で収束点を太湖対岸から南京へ変更したのだろう。

また並行追撃を行った3個師団半(第3師団先遣隊、第9師団、第6師団、第16師団)の収束予定地が南京であることは明らかだ。一般に並行追撃における最大の危険は敵が埋伏兵を置くことであり、深追いの危険とも言われるものだ。だがこれは中世の戦いの格言で、航空機による索敵で優位にたっていた日本軍は、おそらく100名単位の敗残兵の所在まで確認できていたに違いない。ただセルビアは第1次大戦のドリナ川渡河作戦(第3次)で、埋伏戦術を成功させている。これは霧を利用したものだ。戦いの規模はこれと殆ど同じである。

大場鎮が突破され、杭州湾に上陸されたならば(どちらか一つであれば防衛手段はある)中国軍に勝機はないと判断される。ファルケンハウゼンの進言に従い蒋介石はこの戦線の維持を大場鎮突破の時点で断念すべきだったのだろう。

一方この戦いは第1次大戦のカポレットー戦に酷似している。ただイタリー軍は英仏軍の応援も得てピアブ川に防衛線を引くことに成功している。この時イタリー軍は110万人のうち60万人に及ぶ損害を受けた。ただしそのうち捕虜29万人を数えた。中国軍のこの戦いの損害等ははっきりしない。推定すれば80万人(南京保衛軍含む)の兵員が参加し、そのうち30万人以上が戦死または殺害された公算が強い。捕虜は確認できないが4000人とみられる。またこの戦いを上海戦と南京防衛戦として別のものとするのは正確でなく上海戦とそれに続く掃討戦と解するべきだ。

この中国軍戦死または殺害30万人はこれから太平洋戦争終了までの日本軍の中国戦線全戦死者(戦病死等除く)と同一である。


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