この表は参謀本部作成になるものである。朝日新聞記者の高宮太平は1927年ごろの話として次をあげる。
「朝日新聞は陸軍嫌いだった。陸軍も朝日新聞を眼の仇にした。だから陸軍担当を命ぜられても、まじめに陸軍を研究する記者はなかった。何かの風の吹き回しで陸軍担当を命ぜられた。社命とあれば仕方はない。」
「本気に陸軍を研究してみよう。よしあしは別にして彼らの思想を研究してみようと思いまず杉山(元:太平洋戦争開始時参謀総長、この時陸軍省次官)次官に「陸軍について何も知らないから教えてくれ」と頼むと、杉山は大喜びだ。」
「奇特な志だ、おれが手をとって教えてやる。毎日定時に教えぬわけにいかぬから、代理教官を任命してやろう」といって…それぞれ講師を委嘱してくれた。軍制については永田(鉄山:軍務局長のとき暗殺された)軍事課長…、小銃1発の値段から、1師団の人数、平時編制と戦時編制の違い、動員倍率のこと、第1次欧州戦争史など快く教えてくれる。」
このなかの第1次欧州戦争史の説明のとき使われたのがこの地図である。
この新聞記者に対する気配りは1940年まで続いている。東條英機が個別の新聞記事について弾圧に出たのは1941年以降のことである。つまり当時、マルクス主義賛美など治安維持法にかかわるものを除いて言論の自由はわが国にあったのだ。
新聞人は戦後になり陸軍独裁などと言い出したのであり、戦前でもその状態について徹底的に批判することはできた。それが出来なかったのは(社命であれば仕方がないと言うような)勇気の欠如であり、記者クラブ制度のためである。実際は陸軍省で取材できるのは、記者クラブに属した新聞人だけで、高級軍人と上にあるような親密な関係を築いていた。高宮はこの時29歳である。
当時(現在もそうだが)大新聞の記者がいかにエリートだったかがわかる。
その状態でまともな批判が、その時できるはずがない。関係がない顔をして陸軍独裁論をぶつのは全て戦後の物語である。ただ東京日日(現毎日)はそれでも、できる範囲の努力はした形跡がある。
高宮太平 昭和の将帥 図書出版社 1973 より抜粋