カイザー戦第3次攻勢

カイザー戦の第1次攻勢と第2次攻勢は主としてイギリス軍に向けられた。打撃を受けたイギリス軍は直ちに本国で訓練中の予備大隊を招集した。しかし補充のためのみで23万人を必要とし、更に訓練地そのものをフランスの移動させ、補充のスピードをあげることも計画した。

それでも欠員を補充しきれず、師団数の削減に迫られた。この方針にフォシュは激しく反対した。5月11日、ヘイグに攻勢防御方式を主張した。

  • 敵の攻撃を発起点で撃破してはならない。撃破は第1線にある軍隊の仕事ではなくて戦略予備隊の仕事だ。
  • 敵が奇襲または強襲で第1線を突破したとして、敵の戦果の拡大を妨害してはならない。
  • 良好なる地形と適当なる時機をみて逆襲すればよい。

このためには、機動性のある戦略予備を大量にもつことが肝要で師団数を減少させるより、1個師団当たりの大隊数を減じた方がよい、と結論づけた。つまり第1線に置く兵士は少なくてよいというのだ。

このフォシュの提案に従い、イギリス軍は大隊数を減じた師団(疲労師団と呼んだ。)を編成し、フランス軍のなかに埋めこむことにした。ヘイグはフォシュの主張があまりにも斬新で、全面的に承服することができなかった。結果自軍の受け持ちの戦線に疲労師団を配置することはなかった。

ルーデンドルフは第1次攻勢と第2次攻勢が失敗したことを認めざるを得なかった。そしてその最大の政敵だったファルケンハインの方法、敵が逃げられない所を狙って消耗戦を挑むに転換した。パリに向かうマルヌ会戦の古戦場のランス−ソワッソンが選ばれた。

5月27日午前3時40分、第1次大戦実質最後のドイツ軍大攻勢が開始された。正面のフランス第6軍には皮肉なことにイギリスの疲労師団で編成された第9軍団もあった。完全な奇襲が達成され開戦以来の大突破に成功した。実際フランス軍はフォシュの方針にもとづき計画的な一時的撤退を敢行していた。ルーデンドルフは戦略的大成功と錯覚した。一方フォシュはこの攻勢が陽動ではないかと疑っていた。

フォシュはカイザー戦が開始された時点で、ルーデンドルフのイギリス軍包囲の戦略を見抜いていた。このためこの方角が違う攻勢を全力をあげたものとみなさなかった。そしてドイツ軍が不要な突起部を拡大することを望み、とくに中央での前進を歓迎し放置した。ドイツ軍はパリを目標として勇みたち前進を続け、シャトウ・チェリーに到達した。そこで5月31日ドイツ軍が見たのが新着のアメリカ軍だった。

フォシュは突起部の側面を総予備軍(第5軍と第10軍)で鉄枠で縛るように囲み、頂点の行動を許しそこにアメリカ軍を配置したのだった。実戦が初めてのアメリカ軍が見たドイツ軍は五日間の行軍で疲労困憊し立つのがやっとの経験十分のかつての最精鋭の軍隊だった。ドイツ軍はそこで停止した。ドイツ軍の4年間の進撃もここで終了した。

この戦いはフォシュの攻勢防御方式−攻勢移転成功の典型例を示すことになった。

この表は参謀本部作成になるものである。朝日新聞記者の高宮太平は1927年ごろの話として次をあげる。

「朝日新聞は陸軍嫌いだった。陸軍も朝日新聞を眼の仇にした。だから陸軍担当を命ぜられても、まじめに陸軍を研究する記者はなかった。何かの風の吹き回しで陸軍担当を命ぜられた。社命とあれば仕方はない。」

「本気に陸軍を研究してみよう。よしあしは別にして彼らの思想を研究してみようと思いまず杉山(元:太平洋戦争開始時参謀総長、この時陸軍省次官)次官に「陸軍について何も知らないから教えてくれ」と頼むと、杉山は大喜びだ。」

「奇特な志だ、おれが手をとって教えてやる。毎日定時に教えぬわけにいかぬから、代理教官を任命してやろう」といって…それぞれ講師を委嘱してくれた。軍制については永田(鉄山:軍務局長のとき暗殺された)軍事課長…、小銃1発の値段から、1師団の人数、平時編制と戦時編制の違い、動員倍率のこと、第1次欧州戦争史など快く教えてくれる。」

このなかの第1次欧州戦争史の説明のとき使われたのがこの地図である。

この新聞記者に対する気配りは1940年まで続いている。東條英機が個別の新聞記事について弾圧に出たのは1941年以降のことである。つまり当時、マルクス主義賛美など治安維持法にかかわるものを除いて言論の自由はわが国にあったのだ。

新聞人は戦後になり陸軍独裁などと言い出したのであり、戦前でもその状態について徹底的に批判することはできた。それが出来なかったのは(社命であれば仕方がないと言うような)勇気の欠如であり、記者クラブ制度のためである。実際は陸軍省で取材できるのは、記者クラブに属した新聞人だけで、高級軍人と上にあるような親密な関係を築いていた。高宮はこの時29歳である。

当時(現在もそうだが)大新聞の記者がいかにエリートだったかがわかる。

その状態でまともな批判が、その時できるはずがない。関係がない顔をして陸軍独裁論をぶつのは全て戦後の物語である。ただ東京日日(現毎日)はそれでも、できる範囲の努力はした形跡がある。

高宮太平 昭和の将帥 図書出版社 1973 より抜粋

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