カイザー戦第1次から第5次まで

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ルーデンドルフのカイザー戦の戦略は第1次攻勢のみに示されている。

すなわち第17軍と第2軍に小半円を第18軍(フーチェル)に大半円を描かせて、アミアンを軸に回転し英仏軍を分断する。そして英軍を海に放りこむ。そうすれば仏軍は孤立し単独講和に応じる、という計画である。

ところが、第18軍正面の英第5軍(ゴウ)は崩壊させアミアン直前まで前進したが、フランスの総予備軍に阻まれてしまう。そして第17軍の方は英第3軍(ビン)と第4軍が猛攻を支え、防御に成功する。

これは事実だが、実際の進軍スピードで第18軍の方が早く、また結果として捕虜も多かったに過ぎない。両方とも5、6日後弾薬補給と疲労回復のため停止せざるを得ず、そこに連合国の戦略予備が到着しただけである。するとドイツ軍は塹壕に篭り防衛戦となる。また戦線が停滞し、突起部だけ残された。

なぜこのようになるかと言えば実は戦術的な突破は準備さえあれば難しくないという点にある。もちろんソンム初日のように予告付きの大押し(ビッグプッシュ)は愚行だが、奇襲性さえ確保できれば第1次大戦で戦術的突破はほとんど出来ている。ところが戦略的突破は西部戦線では全て失敗している。

戦略的突破の困難の原因は鉄道にある。すなわち攻撃側は徒歩だが戦略予備隊は鉄道を使う。このため防御側の予備軍の集中を攻撃側が上回ることができない。攻勢側は敵地を進行せねばならず、5・6日たてば弾薬の補給の必要が生じる。そして停止する。東部戦線のゴルリッツ突破ではポーランド領内に有効な鉄道がなかった。また攻撃側のドイツ軍(第11軍マッケンゼン)は進軍しながら補給のため軽便鉄道を敷設するという徹底性を持っていた。

これを打開するためには、敵の戦略予備の運用を制限しなければならない。方法として考慮されるのは、敵の交通を研究し、隘路を発見することだ。とくに敵の突起部は隘路になりやすい。また攻勢点を増やし予備隊の集中を妨げること、更には自軍の進撃スピードをあげるため、最短の補給路を確保することだ。つまり攻勢点(作戦重点)の研究と多点攻撃・連続攻撃の実施にある。

ルーデンドルフの作戦は包囲に力点を置くあまり上図の通り、楔状の突起部を作るだけだった。野戦軍の捕捉という点でも第1次攻勢の英第5軍(ゴウ)の崩壊だけが成功だった。連合国が衝撃を受けたのもそれだけだった。しかし、その時こそがドイツにとり妥協による平和の最大のチャンスだった公算が強い。また6月のキュールマン外相演説にみられるように文民政府は気付いていた。

これらの点はペタンが既に解明しており、フォシュ連合国軍最終攻勢で本格的多点攻勢を実施した。

それではルーデンドルフが多点攻勢をかけることができただろうか。1917年初頭からドイツ大本営は西部戦線の各軍に具体的な攻勢案を作るように指示していた。カイザー攻勢の作戦名は実はその時のものである。

ドイツ軍の部隊運用は、英仏軍と根本的に異なっていた。ドイツ軍は部隊移動を頻繁に行わない。また攻撃も防御も同一地点は同一部隊が担当した。第3次イープル戦にイギリス全58個師団のうち52個師団が参加した。いわばイギリス軍のやり方は上杉謙信の車懸りだ。この結果第1次大戦に従軍したイギリス人でイープル戦に参加したことがないという兵士はほとんどいない。ところがドイツ軍は第3次イープル戦に参加したのは合計20個師団に満たない。残りの西部戦線にいるドイツ軍部隊はほとんど何もせず無柳に過ごした。静かな戦線にいるとドイツ軍兵士は何もすることがない。

その閑な期間各軍司令部は攻勢作戦計画に熱中した。最も有力なのは、ベルダン突起部を攻撃するカストルとイープル突起部を攻撃するゲオルグ(これは実施された。)だった。1917年秋までに作戦計画は練られ精緻なものが出来あがっていた。

当然突起部を攻撃すれば前進中に左右から砲撃を受けず、また敵の戦略予備の配置も予想しやすい。突起部を同時多発的に攻撃すれば、戦略予備の使用を制約できる。ところがルーデンドルフは自説のミハエルを譲らなかった。理由ははっきりしない。だが邪推すれば、ベルダンとイープルはファルケンハインが狙ったため対抗心から意図して避けたのではないだろうか。また部隊移動を原則としてしないドイツ軍は同時攻撃という考えになじまなかったのかもしれない。


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