カイザー戦第1次攻勢

イギリス第5軍(ゴウ)は12個師団、第3軍(ビン)は14個、計26個師団で約70マイル(112km)を守備していた。ドイツ軍はこの軍にたいし40マイルの幅を76個師団で襲いかかった。

これはドイツ軍にとり致命的な失敗だった。塹壕戦で敵の背後の交通が良好な場合、第1次大戦では数は全くものを言わない。ソンムのように同じ機関銃に連続して的になるケースはとにかくとして、仮に突破に成功しても、攻勢側は攻撃に弱い形で進軍せざるを得ない。ところがフレッシュな防御側の戦略予備は敵の所在を事前に検討済みで配置される。

そして5日前後に逆襲されて、不要な突起部に篭ることになる。そこは脆弱だから敵の攻撃の新たなマトとなる。

たいするイギリス軍の対策としては、攻撃が大規模と判明した段階で前進壕を全て棄て、退却すべきだった。そして予備壕またその後方から砲火を浴びせながら、逆襲の機会を待てばよい。この攻勢防御と言われる方法はフォシュが力説し、イギリス軍も従うことになる。ペタンはすでにこの方法を研究していて、有名な攻勢防御・攻勢移転の訓令を1918年1月に出状していた。

内容は各級司令官が常に地形・交通を研究し、攻勢移転を司令部の命令あり次第即座に実施できるようにする、というものだ。

この当時の心境をヒンデンブルグは回想録に次のように記す。
「第1次攻勢の攻撃地点が、政治的理由すなわちイギリスを先に打倒するという目的で決定されたのではない。イギリスは中心となって戦争遂行に努力しているが、フランスもドイツの国家的存立を破壊し、根底から崩壊することを希望している。だからイギリスを先にとかフランスをというのは政治的に関係がないし軍事的にもない。イギリス軍はフランス軍と比較して、戦闘法が劣り、迅速に戦況の変化に追いつくことができない。4年間の実戦は下級将校を育てたが、指揮統御すべき高級指揮官は十分育っていない。フランス軍の戦闘が巧妙なことは認めざるを得ず、また歩兵はともかく砲兵は恐るべきだ。」

ドイツの将軍は一貫してイギリスの高級将校を軽視して「イギリス兵士はロバに率いられたライオンだ」と言った。敗戦後の回想録でこのように記すのだから、ソンムやパッシェンデールのイギリスの作戦を相当に愚行だと眺めたのだろう。しかし防御にまわったイギリス軍がどのようなものかは、これ以降真価を発揮することになる。


カイザー戦に戻る