1924年のヨーロッパ

パリ講和会議はドイツ東部国境とオーストリア=ハンガリー二重帝国の継承について回答を出すことに無力だった。すなわち国境線の多くはパリにおける会議によるのではなく古くからの方法、すなわち戦争または軍事威圧によって決定された。それでも決定できずに係争地が3ヶ所残った。これは非常に危険なことである。国境線不安定は戦争の危険性を増大させる。

3ヶ所とはダンチッヒ・バルト三国東部国境・ベッサラビアで、第2次大戦の引き金となった。大日本帝国の継承が未決定のため、朝鮮動乱とベトナム戦争が発生したのと同じ現象である。

ヨーロッパの軍事バランスは第1次大戦以前と劇的に変化した。要因の大半は二重帝国の崩壊のためである。大国の軍事力としては英仏独ソが圧倒的で、これは変わりはない。ただ独ソが人口やGNPの点で英仏を上回りつつあった。そして残る諸国ではイタリー・ポーランド・トルコが後を追った。それでもヨーロッパ4大国と競争しうる地位にはない。

フランスは露仏同盟に代わる、ドイツにニ正面作戦を強いる切り札としてポーランドに期待し、足りないと思われる面を小協商(リトルアンタンテ)の3ヶ国、チェコ・ルーマニア・ユーゴに期待した。しかしリトルアンタンテは全く役にたたずフランスの負担を増しただけだった。実際のところ敗戦国とされ領土を縮小されたオーストリア・ハンガリー・ブルガリアの方がポーランドとそれら三国より経済的に繁栄した。

このような軍事バランスのなかで、多国間外交からドイツとソ連を締め出しては、紛争は調停できない。またアメリカは孤立主義に陥り、ヨーロッパ外交から手を引いた。日本はヨーロッパ外交に全く興味を示さなかったばかりでなく、満州事変という武力による国境線変更の企てを起こし、ヨーロッパのその可能性について微妙な影響を及ぼした。


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