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露第6軍団(6C)と第1軍団(1C)は国境外に逃亡した。第23軍団(23C)も戦線を離脱しつつあるが、第15軍団(15C)と第13軍団(13C)は重囲に陥りつつある。
一方ドイツ軍は西方集団が北から予備第1軍団(ベロウ1RC:1D予備第1師団と36RD予備第36師団基幹)ゴルツ後備師団(ゴルツ)予備第3師団(モルゲン3RD)ウンゲル兵団(ウンゲル)第20軍団(ショルツ20C:37D第37師団と41D第41師団基幹)第1軍団(フランソワ1C:1D第1師団と2D第2師団基幹)である。
東方集団は第17軍団(マッケンゼン17C:35D第35師団と36D第36師団基幹)
包囲は第1軍団がナイデンブルグからウィレンベルグへ、また第17軍団がオルテルスブルグから南方同じくウィレンベルグに到達することにより達成された。
ウンゲル兵団は後備混成第20旅団(トルン要塞の守備兵)にゼンメルン旅団(グラウデンツ・クルム・マリエンブルグの補充兵6個大隊基幹に補充野砲3個中隊等を随伴させた。)を加えたもので、後備の老兵と未訓練の応召兵か20歳以下の志願兵と訓練用の野砲を集めた急造部隊だ。だがドイツの後備兵と予備兵の強さは瞠目に値する。ゴルツ師団も似たようなものだ。この戦闘には他に後備混成第5、第70、第6旅団も加わっている。
全部を加えれば14個師団半に相当し、ロシア第2軍(サムソノフ)の10個師団を相当に上回る。結局ドイツ軍の強さは予備兵と後備兵の強さに由来する面がある。一方この段階ではロシアは予備師団は全て後方に残留させている。
ロシア軍は総動員のため前進配置を実行し、常に前線部隊を充足させており、直ちに戦時編制の軍を東プロイセンに入れることができた。そして、補充部隊は主としてモスクワとペテルスブルグから陸続と送られて来る。これをワルシャワ・コウノ他前進基地で来た順で予備師団を編成していった。ところが現役軍団は遠く、モスクワ以東にいるから到着が遅れる。従って野砲などの重装備は開戦初頭には間に合わない。
結果野砲が不足し、予備師団まで配置できなかった。これが予備師団を前線に配置できなかった理由だ。フランス軍も実は同じ情況に立ち至ったが、相互に融通しあいなんとか形をつけていた。ただロシア軍は各地の要塞に大量の重砲を置いていたが、それをドイツ軍のように動かすことをしていない。旅順攻略のときの日本軍も海岸の要塞に配置した臼砲をもちこみ成功した。ロシア人は要塞砲を砲術博物館と呼び嘆いたらしいが、砲自体は旧式でもないよりは良いはずで、ロシアの硬直した考えが、敗戦の原因かもしれない。ただ口径や弾丸の標準化が遅れていたことも考えられる。
また戦間期のタンネンベルグ戦記などで「ロシア兵はクルケン地峡に身を沈め」とあるクルケンは大マランゼン湖とランスケル湖にある村落の地名である。ここは湖に挟まれているが幅は5キロメートルあり大軍が通行不可能な場所ではない。ただサムソノフが撤退命令を出したのが28日深更であり地理に明るくないロシア兵は道に迷ってしまった。そのうえロシア軍の兵站が混乱を極めており、弾薬・給養・補充兵ともに未到着だった。このためただでさえ砲兵配置に劣るロシア軍は少数のドイツ兵の哨戒線を突破することができなかった。
またロシア兵が湖沼と森林の迷路(迷宮)に立ち往生し、ある者は底なし沼に飛び込み片手をあげて絶命し、と言うのは完全に神話である。このあたりは湖沼地帯ではあるが湿地帯ではなく森林と牧草地・農地が混在する場所で昼間であれば森林内を除き見通しの良い地形である。
8月28日のタンネンベルグの周辺(5万分の1地図)
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