シュレスウイッヒ・ホルスタイン問題

1864年すなわち普墺戦争前のヨーロッパは現在と根本的に異なっていた。

赤線内は神聖ローマ帝国の旧版図であり、チェコ(ボヘミア)を除いて、ドイツ語を喋る人々が住民の多数を占めていた。

普墺戦争の直接のきっかけはシュレスウイッヒ・ホルスタイン問題である。

この問題は非常に複雑である。これは同時代人にとっても同様であり、あるいは理解する必要のない問題であるかもしれないが、一瞥したい。

シュレスウィッヒ=ホルスタイン連合公国は1463年の条約により永遠に不可分であるとして結成された。

ところが、シュレスウイッヒはデンマーク王国にかつて帰属し、一方ホルスタインは神聖ローマ帝国に属していた。シュレスウィッヒ=ホルスタイン連合公国の公位はオルテンブルグ大公家が占めていた。そして同時に、オルデンブルグ大公家はデンマーク王位をうかがい、かつ臣従する立場にあった。

そののち、シュレスウィッヒ=ホルスタイン連合公国はオルデンブルグ大公家の二つの分家により相続された。グルックシュタットGluckstadt家とゴットープGottorp家である。

グルックシュタット家はデンマーク王家に臣従を誓う立場にあった。更に一部は両家の傍系に譲られた。ところがゴットープ家の分家はロシア皇帝位を継ぐことになり、デンマーク王家にシュレスウィッヒ=ホルスタインにもつゴットープ家の領地を引き渡すことを約束した。

そして、ナポレオン戦争が発生すると、グルックシュタット家、そのまた分家のアウグステンブルグAugustenburg家の領地は放棄させられた。この結果、シュレスウィッヒ=ホルシュタインの大部分はデンマーク王の手に集約された(1815年パリ条約)。

しかし、シュレスウィッヒ=ホルスタインの住民の大部分はドイツ語を喋るため、この決定は住民に不満を残した。デンマークは1463年条約を遵守し、シュレスウィッヒ=ホルシュタイン連合公国を残し、王国と併合させることはしなかった。つまり同君連合の形をとった。

第1次シュレスウィッヒ=ホルスタイン戦争

1848年、ヨーロッパ各地で自由主義者による暴動が発生した。コペンハーゲンでも暴動が発生したという報せを受け取ったホルスタイン市民はアウグステンブルグ家のノエル公の率いるシュレスウィッヒ=ホルスタイン軍を頼りに、デンマーク守備隊をキールから追放した。

だが4月9日、上陸したデンマーク軍に市民軍は敗北した。フランクフルト議会はドイツ連邦軍の派遣を決定した。プロイセンも介入の姿勢を示した。3カ月間、デンマーク対ドイツ連邦、デンマーク対プロイセンの戦闘がホルスタインで戦われた。

ヨーロッパ各国はオーストリアも含めて、ドイツ連邦軍とプロイセン軍の介入に反対した。スウェーデン軍もデンマークに味方して参戦、上陸した。ロシアのニコライ一世はゴットープ家を代表してプロイセンのフリードリッヒ・ウィルヘルム四世を非難した。

8月26日、フリードリッヒ・ウィルヘルム四世は全てのデンマークの要求に屈し、マルモ条約に署名、軍隊を引きあげた。10月、ロンドン会議で、デンマークはシュレスウィッヒとホルスタインの分離を提案した。だが引き続き、両地方への宗主権を要求した。2月、休戦協定が終了した。

4月、戦争がデンマーク軍とシュレスウィッヒ=ホルスタイン軍の間で再開されると、プロイセンは再度介入した。7月10日、一進一退ののち休戦協定が再度締結された。だがデンマークとプロイセンの間の溝は埋まらなかった。

1850年4月になり、プロイセンは現状のままの講和を提案した。パーマストンは事態をむしろ悪化させると反対し、ニコライ一世は介入をほのめかした。ニコライは1848年にオーストリアに軍事介入し、反乱を鎮圧したことから声望が高かった。またアウグステンブルグを謀反人とみなしていた。

7月2日、デンマークとプロイセンの間にベルリン条約が締結された。デンマークは、ドイツ連邦と無関係にホルスタインにおける宗主権を認められた。だがこれ以降も、デンマークとドイツ連邦の戦いは続いた。

1851年5月、デンマークはシュレスウィッヒ住民との対話に乗り出した。12月、共通政府について提案した。

1852年1月、プロイセンとオーストリアの承認を得て、デンマーク政体の維持とシュレスウィッヒとホルスタイン(ラウエンブルグを含む)における議会権限の強化とアウグステンブルグ家の公位への継承不可で一致をみた。

3月、アウグステンブルグ公は金銭と引き換えに公位への継承権を放棄した。1852年8月、上記に沿い、ロンドン条約が締結された。なおデンマークのフレデリック七世に継子がいないため、王家の継承法が改正された。また、両公国はデンマークから独立とされ、シュレスウィッヒが国体としてホルスタインよりデンマークに接近することはないと確認された。

デンマーク王家の断絶

デンマーク王室は、1863年、フレデリック七世を最後に断絶した。デンマーク王は1730年代まで、選定侯であり、世襲制がしかれたのはその後である。デンマーク王家はオルデンブルグ大公家から出たものだが、その当時残っていたオルデンブルグ家の諸流は全てそれ以前に発生したものにすぎず、王位を要求できる立場になかった。

結果として、グルックシュタット家の傍流の一人クリスチャン九世が王位に推戴された。しかし、アウグステンブルグ家はこれに反対し、シュレスウィッヒ=ホルシュタイン連合公国はアウグステンブルグ家の世襲領地であると宣言した。デンマーク人はこれに危機感を抱いた。

1863年、デンマーク議会はシュレスウィッヒ=ホルシュタイン連合公国を廃止し、シュレスウィッヒ公国だけを分離してデンマークの一部とする11月憲法を通過させた。

これは1852年ロンドン条約に反する無理のある決定であるうえ、シュレスウィッヒ=ホルシュタイン住民はドイツ人的色彩のあるアウグステンブルグ家を歓迎した。

丁普戦争(第2次シュレスウィッヒ=ホルスタイン戦争)

ドイツ連邦は、1863年12月7日、11月憲法はロンドン条約違反であると宣言した。デンマーク軍はホルシュタインから撤退し、シュレスウィッヒで守備についた。ザクセン軍とハンノーフェル軍がシュレスウィッヒに入った。アウグステンブルグ家のフリードリッヒ公はシュレスウィッヒ=ホルスタイン公国の公位を要求した。

プロイセンとオーストリアはロンドン条約の条項を盾にこの要求に反対した。一方、ドイツ連邦議会は賛成した。イギリスとスウェーデンはロンドン条約の調印国であったが、中立を宣言する一方、デンマークの行為は条約違反であると指摘した。

デンマーク軍4万はフレンスブルグに転進した。4月7日から4月18日、デュッペル(デンマーク語Dybboel)で陸戦が戦われた。寡兵であったデンマーク軍は後背地に撤退していったが、追いつかれた。プロイセン軍は126門の火砲を集め圧倒した。このときプロイセン軍は後詰銃をも装備していた。


デンマーク軍

プロイセン=オーストリア連合軍5万8千はデンマーク軍を撃破した。デンマーク軍の戦死者は1669、連合軍は1201であった。4月29日、フレデリシア要塞が陥落、普墺連合軍は全ユトランド半島を占領した。

4月25日からロンドンで講和会議が開催されたが、6月20日、決裂した。10月30日、休戦協定が締結され、普墺軍はユトランド半島から撤退した。この戦争におけるデンマークの損害は1万4500、普墺軍は4600であった。

講和条約は奇妙なものだった。すなわち、アウグステンブルグ家がシュレスウィッヒ=ホルシュタインを領地とするのでなく、オーストリアがホルシュタインをプロイセンがシュレスウィッヒを奪取した(1864年ウィーン条約)。賠償金は2000万ターレルであった。

普墺対立

この結末はプロイセンとオーストリアの対立を確実にさせた。1866年6月勃発した普墺戦争は7週間で決着がついたが、プロイセンはオーストリア本土を要求せず、シュレスウィッヒのみオーストリアから割譲させた。これにより、プロイセンはシュレスウィッヒ=ホルシュタイン連合公国の全てを獲得することになった(1866年プラハ条約)。

分割住民投票に反対するドイツのポスター
「本当にシュレスウィッヒは分割されねばならないのか!我々は兄弟として1000年以上も一つの民族(Volk)だった」

しかし、第一次大戦がドイツの敗北で終了すると、中立国であったにもかかわらずデンマークは、シュレスウィッヒ=ホルシュタインの返還を要求した。連合国はこの要求を部分的にいれ、ベルサイユ条約109〜114条によって、ドイツ官憲のシュレスウィッヒからの退去と、国際委員会による、住民投票で帰属を決定することに決められた。

この時、住民投票の地域は1864年ウィーン条約によるプロイセン帰属地と決められた。ところが実は、この条約で既に住民投票により、その統治形態が将来的に決められるとされ、プロイセンの統治は暫定的なものとされていたのである。つまり、プロイセンとそれを引き継ぐドイツ帝国は単に55年間も、条約を履行しなかったのだ。

確かに、シュレスウィッヒ住民投票は1864年条約によるプロイセン帰属地=ドイツ官憲撤退地で1920年3月14日実施された。しかし、これは地域を二つに割った投票だった。シュレスウィッヒの北部三分の一と南部三分の二(フレンズブルグと呼ばれる)に分けてそれぞれ実施され多数決で決められるとされた。

だが、この分割投票が北部はデーン人が住み、南部はドイツ人が住むことを承知したうえで決定されたものであることは明らかだ。つまり、シュレスウィッヒ全域を対象とすればドイツ帰属が多数になることがわかっていたともいえる。

当然のように住民投票の前に住民移動が発生し、投票は連合国が予期した通りとなった。ここに「民族自決」の難しさがある。こののち、ヒトラーやNSDAPは連合国のやり方を不正なものと指摘し、「民族自決はペテンだ」と宣伝したが、ではこれ以外に方法があっただろうか?

現在、シュレウィッヒ=ホルスタイン疑問"question"は解決されていない。しかし、シュレスウィッヒ=ホルスタイン問題"problem"は解決された、といわれている。


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