第3次イープルの戦い
(パッシェンデールの戦い)

第3次イープルの戦い
(パッシェンデールの戦い)

第3次イープルの戦い
(パッシェンデールの戦い)

ニベル攻勢がフランス軍内部の反乱事件の発生という思いがけない結末で終了すると、西部戦線での攻勢論者はヘイグしかいなくなった。

ヘイグの信念はイープル突起部を突破しベルギーの海岸部に出てオステンデ始め港湾都市を占領する。そして海岸に取り残されたドイツ軍をせん滅するというものだ。これを成功させるには攻撃軍の前進を確保(敵の戦略予備の集結より早く進む)し、かつ守備軍の退却スピードより早く進撃する、という2点が必要である。第1次大戦の戦訓はその両方を否定している。

ヘイグ

ヘイグはBEF司令官就任以来この作戦を主とみなしていて、ソンムの戦い・ビミーリッジの戦いは他人に強制されたと感じていた。とにかく自身の企画でやりたいというのが念願だった。

本部付きの軍人は自らの企画・作戦を墨守しかつ反対者に攻撃的になるという特長がある。これは高級官僚一般にもあてはまる。そしてこれは日本、ドイツに顕著に現れるのだが、ヘイグはそれらの類型とはやや違う。

チャーチルは後世のヘイグへの批判に「それではかわれる人物がいたのだろうか?」と反駁している。だが能力をとればいただろう。しかし信望の点をあげればやはりいなかった。ヘイグは前線の兵士に信望があったというより銃後の民に信望があった。この当時のイギリス人は軍隊に絶対の信頼をおいていて、将軍たちの権威は揺るぎ無いものがあった。とにかく国民は陸海軍を愛していた。

イギリスのみ軍隊反乱がなく、また銃後でも炭坑労働者を除き大規模なストがみられないのはこの特質によるのではないか。勝っても負けてもこの愛情はかわらないようにみえる。この愛情はドイツにみられる信頼とか不敗の信念と違う。ある弱さを認めているかのようだ。またイギリス軍は西部戦線では受け持ちの前線が比較的短く、兵站には便利だった。兵士の食事は一番よかったという。また郵便も完備していて、聴音壕にいた兵士に実家の裏庭のブルーベリーで作られたジャムが届けられたという。

ヘイグはこの国民の感情を攻勢にたいする支持と受取ったのではないか。またフランスの事情によるのではなくイギリスの将軍の決断によらねばならないと。

首相ロイドジョージは西部戦線での出血に耐え難いものを感じていた。ヘイグを信用することは全くできなかった。だが交替させるのは不可能だった。一つにはヘイグの攻勢案にかわるアイデアがなかった。また失敗したニベル攻勢を支持したのが負い目になった。またヘイグはジョージ5世の信任が厚かったといわれる。これは妻がかって宮中の女官だったことかららしいが、真偽は不明である。ある歴史家はロイドジョージがヘイグを解任できなかった理由は現代人には分からないとまでいう。

イギリスとフランスでは文民政府が少なくとも将軍の人事権は掌握していた。これが民主主義の証明であるかは別にして、共和制のフランスより更にイギリスでは作戦そのものに内閣が関与した。あるいはこれが国民の信頼につながったのかもしれない。

ヘイグ以外はこの時イープルでの攻勢を支持するものはいなかったという。情報部もドイツ軍のイープル周辺の防御網強化をつたえていた。
なによりもフランスのペタンは大規模攻勢に否定的だった。気象庁ですら天気の悪化を予測していた。しかし反対することもできず準備にゴーサインをだした。7月25日ヘイグは準備が完了した攻撃を開始したいと、打電した。内閣は心からの支持をささげると、返電する他方法がなかった。

                       第3次イープル戦直後の市内

一方ドイツ軍はメシヌ−ウィシャッテリッジの大爆破で打撃をうけ、近接する地点で大規模攻勢があると予測していた。ドイツ北部軍(ルプレヒト王太子)の参謀長キュールは破壊されたイープル周辺の防御網の再編に全力をあげていた。第4軍(アルニム)と第6軍(ベロウ)がイープル突起部に集中され、周囲は縦深陣地が改めて構築された。

攻勢前いつも通り入念な準備がなされた。2174門の砲が集められ、タンクも総勢136台あった。正面と北を第5軍(ゴウ)の9個師団が弾頭となって進撃する手はずだった。補助部隊として南部をイギリス第2軍(プルーマー)、北部をフランス軍が側面をカバーする予定にあった。

ドイツ軍の前進塹壕は3線で構成され、さらに後方に同様の3線の塹壕があった。ソンムでは前進塹壕で跳ね返されたが、今回は比較的簡単に前進塹壕を午前中に陥落させた。前進塹壕にいたドイツ兵は戦意がなく続々と投降したという。

しかし予備塹壕の方にドイツ軍は兵員を集中させていて、猛烈な砲撃と歩兵による反攻で第5軍の進撃はここでストップした。タンクはあたり一面の砲弾孔にキャタピラーをとられ、自在に進むにはほど遠いありさまだった。予備塹壕の手前で直接照準による砲の射撃を浴び約30台を残して全滅した。

午後にはいると激しい雨が降り出した。歩兵は砲弾孔にうずくまり、雨のやむのを待った。敵の射撃は軽くなったが、マスタードガス攻撃に曝された。雨はふりやまず戦闘は中断した。それでもイギリス軍は約2マイル前進に成功した。

雨は結局3日間降り続いた。砲弾孔にいた歩兵は腰まで泥につかり、戦闘の継続は最早困難になった。この3日間の戦闘でイギリス軍の被害は23千人に達した。ドイツ軍も6千人の捕虜を出した。雨は4日後降り止んだが、地面の乾くまで戦闘にならず、再開されたのは7月10日だった。

イギリス軍は第1次イープル戦の古戦場ゲルベールに攻撃を集中した。しかしそこはドイツ軍の最も強固な防御地点だった。1918年の連合国最終攻勢ではアメリカ軍を除き、強固な地点は迂回し弱い地点を進撃するという戦術がとられたが、ここではまだ戦訓になっていなかった。

この年は夏にもかかわらず雨が多かった。7月12日からまた激しい雨が降り、イギリス軍が砲撃をしても泥を巻き上げるだけになった。ドイツ軍はゲルベールがやや周囲より標高が高かったため水につからず守備を有利にすることができた。砲撃もゲルベールの背後から間接標準が可能で、待機しているイギリス歩兵に被害が集中した。

ようやく8月10日再度ゲルベール攻略を狙ったが果たせず、2日後また豪雨が襲った。戦線は初日の2マイル前進から動かず、ヘイグ以外の誰もが失敗を悟った。8月16日地面が乾くのを待てずゲルベールに再度挑戦し失敗した。

ヘイグは1ヶ月後にはオステンデに到達する予定であったが、もはや構わずドイツ兵をより多く殺せば良いと思った。別に海軍がオステンデに上陸作戦を準備していたが、さすがにそれは断った。

8月26日第5軍(ゴウ)の被害は68千人に達した。ヘイグは第2軍(プルーマー)に攻撃の先頭にたつことを命じた。プルーマーは準備に時間に多少時間をかけても良いかとしたうえで、ゲルベールよりもメシヌリッジ後背地を狙いたいと具申した。

ポリゴンの森といわれる。プルーマーの攻勢の後背地。
ドイツの史書はこの写真を詩人のカール・テオドール・コルナーの言葉を借りて「死者の風景」Totenlandschaftと呼んだ。第1次大戦の写真のうち最も有名なものの一つ

プルーマーは新戦術を考案し実施に移した。砲兵の前進スピードを歩兵以上にあげることは不可能だ。(当たり前である。)しかし攻勢を維持するためには歩兵の背後に常に砲兵を随伴させる必要がある。ゆえに前進予定距離は砲の射程距離に拘束される。最小の射程距離の砲は2000ヤードしかない。前進は1段階1500ヤードずつ小刻みに実施する。それも1日の目標は500ヤードとする。従がって3日かかるが、砲の移動に3日かかるため6日で一つの段階が完了する。このように考えた。               

歩兵は通常であれば10分で500ヤード先の目標に到達する。この10分間、進撃目標の前方500ヤード範囲の敵陣地を間断なく砲撃する。翌日は進撃目標が500ヤード前進したので、次の範囲の500ヤードを砲撃する。

集中射撃の効果を増大させるため前進する歩兵は1個軍団(3万人)で1000ヤード幅しか攻撃しないという極端な密集隊形をとった。

9月20日から3日間、プルーマーの戦術がためされた。攻撃は成功し1500ヤード前進した。が、被害は20千人に達した。再度9月26日から3日間攻撃を実施した。今回は1000ヤードしか前進できなかったが、ゲルベールの周辺はすべて占領し、孤立させることができた。しかし被害は15千人だった。

10月4日第3次の攻撃がかけられた。前回は準備射撃で敵があたりをつけ前面を固めた。今回は準備射撃を全く実施せず射撃と歩兵の突撃をほぼ同時に行った。ドイツ軍はたまたま戦略予備隊を前進させていた。このため膨大な被害3万人をうけた。しかしイギリス軍がそれを知ったのは戦後だった。途中で雨が降り始め攻撃は中止された。700ヤード前進できただけだった。被害は1万人に達した。

プルーマーの方法は実はニベルの「這う射撃」を数量的に説明したにすぎない。第1次大戦で砲撃を集中すれば第1線壕を突破できることは前から知られていた。ところがその後そのすぐ後方もしくは左右の機関銃ポストから狙われた。「這う射撃」で奇襲性を確保すれば更に大幅な突破の可能性もある。ただこの方法では敵側の戦略予備が到着した時、同時に攻撃部隊は前進することが義務づけられたから、(でなければ最前線の塹壕で孤立してしまう)一方的な機関銃のマトになってしまう。

MAP

結局味方の被害を減少させるには役立たない。自軍を密集させるのではなく散開させればよいのだが。プルーマーは、実は被害が大きくでることは初めから予測していた。ただ攻勢の実をあげるにはこの方法しかないと結論づけた。

10月7日ゴウとプルーマーは示し合わせてヘイグのもとを訪れ、攻勢の中止を要請した。ヘイグは言下に拒絶、次の目標としてパッシェンデールを攻略するよう命令した。更にヘイグは強襲部隊として第2軍(ゴウ)のカナダ軍団(カリー)を指名した。
カナダ軍団は前回、ビミーリッジを攻略し最強の軍団とみなされていた。

カナダ軍団の攻撃は雨のため何回も遷延されたが、10月26日雨は降り止まなかったが、ゲルベール左右から攻撃に出た。そして重大な損害をこうむりつつ、ゲルベールをほぼ取り囲む線を確保した。攻撃はその後3波にわかれて続き、ゲルベールを突破、廃村となっていたパッシェンデールについに11月6日午前9時到着した。カリーは廃虚にカナダ軍団旗を掲揚した。

11月10日ヘイグは勝利宣言をだした。しかしこれは勝利だろうか。イギリス軍の戦死傷者は32万人に達した。うち8万人は戦死だった。
他に14千人の捕虜をだした。

一方ドイツ軍は戦死傷者16万人と推定される。ただ捕虜は37千人と記録破りだった。ルーデンドルフは東部戦線で浮いた師団をイープルには送らず、イタリー戦線にまわす余裕ぶりだった。第6軍司令官のベロウも10月にイタリーにまわされた。ルーデンドルフにとりパッシェンデール周辺の不動産は無価値だった。効率的な防御ができれば十分だったのだ。

ヘイグの戦略目標はオステンデにあったはずだし、それをパッシェンデールに途中で変え占領したところで意味があるとは思えない。しかもパッシェンデールは不必要な突起部で、翌年のカイザー戦の時には意図して放棄されている。

第3次イープルの戦いは古い方法で戦われた最後の戦いだった。これ以降大量の砲撃と歩兵の白兵戦による勝利という仕方が試みられることはなくなった。

第3次イープルの戦いは激戦地の名をとりパッシェンデールの戦いとして知られる。しかしロイドジョージは泥の戦いと呼んだ。

カンブレーの戦闘



Terraine,J., The Road to Passchendaele, London, 1977
Warner.P.,Passchendaele: the Story Behind the Tragic Victory of 1917, London, 1987