陽動作戦
西部戦線ではジョフルがシャンパーニュ冬期戦で攻勢に出て失敗(死傷者6万)、更に1915年3月サンミェル(6万)・5月アルトワ(12万)で攻勢に出たがこれも突破はならなかった。
BEFのフレンチも独自の攻勢策をとりたくなり、3月12日ヌフシャペラで攻勢に出た。しかしフレンチは砲弾が欠乏、事前の砲撃がほとんどできなかった。結果として歩兵の未明攻撃はドイツ側にとり完全な奇襲となった。ドイツ軍の3線におよぶ前進塹壕は完全に突破された。
MAP:BEF関係戦場
しかしイギリス軍はここから何をすべきかは全く予定していなかった。歩兵は確保した塹壕にとりついたが、それ以上の前進は後続の兵が続かず不可能だった。その時ドイツ軍の戦略予備が到着し、砲兵隊がなけなしの弾丸を発射するのがやっとだった。イギリス軍は約500ヤード前進した。捕虜を1500人得た。両軍の死傷者はほぼ同数の13000人だった。西部戦線で攻勢側の被害が防御側より軽かった珍しいケースだった。
フレンチはこの作戦で戦果が拡大できなかった理由を弾薬の欠乏に求めた。第1次大戦の将領の敗北した場合の結論はひどく単純で原因はいつも部下の精神力の欠如、または弾薬の欠乏のいずれかだった。
この砲弾不足は後まで尾を引き砲弾スキャンダルと呼ばれた。すぐ打ち出された余り金のかからない政策はサマータイムの導入とパブの営業時間の制限だった。両方とも弾薬工場の労働者が規定時間きちんと働かせるないしは働いているかの如く前線兵士または有権者に見せるためだった。このうちサマータイムはいまでも実施されている。パブの制限の方は1992年に廃止されたが、イギリス人は68年間に亘りヌフシャペラの戦いのために、午後の喉の渇きをいやすことが制限されたことになる。
一方ファルケンハインは西部戦線を重点としていたが、前年の第1次イープル戦の失敗で西部戦線での突破作戦を断念し、東部戦線で攻勢に出、機を見てロシアと和平を結ぶ方針を採ることにした。そのため東部戦線に隠密裏に部隊を輸送さらに大本営もシュレジエンのプレスに移動した。東部戦線での攻勢はガリシア西部のゴルリッツで突破作戦に出ることが決められたが、そのための陽動作戦としてイープルで攻勢に出ることにした。これが第2次イープルの戦いである。
4月にはいりドイツの捕虜からの尋問で、毒ガス攻撃の準備が進行中という情報が得られた。ところがこの捕虜は自発的に近づいてきたという状況が考慮され、ドイツ軍がしかけたワナではないかと疑われ、結果貴重な情報は無視された。この捕虜は、1932年にいたりライプチッヒで裁判にかけられ脱走と敵への機密漏洩で重労働10年が宣告されている。
更にドイツの新聞が、英軍がドイツ兵にハーグ条約に違反し毒ガス攻撃を行ったと非難し、ドイツにも毒ガス攻撃の権利があると主張した。そして聴音壕から聞いた事のない機械音がするという情報も得られたが、遂に司令部は毒ガス攻撃が切迫しているという認識には至らなかった。
毒ガス
4月22日午後5時ドイツ第4軍(ウユルテンベルグ公)はイープルで西部戦線初の毒ガス攻撃を実施した。約5700本のガスボンベを準備し発射のタイミングをうかがっていたが、ようやく絶好の風が訪れた。
前面はフランスのアルジェリア師団で兵士はズアーブ族が多かった。ガスは塩素ガスでその黄色とも緑ともつかない気体がたちこめると、アルジェリア兵は逃げ出すかその場で痙攣して死亡したといわれる。
毒ガス
カナダ第1師団
アルジェリア師団の右翼にいたカナダ第1師団の記録をみてみよう。
『カナダ第1師団は宣戦布告とほぼ同時に編成され、ケベックのキャンプで訓練それも小銃の発射とか基本訓練にあけくれた。兵員はすべて志願兵で、それまで兵士として訓練経験のあるものは希だった。
その後イギリスに渡りさらに5ヶ月訓練をうけ、実戦に適するとみなされた。イープルの突出部についたのは4月17日でそのまま第1線の塹壕に配置された。
師団長(アルダーソン)と少数の参謀はイギリス本国人だったが旅団長以下はすべてカナダ人で、将校の大部分も民兵としてパートタイムの軍人の経験しかなかった。そしてこのアマチュアの師団が、最も有能な将校の率いられ、自ら最強と疑わないプロフェッシナルな兵士と戦うことになるのだ。
4月22日毒ガス攻撃のあった日、第10歩兵大隊の日誌は次のように伝える。マクラーレン少佐の観察によると「北西から砲弾の破裂音をきくと同時に奇妙な色(黄、緑、灰色ともつかぬ)の雲を目撃した。地面近くの色が濃く上に行くと薄くみえた。フランス軍がいつもと違う火薬を使ったのかとも思った。」
しかし毒ガスは密集した兵のいるイープル突出部では極めて効果的だった。塩素ガスは空気より重いため、塹壕に容易にたまり、そして兵士がよくカバーとして利用すろ砲弾跡にも残留し被害を与えた。アルジェリア師団は跡形もなく後退し幅4マイルに及ぶ空隙が生じた。その空隙にドイツ歩兵部隊が突撃し半円状の土地が奪われた。
MAP:第2次イープル戦
その日22日夜襲を行う事が決められた。カナダ師団から第10および第16大隊が選抜され攻撃隊が編成された。約1500人の兵士は3メートルの間隔で立ち、8段の縦隊でほぼ長方形となった。目標はキッチナーと名づけられた森で幅500メートル奥行きは700メートルほどだった。
曳光弾を除くと明かりはなく、また目標は500メートル先と近接していて砲撃による支援も期待できなかった。頼るものはロス式小銃と銃剣と手榴弾だけだった。11時45分突撃が開始され、機関銃による反撃をかわし攻撃隊ほぼすべてが森に突入した。
しかし攻撃はここまでだった。ドイツ軍はこの時すでに縦深戦術を採用しており、新たに確保した塹壕ですらその後に第2線の後退用塹壕を用意していた。森には猛烈な十字砲火が浴びせられ、そのあとドイツ歩兵部隊による反撃が始まった。カナダ部隊はたまらず後退した。
23日を通して、同じような攻撃がもう2回繰り返された。被害は猛烈なものになった。そして24日今度はカナダ師団全体にガス攻撃が敢行された。カナダ兵は水につけた手ぬぐいしか防具はなかった。たまらず第2線の陣地まで後退すると、ドイツ兵はすぐに追っては来ず、ガスが途切れるのを待っていた。
ドイツ兵が攻撃に移ると、砲兵隊が始めて有効な損害を与え、また80メートルまで近接した所で機関銃による反撃が功を奏し、押し返す事が出来た。カナダ兵は後退してもガスで致命傷は受けなかった。
これは原因として水を含んだ手ぬぐいが意外と効果的だったこと。ここで使われた塩素ガスは水と反応して非活性となる。またガス攻撃も2度目で奇襲効果はなかったためである。ただこの攻撃による直接のガスによる死傷者は228名にすぎないが、多くの者が後遺症に苦しめられた。
ドイツ軍は仮に十分な戦力があれば、イーゼル運河を突破し待望のドーバー海峡港湾のダンケルク、カレーに到達する事が出来たかもしれない。しかしこれ以上の追求はなかった。』
カナダ第1師団は18000人の兵力のうち5975人をこの戦闘で失った。しかし割り当てられた前線を一歩も引く事なく防衛した。カナダ兵は素人で戦闘技術はないに等しい。だが逃げるよりはその場で死ぬつもりだった。この戦闘でカナダの一体感はこれまでになく高まった。そしてフランスでもベルギーでもカナダの名は多くの人に知られるとともに、多少の名誉をもって語られた。
5月3日カナダ第1師団は後続のイギリス本国師団と交代し、第2次イープルの戦い参加の記録も終了する。
第2次イープル戦中の市内、まだ建物がのこっていることがわかる
毒ガスが実戦で初めて使われたのは実はこの戦いではなくて、1915年1月東部戦線、ボリロフ付近とされる。同じく塩素ガスがロシア軍に向けられたが、温度が低く、拡散しにくかった上風向きも悪くロシア側は全く気づかなかったらしい。後半になるとボンベで発射する方法は砲弾に代わられたが、この戦いでも見られたようにガス散布の結果攻撃側も進撃しにくくなるというのは避けられない欠陥だった。
ドイツによる毒ガスの使用は非参戦国を含めて野蛮な行為としてみなされた。しかし連合国もすぐ追随して使用するようになる。それでもドイツは毒ガスの使用を楽しんでやっているように見え、連合国はイヤイヤやっているように見えた。これがドイツの毒ガス戦の主犯となった理由だろう。
西部戦線での砲弾欠乏とガリポリ作戦の失敗はイギリスで5月内閣危機をもたらした。アスキスは保守党との連立で乗り切りを図った。当時自由党だったチャーチルは軍令部総長フィッシャーとの不和もあり海軍大臣を追われた。ロイドジョージが軍需大臣に任命され、戦争指導に決定的な役割を果たすことになる。アスキスは首相として残るが、最早自由党を代表する立場になく、これが自由党単独内閣の最終となった。
イギリスは主要交戦国のうち唯一徴兵制をもたなかった。このため志願兵を募集したが、これは大成功だった。志願兵の応募をうながすポスターから、この志願兵からなる新軍はキッチナー陸軍と呼ばれた。すでに1915年5月までに200万人に達したが、装備は完全に不足し制服すら行き渡らないありさまだった。この陸軍が訓練・装備が終了するのは更に半年が見込まれた。
キッチナー陸軍
7月6日開戦以来初めて英仏共同作戦会議がもたれた。双方とも首相以下閣僚が出席したがイギリス側をリードしたのはフランス語をただ一人喋れるキッチナーだった。会議は結論が出せず終了したが、キッチナーはあとで「ジョフルもフレンチも11月に何をいったか。こうすればドイツ人を押し戻せると。また同じことを12月、3月そして5月に言った。そして何があったのか。ひどい損害と成果ゼロだ。」と書き残している。
イギリスはひどいジレンマに陥っていた。もしドイツに西部戦線で勝とうとするなら、ドイツ軍を上回る人員と装備を集めなければならない。しかしそれはイギリスの予想した戦争の方法ではなかった。そして期待したロシア軍の攻勢、ダーダネルス海峡の打通そしてイタリー戦線はすべて連合国不利に展開していた。
これ以降はイギリスも従来の戦争のやり方ではなくドイツの戦争装置をまねる傾向が現れる。7月15日グレイ外相はこの戦争の結果すべての国でいままでの政治運営のやりかたは成り立たなくなるのではないか、とカナダ首相ボーデンに語っている。イギリスも例外ではなくなりつつあった。
シャンパーニュ秋季戦
8月5日ワルシャワが陥落すると、キッチナーも西部戦線を等閑視できなくなった。結局ロシアの負担を軽減するのは西部戦線での圧力でしかないと。8月15日キッチナーは再度ジョフルと会談し9月に西部戦線で攻勢に出ることを約した。
連合国の9月攻勢は英軍がルー、仏軍がシャンパーニュの双頭で行われる事が決まった。ジョフルはドイツのゴルリッツ突破を参考とし、最大限の火力を一ヶ所に集中することで突破を図ろうとした。フレンチは今回いやに消極的で形だけのフランスへの協力にとどめようとした。
9月25日から始まるシャンパーニュ秋季戦は今後の西部戦線の原形がすべて現れる戦いとなった。
ジョフルは前回の小規模な突出部を数箇所もうけ、それを前進しながらつなげて行くという作戦を捨て、シャロン近郊のスーアン−マッシーニ間約30kmの全面突破を目論んだ。このために18個師団を集中し、75時間に及ぶ連続射撃を実施した。
たいするドイツ第3軍(アイネム)は7個師団と劣勢だが事前に攻撃を察知し周到な準備をしていた。縦深戦術を採用し最前線の塹壕はダミーとし、ごく少数の兵に守らせた。さらに塹壕に付随して、主要地点に地下10メートルに達する地下壕を設けた。
砲撃が始まるとしかしドイツ兵は地下壕にこもり耐えるしかない。しかもこれほど長期に亘る連続射撃は予想しなかったため、飢餓状態にいたった兵もいた。また地下室の連絡通路が砲撃で埋まることはしばしばで、生き埋めによる犠牲者はかなり出た。
ジョフルは突破後の戦果拡大に備え騎兵を準備しそのために、攻撃地点の後方に地下の馬屋とパドックまで作った。しかし9月25日第1波の攻撃でドイツ軍が地下壕から出て、機関銃座につくのを見て強襲の限界を知った。強襲による攻撃は3日で取りやめになった。そして騎兵の出番はなかった。
攻勢は11月初めには自然と消滅した。仏軍の損失は19万人、独軍は12万人といわれる。ジョフルはそれでも攻勢の意義はあったと考えたらしい。最終的勝利に向かって一歩前進だと。ここでも消耗戦の思想があった。しかしフランスの出生率はドイツより劣り、毎年の徴兵年齢到達者はドイツの半数に過ぎなかった。すると個々の戦いでフランスは半分の損害に抑えないと、消耗戦で勝てない事になる。
MAP(シャンパーニュ秋季戦でのドイツ軍の塹壕)
BEFはジョフルのシャンパーニュでの攻勢と同じ日9月25日にルーで毒ガスをもつかい攻勢に出た。こちらでもフランス砲兵隊の支援をえて盛大な砲撃と、歩兵の突撃が繰り返された。ドイツ軍は毒ガスには風向とまたガスマスクにより耐える事が出来た。それでもイギリス歩兵の突撃で予備の塹壕も破られた。しかしそこでイギリス軍は戦略予備が尽き、突破はならなかった。
それでもフランス軍よりも成功したのかもしれない。ドイツ軍はシャンパーニュ正面を主敵ととらえ、ルー方面は戦略予備が薄くしか配置されていなかった。
ではドイツ軍がゴルリッツで突破に成功し、なぜ連合国は西部戦線で失敗したのだろうか。次の3点によると思われる。
1. 連合国の攻勢はいずれも、奇襲効果が発揮できていない。
2. 西部戦線は兵員の密度が濃く、防御側が戦略予備を保有していた。
3. ドイツの塹壕の構造が優れていた。
この時点では連合国のいずれよりも、材料・構造・居住性ともによかった。
英仏軍の捕虜はドイツ軍の塹壕を見てあまりの贅沢なつくりにショックをうけている。また第2次大戦でも同様だが、英仏軍は索敵には熱心だが、攻勢意図の秘匿は得意でない。(米軍が加わると改善したが。)ひとつには、攻勢意図をむしろ知らせて、敵を威圧する考えがあったのではないか。ドイツは絶対に威圧はされない敵なのであるが。
毒ガス
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