第1次イープルの戦い

第1次イープルの戦い

第1次イープルの戦い

第1次イープルの戦い

第1次イープルの戦い

第1次イープルの戦い

第1次イープルの戦い

海への競争

ドイツはマルヌ会戦で一敗地にまみれた。エーヌ川に止まり防衛線をひくと連合軍も止まり双方塹壕の頂上に機関銃をすえた。1丁の機関銃は数百人の歩兵の突撃をなぎたおすのに十分だった。どちらの側もあえて突撃することなく周辺を見回し、相手の側面を抜こうと海にむかって進みはじめた。これが海への延翼運動といわれるもので、両方とも海に到達した事実は両方とも側面の迂回に失敗したことを意味した。


ファルケンハイン

それより先、ドイツの参謀総長小モルトケが革職され陸相のファルケンハインにかわられた。ファルケンハインはこの段階でいち早く戦争が長期戦と化したことを認識した戦争指導者だった。この時点からダーダネルス作戦ソンムの戦いを除いて1916年に至るまで東西両戦線とバルカン戦線ともファルケンハインのイニシアチブで進んだ。

ファルケンハインの現状認識はドイツと中央同盟国は連合国に包囲された要塞のようなものだ、という点にあった。また二正面作戦の観点からは、ロシアの全土を占領して屈服させることは不可能、そしてフランスが敗れてもイギリスがいる限りロシアは戦い続ける。ロシアとたとえ条件つき講和を結んでも、イギリスがいる限りフランスは抗戦する。一方イギリスを仏露と別に打倒することも無理というものである。この苦境打開の方法は長期に亘り連合国軍に出血を強いて、厭戦意識を誘うしかない。つまり消耗戦の思想だった。

面白い事に上記の見解はヨーロッパの地勢的な条件からの分析で第2次大戦時にもあてはまる。ただ最後に厭戦意識で講和を求めたのはイギリス、フランスでなくてドイツだった。

ファルケンハインは東方派すなわちロシアへの攻勢に重点を置くべきとの、ヒンデンブルグルーデンドルフの考え方を排し、両面で兵力を倹約しながら使う方法をとった。

ファルケンハインの西部戦線の作戦はイープル付近を突破し海峡方向に向かい、イギリス・ベルギー軍を包囲殲滅を狙うものだった。これの陽動作戦として東部戦線で限定的な攻勢に出、ロッヅ付近の戦いがおきた。またこの時のファルケンハインの作戦は第2次大戦におけるヒトラーの黄色の計画−セダン突破作戦に似ている。またヒトラーはこの作戦に一兵卒として参加していた。もっとも作戦は失敗したが。

アントワープの包囲

9月中旬、ベルギー軍3個師団がアントワープにこもって抵抗をつづけていた。これへの抑えとして約4個師団のベーセラー支隊が派遣されていたが、更に増強を受け9月26日から市内をとりまく保塁への砲撃が開始された。    

ベーゼラー                                                    

キッチナー陸相とグレイ外相はすぐイギリスの危機を察知した。アントワープが簡単におちるとドイツは次に海峡の港湾都市カレー、オステンデ、ダンケルクを手中にしそのままイギリス上陸の基地を得る事になる。数日でも時間を稼いでBEFの北進を促さねばと。
海相のチャーチルはみずからアントワープ行きを志願し、10月3日到着し市内の防衛施設を調査・ベルギー政府の激励を行った。

しかし10月4日に防衛そのものは絶望的と政府に連絡した。それでもキッチナーは時間稼ぎだけの目的でその時唯一のイギリスの兵力だった海軍陸戦隊1万名をアントワープに出発させた。

この時ドイツ軍はオーストリアから借用の30,5センチ臼砲を使用したが、イギリス軍にこれに対抗できる兵器がなく10km先から発射される砲弾に打たれどおしで為すすべは全くなかった。10月6日ベルギー政府はオステンデへの移転を決意徐々に撤退を開始した。

スコダ30.5センチ臼砲

10月9日アントワープはついに陥落した。イギリス海軍陸戦隊のうち57名が戦死、936名がドイツ軍の捕虜となった。1600名はオランダに逃げたがそこで終戦時まで抑留された。しかしこの戦いでBEFは北進の時間を稼ぐと同時に大部分のベルギー軍はまたも逃亡に成功した。

アントワープ攻防戦

ウュルテンベルグ公

ファルケンハインは新編の4個軍団をウュルテンベルグ公の第4軍に配属した。この新第4軍の司令部は同じだが中身は違った。新編4個軍団は全て志願兵だった。ドイツは厳格な徴兵制をしいていたから、志願者は徴兵年齢以下の少年か徴兵を一定期間免除される大学生が中心だった。新編4個軍団の主力は大学生と高校生であり6週間以上の訓練は受けていなかった。10月10日第4軍にイープルを突破し海峡港湾都市奪取の命令が出された。

10月13日までにドイツ軍はリルとオステンデを占領した。ベルギー政府はフランス領内ルアーブルに移転した。一方BEFは10月13日イープルを占拠した。恐ろしい事だが英イープル独リルの向き合いはこの後、両軍合計約150万名の死傷者を出して4年間続いた。そして両軍とも譲らなかった。

イープルはベルギーに属した。ベルギーの中立侵犯を理由に参戦したイギリスにとりそれは格別の意味があった。地形は紅茶茶碗の受け皿に似て、イープル市内がその中心にあるような落ち着いた雰囲気をもつ繊維製品の交易都市だった。戦闘は市内をとりまく山脈のような高地(リッジ、標高は20メートルもない)の争奪をめぐって行われた。

10月23日までにイープルからスイス国境までほぼ塹壕がつながった。ベルギー軍は最後に残された自国領のニューポール付近でグラベリン水路を決壊させ氾濫作戦に出た。これによりドイツ軍のイーセル川以西への侵攻は食い止めることができた。

10月23日イープル突起部でドイツ軍が攻勢に出たが二日間で2000名に上る戦死者を出し失敗した。この時のドイツ兵は灰緑の戦闘服に学帽を乗せていたという。開戦時のピッケルハオベ(スパイク付きヘルメット)は皮製でアルゼンチンからの輸入に頼っていたため既に供給不足となっていた。戦死したドイツ兵は2ヶ月前までハイデルベルグの校庭を散策する学生だった。

一方BEF司令官フレンチはマルヌ会戦前の消極さは消え戦勝とともに攻勢に出る決意を固めた。フレンチはこの後も見せるが躁状態と鬱状態を繰り返す。イープル突起部を突破しベルギー軍と交戦中のドイツ軍部隊を孤立させ、ブラッセル方面に進撃する作戦をたてた。

ゲルベールの激戦

10月25日逆に同じイープル突起部でイギリス軍が攻勢に出たが1大隊が全滅して失敗した。しかしこれはほんの前哨戦だった。10月26日ファルケンハインは前線が突破できないのをみて、増援部隊を送る事を決意した。戦闘地点は拡大し南はヌフシャペラでも激戦が開始された。しかしドイツ軍の主攻はイープルとメニンをつなぐメニン街道沿いだった。

とくにメニン街道のゲルベールが主戦場となりイギリス軍が後退するにつれ、ハルト(止まれ、の意味)に移った。ハルトは路面電車がメニン街道と交差する地点で、普段はイープルへの通勤者が下車する所だった。当時のベルギーは国中が路面電車でむすばれ、この電車で何回か乗り換えればブラッセルまで行けたという。この戦闘の後ハルトは英兵からヘルファイアー=地獄の業火と呼ばれるようになった。

10月26日から56時間通しの砲撃の後、ドイツ軍はメニン街道をイープル方向へ一斉に突撃にうつった。10月29日払暁からゲルベールで激戦となった。

この中にヒトラーがいた。ヒトラーは志願でバイエルンのリスト(予備第16)連隊にいてこの戦いに参加した。この連隊はこの一日の戦いで349人が戦死した。

29日30日とイギリス軍はゲルベールを保持したが、31日にドイツ軍の手中に落ちる。ところが午後にはいりイギリス軍はその奪回に成功した。フレンチは戦場の混乱の中で隣のフランス第9軍フォシュに救援を求める。「これでは私にできることは前線に行き、第1軍団とともに死ぬことだけだ」。
これに対するフォシュの答え。「死ぬことを語ってはいけない、勝つことを語らねば」。

11月1日になりドイツ軍は周辺の高地に狙いをつけメシヌとウィシャッテを占領した。11月2日二つの高地の占領に脅かされイギリス軍はゲルベールを撤退し、イープルの周辺の防衛線に戻った。11月13日ドイツ軍は最後の大攻勢をメニン街道にかけるが失敗し小競り合いを除いてドイツ軍の攻勢は退潮にむかった。そしてイープルはイギリス軍の手中に残った。

ウィシャッテ高地の攻防戦でヒトラーは戦場での勇気を示した。上官のホフマン大尉が砲弾の破片で重傷をおった。ヒトラーはホフマンを背負い森を越えて野原を突き抜け野戦包帯所のあったチャペルまで運んだ。森から見通しのきく野原に出ることは周辺に狙撃兵が配置されていたことを考えれば、非常に危険だった。ホフマンはその後すぐ死亡したが、ヒトラーは功績を認められ功2級鉄十字章を授与された。野原での弾丸一発が世界の歴史を変えたかもしれない。

ファルケンハインの打通作戦は失敗した。両軍1万人以上の戦死者を出したが打撃はドイツの方が大きかった。確かに新編の4個軍団は予備軍団で第1線部隊とされていない。しかしそれはドイツ最良の青年を集めた部隊だった。果たしてドイツは今現在でもこの打撃から立ち直れているのだろうか。その後この軍団は「無垢なる子供の死」軍団と呼ばれ精鋭部隊とされた。イギリスも常備軍はこれで完全に破砕された。予備役と世界中の植民地から兵員が召集されその損失を埋めた。しかし、初期のBEFを担った兵士と将校はほぼ姿を消した。

11月も半ばになるとフランダースには霜がおり、みぞれ交じりの雨とあいまって塹壕のなかは耐え難い状態になった。戦闘も停止状態となった。そしてクリスマスになるとドイツ軍がろうそくで明かりのついたクリスマスツリーをあげた。イギリス軍兵士とドイツ軍兵士は塹壕と塹壕の間の無人地帯に集まり、たばこやチョコレートを交換し、ある所ではサッカーに興じたという。これはクリスマス休戦と呼ばれたが翌年から英仏軍は厳しくこれを禁止した。

クリスマス休戦

ジョフルは冬期、シャンパーニュとアルトワで攻勢にでた。しかし戦線は突破できず、数日の戦闘で50ヤード先の前進壕の第1線を奪取しただけ程度の戦果だった。これはシャンパーニュ冬期戦と呼ばれた。

フランス軍は1914年、半年にも満たない期間に約120万人の戦傷・行方不明者と約50万人の戦死者を出した。これは第2次大戦における6年間のイギリス軍の被害を上回る。





Carew,T., Wipers: the First Battle of Ypres, London,1974
Farrar-Hockley, A.H., Death of an Army,London, 1967
Haldane, Lieutnant-General Sir Aylmer, A Brigade of the Old Army, London, 1920