ファルケンハインの消耗戦術
前年の中央同盟諸国の各戦線での好調をうけ、ファルケンハインは今一歩大胆な作戦に乗り出した。この段階で、ファルケンハインはドイツの完全勝利は最早ないと認識し、現状の戦線を新しい国境線とすることを前提に講和に出るつもりであった。
これは、ドイツ国内での終戦工作の難しさが絡んでいる。仮に現状維持でなく不割譲、すなわち初めの国境のママだとすると、国民はともかく軍を納得させるのは難しい。今の戦線で新国境を決めようというのなら、連合国は絶対に受けいれない。ところが、ドイツ軍部は武力で得た不動産をなかなか手放したがらない。
防衛のために国境を前進させたいというのである。これではキリがなくなる。ファルケンハインの考えは要するに英仏露の3ヶ国を相手にして完全勝利は無理だというのに尽きる。これはたとえパリは占領できても、ロンドン、モスクワ、ペテログラードは不可能だということである。ところが連合国はウイーン、ベルリンの占領は実現可能な目標なうちはドイツから譲歩しない限り、講和交渉に応じない。
英仏とくにイギリスはベルギーからのドイツ軍の撤退がなければ、講和に応ずるつもりがなく、キッチナー陸軍の編成を終了あり次第むしろ攻勢に出る計画だった。
ファルケンハインは、英仏を講和の席につかせるためには耐え難いほどの苦痛を与える他にない、と考えた。そして、フランスが面子にかけ撤退できない地点が選ばれた。
その地点がベルダンだった。
ベルダン要塞はパリの東方を守備する目的で設置された。リエージュまたナミュールの戦訓からみて動けない要塞には価値がない。要塞は包囲されれば降伏するより道はない。しかし、攻撃側が地域を制圧するには歩兵の前進が必要だ。ここに防御側の勝機がある。すこしでも防衛兵力が残ればまた戦略予備を前線まで運べれば、前進してくる歩兵を少数の機関銃でなぎ倒すことが可能だ。第1次大戦の西部戦線の塹壕が効力を発揮したのはこの戦術に起因する。結局防衛線は設備が守るのではなく、人が守るしかない。ベルダンのフランス軍は要塞を横に塹壕戦を戦うことになる。
もちろん準備射撃によって倒れた防御側の兵士は捨て駒という事になる。また防御側の銃火で倒れた攻撃に出た兵士も同様だ。非情な作戦だが、西欧文明の旗手がこれを4年以上繰り返したことになる。
ファルケンハインは回想録でベルダン戦前後の心境をこう記す。
「1915年にわたり、東方戦場で敵の殲滅を初期の目的として戦ったが、果たせなかった。そしてオーストリア軍の戦力低下とドイツ海軍の劣勢またアメリカの経済支援を考えれば、敵の殲滅という目標は単に理想にすぎなくなった。いまや名誉とか領土獲得のため努力しているのではなく、国民存立のため戦うのだと言わざるをえない。もはや全部の敵を屈服させられないのだから、敵も我々を屈服させることはできないという認識にいたらしめ、戦争終局の情況を見逃さない様にしなければならない。」
極めてプロイセン的レトリックだが、この宥和的態度とベルダン攻撃を結びつけて考えるのは英仏といえども困難だろう。またファルケンハインは講和条件の設定を連合国が受け入れ可能な線で具体化すべきだった。しかしこのベルダン戦の時期ではタイミングが過早だったかもしれない。
ベルダンは町をムース川が南北を貫流し、周囲に比べ小高くなっていた。とくに北に向かって下っていて、要所に保塁が設けられていた。分派式要塞といわれるもので、各保塁はほぼ函館の五稜郭と形もスケールも同じだが空掘が囲んでいた。そして市内まで何線もの塹壕がつないでいた。
MAP
保塁はムース川の東岸と西岸の両方におかれ、激戦の舞台となった東岸は三線・三点をもって、北すなわちドイツ軍の進行をにらんでいた。
第1線 チョーモン(陣地) ドーモン ボー
第2線 フルーリー(陣地) スービル タバーン
第3線 ベルビール サンミシェル ムーランビル
ドイツ軍は北から攻めるが第2線に到着したころで力尽きる形となった。
西岸はバシェールオービルが最北の保塁であったが、そこまで到達できず、モルトンム高地を抜く事が攻防の山場だった。
ここの保塁は天井が2メートルのコンクリートが三層その間につき固められた粘土層さらに最上部が迷彩のため土で覆っているという、重厚な構えであった。これだと当時または現在のいかなる砲(核兵器を除く)でも貫通できない。
現在では朝鮮半島38度線に沿って、北側が連続線をもって、同様程度の防御施設を保有している。ドイツ軍は迂回作戦をとらず、直接奪取する方針で臨んだ。従って戦闘は保塁の攻防に焦点が当たり、戦果自体もそれに左右されるという奇怪な事態が生じた。
とくにフランスでは保塁の攻防が全てであるように報じられ、政府の興廃がそれにかかわる現象が生じた。要塞戦となると、露土戦争のプレブナ、日露戦争の旅順、大戦緒戦のリエージュと同じ現象が攻防双方に生じておりやむをえない事かもしれない。だが用兵者はどうなのだろうか。
初めジョフルはベルダンに価値を置いていなかった。ジョフルは「フランス軍の目的はいかに難しくても敵の野戦軍の撃破にあり、そして攻勢だけがその目的を達する。動かない要塞は攻勢と関係がない」と考えていた。この結果、一部の保塁から砲を取り除いてすらいた。しかし実際のところドイツ軍は肉薄攻撃をしてきたので、機関銃で十分だった。
シャンパーニュやイープルでフランス軍が善戦したのは野砲75による所が大だった。ドイツ軍はこの砲の射撃をドラム射撃(旧陸軍参謀本部の訳だとタイコ射撃)と名づけあたかも新型の砲によるものと恐れた。
6門の1大隊の射撃速度が、機関銃の発射速度の様だったという。この野砲が要塞戦だと能率が悪くなる。75は動いてこそ特長が生かせる。要するにファルケンハインが予想した通りベルダンはフランスにとり戦場として不利なのである。保塁がいかに頑強でも歩兵は1ヶ所に止まらず機動的に後方に移動し、野砲もそれに連動させる方が防御としては効率的すなわち被害が少ない。攻勢側は攻勢に出ているときは砲撃に極めて弱く、逆襲は単純正面攻撃よりはるかに成功しやすい。
フランス陸軍
第1次大戦はある意味で第2次大戦より砲弾を大量に使った戦争だった。それは一地域当たりのという意味である。しかもその地域には兵士が密集していた。ベルダンの記録は第2次大戦をとびこして朝鮮動乱における鉄の三角地帯の戦いまで破られない。ただ兵士の密集状況はベルダンが上回っていたと推定される。ある統計によるとフランス軍は84日間のベルダン戦で1050万発の砲弾を消費したという。
ベルダン攻撃命令は前年クリスマスの前、第5軍司令官ウィルヘルム皇太子にあたえられた。しかし天候が不順でなかなか機会がえられず、2月21日となった。この日もみぞれ交じりの吹雪だった。ファルケンハインの作戦はまずムーズ川東岸(右岸)に攻撃を限定的すなわち約半分、9個師団をあてる。ただし攻撃は残りの師団と交互に行い消耗をさける。それとは別に5個師団を司令部に総戦略予備として確保するという、確実なものだった。そして1ヶ月後、東岸で前進するのをみて、側面支援の目的で西岸にも攻勢をかける。敵はこの時点で他の前線から兵を抽出せざるを得ず、これを決戦的な衝突で撃破しベルダン市を占領する。敵は戦意を失い講和の席に就くだろう。
ドーモン保塁の攻防
初めの3日間はドイツの予想した通りだった。第1線の保塁の前面にいたフランス軍は2個師団だけですぐに退いた。2月25日ジョフルは副官のカステルノーをベルダンの状況把握に派遣した。カステルノーは統一した指揮が必要で、司令官にはペタンが適当との意見具申をおこなった。
その日ドーモン保塁占拠のため、プロイセン伝統のブランデンブルグ連隊が選抜され、保塁内に突進した。保塁内にはわずか57人しか守備隊がおらず簡単に降伏した。
ペタン
この知らせは保塁を無価値とみていたフランス人をも絶句させた。深夜ペタンはベルダン防衛軍総司令官に任命された。
ペタンはカステルノーに「やつらを通さない。」(‘ILS
N’ONT PAS PASSE’)と断言した。しかしこれは同時に防衛に全力をあげることを意味した。フランスはファルケンハインのワナに嵌まった。
ペタンはしかしその当時最も優秀な指揮官の一人だった。肺炎を病んではいたが、精力的に指示をだした。ドイツ軍の長距離砲で鉄道による補給が断たれ、ベルダンからバルレダックに行く道(あとで聖なる道と名づけられた)に補給路を設定しそこにフランス全部のトラックを集めた。二日間で野砲335門を集めきり、ムーズ川西岸から側面射撃を東岸のドイツ歩兵部隊に集中させた。
ファルケンハインは予定を早め、2月29日ムーズ川西岸への攻撃に乗り出した。争点はモルトンム高地で、これは下から攻め上るドイツ軍が不利となった。一方東岸では、フランス軍は緒戦で失ったドーモン保塁の再奪還を狙い攻勢に出た。これは一度奪った保塁を守るドイツ軍が有利だった。
3月2日、ドーモン保塁再奪還を狙うフランス軍のなかに、ドゴールがいた。攻撃は失敗しドゴールは捕虜となった。捕虜生活中、5回脱走を試みたがいずれも失敗し、終戦まで抑留された。また、ドゴールはキャンプのなかでフランス語を他の国籍の人に教えた。生徒の一人にトハチェフスキーがいた。トハチェフスキーは後に赤軍の元帥となるが、1937年スターリンによって粛清され殺害された。脱走のほうはドゴールより優れ、6回目にして成功、本国に帰り現役に復帰した。
3月を通して激戦が続いたが戦線は上下したが幅は1000ヤードを超える事がなかった。全くの消耗戦だった。フランスは3月末までに89千人の被害を出し、ドイツは82千人だった。もちろん交戦中は相手の被害はわからないが、自軍の被害だけで恐慌をきたす数字だった。
4月1日、ウィルヘルム二世は「普仏戦争ではパリが決定的だった。この戦争はベルダンで終わるだろう」と兵を激励した。しかし8日あとのモルトンム高地の攻略は失敗し、1日で2200人の死傷者を出した。4月9日攻撃軍を二手に分け東岸をムドラ、西岸をガルウィツが指揮をとることになった。総司令官はウィルヘルム皇太子で変わりはないが、この頃皇太子はこの消耗戦という方針の懐疑的であったようだ。
西岸は戦線が延翼運動で更に西にのび、モルトンム高地に隣接する304高地が攻防の焦点となった。しかしドイツ軍は落とす事ができない。4月21日、新任の東岸の司令官ムドラーは現攻撃方針では損害が増すばかりだと、意見を具申した。ウィルヘルム皇太子も同意見だったが、参謀長のクノーベルスドルフは直ちにムドラを更迭し、後任にロホウをすえた。
二人ともこの戦いの目的が不動産の取り合いでなく、互いに損害を出し合うことだという理解出来なかったのだろう。
ファルケンハインは5月攻勢を計画、作戦名を「5月の盃」とした。13門の巨大口径砲(42センチ)ビックバーサ(ベルタ砲)を据え付け遠くムーランビル保塁を砲撃しはじめた。
ビッグ・バーサ
わずか幅1マイルにすぎない左岸の304高地にめがけ、ドイツ軍は500門の砲を用意し、5月2日から攻勢にでた。5月8日食料もつきたフランス軍は降伏した。
しかし同じ日、ドーモン保塁で弾薬の誘爆事故が発生し、650人が死亡するという大惨事となった。この事故を知ったフランス軍はドーモン保塁の攻略を決意、5日間にわたる猛爆撃のあと5月22日特別急襲部隊を編制し、保塁を攻撃した。
爆撃で上部構造は全部破壊され、急襲部隊は保塁に取り付いたが、中に侵入できず外部に機関銃座をすえた。ドイツ軍は救援のためトンネルを利用し、増援部隊を送り込んだ。そして上部にいるフランス兵に手榴弾と火炎放射器を浴びせ掛け、撃退することに成功した。
ボー保塁の攻防
ボー堡塁内部
ビックバーサは動かないがフランスの75は動く。5月中にビッグ・バーサのうち9門は破壊されてしまった。「5月の盃」作戦の手始めはボー保塁の攻略だった。ボー保塁はベルダン要塞の保塁中で最小かつ、ケースメートの野砲75は撤去されており、機関銃だけが据え付けられていた。そこに残り4門のビックバーサの砲火が集中した。
6月2日ボー保塁へ総攻撃が実施された。フランス軍はライナル少佐のもと600人の守備隊が守っていたがまさしく背水の陣で後方との連絡に当たるトンネルがなかった。しかし半個師団によるドイツ軍の猛攻に良く耐えた。
ボー堡塁
6月4日最後に残った伝書鳩に「救援隊をおくれ。」とメッセージをそえ、送り出した。伝書鳩は本営に到着するや力つきて死んだ。この鳩にはレジョンドヌール勲章を綬与された。
6月5日最後に残った、死臭のただよう水を生き残った兵にグラスに4分の1与えた。ライナルは2日間食事をとっていなかった。その夜しかし救援隊派遣のしらせが届いた。翌朝から救援部隊がドイツの包囲網に果敢に攻撃をかけたが、機関銃の前に屈する。
6月7日ライナルは降伏した。残った兵は100人に満たなかった。一方ドイツ軍はこの攻撃で2700人を失った。ウィルヘルム皇太子はライナルを引見し、レジオンドヌール勲章が授与されたことを知らせまた新しい剣をわたし、名誉をたたえたという。
ボー堡塁攻防戦
しかしドイツの攻勢もこのあたりが山だった。6月4日ブルシロフ攻勢が開始され、ファルケンハインは東部戦線に兵力をまわさざるを得ないと判断を固めた。それ以降は兵力の欠乏はドイツ側が顕著になった。
レジョンドヌール勲章。1802年ナポレオンによって制定された。内国民には戦場での勇気ある行動、または20年以上の軍務または公務員としての永年勤続の功にたいし与えられる。
6月22日、新兵器ホスゲンガスの砲弾がためされ、ムース川東岸で再度攻勢にでたが、成果はそれほどでもなかった。戦いはドイツの誇るアルペン軍団(デルメンジンゲン)が主力となりチョーモン陣地とフルーリー陣地の周辺で行われた。陣地自体は砲撃で完全に両方とも破壊され、両軍ともその跡地をめぐる攻防だった。
ドイツ軍が最も前進したのは、7月12日、ポンメルン第140連隊のうち50人がスービル堡塁の頂上を占領したときだろう。ここからはベルダン市街を見下ろせる。だがすぐさま反撃され、全員戦死するか捕虜となった。第140連隊にはパウルス大尉がいた。のちの第二次大戦スターリングラード戦におけるドイツの降将である。
チョーモン陣地にいたっては8月16日までに16回攻守が入れ替わったといわれるが、激しさ自体は徐々に低調に向かった。9月以降はフランスが逆襲に転じるが、戦略地点としてのベルダンの役割は終了した。
12月までのベルダン戦でフランス軍の損失は38万人、ドイツは34万人とされる。そのうち死者は両軍で42万人と推定される。第1次大戦の西部戦線で防御側の損害が攻撃側より多い、数少ないケースの一つだった。途中でファルケンハインは消耗戦の前提としてフランス側の損害が2倍以上に達することをあげている。この点では完全な失敗だった。
フランス軍の攻勢移転
それ以上にドイツはベルダンを突破できなかった事実が残った。フランスは逆にドイツの進攻を阻止したという自信をもった。そしてフランスはベルダン戦を勝利とみなした。ファルケンハインの思惑に反し、講和の席はますます遠くなった。
ファルケンハインはなぜ失敗したのか。ドイツ軍の被害がフランス軍のに匹敵したからだ。フランス軍の被害がなぜ過去より軽かったのか。それはペタンがそれまでのフランス軍の攻撃一辺倒のやり方を変え、ドイツ軍の前進をある程度待ったからだ。ペタンはこの時の防御方法を体系化し更に失地回復戦を分析し、攻勢防御法として1918年に実施する。
フランスにまた新しく注目を浴びる将軍が登場した。ニベルである。ベルダンでは7月以降ドイツの攻勢は一段落した。ファルケンハインはこの失敗とブルシロフ攻勢で、8月28日更迭され、ヒンデンブルグ−ルーデンドルフにかわられた。ルーデンドルフは消耗戦という考えになじめず、ベルダン戦に消極的だった。
ニベルはこのドイツの逡巡をとらえ、9月以降攻勢にでた。ニベルの方法はクリーピング(這う)砲撃という、歩兵と砲兵を同時に統制する仕方で、正面攻撃を実施するものだった。これはフランスの野砲75と組み合わせかつ敵の防御線が奪取したばかりで弱い場合は効果的だった。ベルダンではほとんど塹壕自体が破壊されつくしていたと同時にドイツ側は徐々の防衛線を下げていたから、ニベルの方法は成功し12月までに2月からの失地を全て回復した。完全に破壊された突起部を維持するのは困難で、また被害を拡大させ無意味だという原型がすでに現れていた。
攻勢防御(縦深陣地戦術)
この失地回復戦をニベルは正面攻撃にも応用できると考えた。
ニベルは勝つ方法を知っていると宣言した。フランス人は被害より失地回復を喜んだ。またニベルは妻がイギリス人でフランスの将軍には珍しく英語がたんのうだった。このためイギリス人にもよかった。首相ブリアンは12月26日、ジョフルを元帥に祭り上げ後任にニベルを後任に指名した。

Horne, A., The Price of Glory :Verdan 1916, London, 1962
Petain, Marshal H.P.B.J.O.,Verdan, London,1930