タンネンベルグ包囲殲滅戦(後編

8月26日の早朝、索敵機が有力な敵がビショフスブルグ北方に出現と報告し、ルーデンドルフレネンカンプがやはり来るのではないかという妄想にとりつかれた。このままでは両軍の挟撃に会う。ダンチッヒまで逃げるべきではないか。ここではさすがにヒンデンブルグは冷静で、既定方針で行く事にした。ヒンデンブルグの回想録によれば、「我々は内なる危機を乗り越えた」ということになる。

そのころマッケンゼンとその第17軍団はようやくグンビネンでの敗戦と損害から立ち直りつつあった。しかし今日を入れて四日目に入る連続行軍はさすがにこたえるものがあった。

ビショフスブルグ北方から南方へ向かって行軍する途中、後備混成第6旅団(クラーメル)が旧式の重砲を曳きながら横切るのに出会った。たしかこの左には予備第1軍団(ベロウ)が湖を隔てて同じ方向を行軍中だと思いながら見送った。

そして約2時間後突然、ロシア第6軍団(ブラゴフェシチェンスキー)の一部北行する師団と出会った。たちまち猛烈な不定期遭遇戦が発生した。約3師団半と1個師団の戦いであるからドイツ側有利であったが、マッケンゼンはこの時9千人の被害をグンビネンで受けていた。そしてロシア軍もよく戦い膠着するかという時に突然ロシア軍が総崩れになった。なんと先程通り過ぎた後備混成第6旅団が湖越えに側面から援護射撃を加えているではないか。

ドイツ軍はそのまま南行しビショフスブルグを奪回するのに成功した。そして予備第1軍団も途中別のアレンシュタインに向かうロシア第6軍団の一部と交戦となり撃破した後ビショフスブルグに入った。

MAP(8月26日ダダイ湖周辺)

ロシア第6軍団はこの日ビショフスブルグ北方で東から西へ行軍しつつある弱体な敗残部隊があるとの騎兵からの報告に接し一部を北行させたのだった。この敗残部隊とはドイツの後備混成第6旅団と推定される。ロシア第6軍団のあと東方または南方に逃亡した。司令官ブラゴフェシチェンスキーはポーランドまで逃げかつ部隊をほとんど掌握できず、報告も翌27日正午になってからだった。

この戦いにおけるこの事件は決定的な役割を果たす。サムソノフはこの日前線で指揮することを決意、オストロレンカを出発夕刻にナイデンブルグに入った。しかしドイツ第20軍団を北から迂回して包囲する作戦を変えなかった。この第6軍団が再び組織体としてあらわれるのは30日になってからである。

サムソノフは第13軍団・第15軍団および第23軍団に中央および北方に更に圧力をかけることを指令した。中央ではドイツ軍の防衛部隊も厚みをましてはいたが抗しきれず南側での反撃を除けば終始後退を余儀なくされた。

そしてロシア軍左翼に対する攻撃はフランソワの第1軍団が担当していたが、3Km程度前進しただけで停止しそれ以上は全く何もしなかった。これは完全な不服従というべきだろう。

夕刻、ナイデンブルグでサムソノフがイギリスの観戦武官ノックスと食事を共にしていた時、突然ナイデンブルグの守備にあたっていた第23軍団の兵士が動揺し、逃亡を開始した。守備隊の連隊長はサムソノフに事情をきかれ、もう3日間なにも食べていないし全く補給がないと答えるだけだった。

一方、ドイツ軍の本営に驚くべきニュースがまいこんだ。大本営から3個軍団(1個は現在編成中のものをあて2個は西部戦線から)を増派するというのである。小モルトケは後でこの決定について、仮にドイツ軍がパリを占領したとして、ロシア軍がベルリンに達すれば無意味ではないか、と語っている。しかしルーデンドルフは以前参謀本部にいたからシュリーフェンプランについて熟知していた。ルーデンドルフはすぐさま反論し、いまから3個軍団をもらっても間に合わないと、力説した。しかしすでに決定したと言われ呆然としたのだった。

マルヌの会戦で勝利したフランスの将軍たちは後日この決定を評して、小モルトケは、偉大だった伯父大モルトケの墓前で太刀打ちできなかったことを慙愧の念で報告したろう、とこきおろした。2個軍団が果たしてマルヌの勝敗に影響したかは、わからない。はっきりしているのはロシア軍の急進が小モルトケの心に誤算の気持ちを抱かせた事だけだ。

大ダメラウ湖畔で戦況を視察するドイツ第8軍首脳陣。望遠鏡をもつのはホフマン

8月27日の午前8時、前日夕ついに到着したフランソワの砲兵隊がサムソノフ軍左翼に猛烈な射撃を浴びせた。ロシア軍で最も精強と謳われた第1軍団(アルタモノフ)は砲撃3時間で総退却に移った。

ロシア側は開戦前の第19号計画でサムソノフ軍の北行に際し、西からの側面攻撃をおそれ第1軍団を防御体制で配置していた。このため兵力を分散させた。ワルシャワ付近で集結中の第9軍と第10軍の動員途中での攻撃を恐れたためだった。また第1軍団は塹壕を作る十分時間はなく、急造の塹壕は重砲の射撃に耐えられるものではなかった。

この配置は開戦前の兵棋演習で決まったらしいが、側面支援としては防御のほうが通常火力が上だから、動員集結支援の配置は不要だったとみられる。プロイセン軍事学では、兵力の事前集中と作戦重点の設定に重きを置くから、陽動作戦が途中で本格化することはまずない。しかしロシア第1軍団はその日は追撃するドイツ第1軍団に反撃しソルダウ前面で挙止するのに成功している。

一方東部では前日ロシア第6軍団を敗北させた第17軍団(マッケンゼン)と予備第1軍団(ベロウ)はこの日疲労困ぱいし20Km進むのがやっとで、第17軍団はオルステルブルグ周辺、予備第1軍団はアレンシュタイン東方にようやく到着した。両軍団とも敵との接触はほとんどない。

アレンシュタインに入城した第1ネフスキー連隊

アレンシュタイン(現オルシュチン)
この町は帝政時代東プロイセンで最も美しい町の一つと言われていた。

8月27日正午、ロシア軍のうち北に向かったクルーエフの第13軍団はアレンシュタインを占領した。しかし、すでに崩壊している第6軍団に預けるつもりで自身は西進した。これが事実上第1次大戦のロシアのベルリンへの最接近点だった。

中央ではロシア軍の攻勢はますます盛んでとくにホーエンシュタイン方面では突破まであと一歩に迫った。しかしドイツ側もゴルツ師団と予備第1軍団の投入を予定し防御の厚みは増しつつあった。この日の第2軍(サムソノフ)の西方への進出が攻勢限界点となった。

この日に至りロシア北西方面軍司令官ジリンスキーもさすがに事態が容易ならざるものを覚えてきた。だがレネンカンプは依然ドイツ第8軍の敗残主力はケーニヒスベルグにある、という考えは捨て切れず、行軍スピードをあげることはしなかった。

ウスダウ付近のロシア軍の塹壕

8月28日、この日もフランソワのゾルダウ方面への攻撃で開始された。前日まで果敢に戦ったロシア第1軍団も司令官のアルタモノフの早逃げで最早気力を失っており、国境外に全軍逃亡した。

一方東部では予備第1軍団(ベロウ)と第17軍団(マッケンゼン)が両方とも中央への支援を命ぜられていたため、どの道を通るかで内輪もめが生じていた。結局ルーデンドルフの仲裁で予備第1軍団がまっすぐ西、アレンシュタインを目指し、第17軍団は南西方向すなわちビショフスブルグ−ナイデンブルグ線を進む事になった。第17軍団のやや南方への転進は包囲完成に重要な役割を果たす。

中央では第20軍団(ショルツ)が攻勢にでてホーエンシュタイン奪回を試みたが、ロシア第23軍団の半分と第15軍団に挟み撃ちをうけ1個師団の半数を失い撃退された。これはこの戦いでドイツ軍の蒙った最大の被害である。

MAP(8月29日)決戦方面の情況

ルーデンドルフはたまらずフランソワに直ちに第20軍団の支援に赴くことを命令した。命令の末尾で「この命令に従えば、(第1軍団)は最大の貢献を軍にしたことになる。」と加え、ほとんど哀願に近い。

しかしフランソワは森のために射撃が困難とか不服従の言い訳をしながらルーデンドルフの命令を無視しそのまま東に進み午後にはついにナイデンブルグを占領するに至る。そして更に東に進み8月29日未明にはウィレンベルグに到達した。また街道の要所要所には機関銃の部隊を残置し警戒にあたらせている。

この時点でもルーデンドルフは第20軍団(ショルツ)の不甲斐なさに落胆し、フランソワに怒りをたぎらせ、またベロウとマッケンゼンはどこにいるかもわからず全く満足できない状態だった、と後で述懐している。

戦闘終了後のナイデンブルグ(現ニジツァ)

しかし午後ルーデンドルフに別の考えが閃いた。これまで近接包囲を狙ったが、フランソワの独断専行で新たに遠隔包囲の可能性が出ているではないか。直ちにマッケンゼンの1個師団をウィレンベルグに向かわせた。そして不本意ながらも夕刻にはフランソワの行動に追認を与えたのだった。マッケンゼン軍団の先遣部隊とフランソワ軍団は8月29日早朝にウィレンベルグで出会い、包囲は達成された。

この日の午前中はここで頑張れば、レネンカンプ軍が応援に来るとの確信に基づいて、攻勢を続けたサムソノフだが午後に入り、自分のいたナイネンブルグにフランソワの砲声が近づくにつれ、危機を悟った。この時、従軍していたイギリス観戦武官に時間のあるうちに逃げるように指示し、「敵は今日ついていた。いつの日か我々の方がつくこともあるだろう」と言い残した。

サムソノフは8月28日夜全面撤退を指令した。

タンネンベルグの戦いはこれ以降容赦のない包囲・殲滅戦となった。第15軍団(マルトス)と第13軍団(クルーエフ)は東南をめざして敗走したが要所にはフランソワの第1軍団の機関銃隊が守備を固めており大半が第1軍団あてに投降した。

まだ戦力の残っているロシア第1軍団が30日一時ナイネンベルグを奪回したが、すでに遅く、すぐに撤退した。第6軍団もオルテルスブルグで反撃にでたが撃退された。

ロシア軍の捕虜は9万2千人に達した。また戦死者も2万人を越える。一方ドイツ側の損失は死者と捕虜をあわせ1万5千人以下にすぎない。ロシア側の捕虜は最も頑強に戦った第15軍団と第13軍団に属する兵・将校が大半で第15軍団の将校で本国に帰還できたのは、僅か1名と伝えられる。サムソノフはウィレンベルグの近くで拳銃自殺を遂げた。遺体はドイツ軍により発見され、そこに仮埋葬された。2年後赤十字の手をかりて、未亡人が発掘し遺体をロシアに持ち帰った。

レネンカンプ軍はサムソノフ軍の危機を8月28日午後に認識し、斥候部隊はビショフスブルグに8月29日までに達し主力もラステンブルグに至ったが2日行程遅かった。そして戦線整理の後アンゲラップまで退いた。

MAP(8月30日)の情況

第1次マズール湖の戦い

一方ルーデンドルフは新着の2個軍団、近衛予備軍団と第11軍団を得て、9月4日からレネンカンプ軍左翼へ攻撃を開始した。攻撃の最初はフランソワの第1軍団からで、マズール湖周辺に位置する右翼(ロシア軍左翼)から迂回し中央後方に回り包囲しようという計画だった。

この対策としてロシア軍大本営はワルシャワで集結中の第10軍(フルークが司令官に任命された)をレネンカンプ軍の左翼を守るべく展開させた。しかしフルークはレネンカンプ軍左翼へのフランソワの猛烈な攻撃をみて、新編成の軍を初めから消耗させてはならじと、反転し国境外に逃走させてしまう。

この結果、ロシア軍左翼は3万人の捕虜を残して、瞬時に突破されてしまう。同時にドイツ軍は全軍で中央に対しても攻勢にでるが、守勢にまわったロシア軍は意外に強く、徐々に後退するだけでドイツ軍の受ける被害はウナギのぼりとなった。                        レネンカンプ

後方遮断の時間も不十分のため、フランソワは騎兵を投入し近接包囲を試みた。しかし騎兵は退却中のロシア歩兵にも撃退され、ついに包囲は失敗した。レネンカンプは全軍をほぼ半円の形にして徐々に撤退させ9月13日までに国境外へと撤収を成功させた。

ドイツ軍の得た捕虜は10日間で3万2千人にすぎず緒戦のマズール湖周辺の戦いでの勝利でえたものが大半で、後半はロシアの退却戦の巧さが光った。ドイツ軍は後退するロシア軍を追って国境外にでるが、ロシア軍の逆襲にあいまた国境内に押しもどされている。

タンネンベルグの戦いとしてはこれを以って一応の終了であるが、この戦いが戦争そのものの帰趨ではなく、ドイツ国民に与えた影響が大きい。ロシア側とすればガリシア方面での戦勝もあって、負けは事実にしても大きな打撃とはならなかった。タンネンベルグはその戦略上の価値よりも、勝ち方のあざやかさで印象をあたえた。少数をもって、敵の分力を撃破しかつ包囲殲滅の形をとった。これ以降ヒンデンブルグルーデンドルフのデユオはドイツ人にとり無謬の軍略家となった。

ロシア側の責任はジリンスキー方面軍司令官にあるとされ、左遷の結果、パリでフランス軍司令部連絡役となった。しかし本人はむしろ喜んだといわれる。フランス側はこの戦いについてどう話したらよいかわからず困惑したという。

この戦いの後フランスの観戦武官はニコライ大公にタンネンベルグ敗戦とサムソノフ自殺に哀悼の意を表した。これにたいしニコライ大公は『同盟国のために犠牲を捧げることができて光栄です。』と答えたという。ロシアとは出来うれば同盟した方がよい。

それにしてもレネンカンプ軍はなぜ急進してサムソノフ軍の応援に当たらなかったのか。

ホフマンの説によると、日露戦争の遼陽会戦における煙台方面の戦闘時、レネンカンプは騎兵部隊を指揮していたが、苦境に陥った際、サムソノフに応援を拒否されそれを根にもった。そして有名な奉天駅頭での殴り合いになった。それが原因でレネンカンプは意図して応援の行かなかったという。しかし旧陸軍参謀本部の調査によると煙台戦闘時レネンカンプは橋頭戦闘で負傷入院中であり、この説はあたらない。またレネンカンプが奉天で争ったのはミシチェンコだという。参謀本部の調査はほとんど見てきたような調子だがソースは不明だ。

フランソワの説によると彼の指揮する第1軍団がケーニヒスベルグにいると錯覚し、その余りの強さに恐れをなし、停止し予備師団を集めていたのだ、とする。
そうかもしれない。

ルーデンドルフの説によると、ドイツ軍の部隊転換の巧さに幻惑され、機を逸した。とする。
成る程。

旧陸軍参謀本部の見方ではロシア軍の索敵能力の欠如と戦果の過大評価によりサムソノフ軍が終始敵を過小評価したのではないか、とする。ルーデンドルフの説に近い。

ジリンスキーはスコムリノフ派でレネンカンプはニコライ大公派であるのに対し、サムソノフは中立であった。ロシア軍の司令官は常に戦勝よりも他の将領を出し抜くことばかりを考えているようにみえる。少なくとも、この指揮系統の粗雑さが敗戦の直接原因であることは疑いをいれない。

一方この戦いは第1次大戦を貫く、基本線がすでに現れている。

  • 騎兵が全く無力でパトロールか斥候程度にしか役にたっていない。歩兵銃の射程距離が伸びたため、かなりの長距離で馬が射撃で倒される。この結果歩兵と出会えば、降りて戦うのが普通となるが、騎兵銃では銃身が短く射程距離が短いため勝負にならない。騎馬鉄砲が役にたたないのは大坂夏の陣で伊達の騎馬鉄砲が真田に負けたのを見ても明らかだが。また槍騎兵とか龍騎兵(剣をもつ)に至っては時代錯誤であろう。しかしどの強国も日・米を除けば、槍騎兵・竜騎兵・標騎兵(または胸甲騎兵)の三点セットを持ち続けた。ロシア軍はとくにこの騎兵比率がコサック騎兵の存在のためか高かった。
  • 機動戦においても防御方が有利である。攻撃が成功するのは、奇襲が成り立った時だけである。フランソワは攻撃に当たり常にこの原則を踏み外していない。照準をどのようにあわせたか不明だが、未明砲撃を成功させ一旦敵を敗走させたうえで、歩兵の正面攻撃に移っている。ただし突破のあと歩兵は徒歩でしか進めない。
  • 鉄道の内線利用が勝敗を決するようになった。この事は敵地での戦闘より自国内のほうが有利ということを意味する。ロシア軍は日露戦争で見られるように鉄道の末端を兵站線として維持しながら戦うのを得意としている。第2次大戦でも鉄道による補給で、ドイツの自動車輸送に勝利したといわれる。ところがサムソノフ軍はゾルダウ−ワルシャワ線を主たる兵站線として使っていない。

戦場区分が第9軍に属したためらしいが、戦争をする前に整理するべきだろう。また編成中の第9軍に近衛軍団が含まれていて、この軍団について過剰に保護的な措置が大本営から出ている。なにかニコライ二世が関与したかもしれない。


そしてドイツ領内の鉄道の線路幅はロシアより狭かった。ロシアは防衛上線路を超広軌としてドイツが侵攻しても車両を使えないことを目論んだ。ところが線路の幅を調整するのは、レール敷設機さえあれば難しいことではない。しかし車両幅は小さければ問題ないが大きいと衝突する。このためドイツ軍はのちにポーランド領内に侵攻し、鉄道のレールを縮小し自国の機関車で鉄道を使用できたがロシアはドイツ領内の鉄道は全く利用できなかった。だがこれも車両(車輪)さえあれば解決がつくことだから両国の民族性によるのかもしれない。

鉄道輸送は現在に至るも、重量の点で自動車輸送を遥かに凌駕する。第2次大戦でソ連軍はこの戦訓を忘れず、台車だけの貨車を持ちこみ成功させた。

ところが旧軍参謀本部はこの戦いから意外な教訓を得ていた。

タンネンベルグ戦の作戦評論



Hoffmann,M., Tannenberg, wie es wirllich war, Berlin,1925(tr,)The Truth about Tannenberg, London,1929
Ludendorff, E.,Kriegserinnerungen, Berlin,1919
Francois, General Hermann von, Marneschlacht und Tannenberg, Berlin, 1920
Ironside,Major-General Sir E.,Tannenberg: The First Thirty Days in East Prussia, Edinburgh, 1925
参謀本部 「タンネンベルヒ」殲滅戦 偕行社 1928
Knox, Majot-Gen., Sir Edmund, With the Russian Army, London, 1921

断り書き:地名表記は原則として交戦国の表記に従った。タンネンベルグ包囲殲滅戦は旧ドイツ(第二帝国)で戦われたため、ドイツ語表記とした。

例えばダンチッヒはポーランド語ではグダニスクである。現在ダンチッヒはポーランド領であるが、そのためにダンチッヒがグダニスクに変更されたのではなくて、その都市は少なくとも12世紀にはポーランド人にグダニスクと呼ばれていた。ロシア軍の攻勢限界点となったアレンシュタインもポーランド語ではオルシュチンである。

二つの言語で地名の語幹に当たる部分のアルファベット表記や発音で長い間で食い違いを生じたものとおもわれる。語尾は都市等を表す両語の接尾辞の違いである。

また東プロイセンへの古戦場ツアーはあまり快適な旅行でない。この地域は現在ポーランド、ロシア領カリーニングラード、リトアニアに分かれているが、軍事的な緊張が未だ残っている。地図に飛行場があってもことごとく軍用であり、未舗装の道路が残り安全でない車の旅でしかない。またタンネンベルグ村やここに出てくる地名の町は第2次大戦で完全に破壊されており、第1次大戦の面影は存在しない。

同様にポーランドの他の古戦場ゴルリッツ・タルノウにも何もなく、多少面影の残るのは、プルゼミスル要塞程度である。またワルシャワの軍事博物館には第1次大戦中のオーストリア=ハンガリーに所属したポーランド軍の制服・装備が展示されている。

このページTOPに戻る
タンネンベルグ包囲殲滅戦(前編)に戻る
第1次マズール湖の戦い
ロッヅ付近の戦いに進む
に戻る


東プロイセンの防衛網
フランソワのシュタルペーネン戦の戦記
分力包囲殲滅の着想とヒンデンブルグ神話
サムソノフの決心
ロシア第2軍の戦闘序列
アレンシュタインに入城した第1ネフスキー連隊
タンネンベルグ戦の作戦評論
フランソワの独断専行と昭和陸軍