タンネンベルグ包囲殲滅戦(前編)

第1次大戦で多くの本が書かれまた多くの人の興味が集まるのは西部戦線であるが、中央同盟国の人的被害は1917年に至るまでを合計して東部戦線の方が西部戦線を上回っていた事実を忘れてはならない。

チャーチルは大戦におけるロシアの貢献を次のようにかたる。

「戦後になってロシアのツアー制度とニコライ二世が我々に何の貢献もせずまたロシアの人民にも有害だった、という風潮が主流をしめている。とんでもない話である。ロシアが我々の側に参戦していた30ヶ月の間、何があったのか想いだして欲しい。

1914年パリを救ったロシア軍の絶望的なまでに献身的な攻撃、そして失敗しかし翌年圧倒的なまでに回復し武器弾薬を使い尽くしての攻勢、そして屈辱的な退却、だがその翌年全力を尽くしたブルシロフの攻勢、これらを見たら誰もがロシアの底力を認めざるをえない。確かにツアー・ニコライは気の弱い善良なだけの男かもしれない。

しかし一国の戦争指導にあたっては、成功しても失敗してもその責任は全てトップにある。このロシアの戦争努力にツアー・ニコライは関わっていないはずがないし、事実ツアー制度の中心として殆ど彼自身一人で判断し実行したのである。

彼とロシアが打ち倒された時、人々は彼の努力と行動に非難を浴びせまたその思い出を辱める。しかしそれなら彼に代わってもっと良い決断ができた人物がいただろうか。

小さな事をすばやく処理する役人、有能な軍人、また権力を握ろうとする野心家、こういった人物はいくらでもいた。だがロシアの名誉と生存がかかっている問題に回答を下したのはニコライ二世なのである。」

ロシアの戦争努力とニコライ二世に対する最高の賛辞であろう。また帝政ロシアの連合国に対する姿勢がまさに献身的であった事は認めざるを得ない。

開戦と同時にニコライ大公(ニコライ二世の叔父)が全軍総司令官に指名された。

ニコライ大公

タンネンベルグの戦いは三段階に分かれる。
1. グンビネン遭遇戦
2. タンネンベルグ包囲殲滅戦
3. マズール湖周辺の戦い(第1次)
このうち2.が通称タンネンベルグの戦いと呼ばれるものだ。

ロシア軍は第19号計画により動員開始15日後にして早くも2個軍の編成を終え東プロイセン国境にせまった。第1軍(レネンカンプ)は東から攻め、第2軍=(サムソノフ)は南から攻める予定にあった。この両軍を統括する目的と編成中の第9軍のため北西軍司令部がおかれ司令官にはジリンスキー(奉天会戦時、クロパトキンの参謀長)が任命された。

作戦方針としては挟撃(ピンサー・ムーブメントまたは挟みうち)を狙ったものだが、作戦範囲はダンチッヒまででも東西約150Kmに及びこれは当時の歩兵の10日歩行行程に達する。しかも集結地、第2軍(サムサノフ)の場合ナレフ川周辺であるが、から敵領内まで6日行程あった。すなわち両軍をうまく、同時期・同一地域で会敵させる事は至難の業だった。

ロシア軍は伝統的にこのピンサームーブメントを好み、第2次大戦のソ連は独ソ戦最終局面で成功させている。しかしこの当時の機動力を考慮すれば同一視できないし、仏軍のジョフルは作戦計画をきき、東プロイセンそのものが待ち伏せの場所ではないかと感想を述べたとつたえられる。

東プロイセンは東南部にマズール湖沼群があり、湖沼と要塞網により通行が難しいと判断され東方と南方に分けたものだが、ほぼ同量の軍で侵入を開始したことが得策かなど、現在でも議論は続いている。

東プロイセンの防衛網

初めに国境に到着したのは第1軍(レネンカンプ)で8月17日に国境を越えた。

対するドイツ軍はシュリーフェンプランにもとづいて、このプロイセン王国発祥の地に僅か1個軍、第8軍が守備するだけだった。司令官のプリトウィツは宮廷武官を長くつとめ、猥談が得意でそれでウィルヘルム二世にとりいったと噂された人物で将領として適格とはいいかねた。

第8軍はシュリーフェンプランに従いもともと後退戦術をとる予定だった。しかし実際に敵軍に侵入され、コサック騎兵が跳梁すると、ドイツでプロイセンを明渡すことを公言することは不可能だった。この地でも戦争は100年間なく、人々は実際の戦争をみて驚愕した。机上の作戦が実戦に遭遇した人間の感覚と合わなかった好例だろう。第8軍司令官プリトウィッツを除いてドイツ人はすべて東プロイセンは死守されねばならないと思い始めた。

第8軍は4個軍団半の構成でこれだけでは、両方とも5個軍団程度をもつ第2軍(サムソノフ)と第1軍(レネンカンプ)のいずれにも劣るようにみえた。ただし東プロイセンは自国領だから予備大隊、後備旅団が主として要塞内にありそれは場合により使用可能だから第8軍全部で片一方にあたればドイツ有利とおもわれる。

第8軍(プリトウィッツ)の常備軍団は
第1軍団――フランソワ
第17軍団――マッケンゼン
予備第1軍団――ベロウ
第20軍団――ショルツ
予備第3師団――モルゲン

の構成で参謀長はバルデルゼーだった。グンビネンの戦いは第1軍(レネンカンプ)のほぼ全軍が国境を越えた8月20日に起きた。しかも両軍の司令官が全く予期しないうちに。

グンビネンの戦い

まずドイツ側の作戦計画は、アンゲラップ川の防衛ラインまで第1軍(レネンカンプ)を誘導し、第20軍団を除く全軍で対処し6日以内に撃滅する。第20軍団は第2軍(サムソノフ)に相対し、友軍が来援するまで持ちこたえる、というものだ。

対するロシア軍の計画はより早く到着する第1軍(レネンカンプ)に敵が殺到することは見込まれるが、国境地帯で持久すれば南方より第2軍(サムソノフ)が中央に進出し脅威を与える。このため敵は後退せざるをえず、恐らくアレンシュタイン北方で両軍により挟撃を達成できる、というものだった。

ドイツ軍の計画では少なくとも当初はイニシアチブをとれるはずだったが障害は自軍の中から出た。フランソワ第1軍団司令官である。タンネンベルグ戦全期間にわたり、この男は抗命、不服従、独断専行の連続で、痛快無比といえなくもないのである。もともとユグノーの先祖はもつものの東プロイセンに土着したユンカーでとりわけこの地に愛着が深かった。また第1軍団というのはほぼ全員が東プロイセン出で郷土死守に燃えていた。

フランソワのシュタルペーネン戦の手記

8月17日フランソワの軍団は最左翼を守備する予定にあったがロシア軍侵入の報に接するや脱兎のごとく単独でとびだした。予定されたアンゲラップの防衛線は完全に無視し、国境とわずか8Kmしか離れていないシュタルペーネンでレネンカンプ軍の右翼にいきなり猛烈な砲撃を浴びせかけた。完全に不意をつかれたロシア第3軍団の第27師団は恐慌に陥り、3千人の捕虜を残し国境外に退いた。これを聞いたプリトウィツは激怒しすぐさま戦闘を中止し、後退しろと命令した。これに対するフランソワの回答。「彼に伝えろ。将軍フランソワが戦闘をやめる時は、敵の一兵もこの地からいなくなり、敗退させた後だ。」

しかしフランソワも夜に入り周囲に友軍もなくたまらずグンビネンに引き返した。ところがレネンカンプはこれを見てドイツ軍は退却しつつある、とみなした。まさか攻撃がフランソワの独断にもとづくとは考えられず、第1軍団を過大に見積もった。そこで18日と19日をかけて20Kmさきのグンビネン前面まで進み停止命令をだした。これは戦線整理もあるが、ドイツ軍を追いすぎて挟撃の機会を逸すると判断したにすぎない。

ところがこの停止命令をドイツ軍は、無線傍受でつかんでいた。のちの参謀総長ファルケンハインによると1915年に至るまでドイツ軍は完全にロシア軍の無線を傍受・解読していた。

第1次大戦またそれ以降、兵と下士官の識字率が戦闘に及ぼす影響がはっきりしてきた。すなわち字の読めない兵は読める兵に同一条件ではほぼ勝てなくなった。日露戦争でもこの傾向はあった。欧州諸国では第1次大戦前の平和な期間における初等教育の普及により各国でかなり差がでていた。ロシア、オーストリアとイタリアでは識字率が英仏独に比較して格段に低かった。正確にいえばオーストリアはドイツ系、チェコ系は高かったが残りは低かった。しかし兵の使用言語が11もあれば通信の難しさは簡単に想像できる。

ロシア軍は無線連絡を平文または簡単な暗号でおくっていた。また伝令兵による書類手渡しが当時確実とされたがロシアの伝令兵は字が読めないため書類の重要度の識別ができなかった。

プリトウィツはここで難しい判断に迫られた。このままアンゲラップ防衛線で持久すると、背後に第2軍(サムソノフ)にまわられ、そこで挟み討ちを食らう可能性がある。そして8月19日第2軍(サムソノフ)が国境を突破したとの連絡がはいった。時間に追われたまま、プリトウィツはグンビネンで休止しているロシア軍にたいし翌朝攻撃命令をだすことを決意した。

既にグンビネンに一番近い所にいたフランソワはここぞとばかりに喜んだ。かって知ったる地形と未明に最右翼のロシア軍に猛烈な砲撃を浴びせた。完全な奇襲となり攻撃は成功した。ロシア軍最右翼の第28師団は夜明け前までにバラバラに砕け散り国境方面に逃走した。

ところが他の軍団では全く話しが違った。第17軍団(マッケンゼン)は前日まで指示どおりアンゲラップ防衛線にいたから払暁とともに前進し、グンビネンにいる敵と接触したのは8時となった。フランソワの未明攻撃でロシア全軍は身構えていたから、視界に最初にみえた第17軍団に猛烈な砲撃を開始した。更に第17軍団はほぼ中央に位置していたから、左右両翼からも砲撃を浴び、約9千人の損害を受けた後、総崩れとなった。

マッケンゼン自身も身一つになって車で逃れ、約20Km後退した。更に予備第1軍団(ベロウ)予備第3師団(モルゲン)も12時前後に戦場に到着したものの逃げ惑う第17軍団の兵士とぶつかり更に前進する意欲をなくし相次いで後退した。

一方フランソワは勝ち誇って更にロシア軍右翼を圧迫し続けた。しかし中央との距離をうめられず、午後にはいりケーニヒスベルグ方向に撤退した。またロシア軍は追尾してくると予想されたが午後3時以降その動きはみられずその時点で戦闘は終了した。

グンビネンの戦いはだいたいのところロシアの勝利だった。プリトウィツは周章狼狽した。心底ロシア軍に恐怖をおぼえた。東プロイセンを放棄しダンチィヒ(ウィスチュラ川左岸)まで撤退することを決意し、小モルトケに許可をもとめた。

小モルトケは激怒した。あのマヌケをなぜ開戦前に替えておかなかったのか。指揮系統なぞあるものかと各軍団長の意見を聴取することにした。当然第一番目はフランソワである。回答も決まっていた。自分は勝利者だ、といってのけた。マッケンゼンはさすがにそこまで強気ではないが敗北感はないと明言した。敵は追ってこないからだ、と。残りの軍団長もいずれも戦いはこれからだ、との見解だった。

ここに来て小モルトケはプリトウィツの革職を決意、西部戦線にいたリエージュ要塞攻略の英雄ルーデンドルフを8月22日夕刻コブレンツに移動していた大本営に呼び出した。

その間第8軍総司令部ではホフマン(作戦参謀)が独自に本部と連絡をとり、まず南部から侵入しつつある第2軍(サムサノフ)を全軍でたたく案を立案した。そしてすでに編成が終了していた各地の要塞守備隊のうちまずウンゲル兵団と後備混成第70旅団を第20軍団支援に向かわせた。ドイツ軍は旧陸軍と同じ体質にあり下級将校同士の打ち合わせである程度軍が動かせたのである。(この時プリトウィッツが承認した可能性もある。)

分力包囲殲滅の着想とヒンデンブルグ神話

ホフマン

またグンビネンから撤退しつつある部隊について第1軍団は鉄道で第20軍団の南方(ソルダウ後方)に配置する。予備第3師団は同じく鉄道で第20軍団の北方(アレンシュタイン)方面に向かわせる。さらに第17軍団と予備第1軍団は徒歩で予定戦場の北東方面(ビショフスブルグ)から入る、というアイデアを出した。

これは従来余りない鉄道で内線移動を行うというものであった。ホフマンはドイツ国内であれば鉄道ダイヤにかかわらず十分実施しうると考えた。実際には避難民の殺到と空き車両の確保で難渋したが、大体成功している。

一方コブレンツの大本営では8月22日夕刻3時間小モルトケからルーデンドルフに東プロイセンでの戦いの説明がおこなわれた。ルーデンドルフはホフマンの提案を受け入れ直ちに新部隊配置を各軍団長に指示した。しかしドイツの習慣に従えばルーデンドルフはまだ第8軍の司令官としては星が足らず急遽、退役して引退生活をおくっていたヒンデンブルグを司令官として起用することに決し、至急電報がおくられた。ヒンデンブルグからは快諾がえられ、ルーデンドルフとヒンデンブルグのために8月22日夕刻マリエンブルグ行きの特別列車が用意された。ルーデンドルフは途中のハノーバーで下車、ヒンデンブルグと運命的な邂逅をとげる。

その時ヒンデンブルグは新たに制定された灰緑色の将官服が間に合わずまだ古い青色の制服を着ていたといわれる。8月23日新司令官はマリエンブルグに到着したが、この時すでに第20軍団と第2軍(サムソノフ)の戦闘は開始されつつあった。

                                      ヒンデンブルグ

車中で既に新部隊配置に了解を与えていたが、ヒンデンブルグの頭には自軍が東(第20軍団・第1軍団・予備第3師団・ウンゲル兵団等)と西(第17軍団・予備第1軍団)に分かれ、その中にロシア第2軍(サムソノフ)が突入していく様子が浮かんた。

MAP(8月23日の情況)

こうなれば静止している後方の要塞は意味がなく要塞兵と設置してある全ての移動可能な要塞砲を予定戦場に投入することにした。こうして後備混成第5旅団、後備混成第6旅団、ゴルツ後備師団、合計1個師団半が急遽編成された。この中で後備混成第6旅団は孤立したリュツェンの要塞兵で構成され、むしろ前方からの召喚となった。このため徒歩行軍となった。
第1軍(レネンカンプ)の備えとしては騎兵1個師団とケーニヒスベルグ守備隊をあて後退戦術をとらせた。

タンネンベルグの戦い

                   タンネンベルクの石碑(当時)石碑はドイツ騎士団がポーランド・リトアニア連合軍に敗れた1410年の戦いを記念したもの横にある鉄条網も当時

第2軍(サムソノフ)はウィレンベルグ方面から幅約25Kmで北西方向へ、アレンシュタイン目標に侵入してきた。これに対して第20軍団とウンゲル兵団、後備混成第70旅団がホーエンシュタイン−ナイデンブルグ線で守備をかためていた。

地形はほぼ平坦であちこちに湖が散在していた。道はいたるところ湖でさえぎられ、また大きな森があるため面積比道は少なかった。残りはライ麦畑とジャガ芋畑が広がるが収穫は終わり切り株が残るが通行には支障がなかった。

第2軍(サムソノフ)の常備軍団の編制は右翼から次の通り。
第6軍団――ブラゴフェシチェンスキー
第13軍団――クルーエフ
第15軍団――マルトス
第23軍団――コンドラウィチ
第1軍団――アルタモノフ

第6軍団が最右翼でほかの軍団と距離をあけており8月25日にはオルテルスブルグ北方に達した。第1軍団は最左翼であるが、ワルシャワが集結地であるため他軍団と異なり鉄道でゾルダウ方向に進んだ。一部はゾルダウ周辺に布陣したが残りは国境内に留められた。この処置は現在ワルシャワで集中しつつある第9軍と関係があり兵站とあわせ後で問題が顕在化する。

3月23日と24日はこのうちの第15軍団(マルトス)が中心となり、ドイツの第20軍団(ショルツ)と衝突し兵力の差でロシア側有利で終わった。しかしドイツ側も善戦し、後退はしたものの被害は攻撃側のロシア軍の方が大きかった。(ラーナ・オルラウの戦い)

サムソノフの決心

第20軍団はホーエンシュタイン−ナイデンブルグ線から約10Km後退を余儀なくされたが、この地点は大きな湖が三つあり自然の堀の状態になっていた。このため小人数で守るには好都合だが出撃も難しい地形だった。

タンネンベルグ村(当時)

8月25日に入りルーデンドルフは全体状況をほぼつかみ、命令を出すべくゾルダウ後方にいた第1軍団長フランソワをヒンデンブルグともども悪い予感はしながらも訪問した。

ヒンデンブルグはもともとマグデブルグの第4軍団にいたときフランソワを知っていたしフランソワはまたルーデンドルフをも知っていた。ルーデンドルフは翌日26日のウスダウ方向への攻撃を下達した。

ところが案の定、フランソワは即座に拒絶した。砲兵隊が未着だというのである。先に歩兵が汽車に乗り込んだ為、各種重砲は後回しとなった。そしてフランソワは命令を受ければ攻撃はする、しかしそうなると歩兵の銃剣だけの攻撃になって失敗の可能性が高くなる。すると、サムソノフを逃がす事になるがそれでもいいのか、と反論した。

MAP(8月25日の情況)

満面の怒りを押さえてルーデンドルフはとにかく攻撃してくれと席を後にした。
車に乗り込むとホフマンが電報の束をいきなりつきだした。なんとレネンカンプからの各部隊への指示とサムソノフのそれがそのままロシア語の平文であるではないか。この三人ともロシア語は完璧に近くできるからすぐその意を理解した。

「レネンカンプは来ない!そしてサムソノフは攻撃方向を従来の北西からほぼ西向きにかえること。」

この日またアレンシュタインに予備第3師団(モルゲン)が到着し第20軍団(ショルツ)のタンネンベルグを背にし三つの湖を前にした防衛線は更に強化された。また東方から来る第17軍団(マッケンゼン)と予備第1軍団(ベロウ)はビショフスブルグ北方5Kmに達した。

サムソノフ、Alexander Samsonov(1859-1914)

一方ロシア側は兵站の困難と強行軍ですでに疲労困ぱいとなっていた。だがサムソノフへの督軍は厳しく進軍の速度をあげよの一点張りの命令である。この強行軍の要求の最末端はパリにあった。パリ−ペテログラード−ロシア大本営−ジリンスキー−サムソノフとつながっていた。パリを救うのはロシア軍のベルリンへの圧力しかない。もし東プロイセンを占領すればベルリンまであと200Kmだ。

しかしサムソノフの将兵は集結地からすでに150Kmを行軍しその間補給はとぎれとぎれに来るだけだった。ロシア軍は開戦直前に兵站の方法を変え従来後方で輜重担当の将校が指示していたものを、前方部隊に連絡将校を置き、前方から指示できるように改めた。しかし誰もこの方法を試したものはなく、結果は輜重部隊がどこに行ったかわからないというありさまとなった。ともかく第2軍(サムソノフ)はこの日だけはジリンスキーの命令に反し、全く動く事なく終わった。


タンネンベルグ包囲殲滅戦(後編)に続く
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