第1次大戦で多くの本が書かれまた多くの人の興味が集まるのは西部戦線であるが、中央同盟国の人的被害は1917年に至るまでを合計して東部戦線の方が西部戦線を上回っていた事実を忘れてはならない。
チャーチルは大戦におけるロシアの貢献を次のようにかたる。
「戦後になってロシアのツアー制度とニコライ二世が我々に何の貢献もせずまたロシアの人民にも有害だった、という風潮が主流をしめている。とんでもない話である。ロシアが我々の側に参戦していた30ヶ月の間、何があったのか想いだして欲しい。
1914年パリを救ったロシア軍の絶望的なまでに献身的な攻撃、そして失敗しかし翌年圧倒的なまでに回復し武器弾薬を使い尽くしての攻勢、そして屈辱的な退却、だがその翌年全力を尽くしたブルシロフの攻勢、これらを見たら誰もがロシアの底力を認めざるをえない。確かにツアー・ニコライは気の弱い善良なだけの男かもしれない。
しかし一国の戦争指導にあたっては、成功しても失敗してもその責任は全てトップにある。このロシアの戦争努力にツアー・ニコライは関わっていないはずがないし、事実ツアー制度の中心として殆ど彼自身一人で判断し実行したのである。
彼とロシアが打ち倒された時、人々は彼の努力と行動に非難を浴びせまたその思い出を辱める。しかしそれなら彼に代わってもっと良い決断ができた人物がいただろうか。
小さな事をすばやく処理する役人、有能な軍人、また権力を握ろうとする野心家、こういった人物はいくらでもいた。だがロシアの名誉と生存がかかっている問題に回答を下したのはニコライ二世なのである。」
ロシアの戦争努力とニコライ二世に対する最高の賛辞であろう。また帝政ロシアの連合国に対する姿勢がまさに献身的であった事は認めざるを得ない。
開戦と同時にニコライ大公(ニコライ二世の叔父)が全軍総司令官に指名された。
ニコライ大公
タンネンベルグの戦いは三段階に分かれる。
1. グンビネン遭遇戦
2. タンネンベルグ包囲殲滅戦
3. マズール湖周辺の戦い(第1次)
このうち2.が通称タンネンベルグの戦いと呼ばれるものだ。
ロシア軍は第19号計画により動員開始15日後にして早くも2個軍の編成を終え東プロイセン国境にせまった。第1軍(レネンカンプ)は東から攻め、第2軍=(サムソノフ)は南から攻める予定にあった。この両軍を統括する目的と編成中の第9軍のため北西軍司令部がおかれ司令官にはジリンスキー(奉天会戦時、クロパトキンの参謀長)が任命された。
作戦方針としては挟撃(ピンサー・ムーブメントまたは挟みうち)を狙ったものだが、作戦範囲はダンチッヒまででも東西約150Kmに及びこれは当時の歩兵の10日歩行行程に達する。しかも集結地、第2軍(サムサノフ)の場合ナレフ川周辺であるが、から敵領内まで6日行程あった。すなわち両軍をうまく、同時期・同一地域で会敵させる事は至難の業だった。
ロシア軍は伝統的にこのピンサームーブメントを好み、第2次大戦のソ連は独ソ戦最終局面で成功させている。しかしこの当時の機動力を考慮すれば同一視できないし、仏軍のジョフルは作戦計画をきき、東プロイセンそのものが待ち伏せの場所ではないかと感想を述べたとつたえられる。
東プロイセンは東南部にマズール湖沼群があり、湖沼と要塞網により通行が難しいと判断され東方と南方に分けたものだが、ほぼ同量の軍で侵入を開始したことが得策かなど、現在でも議論は続いている。
東プロイセンの防衛網
初めに国境に到着したのは第1軍(レネンカンプ)で8月17日に国境を越えた。
対するドイツ軍はシュリーフェンプランにもとづいて、このプロイセン王国発祥の地に僅か1個軍、第8軍が守備するだけだった。司令官のプリトウィツは宮廷武官を長くつとめ、猥談が得意でそれでウィルヘルム二世にとりいったと噂された人物で将領として適格とはいいかねた。
第8軍はシュリーフェンプランに従いもともと後退戦術をとる予定だった。しかし実際に敵軍に侵入され、コサック騎兵が跳梁すると、ドイツでプロイセンを明渡すことを公言することは不可能だった。この地でも戦争は100年間なく、人々は実際の戦争をみて驚愕した。机上の作戦が実戦に遭遇した人間の感覚と合わなかった好例だろう。第8軍司令官プリトウィッツを除いてドイツ人はすべて東プロイセンは死守されねばならないと思い始めた。
第8軍は4個軍団半の構成でこれだけでは、両方とも5個軍団程度をもつ第2軍(サムソノフ)と第1軍(レネンカンプ)のいずれにも劣るようにみえた。ただし東プロイセンは自国領だから予備大隊、後備旅団が主として要塞内にありそれは場合により使用可能だから第8軍全部で片一方にあたればドイツ有利とおもわれる。
第8軍(プリトウィッツ)の常備軍団は
第1軍団――フランソワ
第17軍団――マッケンゼン
予備第1軍団――ベロウ
第20軍団――ショルツ
予備第3師団――モルゲン
の構成で参謀長はバルデルゼーだった。グンビネンの戦いは第1軍(レネンカンプ)のほぼ全軍が国境を越えた8月20日に起きた。しかも両軍の司令官が全く予期しないうちに。
グンビネンの戦い
まずドイツ側の作戦計画は、アンゲラップ川の防衛ラインまで第1軍(レネンカンプ)を誘導し、第20軍団を除く全軍で対処し6日以内に撃滅する。第20軍団は第2軍(サムソノフ)に相対し、友軍が来援するまで持ちこたえる、というものだ。
対するロシア軍の計画はより早く到着する第1軍(レネンカンプ)に敵が殺到することは見込まれるが、国境地帯で持久すれば南方より第2軍(サムソノフ)が中央に進出し脅威を与える。このため敵は後退せざるをえず、恐らくアレンシュタイン北方で両軍により挟撃を達成できる、というものだった。
ドイツ軍の計画では少なくとも当初はイニシアチブをとれるはずだったが障害は自軍の中から出た。フランソワ第1軍団司令官である。タンネンベルグ戦全期間にわたり、この男は抗命、不服従、独断専行の連続で、痛快無比といえなくもないのである。もともとユグノーの先祖はもつものの東プロイセンに土着したユンカーでとりわけこの地に愛着が深かった。また第1軍団というのはほぼ全員が東プロイセン出で郷土死守に燃えていた。
フランソワのシュタルペーネン戦の手記
8月17日フランソワの軍団は最左翼を守備する予定にあったがロシア軍侵入の報に接するや脱兎のごとく単独でとびだした。予定されたアンゲラップの防衛線は完全に無視し、国境とわずか8Kmしか離れていないシュタルペーネンでレネンカンプ軍の右翼にいきなり猛烈な砲撃を浴びせかけた。完全に不意をつかれたロシア第3軍団の第27師団は恐慌に陥り、3千人の捕虜を残し国境外に退いた。これを聞いたプリトウィツは激怒しすぐさま戦闘を中止し、後退しろと命令した。これに対するフランソワの回答。「彼に伝えろ。将軍フランソワが戦闘をやめる時は、敵の一兵もこの地からいなくなり、敗退させた後だ。」
しかしフランソワも夜に入り周囲に友軍もなくたまらずグンビネンに引き返した。ところがレネンカンプはこれを見てドイツ軍は退却しつつある、とみなした。まさか攻撃がフランソワの独断にもとづくとは考えられず、第1軍団を過大に見積もった。そこで18日と19日をかけて20Kmさきのグンビネン前面まで進み停止命令をだした。これは戦線整理もあるが、ドイツ軍を追いすぎて挟撃の機会を逸すると判断したにすぎない。
ところがこの停止命令をドイツ軍は、無線傍受でつかんでいた。のちの参謀総長ファルケンハインによると1915年に至るまでドイツ軍は完全にロシア軍の無線を傍受・解読していた。
第1次大戦またそれ以降、兵と下士官の識字率が戦闘に及ぼす影響がはっきりしてきた。すなわち字の読めない兵は読める兵に同一条件ではほぼ勝てなくなった。日露戦争でもこの傾向はあった。欧州諸国では第1次大戦前の平和な期間における初等教育の普及により各国でかなり差がでていた。ロシア、オーストリアとイタリアでは識字率が英仏独に比較して格段に低かった。正確にいえばオーストリアはドイツ系、チェコ系は高かったが残りは低かった。しかし兵の使用言語が11もあれば通信の難しさは簡単に想像できる。
ロシア軍は無線連絡を平文または簡単な暗号でおくっていた。また伝令兵による書類手渡しが当時確実とされたがロシアの伝令兵は字が読めないため書類の重要度の識別ができなかった。
プリトウィツはここで難しい判断に迫られた。このままアンゲラップ防衛線で持久すると、背後に第2軍(サムソノフ)にまわられ、そこで挟み討ちを食らう可能性がある。そして8月19日第2軍(サムソノフ)が国境を突破したとの連絡がはいった。時間に追われたまま、プリトウィツはグンビネンで休止しているロシア軍にたいし翌朝攻撃命令をだすことを決意した。
既にグンビネンに一番近い所にいたフランソワはここぞとばかりに喜んだ。かって知ったる地形と未明に最右翼のロシア軍に猛烈な砲撃を浴びせた。完全な奇襲となり攻撃は成功した。ロシア軍最右翼の第28師団は夜明け前までにバラバラに砕け散り国境方面に逃走した。
ところが他の軍団では全く話しが違った。第17軍団(マッケンゼン)は前日まで指示どおりアンゲラップ防衛線にいたから払暁とともに前進し、グンビネンにいる敵と接触したのは8時となった。フランソワの未明攻撃でロシア全軍は身構えていたから、視界に最初にみえた第17軍団に猛烈な砲撃を開始した。更に第17軍団はほぼ中央に位置していたから、左右両翼からも砲撃を浴び、約9千人の損害を受けた後、総崩れとなった。
マッケンゼン自身も身一つになって車で逃れ、約20Km後退した。更に予備第1軍団(ベロウ)予備第3師団(モルゲン)も12時前後に戦場に到着したものの逃げ惑う第17軍団の兵士とぶつかり更に前進する意欲をなくし相次いで後退した。
一方フランソワは勝ち誇って更にロシア軍右翼を圧迫し続けた。しかし中央との距離をうめられず、午後にはいりケーニヒスベルグ方向に撤退した。またロシア軍は追尾してくると予想されたが午後3時以降その動きはみられずその時点で戦闘は終了した。
グンビネンの戦いはだいたいのところロシアの勝利だった。プリトウィツは周章狼狽した。心底ロシア軍に恐怖をおぼえた。東プロイセンを放棄しダンチィヒ(ウィスチュラ川左岸)まで撤退することを決意し、小モルトケに許可をもとめた。
小モルトケは激怒した。あのマヌケをなぜ開戦前に替えておかなかったのか。指揮系統なぞあるものかと各軍団長の意見を聴取することにした。当然第一番目はフランソワである。回答も決まっていた。自分は勝利者だ、といってのけた。マッケンゼンはさすがにそこまで強気ではないが敗北感はないと明言した。敵は追ってこないからだ、と。残りの軍団長もいずれも戦いはこれからだ、との見解だった。
ここに来て小モルトケはプリトウィツの革職を決意、西部戦線にいたリエージュ要塞攻略の英雄ルーデンドルフを8月22日夕刻コブレンツに移動していた大本営に呼び出した。
その間第8軍総司令部ではホフマン(作戦参謀)が独自に本部と連絡をとり、まず南部から侵入しつつある第2軍(サムサノフ)を全軍でたたく案を立案した。そしてすでに編成が終了していた各地の要塞守備隊のうちまずウンゲル兵団と後備混成第70旅団を第20軍団支援に向かわせた。ドイツ軍は旧陸軍と同じ体質にあり下級将校同士の打ち合わせである程度軍が動かせたのである。(この時プリトウィッツが承認した可能性もある。)
分力包囲殲滅の着想とヒンデンブルグ神話
ホフマン
またグンビネンから撤退しつつある部隊について第1軍団は鉄道で第20軍団の南方(ソルダウ後方)に配置する。予備第3師団は同じく鉄道で第20軍団の北方(アレンシュタイン)方面に向かわせる。さらに第17軍団と予備第1軍団は徒歩で予定戦場の北東方面(ビショフスブルグ)から入る、というアイデアを出した。
これは従来余りない鉄道で内線移動を行うというものであった。ホフマンはドイツ国内であれば鉄道ダイヤにかかわらず十分実施しうると考えた。実際には避難民の殺到と空き車両の確保で難渋したが、大体成功している。
一方コブレンツの大本営では8月22日夕刻3時間小モルトケからルーデンドルフに東プロイセンでの戦いの説明がおこなわれた。ルーデンドルフはホフマンの提案を受け入れ直ちに新部隊配置を各軍団長に指示した。しかしドイツの習慣に従えばルーデンドルフはまだ第8軍の司令官としては星が足らず急遽、退役して引退生活をおくっていたヒンデンブルグを司令官として起用することに決し、至急電報がおくられた。ヒンデンブルグからは快諾がえられ、ルーデンドルフとヒンデンブルグのために8月22日夕刻マリエンブルグ行きの特別列車が用意された。ルーデンドルフは途中のハノーバーで下車、ヒンデンブルグと運命的な邂逅をとげる。
その時ヒンデンブルグは新たに制定された灰緑色の将官服が間に合わずまだ古い青色の制服を着ていたといわれる。8月23日新司令官はマリエンブルグに到着したが、この時すでに第20軍団と第2軍(サムソノフ)の戦闘は開始されつつあった。
車中で既に新部隊配置に了解を与えていたが、ヒンデンブルグの頭には自軍が東(第20軍団・第1軍団・予備第3師団・ウンゲル兵団等)と西(第17軍団・予備第1軍団)に分かれ、その中にロシア第2軍(サムソノフ)が突入していく様子が浮かんた。
MAP(8月23日の情況)
こうなれば静止している後方の要塞は意味がなく要塞兵と設置してある全ての移動可能な要塞砲を予定戦場に投入することにした。こうして後備混成第5旅団、後備混成第6旅団、ゴルツ後備師団、合計1個師団半が急遽編成された。この中で後備混成第6旅団は孤立したリュツェンの要塞兵で構成され、むしろ前方からの召喚となった。このため徒歩行軍となった。
第1軍(レネンカンプ)の備えとしては騎兵1個師団とケーニヒスベルグ守備隊をあて後退戦術をとらせた。
タンネンベルグの戦い
タンネンベルクの石碑(当時)石碑はドイツ騎士団がポーランド・リトアニア連合軍に敗れた1410年の戦いを記念したもの横にある鉄条網も当時
第2軍(サムソノフ)はウィレンベルグ方面から幅約25Kmで北西方向へ、アレンシュタイン目標に侵入してきた。これに対して第20軍団とウンゲル兵団、後備混成第70旅団がホーエンシュタイン−ナイデンブルグ線で守備をかためていた。
地形はほぼ平坦であちこちに湖が散在していた。道はいたるところ湖でさえぎられ、また大きな森があるため面積比道は少なかった。残りはライ麦畑とジャガ芋畑が広がるが収穫は終わり切り株が残るが通行には支障がなかった。
第2軍(サムソノフ)の常備軍団の編制は右翼から次の通り。
第6軍団――ブラゴフェシチェンスキー
第13軍団――クルーエフ
第15軍団――マルトス
第23軍団――コンドラウィチ
第1軍団――アルタモノフ
第6軍団が最右翼でほかの軍団と距離をあけており8月25日にはオルテルスブルグ北方に達した。第1軍団は最左翼であるが、ワルシャワが集結地であるため他軍団と異なり鉄道でゾルダウ方向に進んだ。一部はゾルダウ周辺に布陣したが残りは国境内に留められた。この処置は現在ワルシャワで集中しつつある第9軍と関係があり兵站とあわせ後で問題が顕在化する。
3月23日と24日はこのうちの第15軍団(マルトス)が中心となり、ドイツの第20軍団(ショルツ)と衝突し兵力の差でロシア側有利で終わった。しかしドイツ側も善戦し、後退はしたものの被害は攻撃側のロシア軍の方が大きかった。(ラーナ・オルラウの戦い)
サムソノフの決心
第20軍団はホーエンシュタイン−ナイデンブルグ線から約10Km後退を余儀なくされたが、この地点は大きな湖が三つあり自然の堀の状態になっていた。このため小人数で守るには好都合だが出撃も難しい地形だった。
タンネンベルグ村(当時)
8月25日に入りルーデンドルフは全体状況をほぼつかみ、命令を出すべくゾルダウ後方にいた第1軍団長フランソワをヒンデンブルグともども悪い予感はしながらも訪問した。
ヒンデンブルグはもともとマグデブルグの第4軍団にいたときフランソワを知っていたしフランソワはまたルーデンドルフをも知っていた。ルーデンドルフは翌日26日のウスダウ方向への攻撃を下達した。
ところが案の定、フランソワは即座に拒絶した。砲兵隊が未着だというのである。先に歩兵が汽車に乗り込んだ為、各種重砲は後回しとなった。そしてフランソワは命令を受ければ攻撃はする、しかしそうなると歩兵の銃剣だけの攻撃になって失敗の可能性が高くなる。すると、サムソノフを逃がす事になるがそれでもいいのか、と反論した。
MAP(8月25日の情況)
満面の怒りを押さえてルーデンドルフはとにかく攻撃してくれと席を後にした。
車に乗り込むとホフマンが電報の束をいきなりつきだした。なんとレネンカンプからの各部隊への指示とサムソノフのそれがそのままロシア語の平文であるではないか。この三人ともロシア語は完璧に近くできるからすぐその意を理解した。
「レネンカンプは来ない!そしてサムソノフは攻撃方向を従来の北西からほぼ西向きにかえること。」
この日またアレンシュタインに予備第3師団(モルゲン)が到着し第20軍団(ショルツ)のタンネンベルグを背にし三つの湖を前にした防衛線は更に強化された。また東方から来る第17軍団(マッケンゼン)と予備第1軍団(ベロウ)はビショフスブルグ北方5Kmに達した。
サムソノフ、Alexander
Samsonov(1859-1914)
一方ロシア側は兵站の困難と強行軍ですでに疲労困ぱいとなっていた。だがサムソノフへの督軍は厳しく進軍の速度をあげよの一点張りの命令である。この強行軍の要求の最末端はパリにあった。パリ−ペテログラード−ロシア大本営−ジリンスキー−サムソノフとつながっていた。パリを救うのはロシア軍のベルリンへの圧力しかない。もし東プロイセンを占領すればベルリンまであと200Kmだ。
しかしサムソノフの将兵は集結地からすでに150Kmを行軍しその間補給はとぎれとぎれに来るだけだった。ロシア軍は開戦直前に兵站の方法を変え従来後方で輜重担当の将校が指示していたものを、前方部隊に連絡将校を置き、前方から指示できるように改めた。しかし誰もこの方法を試したものはなく、結果は輜重部隊がどこに行ったかわからないというありさまとなった。ともかく第2軍(サムソノフ)はこの日だけはジリンスキーの命令に反し、全く動く事なく終わった。
8月26日の早朝、索敵機が有力な敵がビショフスブルグ北方に出現と報告し、ルーデンドルフはレネンカンプがやはり来るのではないかという妄想にとりつかれた。このままでは両軍の挟撃に会う。ダンチッヒまで逃げるべきではないか。ここではさすがにヒンデンブルグは冷静で、既定方針で行く事にした。ヒンデンブルグの回想録によれば、「我々は内なる危機を乗り越えた」ということになる。
そのころマッケンゼンとその第17軍団はようやくグンビネンでの敗戦と損害から立ち直りつつあった。しかし今日を入れて四日目に入る連続行軍はさすがにこたえるものがあった。
ビショフスブルグ北方から南方へ向かって行軍する途中、後備混成第6旅団(クラーメル)が旧式の重砲を曳きながら横切るのに出会った。たしかこの左には予備第1軍団(ベロウ)が湖を隔てて同じ方向を行軍中だと思いながら見送った。
そして約2時間後突然、ロシア第6軍団(ブラゴフェシチェンスキー)の一部北行する師団と出会った。たちまち猛烈な不定期遭遇戦が発生した。約3師団半と1個師団の戦いであるからドイツ側有利であったが、マッケンゼンはこの時9千人の被害をグンビネンで受けていた。そしてロシア軍もよく戦い膠着するかという時に突然ロシア軍が総崩れになった。なんと先程通り過ぎた後備混成第6旅団が湖越えに側面から援護射撃を加えているではないか。
ドイツ軍はそのまま南行しビショフスブルグを奪回するのに成功した。そして予備第1軍団も途中別のアレンシュタインに向かうロシア第6軍団の一部と交戦となり撃破した後ビショフスブルグに入った。
MAP(8月26日ダダイ湖周辺)
ロシア第6軍団はこの日ビショフスブルグ北方で東から西へ行軍しつつある弱体な敗残部隊があるとの騎兵からの報告に接し一部を北行させたのだった。この敗残部隊とはドイツの後備混成第6旅団と推定される。ロシア第6軍団のあと東方または南方に逃亡した。司令官ブラゴフェシチェンスキーはポーランドまで逃げかつ部隊をほとんど掌握できず、報告も翌27日正午になってからだった。
この戦いにおけるこの事件は決定的な役割を果たす。サムソノフはこの日前線で指揮することを決意、オストロレンカを出発夕刻にナイデンブルグに入った。しかしドイツ第20軍団を北から迂回して包囲する作戦を変えなかった。この第6軍団が再び組織体としてあらわれるのは30日になってからである。
サムソノフは第13軍団・第15軍団および第23軍団に中央および北方に更に圧力をかけることを指令した。中央ではドイツ軍の防衛部隊も厚みをましてはいたが抗しきれず南側での反撃を除けば終始後退を余儀なくされた。
そしてロシア軍左翼に対する攻撃はフランソワの第1軍団が担当していたが、3Km程度前進しただけで停止しそれ以上は全く何もしなかった。これは完全な不服従というべきだろう。
夕刻、ナイデンブルグでサムソノフがイギリスの観戦武官ノックスと食事を共にしていた時、突然ナイデンブルグの守備にあたっていた第23軍団の兵士が動揺し、逃亡を開始した。守備隊の連隊長はサムソノフに事情をきかれ、もう3日間なにも食べていないし全く補給がないと答えるだけだった。
一方、ドイツ軍の本営に驚くべきニュースがまいこんだ。大本営から3個軍団(1個は現在編成中のものをあて2個は西部戦線から)を増派するというのである。小モルトケは後でこの決定について、仮にドイツ軍がパリを占領したとして、ロシア軍がベルリンに達すれば無意味ではないか、と語っている。しかしルーデンドルフは以前参謀本部にいたからシュリーフェンプランについて熟知していた。ルーデンドルフはすぐさま反論し、いまから3個軍団をもらっても間に合わないと、力説した。しかしすでに決定したと言われ呆然としたのだった。
マルヌの会戦で勝利したフランスの将軍たちは後日この決定を評して、小モルトケは、偉大だった伯父大モルトケの墓前で太刀打ちできなかったことを慙愧の念で報告したろう、とこきおろした。2個軍団が果たしてマルヌの勝敗に影響したかは、わからない。はっきりしているのはロシア軍の急進が小モルトケの心に誤算の気持ちを抱かせた事だけだ。
大ダメラウ湖畔で戦況を視察するドイツ第8軍首脳陣。望遠鏡をもつのはホフマン
8月27日の午前8時、前日夕ついに到着したフランソワの砲兵隊がサムソノフ軍左翼に猛烈な射撃を浴びせた。ロシア軍で最も精強と謳われた第1軍団(アルタモノフ)は砲撃3時間で総退却に移った。
ロシア側は開戦前の第19号計画でサムソノフ軍の北行に際し、西からの側面攻撃をおそれ第1軍団を防御体制で配置していた。このため兵力を分散させた。ワルシャワ付近で集結中の第9軍と第10軍の動員途中での攻撃を恐れたためだった。また第1軍団は塹壕を作る十分時間はなく、急造の塹壕は重砲の射撃に耐えられるものではなかった。
この配置は開戦前の兵棋演習で決まったらしいが、側面支援としては防御のほうが通常火力が上だから、動員集結支援の配置は不要だったとみられる。プロイセン軍事学では、兵力の事前集中と作戦重点の設定に重きを置くから、陽動作戦が途中で本格化することはまずない。しかしロシア第1軍団はその日は追撃するドイツ第1軍団に反撃しソルダウ前面で挙止するのに成功している。
一方東部では前日ロシア第6軍団を敗北させた第17軍団(マッケンゼン)と予備第1軍団(ベロウ)はこの日疲労困ぱいし20Km進むのがやっとで、第17軍団はオルステルブルグ周辺、予備第1軍団はアレンシュタイン東方にようやく到着した。両軍団とも敵との接触はほとんどない。
アレンシュタインに入城した第1ネフスキー連隊
アレンシュタイン(現オルシュチン)
この町は帝政時代東プロイセンで最も美しい町の一つと言われていた。
8月27日正午、ロシア軍のうち北に向かったクルーエフの第13軍団はアレンシュタインを占領した。しかし、すでに崩壊している第6軍団に預けるつもりで自身は西進した。これが事実上第1次大戦のロシアのベルリンへの最接近点だった。
中央ではロシア軍の攻勢はますます盛んでとくにホーエンシュタイン方面では突破まであと一歩に迫った。しかしドイツ側もゴルツ師団と予備第1軍団の投入を予定し防御の厚みは増しつつあった。この日の第2軍(サムソノフ)の西方への進出が攻勢限界点となった。
この日に至りロシア北西方面軍司令官ジリンスキーもさすがに事態が容易ならざるものを覚えてきた。だがレネンカンプは依然ドイツ第8軍の敗残主力はケーニヒスベルグにある、という考えは捨て切れず、行軍スピードをあげることはしなかった。
ウスダウ付近のロシア軍の塹壕
8月28日、この日もフランソワのゾルダウ方面への攻撃で開始された。前日まで果敢に戦ったロシア第1軍団も司令官のアルタモノフの早逃げで最早気力を失っており、国境外に全軍逃亡した。
一方東部では予備第1軍団(ベロウ)と第17軍団(マッケンゼン)が両方とも中央への支援を命ぜられていたため、どの道を通るかで内輪もめが生じていた。結局ルーデンドルフの仲裁で予備第1軍団がまっすぐ西、アレンシュタインを目指し、第17軍団は南西方向すなわちビショフスブルグ−ナイデンブルグ線を進む事になった。第17軍団のやや南方への転進は包囲完成に重要な役割を果たす。
中央では第20軍団(ショルツ)が攻勢にでてホーエンシュタイン奪回を試みたが、ロシア第23軍団の半分と第15軍団に挟み撃ちをうけ1個師団の半数を失い撃退された。これはこの戦いでドイツ軍の蒙った最大の被害である。
MAP(8月29日)決戦方面の情況
ルーデンドルフはたまらずフランソワに直ちに第20軍団の支援に赴くことを命令した。命令の末尾で「この命令に従えば、(第1軍団)は最大の貢献を軍にしたことになる。」と加え、ほとんど哀願に近い。
しかしフランソワは森のために射撃が困難とか不服従の言い訳をしながらルーデンドルフの命令を無視しそのまま東に進み午後にはついにナイデンブルグを占領するに至る。そして更に東に進み8月29日未明にはウィレンベルグに到達した。また街道の要所要所には機関銃の部隊を残置し警戒にあたらせている。
この時点でもルーデンドルフは第20軍団(ショルツ)の不甲斐なさに落胆し、フランソワに怒りをたぎらせ、またベロウとマッケンゼンはどこにいるかもわからず全く満足できない状態だった、と後で述懐している。
戦闘終了後のナイデンブルグ(現ニジツァ)
しかし午後ルーデンドルフに別の考えが閃いた。これまで近接包囲を狙ったが、フランソワの独断専行で新たに遠隔包囲の可能性が出ているではないか。直ちにマッケンゼンの1個師団をウィレンベルグに向かわせた。そして不本意ながらも夕刻にはフランソワの行動に追認を与えたのだった。マッケンゼン軍団の先遣部隊とフランソワ軍団は8月29日早朝にウィレンベルグで出会い、包囲は達成された。
この日の午前中はここで頑張れば、レネンカンプ軍が応援に来るとの確信に基づいて、攻勢を続けたサムソノフだが午後に入り、自分のいたナイネンブルグにフランソワの砲声が近づくにつれ、危機を悟った。この時、従軍していたイギリス観戦武官に時間のあるうちに逃げるように指示し、「敵は今日ついていた。いつの日か我々の方がつくこともあるだろう」と言い残した。
サムソノフは8月28日夜全面撤退を指令した。
タンネンベルグの戦いはこれ以降容赦のない包囲・殲滅戦となった。第15軍団(マルトス)と第13軍団(クルーエフ)は東南をめざして敗走したが要所にはフランソワの第1軍団の機関銃隊が守備を固めており大半が第1軍団あてに投降した。
まだ戦力の残っているロシア第1軍団が30日一時ナイネンベルグを奪回したが、すでに遅く、すぐに撤退した。第6軍団もオルテルスブルグで反撃にでたが撃退された。
ロシア軍の捕虜は9万2千人に達した。また戦死者も2万人を越える。一方ドイツ側の損失は死者と捕虜をあわせ1万5千人以下にすぎない。ロシア側の捕虜は最も頑強に戦った第15軍団と第13軍団に属する兵・将校が大半で第15軍団の将校で本国に帰還できたのは、僅か1名と伝えられる。サムソノフはウィレンベルグの近くで拳銃自殺を遂げた。遺体はドイツ軍により発見され、そこに仮埋葬された。2年後赤十字の手をかりて、未亡人が発掘し遺体をロシアに持ち帰った。
レネンカンプ軍はサムソノフ軍の危機を8月28日午後に認識し、斥候部隊はビショフスブルグに8月29日までに達し主力もラステンブルグに至ったが2日行程遅かった。そして戦線整理の後アンゲラップまで退いた。
MAP(8月30日)の情況
第1次マズール湖の戦い
一方ルーデンドルフは新着の2個軍団、近衛予備軍団と第11軍団を得て、9月4日からレネンカンプ軍左翼へ攻撃を開始した。攻撃の最初はフランソワの第1軍団からで、マズール湖周辺に位置する右翼(ロシア軍左翼)から迂回し中央後方に回り包囲しようという計画だった。
この対策としてロシア軍大本営はワルシャワで集結中の第10軍(フルークが司令官に任命された)をレネンカンプ軍の左翼を守るべく展開させた。しかしフルークはレネンカンプ軍左翼へのフランソワの猛烈な攻撃をみて、新編成の軍を初めから消耗させてはならじと、反転し国境外に逃走させてしまう。
この結果、ロシア軍左翼は3万人の捕虜を残して、瞬時に突破されてしまう。同時にドイツ軍は全軍で中央に対しても攻勢にでるが、守勢にまわったロシア軍は意外に強く、徐々に後退するだけでドイツ軍の受ける被害はウナギのぼりとなった。
レネンカンプ
後方遮断の時間も不十分のため、フランソワは騎兵を投入し近接包囲を試みた。しかし騎兵は退却中のロシア歩兵にも撃退され、ついに包囲は失敗した。レネンカンプは全軍をほぼ半円の形にして徐々に撤退させ9月13日までに国境外へと撤収を成功させた。
ドイツ軍の得た捕虜は10日間で3万2千人にすぎず緒戦のマズール湖周辺の戦いでの勝利でえたものが大半で、後半はロシアの退却戦の巧さが光った。ドイツ軍は後退するロシア軍を追って国境外にでるが、ロシア軍の逆襲にあいまた国境内に押しもどされている。
タンネンベルグの戦いとしてはこれを以って一応の終了であるが、この戦いが戦争そのものの帰趨ではなく、ドイツ国民に与えた影響が大きい。ロシア側とすればガリシア方面での戦勝もあって、負けは事実にしても大きな打撃とはならなかった。タンネンベルグはその戦略上の価値よりも、勝ち方のあざやかさで印象をあたえた。少数をもって、敵の分力を撃破しかつ包囲殲滅の形をとった。これ以降ヒンデンブルグとルーデンドルフのデユオはドイツ人にとり無謬の軍略家となった。
ロシア側の責任はジリンスキー方面軍司令官にあるとされ、左遷の結果、パリでフランス軍司令部連絡役となった。しかし本人はむしろ喜んだといわれる。フランス側はこの戦いについてどう話したらよいかわからず困惑したという。
この戦いの後フランスの観戦武官はニコライ大公にタンネンベルグ敗戦とサムソノフ自殺に哀悼の意を表した。これにたいしニコライ大公は『同盟国のために犠牲を捧げることができて光栄です。』と答えたという。ロシアとは出来うれば同盟した方がよい。
それにしてもレネンカンプ軍はなぜ急進してサムソノフ軍の応援に当たらなかったのか。
ホフマンの説によると、日露戦争の遼陽会戦における煙台方面の戦闘時、レネンカンプは騎兵部隊を指揮していたが、苦境に陥った際、サムソノフに応援を拒否されそれを根にもった。そして有名な奉天駅頭での殴り合いになった。それが原因でレネンカンプは意図して応援の行かなかったという。しかし旧陸軍参謀本部の調査によると煙台戦闘時レネンカンプは橋頭戦闘で負傷入院中であり、この説はあたらない。またレネンカンプが奉天で争ったのはミシチェンコだという。参謀本部の調査はほとんど見てきたような調子だがソースは不明だ。
フランソワの説によると彼の指揮する第1軍団がケーニヒスベルグにいると錯覚し、その余りの強さに恐れをなし、停止し予備師団を集めていたのだ、とする。
そうかもしれない。
ルーデンドルフの説によると、ドイツ軍の部隊転換の巧さに幻惑され、機を逸した。とする。
成る程。
旧陸軍参謀本部の見方ではロシア軍の索敵能力の欠如と戦果の過大評価によりサムソノフ軍が終始敵を過小評価したのではないか、とする。ルーデンドルフの説に近い。
ジリンスキーはスコムリノフ派でレネンカンプはニコライ大公派であるのに対し、サムソノフは中立であった。ロシア軍の司令官は常に戦勝よりも他の将領を出し抜くことばかりを考えているようにみえる。少なくとも、この指揮系統の粗雑さが敗戦の直接原因であることは疑いをいれない。
一方この戦いは第1次大戦を貫く、基本線がすでに現れている。
- 騎兵が全く無力でパトロールか斥候程度にしか役にたっていない。歩兵銃の射程距離が伸びたため、かなりの長距離で馬が射撃で倒される。この結果歩兵と出会えば、降りて戦うのが普通となるが、騎兵銃では銃身が短く射程距離が短いため勝負にならない。騎馬鉄砲が役にたたないのは大坂夏の陣で伊達の騎馬鉄砲が真田に負けたのを見ても明らかだが。また槍騎兵とか龍騎兵(剣をもつ)に至っては時代錯誤であろう。しかしどの強国も日・米を除けば、槍騎兵・竜騎兵・標騎兵(または胸甲騎兵)の三点セットを持ち続けた。ロシア軍はとくにこの騎兵比率がコサック騎兵の存在のためか高かった。
- 機動戦においても防御方が有利である。攻撃が成功するのは、奇襲が成り立った時だけである。フランソワは攻撃に当たり常にこの原則を踏み外していない。照準をどのようにあわせたか不明だが、未明砲撃を成功させ一旦敵を敗走させたうえで、歩兵の正面攻撃に移っている。ただし突破のあと歩兵は徒歩でしか進めない。
- 鉄道の内線利用が勝敗を決するようになった。この事は敵地での戦闘より自国内のほうが有利ということを意味する。ロシア軍は日露戦争で見られるように鉄道の末端を兵站線として維持しながら戦うのを得意としている。第2次大戦でも鉄道による補給で、ドイツの自動車輸送に勝利したといわれる。ところがサムソノフ軍はゾルダウ−ワルシャワ線を主たる兵站線として使っていない。
戦場区分が第9軍に属したためらしいが、戦争をする前に整理するべきだろう。また編成中の第9軍に近衛軍団が含まれていて、この軍団について過剰に保護的な措置が大本営から出ている。なにかニコライ二世が関与したかもしれない。
そしてドイツ領内の鉄道の線路幅はロシアより狭かった。ロシアは防衛上線路を超広軌としてドイツが侵攻しても車両を使えないことを目論んだ。ところが線路の幅を調整するのは、レール敷設機さえあれば難しいことではない。しかし車両幅は小さければ問題ないが大きいと衝突する。このためドイツ軍はのちにポーランド領内に侵攻し、鉄道のレールを縮小し自国の機関車で鉄道を使用できたがロシアはドイツ領内の鉄道は全く利用できなかった。だがこれも車両(車輪)さえあれば解決がつくことだから両国の民族性によるのかもしれない。
鉄道輸送は現在に至るも、重量の点で自動車輸送を遥かに凌駕する。第2次大戦でソ連軍はこの戦訓を忘れず、台車だけの貨車を持ちこみ成功させた。
ところが旧軍参謀本部はこの戦いから意外な教訓を得ていた。
タンネンベルグ戦の作戦評論
断り書き:地名表記は原則として交戦国の表記に従った。タンネンベルグ包囲殲滅戦は旧ドイツ(第二帝国)で戦われたため、ドイツ語表記とした。
例えばダンチッヒはポーランド語ではグダニスクである。現在ダンチッヒはポーランド領であるが、そのためにダンチッヒがグダニスクに変更されたのではなくて、その都市は少なくとも12世紀にはポーランド人にグダニスクと呼ばれていた。ロシア軍の攻勢限界点となったアレンシュタインもポーランド語ではオルシュチンである。
二つの言語で地名の語幹に当たる部分のアルファベット表記や発音で長い間で食い違いを生じたものとおもわれる。語尾は都市等を表す両語の接尾辞の違いである。
また東プロイセンへの古戦場ツアーはあまり快適な旅行でない。この地域は現在ポーランド、ロシア領カリーニングラード、リトアニアに分かれているが、軍事的な緊張が未だ残っている。地図に飛行場があってもことごとく軍用であり、未舗装の道路が残り安全でない車の旅でしかない。またタンネンベルグ村やここに出てくる地名の町は第2次大戦で完全に破壊されており、第1次大戦の面影は存在しない。
同様にポーランドの他の古戦場ゴルリッツ・タルノウにも何もなく、多少面影の残るのは、プルゼミスル要塞程度である。またワルシャワの軍事博物館には第1次大戦中のオーストリア=ハンガリーに所属したポーランド軍の制服・装備が展示されている。
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Hoffmann,M., Tannenberg, wie es wirllich war, Berlin,1925(tr,)The
Truth about Tannenberg, London,1929
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Ironside,Major-General Sir E.,Tannenberg: The First Thirty
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参謀本部 「タンネンベルヒ」殲滅戦 偕行社 1928
Knox, Majot-Gen., Sir Edmund, With the Russian Army, London,
1921
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