ソンムの戦い

ソンムの戦い

ソンムの戦い

ソンムの戦い

ソンムの戦い

ソンムの戦いは1916年7月1日開始された。この時BEFの司令官はヘイグだった。ソンム初日、イギリス軍だけでその1日に戦死者19240人、負傷者57470人、行方不明者2152人をだした。戦線は狭く24km程度だった。もちろん、これは第1次大戦で1日の攻撃側損害の最高記録である。

1日に捕虜をもっと出すことはある。しかし戦死行方不明者が2万人を越えている。ちなみに第2次大戦で、ヒトラーのドイツは90日間でほぼ同様の被害をうけながら、フランスを敗北させている。また日露戦争の旅順攻城戦では日本側は7ヶ月で死傷者6万人を出すが、ソンムの英軍は1日でほとんど寸土も得ていない。     突撃にうつるイギリス軍兵士

イギリスは決して好戦的な国ではない。しかし兵士と軍隊が弱体な国ではない。戦後この日特別なことはなかったように論及自体が避けられている。またある論者は第1次大戦では全世界で1日5千人の戦死者が出た。ソンム初日はその4日分に過ぎないと言う。

だが、異常なことがなければ、こんなことになる筈がない。また戦果と戦死・戦傷者を結び付けることに違和感を覚えるかもしれない。だが当事者は戦果をあげるために戦死者をだしたのだ。また大多数の戦死者も、死ぬ危険性を考慮しても、戦うことで何かに貢献できると考えたに違いない。

イギリスは世界で最も早く都市化が始まった国だった。戦いに参加した兵士はキッチナー陸軍だった。多くはパルという仲間単位で志願兵に応募した。グラスゴー車掌のパル、シェフィールド教師のパル、グロスターのクリケットパルという具合だった。

調べても中心がこの都市のパルだったというところを除くと第1次大戦の他の戦いと、異常な点はあまりない。そしてパルが中心だったことはやはり悲劇だろう。そしてこの悲劇は戦争のありふれた一日に起きそしてその時代ではすぐ忘れられた。戦場の後方では騎兵将校により馬の品評会とレースが特別なことはないように行われていたという。

ヘイグフレンチの後をついで1915年12月BEFの司令官となった。そして終戦まで職務を全うした。現在、フランスにも銅像が建つ。しかし戦術では第1次大戦中最も無能な指揮官の一人だろう。戦略では西部戦線の重要性を一貫して指摘するなど劣るわけではない。だが西部戦線膠着化がなぜ起きたか真剣に悩んだ形跡はない。

     ヘイグ

前年の12月、西部戦線で攻勢に出ることが英仏で話し合われた。ちょうどヘイグが司令官に就任した直後で、ジョフルとしてはより話しのわかる司令官になったというので、切り出しやすかったのだろう。その後2月場所はソンムで、仏40個師団英20個師団で攻撃することが決められた。

場所がソンムというのはちょうどそこが英仏の守備ラインがつながる所で、合同攻撃に都合が良いというだけである。

BEFがこれまで中心となって守備していたのはフランダースで、ここソンムはピカルディーの一部だった。そしてフランダースはより海峡に近く、低湿地だがピカルディーはチョーク土質の平地だった。チョーク土は極めて掘りやすくまた崩落が少ない。

ドイツ軍はピカルディーでは地下10メートル以上の地下壕をもつ前進塹壕と掩蔽設備をもつ交通壕と要所にコンクリートで完全にカバーされた機関銃ポストを設置していた。第1次大戦では塹壕そのものの完成度はドイツが最も優秀で、実際にドイツの塹壕を攻略した英仏兵はその事実に驚いている。

しかもファルケンハインは塹壕の反対側で自分の攻勢案を練っていた。ベルダンの攻勢は2月開始されジョフルはフランスの全ての戦略予備をそこに投入し始めた。フランスに最早ソンムで攻勢に出るための40個師団がないことは4月には明らかになった。

こうして攻勢の前提が崩れても、ヘイグはソンムでの攻勢準備を進めた。一般にイギリス軍は兵を遊ばせることを嫌う。たとえ平穏な戦線でも何かすることを要求した。つねに働く事が士気の向上に役立つというのである。このあたりは旧日本軍に似ている。戦機をつかむのに待機も重要と思うのだが。独・仏では特別の工兵が塹壕を作るが、イギリスは歩兵も協同で作った。できは専門兵が作ったほうがもちろん良い。

ソンム戦の新聞報道(デイリーミラー)

ヘイグの準備は念入りを極め、坑道掘削によるドイツ強化地点の爆破、突撃地点までの特別トンネルの設置、前進壕までの電話線敷設などなど、砲撃以外も完璧を期した。とにかくヘイグの想像できることは全てだった。そしてヘイグの想像できないことはもちろんゼロだった。

攻勢の要領は基本的に前年のマッケンゼンゴルリッツ突破戦によった。つまり大量の砲撃と歩兵の突撃である。それにヘイグは騎兵による戦果拡大も付け加えた。そしてマッケンゼン−ゼークトが意を払った秘匿性は無視した。もちろんドイツの塹壕がロシアよりはるかに強靭なことも。

仮に突破の成功の原因としてロシア兵が弱いまたは士気が落ちていたとヘイグが思えば、作戦はドイツ兵にはあてはまらない。そうではなく作戦が広範囲に妥当するのであれば、すくなくともゴルリッツよりも良い条件をもとめるべきだろう。また6月4日に開始されたブルシロフ攻勢の戦訓は無視された。おそらく突撃の歩兵の密度を下げ、より広範囲に敵と接触すればつまり攻勢面を広げれば、かえって戦果は上がったに違いない。

MAP(ボーモンハーメル)

また6月5日キッチナーの乗艦巡洋艦ハンプシャーが触雷・沈没した。キッチナーはスコットランドからロシアへ行く途中だったが艦と運命をともにした。第1次大戦の軍事指導者はいわゆるシャトー司令官で、まず前線にたたない。このためほとんど戦死することがなかった。とくにドイツの高級将校の死亡例はほとんどない。第2次大戦では、司令官はむしろターゲットになった。このなかでキッチナーの死は名誉ある異例だろう。この死がはたしてソンムの戦いに影響したかはわからないが、早めに終息させた可能性はある。ともかく7月5日ロイドジョージが後任に指名されるまで、ヘイグには上官がいなくなった。

 6月24日フランス首相ブリアンはベルダン戦の行方に極度に不安となり、ヘイグにソンムでの攻勢を早め、ベルダンにむかうドイツ軍を減らして欲しいと哀願した。実際にはブルシロフ攻勢で東部戦線に戦略予備師団をまわしたため、ファルケンハインは既にベルダンの消耗戦に見切りをつけていた。ヘイグはこの依頼をうけた。だが攻撃のための師団数は逆転し英40個仏20個となった。翌日から準備射撃が開始された。準備砲撃は6日間24時間連続で続けられた。173万発が消費されたという。

ドイツ兵は地下壕の暗闇で食料補給に悩みながら、いつ攻撃が始まるのかと考えながら耐えに耐え抜いた。兵のこもる地下壕は12メートルを越える地下にあり砲撃には耐えられたが、崩落や後方との連絡時の犠牲は避けられなかった。しかし塹壕戦で毎日の犠牲者はつきものである。そして今から考えれば奇妙だがイギリス軍の塹壕の耐久性もあまりドイツのそれと変わらない。

地下壕(イギリス軍)

なぜヘイグはドイツ兵が塹壕内で砲撃に耐えられると考えなかったのだろうか。

イギリス軍攻勢境界線は北、ゴムクールから南、マリクールまでと決められていた。幅約24kmだった。そして更に攻撃点は4ヶ所に集中された。

北からゴムクール、セール、ボーモン・ハーメル、チェッバルである。その南はフランス軍のうけもちだった。

ソンムにおける独近衛予備第2師団予備歩兵第55連隊

7時20分5ヶ所の坑道下の爆薬が点火された。爆発音は遠くロンドンできこえたという。そして7時半ホイッスル(ビューグル)が鳴り、突撃命令がだされた。兵士は5日間の携行食糧をはじめフル装備で突撃を命じられた。重量は30キロ近くすばやく動けない。

ボーメン・ハーメル付近の地下爆破

第1次大戦の教訓で機関銃ポストを前にして塹壕突破は不可能だ、というのがある。これは神話にすぎない。機関銃ポストに射手がいなければ問題はない。また夜、霧で前方が見えなければ、射手は為す術がない。更に残酷だが、的の歩兵が十分散開して違う角度で突撃されたら機関銃ではなかなか対抗できない。この場合は歩兵の運動性が鍵となる。

第1波が無人地帯に出たとき、誰もがドイツ兵は全滅し抵抗もなく歩けると思っていた。ドイツ軍の鉄条網は頑健で砲撃で完全に破壊されていなかった。そして鉄条網の太さは親指ほどあり、工具で単純に壊せるものではない。改めて爆破の準備をしている前方で地下壕から現れたドイツ兵が機関銃ポストについた。

ソンム戦での戦争残虐行為

イギリス兵はほとんど鉄条網の手前でなぎ倒された。そして第2波、第3波と続きまた倒された。彼らは、イギリスの華なのか、弾雨をかいくぐって進む英雄達か、指揮のまずさからの犠牲者か、ただのバカなのか、見方は分かれるかもしれない。ただイギリスの近代史にこれだけの犠牲者ないしは英雄が含まれていることを知る必要はある。もちろん我々のもだ。

北方ゴムクールとボーモン・ハーメルでは1時間もしないうちに、ドイツ兵が砲撃で大きな打撃を受けていない事は明白になった。その日前面にでた攻撃部隊は7個師団、13万人が投入された。最大の兵力を出した第4軍司令官ローリンソンは異常を察知し、午前中で突撃中止をヘイグに具申した。しかしヘイグは戦闘の犠牲はつきものだとして、攻撃の続行を命令した。

ソンム初日のイギリス兵の証言

一方的な殺戮は一日中続いた。その日ヘイグは本国に報告をおくった。
今朝の攻撃は大成功である。すべては計画どおり時計の正確さですすめられた。ドイツ兵はいたるところで上官の指示に従わず降伏している。敵は兵員が欠乏し他の戦線から部隊をかきあつめている。わが軍の士気は高く、確信に満ちている。

   突撃準備にうつるランカシャー歩兵大隊

相対するドイツ第2軍司令官(フリッツ・ベロウ)は南部を除いて完全に敵を撃退したと信じた。とくに増援要請も行わなかった。南部はフランス軍が受け持ったが、相当の前進に成功した。これはフランス軍が準備射撃をおこなわず、また攻撃時間を遅らせたためだった。フランス軍前面では奇襲性が確保されドイツ軍を6キロ程度後方の退却させた。

しかしファルケンハインは一時奪われた陣地は必ず奪回せよ、という命令を出していた。これは縦深陣地の否定で、不必要な被害を出す結果となった。ドイツ軍はすでに縦深陣地戦術を採用していたが、ドイツ軍の通弊で戦術を狭く解釈・限定した。この結果第1線塹壕と補助壕2線程度の幅の縦深性しか頭にない。

7月3日に、第2軍参謀長グルーネルトは南部を断念し現在地点で防衛線を築く事を主張し、ファルケンハインにその場で更迭されている。

結果としてドイツ軍は南部で逆襲に出て失敗している。しかしフランス軍の得た土地を確保するためには側面のイギリス軍も攻勢を維持する必要があった。このためイギリス軍は主攻を南部に移し攻勢を続けた。ポジエールからギュイユモンにかけてゴウの指揮する第5軍が担当した。第5軍の主力はANZAC軍団だった。オーストラリア兵は前年のガリポリ戦でも大きな被害を出したが、ここでもまた同様の事態となった。

ポジエール(2nd drive)

8月にはソンム河口にあるアプビユでは上流から流れてくる戦死体が、ソンム川の海への流量を調整する水門付近を埋め開けることができなくなった。ドーバーからの鉄道のロンドンへの終着駅ウォータールー駅では到着する全ての列車が負傷兵で埋まり、救急車待機用の特別出口が作られた。

ソンムの戦いはベルダン戦へのドイツ軍の圧力を軽減するのに成功した、という見方がある。これは誤りである。ベルダン戦の打ち切りはブルシロフ攻勢で決まっていた。そしてドイツ軍は正面8個師団、予備3個師団で臨んでいて、補充を除けば、増強はあまり行っていない。また英仏軍の57個師団(のべ動員数・常時正面は11個師団程度)に比較して効率的な戦闘をしたといえる。

ドイツでは7月下旬から統帥本部内で内紛が起きファルケンハインは8月に更迭されたが、その際ソンムはほとんど争点になっていない。ブルシロフ攻勢とルーマニアの参戦が争点だった。

MAP

ジョージX世は8月10日フランスに到着し、5日間の前線視察の旅に出た。これは激戦が続いている中の異例の行幸にも見えるが、当時この戦いが戦死者、あるいは損害という点でクライマックスに達していたことが全く認識されていなかったことの表れでもあった。もちろんイギイスは議会制民主主義の国でありまた大方のヨーロッパの君主国と異なり統帥権が国王に属していたわけではない。それでも当時のイギリス軍や自治領の兵士が国王が最高司令官だという意識は存在した。

8月12日、イギリス軍司令部のあるボーケスン(Besuquesne)でフランス大統領ポアンカレとジョージX世が会談した。同時にヘイグとジョフルの作戦方針の打ち合わせも行なわれ攻勢を続行することで意見が一致、8月18日から新たな攻勢が開始されることになった。

ギュイユモン/デルビルの森(3rd Drive)

しかしイギリスの戦術は7月1日の方法、横隊攻撃により敵の最強地点を突破するという点で変化がなかった。そしてイギリスは兵員に余裕がありこのような戦闘をしたともいえる。もし30個師団でより広正面を一度に攻撃させ、残りを予備とすれば、ブルシロフと同じく成功した可能性がある。敵が待ち構えている同一地点への反復攻撃が被害を拡大したのだ。

9月3日イギリス軍は這う射撃(移動弾幕射撃)を始めて実行に移した。そして攻撃開始を正午に設定攻めあぐねていたギュイユモンに総攻撃をかけた。攻撃は成功しギュイユモンは1日で陥落した。


ギュイユモン/ジンシー(4th Drive)

イギリス軍は更に前進、ジンシーを9月9日に占領した。その後英独軍は一つの森、一線の塹壕を奪い合あった。

この頃ドイツ軍参謀総長ファルケンハインが失脚、東部戦線にいたヒンデンブルグがその後任となった。ヒンデンブルグはそれまで西部戦線を見たことがなく、着任もかねて兵站総監のルーデンドルフを伴いベルダンへ視察の旅に出た。二人とも、あまりの犠牲の大きさに驚倒した。直ちに、失地全面回復というこれまでの方針を転換し、ベルダンとソンム双方の野戦軍司令官に味方の損失を最小限とし消耗戦に巻き込まれないよう命令した。これ以降ドイツ軍は突破される危機が生じる前に撤退し、また予備壕の整備を図るようになった。

タンク登場(5th Drive)

9月15日ヘイグは全戦線15マイルにわたる全面攻撃を企画した。ジンシー北方・フレール・ポジエール北方の三点を同時に攻撃をかけるもので、7月1日以来の大規模なものだった。そして未完成だとの技術者の主張を退け、タンク49台を出動させた。歴史上初めての登場だった。10台は砲撃で破壊され、9台は故障し、5台はそもそも初めから動かなかった。

それでも2000ヤードは進んだがそれだけだった。このマークUと呼ばれる初代の戦車は時速10km程度で装甲も薄く野砲のかっこうの餌食だった。ただドイツ軍の砲が後方で直接照準でないため全部の破壊を免れたにすぎない。            マークU

この時突撃に加わったのは近衛師団で、首相のアスキスの息子、レイモンドも一員で戦死した。将来の首相、マクミランも参加したが、砲弾の破片により重傷を負った。一晩無人地帯の砲弾孔で待ったのち、救出された。しかし骨盤に残った破片で生涯、まっすぐな歩行ができなかったという。

9月16日、セール初年兵(プライベート)は敵前逃亡で軍法会議にかけられ、処刑された。セールは直前に砲弾(シェル)ショックで退院したばかりだった。1993年遺族が名誉回復の法案の検討を議会下院に諮ったが、却下された。

イギリス軍は9月16日までにドイツ軍の反攻をも撥ね退けある程度の前進を果たした。そして7月1日からこれまで5次にわたる攻撃をかけたわけだが、日を追うにつれ獲得できた地歩は改善されている。つまりなんとか創意工夫により後半では消耗戦であるには違いないが敵にも相応の消耗を与えるのに成功した。ただヘイグは戦術面の改善を限定的にしか考えず、攻勢一点張りの姿勢を改めることはない。

そのためか攻撃を第1回攻撃の北部に再度着目し低湿地であるアンクラ川に攻撃を集中することに決めた。具体的にはチェッバル方面に出てボーモン・ハーメルの後背地に出ようとした。ただここに戦闘開始以前からドイツ軍は周到な陣地を構築していた。ヘイグの最強地点を狙う考えに変化はない。

アンクラ川(6th Drive)

10月にはいってもイギリス軍はまだ戦闘初日(7月1日)と同じ目標を攻撃していた。10月14日ローリンソンは日記に、「天気の悪化で攻勢ははかどらない。ドイツの砲撃は我々より正確だし、歩兵の防御も執拗だ。だが敵の脱走兵は相変わらず来ているし砲撃を続ければ捕虜も得られるかもしれない。だが、冬期も攻勢を続けるとして、来年になっても僅かな前進も期待できないだろう。」と書いた。

11月にはいり最終攻勢として、戦闘初日と同じ、ボーモン・ハーメルに攻撃がかけられた。初めよりすこしは良く、ボーモンクール村を占領することができた。しかし7月の死者を回収できたほか何も特別なことはなかった。11月19日ソンムの戦いは終わったとされる。

ソンム戦最後の日々

英仏軍の損害は63万人と発表された。ドイツ軍は個々の戦闘の損害を発表しないので不明である。英軍の推定によると、65万人とするがまじめに検討するに値しない。実勢50万人死者は10万人を切ると思われる。ただしドイツ軍は捕虜を7万3千人出している。この戦闘を境にドイツ軍は捕虜を大量に出すようになる。理由は不明だが、厭戦気分と関係があるのではないか。

ロイド=ジョージのソンム戦の回想

この戦いは20世紀人類の最大の愚行であったかもしれない。ベルダンの戦いと合わせ、英独仏の社会に横たわる根底的なものがこれで崩壊した。これ以降戦争は現在に至るまで残酷な結果を招来しかねないという合意が成立した。これが進歩だとしても、犠牲は大きすぎた。第1次大戦はヨーロッパの帝国主義者の争いだとするアメリカと旧ソ連の宣伝はいまだに幅を利かせている。

それが事実だとしても、戦争の最悪の側面をみせたのは、この戦いでありアメリカ人も共産主義者もここにいたわけではない。植民地からの兵もほとんどいない。西ヨーロッパの若者は、帝国主義者に扇動されたわけでなく、またイギリス人の場合は志願して、この戦いに参加した。ソンム古戦場は現在各国の戦没者墓地で埋められている。そして墓地は盲目的な国家主義(ナショナリズム)に無言の警告を与えているようにみえる。そしてその警告は英独仏の若者に限定されて発せられたものではないだろう。

ニューファウンドランド公園

ソンム古戦場の観光上の注意



Gardner,B.,The Big Push: A Portrait of the Battle of the Somme, London,1961
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