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オーストリア外相ベルヒトルドは宣戦布告と戦争開始は別だとして暴力外交を展開した。しかし結果は欧州戦争だった。だが宣戦布告をしても、両方とも攻勢作戦計画をもたねば大規模な陸戦が起きないのは事実だ。例えば1939年9月英仏はドイツに宣戦布告を行ったが、海戦を除き陸戦は翌年の5月まで発生しなかった。この時、英仏は攻勢作戦計画をもたずに、宣戦布告を行ったのだ。
第1次大戦の前、独・仏・露の三国はそれぞれ秘密裏に戦争計画を保有していた。
- ドイツ シュリーフェンプラン
- フランス プラン17
- ロシア 第19号計画
ただこのうちドイツのシュリーフェンプランのみは他の2国の計画と異なり、受身でなくドイツ自体がイニシアチブをとり攻勢、すなわち国境を突破する作戦を含んでいる点で異色だった。他の2国およびオーストリアの戦争計画は動員と開進(前線部隊を国境付近に展開させること)で構成されており、戦争計画の発動すなわち動員を下令しても軍隊が自動的に国境を越えることはない。すなわち政治家の命令があるまで軍隊は野営地に止まり哨戒ポストで来るべき敵を睨みつけていることができた。
この計画では露仏どちらかが動員を開始すると、ドイツ軍はベルギーに飛び込むことが予定された。かつベルギー中立侵犯があるのでイギリスの参戦をも考慮にいれていた。小モルトケの前任者シュリーフェンの名前から由来する。
シュリーフェンプラン
- ドイツは東西二正面戦争を余儀なくされる
- どちらかを先に打倒しない限りドイツの勝利は期待できない
- ロシア動員は鉄道網の不備からフランスより2ヶ月程度遅れる
- この間にフランス野戦軍を包囲せん滅する
- この目的のため全軍の8分の7を西部戦線に一旦集中する
- この大軍の通路として、防御施設の弱いベルギーを利用する
- 8分の1しか東部に軍をおかない結果としてロシア軍に一時東プロイセンを占領されるが意に介さない
- フランス軍包囲の方法は片翼包囲とし、敵を一旦自軍左翼に誘導する
- このためアルザスロレーヌに侵入を許すが、むしろ望ましい
- 西部ではとくに右翼を厚くする。一旦英仏海峡を袖ではらうように進行しパリを占領、その後アルザスロレーヌに入り込んだ仏軍を完全包囲・殲滅する
- 全作戦期間は49日
小モルトケはこの原計画を多少修正し、中央部を厚くした。このため右翼をやや小さくし、回転半径も小さくした。理由は中央部・アルデンヌへの仏軍の突出を恐れたためである。
事実もこの様に進行したため妥当な措置に思える。アルデンヌからアントワープまで仏軍が突進した場合、独軍の右翼は完全に補給が断たれる。この他に右翼の回転半径を小さくし、パリの一時占領も断念した。
これも目標が敵の野戦軍のせん滅にある以上、パリの占領と二重の目標をもつ事は好ましくなく妥当だろう。この二つの修正を行ったものがシュリーフェン計画(改)で独参謀本部はほぼこの通り作戦を実施した。
シュリーフェン計画(改)はただ作戦のあり方を示すだけでなく、詳細な各部隊の編成方法、集結地また降車地が含まれていた。すなわち右翼の大部分は最右翼の第1軍(クルック)を先頭にアーヘンで降車し、その後、ベルギー領内に侵攻する、またこの際の命令書、物資の調達方法一切だった。
ドイツの鉄道は平時から参謀本部の管轄下に置かれており
総動員にともなって全国で1万台以上の車両が徴用された。恐るべき事に小モルトケは個々の作戦指導は現場の参謀が実施すべきだとして自らはルクセンブルグの本営から前進することはなかった。また作戦計画は詳細を極めたが、敵と遭遇する事は考慮されてなかった。つまり直接戦闘およびその結果の作戦変更は参謀本部の仕事ではないようなのだ。
このあたりの硬直性は別の意味で研究にあたいする。ドイツ軍兵士の出征を見送る婦人。
妹だろうかまたは恋人かもしれない。
兵士と書いたが帯剣しており予備役将校または下士官と思われる。またシュリーフェンプランは前述のように動員計画から攻勢作戦まで通貫させている。これは作戦を効率的に実施する施策だけのようにみえる。ところが違う。この計画は外交を拘束する。シュリーフェンプランのモチベーションはロシアとフランスの総動員終了までの速度差にある。つまりロシアはその広大な国土から動員せねばならず、総動員終了まで時間がかかる。その間にフランスの野戦軍を殲滅し、侵入してくるロシア軍に反転させる、が骨子である。
これは同時にドイツがフランスとロシアの動員速度に遅れてはならないことを意味する。
通常総動員下令(=戦争決意;ドイツの場合)は政治家によって決定される。なぜならば国家間の戦争であれば、他国と紛争やそれを交渉するための外交が存在し戦争はそれを解決する手段である。ここの所は通常国土の統一や政権をめぐって戦われる内戦とは異なる。つまり戦争決意は他国と交渉を行う外交官を抜きにはできない。近代国家で軍人が外交官を兼務することはない。なぜならば外交は全権確認(アグレマン)がなければ成り立たずこれが武官に与えられることはない。大国にその程度の官僚組織は必ず存在する。
ところがドイツ式ではこの戦争決意が他国からのシグナルにとって代わられる。つまりあるシグナルが発生すれば自動的に戦争決意が行われることになる。シュリーフェンプランの場合、それはロシアの総動員だった。すなわちロシアが総動員を下令すれば、ドイツが同時に下令(=戦争決意)せねば、このシュリーフェンプランは成立しなくなる。ロシアの総動員が進捗すれば、ドイツのフランス野戦軍殲滅のため与えられる時間は減少してしまう。
ロシアは1914年7月30日、オーストリア=ハンガリーに外交的示威の目的で総動員を下令した。あるシグナルは出現した。このようにして第1次大戦は外交上の紛争とは直接関係なく戦争計画が一人歩きして開始された。
このドイツ式戦争計画の欠陥はそれだけに止まらない。シグナルで自動的に戦争を開始することは、シグナルを発生させた国に戦争開始責任を転嫁できると思い込ませる。すなわち戦争開始に伴う心理的負担を減少させる。そして参謀本部による事前戦争計画作成は同時に部員による事前の討論が行われることを意味する。すると、ある案に対して第三国が参戦したら成立しないという反論が必ず出る。この結果関係する全ての国が参戦しても勝利できるという強弁が討論を支配するようになる。やってみなければわからない、という単純だが健全な思考は打ち捨てられ短期戦となればそれでも勝利できるという暴論が勝利する。
ドイツ参謀本部はベルギー中立侵犯によってベルギー、イギリス、日本がドイツに対し参戦することを事前に予想していた。だがそのようなことを自慢しても始まらない。
このシュリーフェンプランの背後に隠れる論理を理解することは非常に難しい。この計画は漏洩されていたが、ロシアのニコライ二世とそのアドバイザーは理解できなかっただろう。
第1次大戦勃発の27年後、日本で同様の計画が出来した。真珠湾攻撃計画である。この時のシグナルは日米交渉の不調だった。ハルノートが具体的シグナルとなった。未だにこの計画の論理も理解するのが困難とされている。
Ritter,G.G.B.,The Schlieffen Plan: Critique of a Myth, London, 1958
Schlieffen,A.Feldmarshall G.von,Cannae (tr. by Command and General Staff Press),1936
Kennedy,P.M.,(ed.) The War Plans of the Great Powers, London, 1979
McEntee,G.L.,Military History of the World War, NewYork, 1943
Foerster, Wolfgang, La Comte Schlieffen et la Grande Guerre Mondiale, Paris, 1920
Dobrorolsky, Gen. S., La Mobilisation de l'armee russe en 1914; Revue d'Histoire de la Guerre, Paris, 1923
総動員
プラン17(仏)
第19号計画(露)
イギリス陸軍旬報のシュリーフェンプランの評論
フランス軍の当初配置
ロシア軍の当初配置
オーストリア軍総動員の失敗