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1916年東部戦線はブルシロフ攻勢の終了とともに例年の冬期の停滞にはいった。ルーマニア戦はロシアに資することは全くなかった。しかし全体で1916年に受けた100万人の損失は前年よりは軽微でまたいくつかの前線では独墺軍を押し返していて、ニコライU世は前途にむしろ明るさを感じていた。
ドイツ第8軍(ショルツ)が1月リガで小攻勢をかけたが、ロシア軍に跳ね返された。ロシア兵は夜、塹壕で「神はわれらのために死に、われらのために甦り、」と讃美歌を合唱し、あまりの美しさにドイツ兵は息をのんだという。
革命はペテログラードの路上で発生した。2月、ロシア西部で極端な降雪があった。このため鉄道輸送が大打撃をうけ、一番生産地から遠いペテログラードで食料・石炭の供給が停滞した。2月26日女性による食料デモが起き、3月第1週まで続いた。
3月8日食料配給の列に並んでいた市民が突然切れ、ウィンドウを壊しはじめた。ネフスキー大通りはデモ隊で埋まった。3月10日になると市民は赤旗をもちだし「ドイツ女(アレクサンドラ皇后をさす)を倒せ、プロトポポフ(内相・ラスプーチンの知己)を倒せ、戦争をやめろ」と政治的な要求を叫び始めた。首相ゴリツィンは事態の収拾は不可能とみて、辞任をニコライU世に電報でつたえた。
3月10日ネフスキー大通りを埋める食料デモ
これでもニコライU世は強硬姿勢を崩さず、ハバロフ軍警司令官に翌日のデモの鎮圧を命じ、ゴリツィンの辞任要請も一蹴した。たぶんデモが頻繁におきすぎたため、強硬手段を講じれば収まると楽観したのだろう。しかし首相の辞任申し出を君主が軽視するのはやはりどうだろうか。食料・燃料の対策についてどう考えたのだろうか。
翌日、3月11日ネフスキー大通りアニチコフ宮殿前で軍隊が群集に発砲した。1905年の血の日曜日事件ですら発砲は偶然で、ニコライU世が命じたものではない。今回は違った。その日のうちに市内随所で200人の死亡者がでた。
この事件は後のボルシェビキ革命が耳目をひくため見過ごされるが、すべての始まりではないか。ロシアは他の主要交戦国にくらべ産業革命が遅れていた。
ところが、第1次大戦中急速な機械化、大工場化がすすむ。戦争中に産業革命がおきた。このため農村の手工業が成り立たなくなり成年男子の都市集中化・大工場勤務が軍隊の肥大化と平行して進んだ。都市は急拡大をとげていた。ここが他国と異なりロシアで社会主義運動が大きな影響をもち単なるストライキやデモが政治的となった理由である。産業革命の初期はどの国でも劣悪な労働条件と未熟練労働者の大量発生で、社会不安が起きやすい。そのうえ、絶対王政反対を叫ぶインテリの活動は少なくとも数と言う点で、それより以前から相当に影響力があった。
一方ニコライU世は、前線の兵士の気分になっていた。敵を前にしているのに銃後で足を引っ張るとは何事か、と。それでも無辜の市民に軍隊が発砲してただで済むはずがない。
発砲事件直後から発砲を拒否する連隊が現れさらに発砲を命ずる将校が射殺された。すでに首都は無秩序となっていた。国会議長ロジャンコはニコライU世に、内閣を改造し議会(ドゥーマ)が主導する政体に変更するよう請願した。ニコライU世はこの電報をうけとり、傍らのアレクセイエフ参謀総長に「デブのロジャンコが無意味なことを言ってよこした。」と話したという。そして前線にいた4個連隊をイワノフに命じて鎮圧のため急派し国会の停会を命じた。
このニコライU世の判断の誤りが革命の原因とはいえない。おそらくこの時点では遅かっただろう。だがこの時点での失敗はもはや内政の無視といわざるを得ない。20世紀の政治でロシアのような大国で信じられないことだが、ニコライU世は内政をラスプーチンの影響下にある(もしくは官僚、市民がそう信じた)アレクサンドラ皇后にまかせていた。普通の市民はまたヘッセン公国出身の皇后をドイツ人とみなし敵視した。
アレクサンドラ皇后はイギリスのビクトリア女王の孫で可愛がられ、イギリスに長く住んだ。母国語も英語とみてよい。にもかかわらず絶対王政を信条とし議会を敵とみなした。20世紀の皇帝としてニコライU世は皇后のやり方を家族愛だけでみず、必要とあれば矯正すべきだったしまた廷臣やマスコミの意見に耳を傾ける謙虚な姿勢が必要だったのだろう。ただ近代国家で専制を実行するとき独裁者には超人的な事務処理能力と一切のゆとりを排した勤務姿勢が必要となる。ニコライU世にはその両方とも欠けていた。
イギリスでも日本でも立憲君主として議会を尊重しようとしたとき家族は反対した。それを君主は押し切っている。家族思いと立憲君主は矛盾しない。
3月12日全ては一変した。ボリンスキー連隊ではキルピチニコフという軍曹が前日自分を殴った上官を射殺した。他の士官は兵舎から逃走し、連隊はそのまま街にでた。セミョノフスキー連隊、イスマイロフスキー連隊、リトウスキー連隊等々そして最後は伝統のプレオブラチェンスキー連隊も反乱に加わった。反乱軍は内務省、軍司令部、警備隊司令部(オフラーナ)警察、兵器庫を襲い、最早抵抗する者はいなかった。
この士官の抵抗力の弱さに意外感をもつかもしれないが、実は当然なのである。ロシア軍は異常に士官の少ない軍隊だった。予備・後備では1200人から1500人に一人といわれる。つまり大隊長一人だけである。これに戦中の消耗が加わった。士官学校から繰り上げ卒業で急養成したが、追いつくものではない。そのうえ、兵士から下士官、将校に上がる道が戦時には断たれていた。これはロシアだけである。陸軍省は改善を計画したらしいが、ニコライU世の反対にあったらしい。結局、将校団とツアーの緊密な関係という、中世的な夢を求めたのだろう。
また海軍にもこれがあてはまる。海軍は専門性が強く士官となるには長い訓練が必要となる。このため士官と君主の関係は濃密だが、年中交代する水兵との人間関係は希薄でまた強圧的になりやすい。これが君主国の海軍で水兵の反乱が多発する理由である。
午前中閣議で皇弟ミハイル大公に内閣の改造をすべくニコライU世にとりつぎを頼む事になった。ミハイル大公は大本営に電話をしたが、アレクセイエフから、皇帝はツァールスコエ・セロ(夏宮、レニングラード近郊の離宮、アレクサンドラ皇后が住む)に行かれそこで決めます、と伝えられただけだった。これはロマノフ王朝とともに自身の運命をも決めた一瞬だった。閣議より妻の意見を重視しては近代国家は成り立たない。
閣議は二度と開かれることはなかった。ロジャンコは前日の皇帝の停会命令に反し国会の続行を決意した。兵士が国会(タブリダ宮にあった。)へ次々と来て権力を掌握してくれと依頼した。兵士は反乱を起こした以上あとに引けなかった。引けば軍法会議で処刑だった。
ロジャンコは躊躇しながら国会議員からなる臨時執行委員会を権力掌握のため組織した。議長はロジャンコが就任したが当初から中心人物と目されていたのはケレンスキーだった。
ケレンスキー
そしてそのケレンスキーの指示で妙なことが発生した。ソビエトの発生である。あまりの大量の兵士が請願に来るのにたまりかね、ケレンスキーは代表を設置するように兵士と労働者に頼んだ。あとでケレンスキーは無政府状態を是正するため、といっているが、自らペテログラードのソビエトの副議長(議長はチアーゼ、社会民主党・メンシェビキ)に就任している。たぶん自身の支持基盤の強化を狙ったのだろう。
これは致命的なミスだった。一応兵士は中隊で代表一人、労働者は1000人に一人の代表を選出し、その代表がソビエトを構成した。一見民主的にみえるが実はそうではない。
兵士も労働者も実は故郷の農村にただ帰りたかったのだ。つまり大工場の労働者は今でいう季節工・非熟練工で組合を組織した経験はなかった。兵士は戦争が終了し除隊になることしか考えなかった。
そこでソビエトの代表となる人物はペテログラードに残って政治活動をしたい、もしくはしていた人物しか立候補しない。残り大多数はそもそも選出自体に興味を示さなかった。日本の終戦直後の学生自治会運動と同じく活動家と称する人物しかソビエトにはいなかった。そしてロシアの活動家は全て社会主義者だった。
こういった組織だと権力を早めに活動家に与えるという主張が力をもつのは当然だった。つまりかりそめの共同体(大工場、軍隊)で代表を選んだわけである。そしてタブリダ宮に国会とソビエトが同居することになった。まさに二重権力だった。
3月14日ペテログラード労兵ソビエトの名で有名な第1号命令が出された。内容は兵士に国会臨時執行委員会(軍事委員会)の指示にしたがうこと、その指示はソビエトからの命令に背反しないことだった。直前にボルシェビキの活動家のポンチ・ブルエビッチが赤新聞を買い取りそこの印刷所を使用したため第1号のリーフレットは豪勢なつくりだった。この新聞がイズベスチアになる。
3月15日イワノフの4個連隊はペテログラードにつく前に進撃をあきらめてしまう。アレクセイエフの示唆に従がったせいでもあるが、この時反乱軍はペテログラード市内にいた17万人の軍隊のうちすくなくとも6万人を味方につけており4個連隊では話にならなかった。ここでもニコライU世の甘さが裏目にでた。
一方そのニコライU世は3月12日昼、大本営をたちペトログラードに向かった。ところが鉄道が豪雪による機関車故障・立ち往生で復旧が完全でなく、また春季攻勢のため前線にむかう兵士でも混雑し迂回を余儀なくされた。3月14日ペテログラード南方160kmの地点で、反乱軍が接近中との連絡がはいり、ついに首都に行くのを断念してしまう。かわりに北西軍(ルツスキー)司令部に行く事になり夜8時に到着した。そして駅でロジャンコに組閣の要請をしたが、回答は手後れというものだった。
一方この頃ロジャンコは大本営のアレクセイエフと会談しニコライU世の退位を各軍司令官に諮ることを依頼していた。アレクセイエフも翌朝まで取りまとめる事を約束した。この時点でアレクセイエフもニコライU世を見限ったことがわかる。
3月15日早朝、ルツスキーはニコライU世の前に各軍司令官の退位についての意見書を手渡した。全員退位に賛成だった。ニコライ大公やブルシロフまでも。もはやニコライU世に忠実な軍隊は存在しなくなった。ニコライU世にとり軍の支持が全てだった。それが失われた時、帝位にこだわる意味はなかった。アレクセイエフが用意した退位宣言に署名し皇太子アレクセイに譲位することになった。
その後しかし皇太子アレクセイの病、血友病が不安となり皇弟のミハイルに譲位することに考えなおした。これもミスだった。ここに至れば、イギリス型の立憲君主としてロマノフ家が存続するのが最良で、まだ子供のアレクセイは最適だったのだ。ミハイルは翌朝、ロジャンコとケレンスキーに身辺の安全の確保が可能か相談した。二人とも否定的で、ミハイルは皇位につくことを断念した。ロマノフ王朝は304年の歴史を閉じた。
組閣工作は別にすすめられ、ルウォウが臨時政府首相となりケレンスキーは法相となった。
革命は成功し残忍なツァーリ圧政は倒され民主的な政体が実現したかにみえた。連合国とくにイギリス、アメリカでは歓迎一辺倒となった。政体が主として外交政策を左右するといった、誤った観念の始まりだった。
アメリカ人は民主主義の帝国主義への戦いという正義が実現されたと思った。アメリカ人にとり帝国は広域帝国のオーストリア=ハンガリー二重帝国、オスマン帝国、ロシア帝国でありドイツがそれに加わろうとしているかのように見えた。
連合国は臨時政府に継戦努力を訴え、3月27日臨時政府は独墺戦線の維持を決定した。しかしペテログラードソビエトは、独墺両国の労働者が君主、地主と銀行家のくびきから離れ、軍務を拒否することを呼びかけた。そして秘密外交廃止と不割譲・不賠償を訴えた。すでにソビエトは社会主義3政党(社会民主党ボルシェビキ派、メンシェビキ派、社会革命党)に牛耳られていた。
4月16日ドイツ参謀本部は、ロシアに更なる混乱をまきおこそうと、レーニン以下スイス在住の革命家をロシアに送り込むことを決めた。レーニンはこの提案を受け、封印列車でドイツ、スエーデン経由でペトログラードのフィンランド駅に着いた。
レーニンは帰国するとすぐに4月テーゼを発表した。これは全権力をソビエトに、臨時政府の打倒、戦争を革命に転化せよというもので、臨時政府の否定という点で明確だった。始めはボルシェビキの中とくにスターリン、カーメネフの反対で否決された。しかし徐々に支持者を増やしボルシェビキの基本方針となった。
臨時政府は勝利後のボスポラス海峡とダーダネルス海峡の割譲を条件に7月攻勢に出ることを連合国に約束した。5月にはいりこの外交方針をめぐりソビエトと臨時政府の対立が激化した。
これは臨時政府のミスだろう。ほとんどのロシア人はもはや両海峡に興味はなかった。加えるに勝利するためには東部戦線でドイツ軍を押し返す必要があった。
臨時政府とりわけケレンスキーは現実的な軍事力の理解に欠けていた。一方ソビエト側も不割譲ではドイツは拒否する、すなわち現状での停戦を求めていることについて、具体的な方針が欠けていた。しかしソビエト側は新領土の獲得といった重圧はなく、柔軟になれた。
5月19日ケレンスキーは陸相に就任し攻勢作戦にでる意欲を固めた。まずアレクセイエフを更迭し代わりにブルシロフを据えた。ブルシロフは7月攻勢の目標としてレンベルクを設定し、南西軍(コルニロフ)で前と同じ広正面での浸透をはかる作戦をたてた。
しかし年初からすでに脱走兵は200万人を越え各部隊に督戦委員を配置せねば軍隊は動かない状態と化していた。それでも前線にいる兵士は650万人を数えた。少なくとも独墺軍を60%上回る数だった。
6月18日攻勢は開始され、またも東ガリシアで独墺軍の前線を崩壊させた。ここから奇妙な状態が生じる。独墺軍は前年の経験から後方の第2線の防御陣地を作りまた第1線は薄く配置していた。独墺軍の撤退はワナに似たところがあった。ところがロシア軍の最前線の兵士はこれを見破ってしまう。6月20日以降前線兵士とりわけ突撃部隊が前進を拒みはじめた。革命をみて兵士は考える兵士に変わっていた。
将校はこの兵士が疑問をもつことを、反抗と解した。奇妙な停滞が2週間続いたあと、独墺軍が7月6日に反攻にでて結局元の戦線に戻って終了した。
7月13日ケレンスキーは事態を全く掌握できず、総司令官をブルシロフからコルニロフに代えた。コルニロフは直ちに攻勢の中止を指令し、軍の温存をはかることに努めた。ケレンスキーはようやく演説だけでは戦争に勝てないことを悟りはじめた。
7月19日、東部軍参謀長ホフマンはズロチョフで反攻に出た。約20Kmに亘りロシア軍の前線が崩壊した。ロシア兵は敗走し壊乱に近い状態となった。そのニュースがペテログラードに着くとルォウ首相は辞任し代わりにケレンスキーが就任した。ガリシア東部ではオーストリア軍の前進が開始され7月29日タルノポリに到達した。
9月にはいるとドイツ軍第8軍(フーチェル)が冬期と同じくリガで攻勢にでた。今度は逆にドイツ軍がブルシロフの方法をまね強襲部隊による浸透作戦を実験的に導入した。これ以降この方法はフーチェル戦術と呼ばれる事になった。ロシア兵は脱走があいつぎ弱体化していたがそれでもよく戦った。2万人以上の捕虜は出しリガを失ったが、後方で踏みとどまった。しかしペトログラードへの第一の関門は奪われた。
コルニロフは戦線の安定をうけて、ペテログラードに前線の軍を派遣しソビエトの打倒をはからねば、有効な戦争指導は難しいと考えた。これをケレンスキーも支持し、軍の首都への導入を依頼した。
ところが9月12日コルニロフの軍が首都に近づくにつれケレンスキーは不安となり、自分も打倒されるかもしれないと疑い始めた。
ケレンスキーは社会党員だが、この政党は中産階級を支持基盤としたがペテログラードでは力が弱かった。全国的にも退潮気味で、消滅は時間の問題だったろう。社会革命党はナロードニキ運動からでていて、農村に基盤があった。社会党はその都市版だった。ところがストルイピン首相が自作農創設をはかり、成功しすでに65%の農民が自作農となっていた。
この数字はアメリカを除いて大国ではもっとも高かったのではないか。自作農はテロを得意としていた社会革命党を支持しなくなり、また社会革命党も穏健化しかつ弱体化した。またテロを信条としたものは社会革命党左派を名乗る。ロシアでは国民的基盤をもつ社会民主勢力がついに育たなかった。
この社会党・社会革命党(右派)ブロックはその後憲法制定のための全国選挙で35%の第1党をしめた。この選挙はボルシェビキにより銃で無視されたが、全体の支持傾向はわかる。社会民主勢力に国民の支持はあったのだ。本来ニコライU世はこの勢力に期待すべきだったのだ。
自作農はストルイピンの政策で生まれたがニコライU世の治世のうちであることは間違いない。また農奴でもなくまたミュール(農村共同体)にも縛られない自作農が政治的自由を求めるのは必須である。ニコライU世の脳裏には社会革命党=テロという思いがありそれが障害になったのは疑いないが。
一方社会民主党はメンシェビキの首領トロツキーがボルシェビキ寄りとなりまたジノビエフやカーメネフなどのボルシェビキが穏健化し、時期は除いても臨時政府打倒で統一がとれてきた。
ボルシェビキは大戦以前、鉄道強盗と銀行強盗により活動資金の獲得をしていた。資金は亡命者の生活扶助に使われた。だが強盗に反対するメンシェビキと対立も、権力掌握とともになくなった。今度は強盗を取り締まらねばならない点ではすぐ意見が一致した。どうしてもボルシェビキと妥協しない左右両派は党を離れていった。
ケレンスキーは鉄道労働者にストを指令し、さらにペテログラードにソビエトの活動家を核とする赤衛隊を創設した。この時点で二月革命時の反乱軍はすでに帰農しているか前線におくられていた。しかし武器と帰農できない元兵士は豊富でかなりの軍隊は組織できた。
鉄道労働者はロシアで唯一熟練工の組織で臨時政府に忠実だった。たちまちもともと戦意の乏しいコルニロフの軍は行き場を失い、原隊に復帰していった。コルニロフは逮捕されケレンスキーが自ら後任の総司令官となった。
レーニンは失意の7月蜂起が失敗したあとフィンランドに逃亡していたが、好機とみて舞い戻り再度武装蜂起による臨時政府打倒を主張した。このあたりの一貫性は見るべきものがある。レーニンの提案は政治委員会で11対2の多数により可決された。反対の2票はジノビエフとカーメネフでそのうちジノビエフは反対の見解を新聞に発表した。そしてレーニンはそれをまた新聞で反論した。不思議なことに武装蜂起の時期を新聞で論争し始めた。
これを読んでケレンスキーは極度に不安となった。これは当然だろう。11月6日ボルシェビキの機関紙発行のプラウダ社を、私兵である女性部隊と士官学校生徒に襲わせた。
赤衛隊の司令官トロツキーはすぐさま反応しプラウダ社を回復した。次に鉄道駅舎、郵便局と電信・電話局を占領した。ケレンスキーはアメリカ国旗が前に翻る自動車でペテログラードを脱出した。11月7日赤衛隊は臨時政府役職員が事務をとっていた冬宮を占拠し数名を逮捕した。赤衛隊の犠牲者は9人といわれるが、大半は事故によるものである。これが十月革命とよばれるものだった。
11月11日、北部軍司令部に到着したケレンスキーはクラスノフに率いられた700騎のコサックと一緒にペトログラードに反攻にでた。そしてツァールスコエ・セロまで迫った。しかし一度は増援軍を送る手はずだった北部軍司令官チェレミソフはボルシェビキと意をつうじ、またクラスノフの裏切りにもあい、ケレンスキーは水兵の格好をして捕縛寸前に逃れた。
ケレンスキーは付近の農家にかくまわれイギリスのジャーナリスト、ロックハートの助けでついに国外逃亡に成功する。臨時政府はよくもわるくもケレンスキーの政府だった。どこか演説だけ巧みな現実感の乏しい才子だった。しかしケレンスキーは政敵を殺害することは注意深く避けた。臨時政府が倒されると共産政府につきもののあたり構わない殺戮が開始された。
この頃ドイツ軍は何をしていたのか。ルーデンドルフは8月31日秘密裏にレーニン支持を打ち出していた。ドイツ政府はレーニンに開戦時相当の資金援助を行い一時途絶えたものの封印列車乗り込み時また再開していた。封印列車には各派の亡命者32人がいたがその中でレーニンはドイツ政府公認のリーダーだった。
そして資金援助は7月以降も続いていた公算が強い。レーニンの即時講和要求はドイツの意向に沿ったものではなかったか。ドイツ軍はケレンスキーの立場が強化されたときに限り攻勢に出ていることもその裏付けになる。
11月22日レーニン政府は無併合、無賠償を前提に休戦交渉にはいることを提案した。連合国政府はこれを無視した。ドイツ軍東部軍参謀長ホフマンはこれをとりあげ11月27日レーニン政府によって任命されたロシア軍総司令官クリレンコに12月1日からブレストリトウスクで休戦交渉に入る事を連絡した。
東部戦線でついに3年4ヶ月ぶりに砲声がとだえた。
休戦交渉でロシア側は直ちにドイツ東部軍を西部戦線におくらないことを条件に即刻休戦することを提案し、受け入れられた。ホフマンは事前にこの条件を承知していて、必要な西部戦線への転属は終了していた。
12月15日公式に休戦となり、連合国はロンドン協約に反するこの同盟離脱に激怒した。アメリカはこの協約に不参加で違った考えをもった。ボルシェビキに先をこされたことを憾みながらウィルソンは1918年1月8日休戦のための14ヶ条を発表した。内容は国際連盟の設立と民族自決を除けば、ボルシェビキの提案と変わる事がなかった。また分離和平についての非難もない。
ところが独露交渉は進展がなかった。ソビエト政府はトロツキー外務委員を代表におくったが、トロツキーは事前に講和なしの停戦で臨むと公言した。ドイツはキュールマン外務次官が代表したが、実際はホフマンが参謀本部の指示ですべて決めていた。会議はトロツキーの演説ですべて始まりすべてが終わった。1週間進捗がなかった。
ドイツ参謀本部も業を煮やし督促した。トロツキーは予定した最後の手段に出た。講和条約なくして戦争を終了させようと長演説をふるった。2月10日会議は決裂した。これもドイツの予定通りだった。2月18日ホフマンは直ちに東部軍を前進させた。抵抗はなにもなく1週間で300km進んだ。ヘルシンキを占領し、ペテログラードに危機が迫り、レーニンは首都をモスクワに移転させた。
トロツキーは再度抵抗のあとの休戦を考えた。連合国(その中にすでにロシアの名はなかった。)に救助を依頼した。英仏は東部戦線におくる軍は当然ない。唯一イギリスの外相バルフォアが出したのが日本の支援だった。シベリア鉄道の範囲で、日本軍を駐留させるというのである。日本政府の了解もまだだし(軍部からはあったようだ。)、ボルシェビキはまだ極東に関心がなかった。そしてこの話は当然時間切れになった。
2月26日レーニン政府は降伏した。レーニンは革命を救うには他に方法がないといった。そうだろうか。前の講和会議で演説でなく条約の話し合いをすれば良いのではないか。レーニンはこれ以降もルーデンドルフの総力戦論をもちあげており何かあった可能性がある。
3月2日ドイツの差し出す条件で交渉の席も与えられずに、ロシア側は講和条約にやむなく署名した。これはブレストリトウスク講和条約と呼ばれた。ロシアは6分の1の領土を失い、3分の1の人口も失った。
しかしこの屈辱的な条約をみた連合国はドイツとの妥協による講和には絶対に応じられないという決意を固めた。
策略は成功したかに見えた。しかし同じことが翌年6月ベルサイユで繰り返されるとは、ルーデンドルフも想定できなかっただろう。ベルサイユでドイツは発言の機会すら与えられなかった。
ロシアがこの戦争で受けた人的被害は戦死者250万人、戦傷者400万人、捕虜200万人、戦中の民間人の死者200万人と推定される。この数字は他のどの2ヶ国を合計したものより多い。
そして革命は戦争より遥かに甚大な被害をもたらした。1925年までボルシェビキ政府は有効な国内支配を完成できなかったとしている。その期間の自然死によらない死者は少なくとも1400万人といわれ、大半は餓死である。街には人肉販売店ができ、交通は途絶しそのなかを難民が徒歩で国境を出ようとし多くは途中で倒れた。今では想像できないが、これら難民に救援の手をさしのべる旧同盟国はなかったといわれる。
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