ロッヅ付近の会戦

ロッヅ付近の会戦

ロッヅ付近の会戦

ロッヅ付近の会戦

ロッヅ付近の会戦

ロッヅ付近の会戦

ロッヅ付近の会戦

東部戦線においてはタンネンベルグでドイツがロシア第2軍を包囲せん滅したが、ガリシアではオーストリアが惨敗しそのプルゼミスル要塞は包囲され孤立していた。

ドイツからみればタンネンベルグの大勝利はあるにしてもマルヌでの敗戦=シュリーフェンプラン(改)の失敗により参謀本部全体では帳消しどころかマイナスと考えられた。

小モルトケは更迭され、あとを担ったファルケンハインは東部戦線より西部戦線を重視する傾きがあった。しかし西部戦線が膠着化したいま東部戦線も強化せねばならず第9軍が編成された。

第9軍は前の第8軍から予備第1軍団などを引き継ぐと同時に新編の軍団の補強もうけ極めて強力な軍として編成された。司令官には前の第8軍の第17軍団を率いたマッケンゼンが任命された。ヒンデンブルグは第8軍第9軍両方を指揮する新設の東部方面軍司令官となった。

東部戦線ではこの後も含めて塹壕戦ではなく機動戦が主流だった。理由は兵員密度が低くかつ鉄道が未発達で増援軍がなかなか前線に送れなかったことだ。独墺露とも戦略予備軍を常時大量にはもてず一旦戦線が突破されると増援部隊を編成できず修復が困難であった。塹壕は構築されたが敵の塹壕との距離は10km以上離れることはめずらしくなく無人地帯を農民が耕作していることもあったという。

ワルシャワに集結したシベリア第5軍団

他方ロシアはタンネンベルグの敗戦責任の追及で北西軍司令官ジリンスキーがガリシアの勝者鈍重ルツスキーと交代した。南西軍は従来通りイワノフ・アレクセイエフでこの両軍の統一指揮が出来ない事も従来通りだったし、派閥抗争も相変わらずだった。

ロシア陸軍

10月に入り独墺軍が攻勢に出た。しかしこの時ロシア軍は戦線整理中で補給拠点のワルシャワやポーランド領内の要塞に後退していた。ヒンデンブルグとともに東部軍の参謀長となったルーデンドルフは初めワルシャワ攻略を目指しロッヅも通り過ぎワルシャワ近郊まで迫ったが、優勢な敵がワルシャワに集結中との情報で元の線まで撤退してしまう。

コンラートのオーストリア軍もカルパチア山麓を出てサン川まで到達し、プルゼミスル要塞との連絡にも成功したが、ロシア第8軍(ブルシロフ)の反撃にあい、プルゼミスル要塞はそのままにこれまた撤退してしまう。

ロッヅ付近の会戦

ロシア軍は一方、ポーランドを西へ直進しシュレジエンへ侵攻する計画を持っていた。このためにはガリシアにある南西軍配下の一部軍団をポーランド西部に配置替えの必要があった。しかし統帥の不一致とウィスチュラ川の氾濫で部隊の整理がつかず、これも遅延した。ようやく攻撃部署に配置が終了したのは11月上旬だった。

MAP(1914年11月西ポーランド)

ルーデンドルフはここで従来の考え、攻勢をオーストリア側から即ちカルパチアから東にガリシアに出るのではなく、東プロイセンから南東に行く方法を選んだ。隠密裏に第9軍の大部隊を500両の鉄道車両で北のトルンに輸送した。この鉄道輸送の効率性はドイツがフランスと並び優秀で、また戦略的な使用(東西両戦線の転用)にも成功し戦争努力を支える大きな要因となった。第2次大戦ではソ連がむしろドイツより鉄道輸送に成功しているのは面白い。                         

ルーデンドルフ

11月上旬までにロシア軍は攻勢配置を終え北から第2軍(シャイデマン)第5軍(プレーベ)第4軍(エベルト)第9軍(レチツキー)と4個軍約80万人の大軍がポーランド西部に轡をならべて構えていた。

この攻勢予定の各軍のほかに第1軍(レネンカンプ)と第10軍(フルーク)が東プロイセンへの抑えと第2軍の右翼の側面支援で配置され、また南のガリシアに第3軍(ドミトリエフ)第11軍(セリバノフ)第8軍(ブルシロフ)がプルゼミスル要塞を腹中にかかえつつオーストリア軍と対峙していた。

ルーデンンドルフの作戦では攻撃軍最北の第2軍と第1軍の間を迂回部隊が抜け後方から挟み撃ちをすることで第2軍の壊滅を狙うというものだった。

トルンからロッヅへと南東方向に進撃する計画で、迂回部隊として予備第25軍団(シェファー)と近衛第3師団が指定された。11月11日進撃が開始されロシアの第1軍の最左翼南に位置するシベリア第5軍団(シドロイン)が攻撃目標となり、ドイツの予備第1軍団(モルゲン)予備第25軍団(シェファー)を中心とする猛攻をうけた。

たちまち三分の二の兵員が捕虜となり、シドロインは退却の許可と優勢な敵に遭遇したことを北西方面軍司令部に報告した。ところがルツスキーはドイツ軍の北方への急速な転進を信じることが出来ず、むしろ全軍のシュレジエンへの進撃を指示した。しかし第2軍の正面も攻撃を受け事態が容易でないことが現場の指揮官には浸透し始めた。

11月15日以降奇妙なことに第2軍(シャイデマン)と第5軍(プレーベ)は北東軍司令部の命令とは無関係にロッヅ方向に後退を開始した。ロッヅは人口50万人とポーランド西部の中心工業都市で鉄道の中継点であるとともに、ロシア軍の兵站の基地でもあった。
11月18日までにロシア第2軍と第5軍はロッヅの西を半円形でカバーする形で後退を終了した。

ルーデンドルフは敵がウィスチュラ川方面に敗走したと予断し迂回部隊のシェファーに急速な追撃と迂回を要求した。シェファーの予備第25軍団と近衛第3師団はロッヅ市内後方を迂回しロシア第2軍の後方に出た。

しかしレネンカンプはタンネンベルグの時とは違った。直ちに残りの第1軍の特別編成部隊(地名をとってローウィツ分遣隊と呼ばれた)をロッヅに急行させていた。また第5軍(プレーベ)も第2軍の後方が脅かされているのを知り、救援軍を派遣した。

MAP(ロッヅ周辺11/18)

ドイツの迂回部隊が逆に包囲されてしまった。しかしこの後の展開は誰の予想をも裏切った。ロシア側は完全包囲に成功したので捕虜後送用に5万人分の鉄道車両を用意し、現場の将軍達は防衛戦勝利の祝賀会の準備にはいった。

しかしここからドイツ予備軍団がその強さを示すことになる。ちなみに予備第25軍団は新編の志願兵だけの部隊で第1次イープルの戦いで中心となった第4軍の新編4個軍団と性格が同一である。

11月22日から11月24日まで決死の包囲脱出劇がくりひろげられた。シェファーはこの間72時間一睡もしなかったという。後衛は近衛第3師団がつとめ、そのうち砲兵隊が全滅するなどの被害をうけたが最後には逃走に成功した。東から第1軍のローウィツ分遣隊の一部がブルゼズニーを占領したがなぜか攻撃にうつらない。戦後の調べでは攻撃の命令を受け取らなかったよしである。西からは第2軍が攻撃をかけた。

この第2軍(総勢15万人)とドイツ軍(7万人)の死闘が二日にわたる激戦の中身であった。南から第5軍の分遣隊が攻撃をしようとしたが、自軍の捕虜をドイツ兵と誤認しあまりの大軍とみなし攻撃をひかえた。11月24日はローウィツ分遣隊が占領したブルゼズニーの攻防にうつるがこれも近衛第3師団に簡単に奪取されてしまう。午後になりシェファーは第9軍との連絡をはたした。

この間朝晩零下10度をわる寒さで道路は凍てつき、時折氷雨のふる毎日だったという。また予備第25軍団は捕虜1万6000人を連れ帰るとともに負傷兵1500人もほぼ落伍なく後送した。戦死者は2000人という。

MAP(ロッヅ周辺11/24)

予備第25軍団の包囲脱出は確かに見事な事跡でドイツ兵の清華を示してあまりある。しかしドイツ第9軍の実力は1個軍半程度あるが約2個軍半に対抗し包囲しようとしてもも簡単には勝てない。敵失に乗らない限り無理だろう。初めから作戦に無理があったのだ。ロシア軍の現場指揮官が迂回を見抜いたのも見事だった。ドイツ軍はもう少し兵力が集まるのを待つべきだった。ルーデンドルフは待てない性分であるうえに、この時点で以降にも通じる用兵上の欠陥を露呈している。すなわち包囲作戦への固執である。

だが、良い点も併せもつ。中途での失敗に遭遇したときの柔軟性である。これはもちろん無節操とも結びつく。しかし予備第25軍団へ不可能とみられる段階でも撤退命令を出したことは評価できる。包囲されたとき総司令官の出す命令としては玉砕命令の方が、脱出命令より心理的に楽である。

そして大半の軍人は玉砕せず途中で降伏する。またそうしてくれた方が総司令官にとってもよい。失敗すればみじめな命令を出さずともすみ、また結果は変わらない。

ルーデンドルフはそうした安易な解決策は断固として拒絶した。1942年11月スターリングラードで、ヒトラーは解囲軍がソ連軍を撃破し、あと一歩と迫ったところで、包囲された第6軍(パウルス)の脱出を禁止、現在地で死守せよとの命令を出した。重囲に陥っていたにもかかわらずパウルスはその命令に従った。だが3ヶ月後、2月に空から補給が続いていたにも拘わらず将兵の過半が失われた段階で降伏した。

このように包囲された軍が組織された反撃をすることは至難である。スターリングラード攻防戦が第2次大戦の分水嶺だった。

一方ロシアはもっと深刻な問題につきあたっていた。あらゆる装備が不足していた。ライフル、弾薬、砲弾はもちろん靴すらたりなくなった。冬期用の装備は望むべくもなかった。敵からの攻撃は補給の限界をより単純にしらせしめた。シュレジエンへの攻撃は最早誰もいわなくなった。ルツスキーは12月上旬ロッヅの放棄を決めウィスチュラ川東部に退いた。

ロッヅに入城するドイツ軍

プルゼミスルの陥落

冬期にはいり東部戦線はこの年に限り、比較的活発な動きを見せる。ファルケンハインは冬期作戦の実施は気候上不可能であることを主張したが、いつもの通り強弁はしない。コンラートはプルゼミスルの救援を主張した。約12万人の将兵がたてこもっていたが、食料が3月半ばまでしかもたない、というのである。

ルーデンドルフはガリシアの攻勢よりも東プロイセンでの攻勢を考えていた。しかしコンラートをなだめる必要からドイツの2個師団半をコンラートの指揮下にいれることを承諾した。この部隊はズューダルメー(南方軍)と呼ばれるようになる。

またコンラートもルーデンドルフも対ロシアで有効な勝利をえないと、中立諸国が敵にまわり決定的な敗北要因になると言い始める。この二人がどの程度真剣だったかはわからないが、冬期作戦にでて失敗すればかえって状況が悪化するのは自明である。中立諸国とはルーマニア・ブルガリア・ギリシャ・イタリーを指すのだろうが、いざ参戦後は戦場に装備の悪い農民兵が現れただけで決定的ではなかった。

コンラートのカルパチア山脈での冬期攻勢は1月23日(1915)開始された。しかしオーストリアの公式戦記で表現された通り「残酷な愚行」だった。カルパチア山中でビバークすれば朝は凍死の可能性が強い。冬期は雪雲が低く垂れ込め、視界はゼロで砲撃そのものが難しい。ライフルは火にあぶらねば発射できなかった。地面はどこも2メートルを越す雪で覆われていた。

MAP(ガリシア1914年冬)

進軍命令がだされてもオーストリア軍は一日に1kmも進めず、ロシア軍の方からみれば攻撃がいつあったのかわからない状態だった。山麓を出た南で戦闘があったが、射程距離外のライフルの射ち合い程度で、戦局に影響はなかった。2月下旬までに戦闘はすべて終了した。このカルパチア山脈攻勢でオーストリアは約80万人の損失を受けた。ただし四分の三は自己申告にもとづく戦傷者だった。

ファルケンハインはコンラートの増援要請を珍しく断固として拒絶しプルゼミスル要塞を救援する見込みは断たれた。ロシアの要塞包囲軍(第11軍セリバノフ)は、旅順の日本軍の28センチ砲、ナミュールのドイツ軍の42センチ砲にみられたような臼砲をもたず、攻撃できず兵糧攻めに徹した。

プルゼミスル要塞

3月22日プルゼミスル要塞軍司令官クスマネックは兵士12万名とともに降伏した。イギリスのロシア第11軍付きの観戦武官によると、要塞に立てこもっていた兵士は疲れてまた飢えた様相を呈していた。しかし将校は血色もよく服装も豪華にみえた。住民によると将校達は連夜、一番攻勢的なタイプの女性社交界から接待をうけていた、という。イギリス観戦武官は茶番であると結語している。

第2次マズール湖の戦い

 一方ルーデンドルフは、2月7日、新編の第10軍(アイヒホルン)と第8軍(ベロウ)をもって、ロシア第10軍(シエベルス)を襲撃しようというものであった。この戦いは開戦以来始めてドイツ側がロシアより数的優位にたった。

この戦いは第2次マスール湖の戦いとタンネンベルグ包囲殲滅戦の後半部分の次に行われたものと記憶されている。確かに場所はほぼ同じだが気候は夏と冬で全く異なる。この戦いでは連日ブリザードが吹き荒れ、視界はほとんどゼロだったという。地面は凍てつき行動はかえって自由だが、部隊の移動はきわめて難しく、ドイツは持ち前の計画性と光学器械の優秀さでしのいだがロシアは両方とも欠けていた。

だがルーデンドルフが計画した第10軍を殲滅しポーランドを北から回り込むというのは到底可能でなかった。行軍スピードもさることながらロシア軍にしても逃げることもできない気候だった。即ち兵站基地から出られないのである。結局ファルケンハインの言うのは正しく、東部戦線で冬期作戦というのは無理なのである。

ロシアの第10軍というのはタンネンベルグの敗戦後急遽作られ、ここまでに戦闘を経験してはいたが引き立て役が多く、この時期は二線級部隊をあてがわれ東プロイセンの東部にひっそり防衛線をかまえていた。

北東軍司令のルツスキーはこの時ワルシャワに新編の12軍を作るのに忙しく、ドイツ軍が東プロイセン東部に2個軍を集めているとは想像していなかった。

第10軍はアンゲラップ線からロシア第10軍の右翼に当たるシベリア第3軍団(イエパンチン)を攻撃した。シベリア第3軍団は陣地をまともに作っておらず、塹壕と呼べるものはなかった。イエパンチンは効果的な守備は無理とみて、砲のみを退かせ歩兵はそのまま見殺しにして、先頭にたちコウノ要塞に逃亡した。

                                                       ロシアの募金ポスター

中央のロシア第20軍団(ブルガコフ)と左翼の第16予備軍団は第8軍(ベロウ)の攻撃を受けた。それでも約二倍の敵で、攻撃とともに第16予備軍団が算を乱して逃亡した。このため第20軍団はたちまち孤軍となり包囲された。

ルツスキーは新編の第12軍を支援に向かわせようとしたが、ブリザードの中の行軍はロシア軍といえども困難だった。

2月14日までに全軍退却の命令がだされたが、その時第20軍団は脱出不可能の状態にあった。2月16日から2月21日まで包囲の輪は狭められ、2個の師団司令部が一軒に家に同居する状態となった。ブルガノフは2月21日に降伏した。捕虜は5万6000だったが死傷者は3万を越えた程度といわれる。

この後、総司令官のニコライ大公は激怒し東プロイセンの優秀な鉄道網を考慮に入れない司令官を面罵した。ロシアの敗北は確かに、鉄道の内戦利用によるドイツ軍の急速な部隊移動を察知できなかったことによる。ニコライ大公はプロイセン方面の作戦は断念し、対オーストリア作戦に重点を置くことを決心する。ルツスキーはこのニコライ大公の方針に、精神的にダウンしてしまい、辞任を申し出た。後任には南西軍のアレクセイエフが任命された。

ドイツの戦時国債募集ポスター