パリ講和会議

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リ講和会議

パリ講和会議

1918年、11月11日第1次大戦は終了した。講和会議は翌1919年1月19日パリで開催された。突然従来の慣習を破り国家のトップが会議をリードすることになった。ウィルソンがパリに赴くことを決めたからだった。理由は死んだウィルソンに聞かねばわからないが、とんでもない決定だった。現在と違い汽船でニューヨーク−ルアーブルは6日間かかった。

ウィルソンは本気で理想主義だった。もちろん現実から離れたという意味でなく、理想を追求すべきという点だ。ウィルソンの理想はヨーロッパで再度戦争を起こさないこと、そのため国境線を居住者の意思で決めること、にあった。

表面的には10人委員会が作られ、5大国日、米、英、仏、伊が出席し決定することになっていた。日本は5大国に選ばれたのはよいとして、首相を派遣することは海路20日をみて不可能だった。結果西園寺公望(首席全権)と牧野伸顕(全権)が特使として派遣された。しかし実際は3巨頭ウィルソンロイドジョージクレマンソーがとり仕切った。


パリ講和会議全体会議の多くはフランス外務省(ケードルセー)で開催された。
この部屋は第1回全体会議が開催された時計の間である(現在公開されている)。

国境線

このうちアメリカは領土拡張の意思はなかった。イギリスの本国もなかった。ただドイツの艦隊を拿捕するか破壊すればよかった。ただオーストラリアと南アフリカは隣接地域の併合を狙っていた。ロイドジョージは大英帝国がアメリカの支持がなければ存続できないことに早くから気づいていた。

また植民地を主張することがアメリカと対立すること、対立してはならないこと及びヨーロッパそのものがアメリカの支持を必要とすることに気づいていた。後年チェンバレンとの対立はすでに内包されていた。イギリスが独自外交を完全にあきらめるのは1950年のスエズ動乱以降となる。

フランスは安全保障のみが関心だった。国際連盟とか集団安全保障がフランスを守ると思えなかった。あくまでフランスが中心にいて、フランスが同盟国と個別に了解せねばならないと考えていた。この傾向をフランスは現在でも有しておりゴーリズム(ドゴール主義)となって現れる。

日本は始めての大戦争後の国際会議でどう対処すべきかわからなかった。国力がアメリカよりもはるかに劣ることはわかっていた。しかし英仏のヨーロッパと異なり、極東の安全保障を独自でやる自信があった。極東は突然日本のみの真空地帯となった。あるいはなったと日本は錯覚した。会議の主要なテーマのヨーロッパの安全保障に口出しをすべきかどうかで、迷って結局最後まで結論がでなかった。口を出して義務を負わない小国の道は始めから断たれていた。10人委員会のメンバーとなったときから、本来ヨーロッパも含めて世界の安全保障に義務を負うことになるのだがイタリーと同じように自覚に欠けていた。

パリ講和会議に派遣された日本代表団

イタリーのオルランド首相の興味はフィウメ(アドリア海の港湾都市でイタリー人は中心部を除いてほとんど住まない。)だけだった。

また重要なメンバー、ドイツとソ連が欠けていた。敗戦国だから当然と現在は考えられているが、これは奇妙なやり方である。敗戦国と戦勝国が長期的な和平の条件を話し合うのが本来の講和である。アメリカのヨーロッパ外交の登場で、外交のあり方が一変してしまった。

日本は少なくとも、ドイツを呼ばないやり方に最後まで疑問をもったようだ。近衛文麿の「英米本位の外交を排す」という主張はその現れだろう。しかしなぜ英米を一体としてみるのかは、不思議である。多分言語のせいだろう。当時の日本で英語はいろいろな外国語でもっとも有力だったがそのうちの一つにすぎなかった。この点でも日本はヨーロッパの一員として、ヨーロッパの伝統で行動した(かった)ことがわかる。なぜ突然国際会議で英語が主流となったのかと。.

近衛文麿の「英米本位の外交を排す」の詳細

各国とも厭戦気分がみなぎり、国内の声は復員を求めるばかりで、再度戦争に訴えるのは不可能だった。この時これら大国の常備軍は10個師団程度までおちていた。ただ日本は人口の関係で17個師団の即応態勢があったが、ヨーロッパまでシベリア鉄道経由で行かなければならず遠すぎた。そして休戦日から3ヶ月後、ちょうど英仏とも復員を完了したところで、とても新規に動員をかける体制になく、もしドイツが再度挑戦したら、パリまで防衛線を引けたか疑問といえた。

東ヨーロッパでは戦争、または国境紛争が続いていた。しかし連合国にはもはや鎮圧する武力が欠けていた。フランスがラインランドの領有を主張し、英米の反対で取り下げる(ラインランドにフランス人はいなかった)と、国境の争点は東ヨーロッパと旧ドイツ植民地しかなかった。

だがドイツ東部国境を除いては、すでに新興独立国が多かれ少なかれ旧ハプスブルグ帝国の官吏の協力で立ち上っていた。そしてそれら各国はすでに国境紛争解決で武力行使を行っていた。国境線は旧ハプスブルグ帝国の行政区域を主に決められた。ブレストリトウスク条約とブカレスト条約は休戦協定後すぐ破棄された。しかしこれも白ロシアとウクライナがソ連に戻されただけで、実質は維持された。

難問はポーランド、ソ連(白ロシア)の国境線だった。イギリス人のカーゾンがポーランド人とロシア人の居住域を調査し、カーゾン線として示した。しかしポーランドは不満でソ連に武力で挑戦した。緒戦で破れたもののポーランド軍はワルシャワ前面でフランスのウエイガン将軍の助力があり押し返した。ポーランドはこうして始めから植民地を持ってスタートした。ただしモロトフ・リッペントロップ協約で再度カーゾン線により独ソの勢力範囲が決められると、スターリンは1939年10月カーゾン線以東を占領した。それで現在の白ロシア、ポーランド国境が決まった。

ポーランド軍

ドイツ東部国境はポーランドが西プロイセンとシュレジエン、ダンチッヒ(現グダニスク)の領有を求めたため始めから紛糾した。これらの地域はドイツ語が話されていた。ドイツ人はここに800年以上前から殖民していた。ただ都市でドイツ人が商業で活躍し(ハンザ都市連合のころから)内陸部ではスラブ系諸族がポーランド語を話していた。ここでウィルソンはポーランドの味方をする。ロイドジョージは民族自決に反するとして強硬に反対し、シュレジエンとアレンシュタイン(タンネンベルグ戦での戦場)周辺で住民投票の実施およびダンチッヒの国際連盟自由都市化(内政は住民の自治、当時100%ドイツ語会話地域、港湾利用権と軍隊の駐留権をポーランドに認める)を求めた。住民投票の結果は圧倒的にドイツ残留を希望しその通りになった。ただし上シュレジエンの一部は住民投票の結果にもかかわらずポーランドに編入された。(上シュレジエン全体ではドイツ残留希望だが、東部はポーランド帰属が比較多数のため)

ダンチィヒの問題が第2次大戦(ヨーロッパ)の直接原因だが、イギリスがドイツの側にたって解決に努力したことは忘れられたようだ。ドイツ人はこの東部領土の喪失を忘れることなく戦間期、執拗に回復を狙った。実際はこの地域では数百年にわたり混血が進み民族による区分は不可能だった。ただ言語と住民の意識では判別できるが、都市の優越性でドイツ語がどうしても有利となる。

現在はシュレジエンやポンメルンでドイツ語を話す人々は少数だが今後も問題となり続けるだろう。一般に貧しいとされる国や民族が領土拡張か回復を果たすと、旧住民や殖民者(!)の私有財産を無償で没収することが許されるようだが、これは良いのだろうか。

MAP(ドイツの分割)

国境線が旧ハプスブルグ帝国の行政区域で決められたのは、地域の合意がある程度あったということも忘れてはならない。例えばチェコはボヘミアとモラビアの2州が統合したものだが、ここは山に囲まれた盆地で、山が天然の防壁をなしていた。ところが山には高地ドイツ人が少なくとも有史以来住んでいた。ズデーテンである。このドイツ人がドイツ民族か否かは疑問が残る。ヒトラーの古い姓であるヒードラーは実はチェコ系の氏族である。ヒードラー一族はチェコ・オーストリア国境に長く住んでいた。かといってヒトラーの家系が長く高地ドイツ語を喋っていたのも事実である。

この山岳地帯は天然国境をなしていたから、チェコはズデーテンを失えば軍事的独立と産業基盤を喪失してしまう。ズデーテン・ドイツ人は産業活動でもチェコをリードしていた。人々は以前の支配者を民族の区分でなくかってに行政区域を作ったと非難する。ところがヨーロッパでは民族より天然の障害、河川とか山脈で普通は国境・行政区域が決まっているケースが多い。民族で国境を決めることの方が無理なのだ。

ありていに言えば、国境に従って、自ら信じる民族のところへ移動したほうが平和という観点からは望ましい。400万人のドイツ人と350万人のハンガリー人が自国外に突然放置されたが、後の歴史はそれらの人々が抹殺されるか、移住するかの選択だった。だが強制収容所で虐殺されたユダヤ人も600万人に達することも忘れてはならない。

このようにして東ヨーロッパの国境線は決まったが、戦勝国=5大国はほとんど関与していないのに驚かされる。またここで決まった国境は1990年代にいたるまでドイツ東部国境を除きほとんど変動がない。
またドイツ人を中心とするオーストリアはドイツとの合邦を求めた。だがフランスの主張、戦敗で領土・人口が拡張してよいのか、が認められた。

この領土取り決めは現在にいたるも失敗した線引きと理解されている。たしかにドイツ人居住地区は依然ドイツの域外にあるという点で不当にみえる。しかしドイツ人居住地区を一国に集中させると全ヨーロッパで最強国となるのは自明だった。民族自決を実現させるとヨーロッパは不安定になってしまう。ここにヨーロッパの根源的な問題があり、アメリカが参入してバランスをとる必要性が生ずる。

MAP(ヨーロッパ1924年)

ドイツの海外植民地は無価値だった。太平洋の旧ドイツ植民地は日本とオーストラリアが分割した。これは戦中にすでに日英間で決定されていた。赤道の南北で分けたが、オーストラリアはそれでも不満でアメリカに、アメリカの安全保障をからめて日本の危険性を訴えた。アメリカは早くからこの戦争で領土の拡大はしないと決めていたから、この論争に興味はなかった。しかしグアム、フィリピンが孤立するため(以前から孤立していたのだ)日本に南洋群島に軍事基地設置をしないことを求め、了解された。10年後旧海軍は姑息にも文民政府を無視してトラック島を中心に大基地網を作り上げる。

またオーストラリアはこの論争を忘れず、本国にアメリカと共同して日英同盟の破棄を主張し、実現にいたる。オーストラリアは東ニューギニアを版図にいれた。これは面積として最大の利得でまた天然資源(あとで発見されたものが多いが)でも最良だった。それでも植民地がまた植民地を持ってよいのかという疑問は残る。だが植民地経営の常として、オーストラリアは独立運動ではなく部族対立、治安悪化に悩まされ、国庫に一度として税収になることはなく、また独立後の現在にいたるも補助金を支払い続けている。

MAP(太平洋の分割)

このようにアメリカの主張した民族自決は表面的にはフランスの反対を押し切る形で公理として認められ定着した。このため英米はフランスに他の点で妥協さざるを得なくなった。すなわちドイツの武装解除と賠償金である。

賠償金

賠償金は例がない戦争結果で混乱した。戦闘で破壊された地域はフランスとベルギーに集中していた。戦勝国が一方的に民間被害を蒙ったというケースはあまりなかった。普仏戦争でドイツはフランスから賠償金を得たが、これは戦争被害とは関係がなかった。フランスとベルギーは新概念の民間賠償を要求した。具体的な金額はこの会議では決定されず、賠償委員会に委ねられた。

賠償委員会は1921年4月27日、賠償金額1320億金マルクを決定した。ケインズはこの金額1320億金マルク(当時1金マルクは0.25USドルと等価、1919年から現在1990年のインフレ減価を22.9倍と単純に計算すると、現在価値ではほぼ7600億ドルである。)を非人道的と非難した。当時のドイツのGNPの20年分に相当したと考えられ空虚な数字としかいいようがない。そもそもいくら民間被害とはいえ、金額算定根拠が疑われる。

フランスは軍人恩給から、孤児基金・鉄道復旧費用まですべて要求した。だが実際に計算したのはアメリカ人のダレス(第2次大戦後の国務長官)だった。ダレスは孤立主義的傾向の強い人物で、フランスの肯定を得るため、数字を水増しして早めに終わらせ後はヨーロッパ人に任せれば良いと考えた節がある。

その時同時にフランスはベルサイユ条約116条を援用して、ソ連にドイツにたいし賠償を要求させその資金で、自らの帝政時代の貸付金を回収しようとまで計った。これでは信頼関係を意図的に破壊するとしか思えない。

数字自体はアメリカ人につきまとった。金額の減額は戦後フランスも含めて常識とされ、減額交渉のたびにアメリカ人が呼ばれた。ドーズ案・ヤング案と数字は減額されてゆくが、ドーズ・ヤングともにアメリカの民間人である。

さらに、アメリカは大戦の終了とともに連合国への貸付け金の支払い猶予を停止し元利金ともの支払いを英仏に求めた。英仏は外貨準備が枯渇していたからドイツからの賠償金でそれに充てた。だが実際のところ1920年から1929年まで通算で50億金マルクが支払われただけだった。ドイツも外貨があるわけではないから、アメリカからの新規借り入れでまかなった。最後はドイツの1930年代の支払い停止で幕を閉じ、アメリカの貸し倒れで終了した。第2次大戦後西ドイツ政府はヤング案にもとづく賠償のみ支払いを再開し、1987年に終了したといわれる。

軍備制限

賠償金はばかげたものだったが、ドイツの軍備制限も同じだった。始め徴兵による常備軍20万人、とフランスが要求したが、イギリスは徴兵という言葉におびえ、志願兵の10万人に決まった。実際はドイツのゼークト参謀本部は10万人をほとんど全員を訓練教員扱いの士官・下士官とし、30個師団の軍がすぐ作れるようにした。このほか砲・機関銃の種類、数も決められた。タンクと航空機の保有も禁止された。しかしドイツはソ連とラッパロ条約の秘密協定でこれら武器の技術供与とソ連国内での技術開発を取り決め空洞化させた。重要なのは軍備を制限しても、それをドイツに強制する方法を連合国は持ち合わせなかったことである。

ラッパロ条約

また軍事上の安全地帯として、ラインラントは15年間連合国が駐留し、一切の武装施設が禁止された。またザール炭田地帯はフランス北東部の故意による破壊の代償として、同じく15年間フランス軍が駐留することになった。

国際連盟

そして国際連盟の提案が現実化された。ロイドジョージは国際連盟の提案をうけすでに詳細な案を準備していた。一方ウィルソンは14ヶ条提案で国際連盟の原型をなす提案をしていたが、具体的腹案はもたなかったためこの案に飛びついた。国際連盟はこうしてイギリスの独壇場となって進められた。イギリスが恐れるのはアメリカだけで、他の国は意見を聞くにとどめている。またベルサイユ条約そのものもそうだが、規約本文が英語だった。外交文書であるから、小さな語句たとえばSHALLかまたはMAYかという問題で英米が討論をはじめると他国は参入できる余地がなくなる。

しかしイギリスにもアキレス腱があった。その帝国である。国際連盟にカナダ・オーストラリアや南アフリカがはたして他国と同等の資格で参加できるのだろうか。すでにカナダ軍団やANZAC部隊の活躍で本国政府はこれら諸国を無視できないところに来ていた。ところが日本やアメリカにとりこの半植民地の独立国家は有害な面があった。とくにオーストラリアと南アフリカは極端な人種差別国家だった。そして半独立を前面に出して独立国家としての責務を放擲しているように見えた。自由貿易がテーマになったとして、貿易商が訪問するのに人種でビザが発行されないとしたら、その国は貿易パートナーとして認められるだろうか。これらの国はナチが内国民待遇を一時滞在の外国人すべてに認めているときにすら、それを認めなかった。恥ずべきだろう。

しかしこれらの国も英語族だから、国際連盟の官僚の多くは、イギリス系諸国人で占められた。アメリカの不参加によりそれは極端となり、すべてのミッションのトップがイギリス系人によって占められ日本、ドイツ、イタリーの潜在的不満を招いた。後年の国際連盟の失敗とおそらく国際連合への不満はすでに内蔵されていた。

国際連盟

またイギリスは帝国のイギリスと欧州のイギリスに分裂しついに収拾がつきかねた。国際連盟がウィルソンの理想主義にもとづいていたから、今ジュネーブにある国際機関はこのときできている。たとえばILOは労働者の権利を調整するための機関である。ところが当時、日本では労働関係法規が未整備だった。組合も産業別か会社別が混沌としていた。政府は労働組合の設立に消極的とはいえないが、産業別にするには時間がかかりすぎると、みていた。ILOはところがイギリスの自由党の線に沿って、福祉重視・スト弾圧を旨とした。これはヨーロッパでは通用するが他の地域では難しい。これをイギリス人は先進しているか、遅れているかにとった。

アメリカが国際連盟に不参加を決めた以降、日本は歴史からくる社会の仕組み違いを単独で処理するハメに陥った。ベルサイユ条約の労働者関係の405条はこのように日本の反対で大きく改変された。日本はこの時の不満を現在まで維持していて、ILO関係の勧告はほとんど批准していない。

イギリスは国際連盟を自国の安全保障の中心に据えた。これはフランスとの同盟を形骸化させる危険性を孕んでいた。フランスは国際連盟を横目でみて、ロシアにかわる東ヨーロッパ有力国と軍事同盟を組むことになる。結局ポーランド・ルーマニア・チェコ・ユーゴの四国と軍事同盟を結び、ポーランドを除く三国は小協商国(リトルアンタンテ)と呼ばれるようになる。

イギリスはヨーロッパへの関与で、帝国の維持と両立が困難となる。また日本やポルトガル、ベルギーなど古くからの同盟国との関係が希薄となった。これら3国は第2次大戦では中立か敵対した。イギリスは欧州では帝国でなく国民国家だから、国民国家色が強くなれば、帝国の存続は困難になる。イギリスは欧州内でもフランスとは路線が違っていたから、結局ドイツが台頭するとフランスの犠牲で妥協を計ることになる。

イギリスを除いて国際連盟主義の国はついに現れず、イギリスも強硬措置はいつも手控えた。これは共和主義者がいないワイマール共和国と同一の運命というべきだろう。ここでも自由党主導によるイギリス外交の失敗が目立つ。

東ヨーロッパの国境線、ドイツの軍事制限、賠償金と国際連盟の案件が事務方にうつると、問題はイタリーの要求するフィウメ問題に集まり、ウィルソンはその解決に忙殺された。ウィルソンは新生ユーゴスラビアに港湾は必要だとして、イタリーの要求をついに認めなかった。だが結論は出ず、両国間の交渉にまかせるということで決着された。しかしイタリーは1924年武力をもって、フィウメを奪取する。

フィウメ問題

この線引きで問題を複雑にするのは都市である。一番極端なのは、トルコ領のエーゲ海沿岸で起きた。ギリシャ人は少なくとも2千年間エーゲ海を行き来する商業の民だった。このため小アジアの中小都市にギリシャ人は多く居住した。ところが都市をとりまく地帯は完全にトルコ人の地域だった。これら都市の帰属をめぐって両国は1921年戦争を開始した。戦いはケマルの指揮するトルコ軍が圧倒的に優勢だった。講和条約で、小アジアにいるギリシャ人は強制的にギリシャ本国に移住させられた。反対にギリシャ本国に住む少数のトルコ人はトルコに帰還した。強制移住させられたギリシャ人は120万人に達し、当時人口450万人のギリシャ本国に大きな混乱を与えた。

またもう一つは軍事上、陸軍の移動速度が鉄道の発達で、海軍をはるかに上回ったことである。このため散在する河川都市や港湾都市の防衛は事実上後背地に支えられないかぎり、不可能になった。東ヨーロッパでは内陸都市でも同様の問題が起きた。東ガリシアはハンガリーの植民地の性格があり、ハンガリー王国の一部だった。ところが中心都市のレンベルグはドイツ語を話すポーランド人が多く居住していた。ところが、農村はルテニア人(東ウクライナ人)が住み、土地はハンガリーの貴族が多く所有していた。この一帯の帰属をどうすればよいのだろうか。(1890年人口12万人のうちポーランド人が多数派だが7を越える言語とキリスト教のあらゆる宗派の教会、イスラム寺院、ユダヤ教会があったという。)

人は連邦にすればよいという。しかしこの解決策は小戦争の一里塚である。歴史的に一体感がない人々を連邦に包摂することは帝国の亜流にすぎない。場合によれば、少数民族は国政に民族を持ち込み独立党、分離党を名乗りはじめる。すると民主制による国内政治が成り立たなくなる。でなければ指導民族による、絶え間ない弾圧である。チェコスロバキアとユーゴスラビアがこの間の事情を物語る。残酷なようだが強制移住が将来に禍根を残さない方法にみえる。だがこれは戦争の結果でなければ実行しづらい。

10人委員会

5月中旬ベルサイユ条約と呼ばれることになる草案は完成した。だがこの後も10人委員会は国際連盟理事会が立ち上るまで残存し、いくつかの重要な決定を下す。そして連盟理事会ができた時はアメリカは参加しなかった。このため、10人委員会の決定の方が重みをもった。

6.28 ドイツがベルサイユ条約に調印

8.15 ルーマニアにハンガリー領の調整を行うことを通告
     
8.22 ハンガリーのヨセフ大公に退位を勧告         
     
9.27 ドイツにクールランドからの撤兵を要求   
     
10.16ドイツとバルト3国にロシアへの封鎖に加わることを勧告
     
11.7 ルーマニアにハンガリーからの撤兵を要求 
    
11.21ポーランドにガリシアの25年間の統治権をあたえる
     

このように戦勝国の権利のように、主として東ヨーロッパについての各種処分を行った。これも実は異例の措置である。当事者が紛争を引き起こしていたといえば事実だが、当事者が解決に参加することなく、一方的に英仏の意思で決められたように見える。

実際はフランスのポーランド支援の底意で、ことが進んでいた。またあまり利害関係のないアメリカと日本はポーランドの応援をした。日本は日露戦争の際、指導者のピウスツキーと親密だった。またピウスツキーの弟は日本研究家とくにアイヌ語の専門家だったが、その縁によるものだろうか。またあるいはソ連にたいする牽制を期待したのかもしれない。アメリカの支持は判官贔屓かシカゴの票かよくわからない。ところが、このピウスツキー独裁下のポーランドは決して、誉められたものではない。

軍事力のみに注力し、また新興の国家にありがちな野郎自大なところがあり、フランスはポーランドのマダガスカル割譲要求に悩まされた。ポーランドのような大国は植民地をもつ必要がある、と主張したという。また、ヒトラーの台頭で軍事上のアドバイスをフランスが行おうとすると、1週間でベルリンを占領してみせる、というのがいつもの回答だった。実際はドイツの侵攻で1週間でワルシャワを占領されたのだが。

このポーランド問題が最終的にヨーロッパの息の根、それとたぶん日本のそれを断つことになる。フランスはドイツの背後からの攻撃を期待したのだろうが、帝政ロシアの代わりはやはり無理だったようだ。



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Zimmern,A.,The League of Nations and the Rule of Law 1918-1935, London, 1936
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