パレスチナ戦線は、実質イギリスとトルコの戦争である。戦略的にはスエズをめぐるもので、イギリスにとり極東・インド・豪州との交通路確保がかかっていた。トルコ軍の補給は、イスタンブール方面から鉄道で、イギリスがエジプト経由なのに比較して不利だった。またこの戦線以外にイギリス・トルコはメソポタミアでも戦った。こちらは終始トルコが優位に戦いを進めた。
メソポタミア戦線
注意して欲しいのは、現在とはこの地域の人口・自然が極端に違うことである。トランスヨルダンを境として南部は砂漠地帯で北部は温暖な緑のある地形だった。現在のイスラエルの版図に人口は15万人しかいなかった。
現地での徴発は不可能で、補給をいかに維持するかが重要だった。イギリス軍は騎兵を戦いの中心に据えた。トルコ軍はラクダを中心とした兵站部隊があったが、耐久性はともかく速度では馬に劣る。またイギリスの騎兵隊は戦闘直前に馬からおりて機関銃等をかまえる歩兵となった。つまりイギリス軍は足の速い歩兵をもったことになる。
トルコに対する連合国の宣戦布告は1914年11月1日だが、戦闘はなかなか始まらなかった。イギリスは従来トルコの宗主権を認めていたエジプトを保護国と宣言し、また管理権を得ていたキプロスを併合すると宣言した。

戦闘は1915年2月、トルコ海軍大臣ジェマルの指揮するトルコ海兵隊によるスエズ運河への攻撃から開始された。トルコ軍はシナイ半島を横断して来寇したもので、これは簡単に撃退された。トルコ軍の被害は約2000人と言われるが、そのうち716人は捕虜だった。それから1年半、1916年8月まで戦闘は発生しなかった。
事情は、トルコがヘジャズにおけるアラブ人の反乱に悩まされたためであり、イギリス人が陰で応援しているものだった。イギリス軍はこれに呼応してシナイ半島に地歩を進めた。1916年8月、ドイツ人参謀クレッセンシュタインに指揮されたトルコ軍がこのイギリス軍の前進陣地に攻撃をかけた。この攻撃もトルコ軍の敗退に終わった。
1917年に入るとイギリス軍の本格的な反攻が開始された。1月8日マレイに率いられたイギリス軍はマグルンテインの戦いでトルコ軍陣地を突破、シナイ半島全域を占領した。パレスチナに入る最初の関門はガザだが、3月から間歇的な戦いとなった。4月19日、イギリス軍は3個師団をもってガザに突入したが、撃退され更に反撃を受けた。イギリス軍は6500人の損失を出し大敗した。
攻撃は失敗し包囲の形勢となった。
1917年6月、マレイはアレンビイと交代し、率いる軍もエジプト遠征軍(EEF)と改称された。
トルコ軍の布陣は海岸から第8軍、第7軍、第4軍だったが、いずれも2個師団程度の構成であるが、補給に苦しみ兵員の充足率は低く第4軍は5000人程度までに落ちていた。
10月に入りアレンビーは攻勢に出ることを決意した。騎兵隊をもってトルコ第8軍と第7軍・第4軍の中間地帯を突進した。トルコ第7軍は補給が困難なうえ、アラブ人ゲリラ部隊に悩まされ、早急に撤退した。第8軍もたまらず、ガザから海岸線をたどり、北部へおちのびた。
この敗勢に驚き、ドイツからファルケンハインがこの地のトルコ軍の指揮官に任ぜられたが、頽勢を挽回することができず、アレンビイは12月9日、パレスチナの首都、エルサレムを陥落させた。これは1917年の連合国の唯一の勝利であり、とくに西部戦線の士気向上に役に立つことになった。
無法者としてのアラビアのロレンス
1918年に入るとイギリス軍は西部戦線の戦況悪化により部隊の縮小を計らざるを得なくなった。しかし、内陸部ではローレンスに応援されたアラブ人ゲリラ部隊がついにヘジャズ鉄道の切断に成功し、メディナに主力を置くトルコ第7軍は危機に陥った。
アレンビイ
9月19日、アレンビイの少数の騎兵隊は撤退中のトルコ第7軍の側面を攻撃壊走させた。これは中東でイギリス軍があげた戦果で最も赫々たるものだった。(メギットーの戦い)
トルコ第7軍・第4軍は壊滅的打撃を蒙り、全滅した。しかし海岸線に陣どるトルコ第8軍は指揮官がケマルに代わると、従来の攻勢姿勢を改め一旦シリア・アレッポまで撤退し、そこで塹壕を築き陣地戦で臨むことになった。
シリア南半部は無人となり、10月1日イギリスの騎兵部隊とアラブ軍(ファイサル・ローレンス)はダマスクスに入城した。
ダマスクスに入城するイギリス軍騎兵部隊
英仏は秘密協約(サイクス=ピコ協定)によりシリアをフランスの支配下に置くことを約束していた。フランス連絡将校の到着は遅れる一方、アラブ軍はフランス支配を肯んぜず命令に従うことを拒否した。アレンビイは10月18日、アレッポに篭るトルコ軍に降伏を要求した。ケマルは拒絶し、市街戦が開始された。しかしそれは陽動でトルコ軍は後方の塹壕に篭り本格的な抵抗を開始した。アレンビーの騎兵隊は初めて用がなくなった。
サイクス=ピコ協定
10月31日、トルコとの休戦協定が発効した。ケマルは全軍を率いて粛々と撤退した。これは西部戦線以外で唯一連合軍の休戦協定前後の理不尽な攻撃をかわした例だった。
この戦闘はイギリス軍が唯一トルコ軍に勝利した戦いだが、馬対ラクダの戦いで補給の優劣が最終的にイギリス軍の勝利をもたらした。すなわち馬は糧秣・水など大量の補給が必要だが、海岸線から離れず、補給路を確保したのがイギリス軍勝利の原因と思われる。またシリアに入ると砂漠地帯から緑野にかわり少なくとも水は問題なく、騎兵は内陸に進むことができる。トルコ軍の失敗はイギリス軍の弱点(馬)に気づかず、パレスチナで内陸に引きこむことに失敗したためである。
シリアに近づけば、馬の方が格段に優勢となる。メソポタミアと違いここではドイツ人がある程度指揮をとったため主戦場を海岸近辺に求め、有力な軍も配置した。これが戦略的な失敗につながった。ドイツ人はヨーロッパの草原で戦うのと同じ気持ちになったのだろう。メギットーでドイツ人顧問団の多くが戦死しケマルが指揮をとるとトルコ軍が善戦し始めたのはそのためである。
ただトルコ軍は公称300万人を動員したとしているが、実数は200万人に満たなかったと推定される。帝国の人民のうち、トルコ語を喋るのは元来半数に過ぎなかった。また、パレスチナへは単線のヘジャズ鉄道しか補給路がなく、ここで攻勢に出たことは失敗だったろう。初めからシリアで防御姿勢をとるべきだった。後半、トルコ軍は補充兵が到着せず、パレスチナの3個軍は1個師団の実力もなかった。

Kearsey, A.H.C., The Operations in Egypt and Palestine, 1914
to June 1917, Aldershot, England, 1932
Tauber, Eliezer, The Arab Movements in World WarT, London,
1993
Lawrence, T.E., Revolt in Desert, London, 1927
;The Seven Pillars of Wisdom, London, 1935
Wavell, Field-Marshal Earl, The Palestine Campaign, London,
1928
に戻る