1916年12月12日、ドイツ首相ベートマン・ホルベークは議会の演説で、中立国で休戦交渉を行う提案を連合国に示唆した。3日後、フランスはベルダンでニベルの指揮の下、大攻勢に出た。攻勢は成功し1万人以上の捕虜と、9ヶ月間の失地すべてを回復した。ニベルは英雄となり勝利宣言をした。
12月20日アメリカのウィルソン大統領はベートマン首相の提案をうけ、英仏両国に休戦のための条件提示を求めた。12日前にイギリス首相になったばかりのロイド・ジョージは「我々は揺らいだ信念より揺るぎのない陸軍に信を置いている。」といって一蹴した。12月26日フランス首相ブリアンはジョフルを元帥に祭り上げ、実質的な権力を奪い去った。後任にニベルが指名された。
ヒンデンブルグ線への後退
ニベル
しかし、この政治家の交歓の背後でルーデンドルフの土木工事が進んでいた。この2年半の戦いで、西部戦線ではいたるところ突起部が生じていた。ルーデンドルフはこれを直線にし防御の負担を減少させようとした。主にロシアの捕虜が動員され、5ヶ月をかけ工事は完成した。幅7kmで150kmに及ぶ防御線がアラスからエーヌ川まで伸びた。この防御線を連合国はヒンデンブルグ線と呼び、ドイツはジーグフリート線と呼んだ。
この塹壕線は当時の水準からみて、恐るべきものだった。地下20メートルに達する掩蔽壕、要所にしつらえたコンクリート製の機関銃座、何重にもいりくんだ交通壕・トンネル、補給デポまでの軽便鉄道で構成された。
3月16日ドイツ軍は一斉に後退、ヒンデンブルグ線の守備についた。そして以前の防衛線との地帯は組織的に破壊された。鉄道施設はおろか全ての家屋は壊され、井戸は埋められるか毒が投げ込まれた。そして、果樹園の木まで抜かれたという。
ドイツ人はこの地域に何の愛着もなかった。防衛線を短縮、強化することで、数個師団の節約は可能だろう。これを着想し実行したルーデンドルフの戦術眼は確かなものがあろう。しかしこういうことを実施した人々に愛情をもつことはできない。この焦土作戦に反対したのはルプレヒト王太子(バイエルン)だけだったという。
灰色部分がドイツ軍後退地域
ルーデンドルフは1916年8月から実質的に参謀本部を牛耳ったが、1918年3月からのカイザー戦まで1年7ヶ月全く東西両戦線で攻勢のイニシアチブをとらなかった。1917年の9月に東部戦線のリガで攻勢に出ているが、これはレーニンを使った謀略の一部というべきだろう。またブレストリトウスク条約調印前の攻勢も敵は存在せず、攻勢とはいえない。
これは出来るようでなかなか出来ないことである。攻勢側より守備側のほうは被害が少ないという考え(これ自体は通常正しい)に立脚している。
ルーデンドルフの悪魔的天才は認めざるをえない。しかもこれは将校・下士官の被害を軽くした。前からだがドイツは交戦国で唯一将校・下士官が最前線にたって行動することを禁止していた。これにより下級将校と下士官の生存率が群をぬいて高かった。反面兵士は他国と変わらない。この方法は第2次大戦以降各国ともとりいれており正解なのかもしれない。
兵士は補充され入れ替わった。しかし、将校・下士官はそのままである。これによりドイツ軍は兵士が投降しがちになるという問題をかかえた。最終局面では厭戦意識と交じり合い敗戦の糸口となった。また戦後、除隊となった将校・下士官は新たな問題を引き起こした。
英仏両国では春季攻勢をめぐり激論がかわされていた。新任の首相ロイドジョージはBEF司令官ヘイグの作戦に全く信をおいていなかった。その人的被害に無感覚なやり方は首相としての我慢の限界をこえていた。
ロイドジョージは1月15日ニベルをロンドンに招待し春季作戦について説明を求めた。ニベルは熱弁を英語でふるい、閣僚に好印象をもたせた。
ニベルはフランス国民に「勝利の秘密を知っている」と公言した。ニベルの秘密は「這う砲撃」というもので歩兵と砲兵の共同攻撃に特長があった。砲の弾着を前進させ、その精度の高い連続射撃で敵に頭を下げさせ、歩兵の突撃で敵の前進壕を奪取する。このため3ヶ所程度の狭正面を設定し突破を図り、その後無傷の後方にある戦略予備隊で戦果の拡大を狙うというものである。
ヘイグを除き、この提案はBEFのこれ以上の成果があがらない出血を食い止められるというので歓迎された。ただフランス軍の準備の必要からBEFの守備線を延引する要請がなされた。この延引の幅をめぐり議論が続いた。
2月26日両国政・軍首脳がカレーに集まり最終的な春季攻勢の意見一致が計られた。ヘイグとロバートソン参謀総長の反対にもかかわらず、攻勢期間中BEFはフランス軍、ニベルの統制下に入ることで決着した。
ビミーリッジの戦い
4月9日、BEFはアラスで陽動作戦に出た。イギリス軍は2817門の大砲と迫撃砲で4日間の間断ない射撃のあと歩兵の突撃に移った。ドイツ側の守備は第6軍(ファルケンハウゼン)が担当していた。これにたいし約3倍の3個軍90万人の大軍で攻勢に出た。初日の突撃部隊だけでも20個師団30万人でイギリス軍が充実していた時だった。
北から第1軍(ホーン)第3軍(アレンビー)第5軍(ゴウ)で、とくに第1軍のビミーリッジの攻略が最大の眼目だった。ビミーリッジはこの辺では一番の高地で戦略的価値が高かった。この戦い自体もビミーリッジの戦いとして記憶されることになる。
準備は周到になされ坑道による地下での爆破、また突撃点までトンネルが掘られ、そこには3500人収容の地下室まで作られた。
中央第3軍(アレンビー)はとくに好調で初日で5000人をこえる捕虜をえた。また季節と硬い表土に守られ、タンクが活躍した。ルシタニアと名づけられたタンクは次から次へとドイツの機関銃ポストを破壊したという。
ビミーリッジで戦った日本人
翌日午後になり、ようやくドイツの司令部付きの戦略予備が到着し、イギリス軍の一方的な進軍は止まった。しかし、4月12日第1軍のカナダ部隊はついにビミーリッジを攻略した。それでもイギリス軍の被害はすさまじく1週間で4万人以上の戦死者を出した。またドイツ軍の捕虜は2万人に達したという。旧来型の攻撃、すなわち奇襲でなく西部戦線で4マイルの深度で突起部を作ったのは希である。陽動作戦は成功した。次はニベルの番だった。
ニベル攻勢
ニベルはフランスの第6軍(マンジン)と第5軍(マゼル)を完全に攻撃専門部隊とした。直協部隊は後方におかれ、攻撃部隊が6マイル進んだあとに入れ替わる予定だった。
攻撃地点はエーヌ川沿いのシェマンデダームからランスまで25マイルが選ばれた。そこに初日から20個師団38万人が投入された。またこの日、はじめてフランス製のタンクも登場させた。空にはドイツの誇るリヒトホーフェンの指揮する航空隊「空飛ぶサーカス」に対抗しフランス航空隊180機余りを投入した。
ところがドイツ側はこのフランスの攻撃を事前につかんでいた。準備砲撃が7日あり、察知できたのと、攻撃計画を事前に入手していた。とにかく攻勢案を議論しすぎていた。ドイツ軍はここに第1軍(フリッツ・ベロウ)と第7軍(ベーム)を配置し万全の構えで臨んでいた。
MAP(ニベル攻勢:シェマンデダーム)
攻撃は初日からつまずいた。6マイルの予定が600ヤード進むすなわち無人地帯を突破できなかった。それでも1万人の捕虜を得たが、仏軍の被害は5万人を越えた。そのまま現地点で攻撃部隊は夜を迎えた。天候もフランス兵に利がなくかなりの雪だった。翌日からは泥濘との戦いが加わる。
ネビルは攻勢が思わしくないのを察知し、予備の第4軍(アンソイン)をシャンパーニュで別方向に投入した。アンソインの攻撃はそこそこ成功したがそれだけだった。
4月21日にはいりニベルは戦略予備をすべて投入することにした。その時戦略予備軍司令官のミシェリーが止めにはいった。
4月23日にはポアンカレ大統領自ら教書をおくり、これ以上の攻撃はフランス軍の崩壊をもたらすと警告した。この日までに3万人以上の戦死者、10万人の戦傷者、4千人の捕虜を出していた。しかしニベルはあきらめず新攻勢を別の地点で行うことを提案した。しかしニベルを除き攻勢の延期を誰もが主張した。
4月29日にはいるとムーメロンルグランで初日の攻撃部隊のなかから、再度の攻撃を拒否する連隊があらわれた。大多数は憲兵の手で前線におくられたが、20名は拘束され、軍法会議にかけられることになった。
さすがにニベルも攻勢の失敗を認めざるをえなくなった。ニベル攻勢自体のフランス軍の被害は実はそれほど大きくない。以前ジョフルが実施した2度のシャンパーニュ戦のほうがひどかった。しかしニベルは事前に戦果があがることを公言した。そして失敗した。
フランス軍の反乱
フランス軍の動揺は5月にはいり全部隊に広がっていった。多くは将校に攻勢をかけても無駄だと説き伏せるのが多かったがなかには三色旗にかわり赤旗をかかげるのも現れた。この戦いには以前ロシアから送られた2個旅団も参加したが初日で6千人の被害を出した。5月にはいり片方は臨時政府を支持、もう一方はボルシェビキを支持し、分裂し抗争を始めた。両旅団ともフランス中部の後方におくられた。
フランスに派遣されたロシア旅団(REF)
5月15日ニベルは更迭され、ペタンにかわられた。しかし軍隊の反乱は収まる兆しがなかった。5月28日には第36歩兵師団がシェマンデダームで前線に行くのを拒否、60名はかわりにパリに向かった。うち14名は軍法会議にかけられた。
ペタン
そして6月2日にはある連隊がミシーオウボアの町全部を占領し「反戦政府」を樹立した。ペタンのとった処置はすばやかった。
ただちに23385人を逮捕した。しかし実際に軍法会議にかけられたのは400人程度だった。400人は死刑を宣告されたが、銃殺されたのは50人で残りは、仏領ギアナ他におくられた。
ペタンは休養ローテンションの改善、休暇の増加、食事の改善を即実施した。6月18日各級司令官に次のような通達を出した。「(反乱を鎮圧するために)必要な措置は厳密に実施されなくてはいけない。しかしこれが3年有余にわたり塹壕でともにした兵士に適用されることを忘れてはならない。兵士は我々の兵士なのだ。」
反乱は6週間で跡形もなく消滅した。ペタンのどの処置が功を奏したのかいまだに疑問とされている。ある歴史家は「驚くほどのスピードで反乱は沈静化した。だがペタンのどの処置が長く過酷な状態におかれまた危険な戦闘にさらされた軍隊をなだめるのに有効だったのだろうか。」と書いている。
またドイツ軍がなぜこの機会を利用して攻勢にでなかったのかという疑問もある。これは単純でルーデンドルフは介入がむしろ敵の統一を招くことをよく知っていたからにすぎない。ロシア革命でもルーデンドルフは高揚したときに攻勢を注意深く避けた。
フランス兵は部署に戻った。そして防御に徹するかぎり信頼のできる軍だった。しかし突撃命令をだして果たして命令に従うかは、どの将軍も自信をなくした。これ以降はドイツとフランスが防御に徹するとなると、イギリスがイニシアチブをとらざるを得なくなった。
チャーチルは第2次大戦の回顧録でペタンを非難する。独仏戦の敗北後分離和平を企みビシー政権の首班となった点は批判をうけてもやむを得ない。しかしペタンは第1次大戦のときから敗北主義者だったと非難している。これはどの点を指しているのだろうか。あるいはフランス政府とは別に分離和平を考えたのだろうか。
ペタンは反乱沈静後、『アメリカ人とタンクを待とう』 と呼びかけた。
これで大戦開始時の攻勢第一主義者はいなくなったようにみえた。だが、イギリス遠征軍司令官ヘイグはその信念を変えないというより、信念ではなく戦場の道徳と信じているかのようだった。ビミーリッジの勝利で自信は更に深まった。フランス軍の反乱時も冷静にドイツ軍の目先を変えるのに努め、イープル付近で攻勢を維持した。
6月4日、メシヌ−ウィシャッテリッジで大爆発が起きた。これはイギリス軍工兵部隊が2年半をかけて準備したものでドイツ兵が第1次イープル戦で占領したリッジ群の真下を坑道で掘り進んだものだった。
爆発物は19基、全500トンに及んだ。地下30メートル以下を掘り、距離は一番長いもので4kmに達した。爆発音は遠くロンドンの首相官邸で聞こえたという。ドイツ兵の死者は1万人以上に及びその後の砲火もあって、7千人を越える捕虜も得た。リッジ群も簡単に占領できた。しかしこれは別の疑問も生じさせた。
2年半の準備と4kmの坑道ということはベルリンまで達するには、一体どの程度の努力が必要か、と。

McKee,A., Vimy Ridge, London, 1966
Macksey,K.,The
Shadow of Vimy Ridge, London,1965
Goodspeed,
DonaldJ.,The Road Past Vimy: The Canadian Corps, 1914-1918,
Tront, 1969
Williams, J., Mutiny 1917,
London, 1962