マルヌ会戦

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フロンティアの戦いはドイツ軍の圧勝で終了した。ドイツ軍大本営(OHL)は敗残の敵を追いつめるべく追撃命令を出した。

左翼ではルプレヒトの第7軍と第8軍がナンシーを目指し南下するがフランス軍はモーゼル川沿いとりわけシャルマ渓谷で防戦し、激戦が繰り返された。ここを突破されると敗北が確定することを知っているフランス兵は一歩もひかず、防衛に成功した。

このように左翼また中央は8月25日セダンを奪われたものの戦線は膠着、両軍ともベルギーを突破して進むドイツ軍右翼の動向に関心が集まった。形として、両翼包囲は不可能となりシュリーフェンが予想した通りとなった。

シュリーフェンプランの方針でいくとすると右翼に兵力を集中せねばならないが、ここでドイツ軍に決定的に不利な条件が発生した。

第一にベルギーの軍民が国内の鉄道を破壊したため左翼から右翼への輸送が困難となった。
第二に逃亡に成功したベルギー軍がアントワープに立てこもったためその抑えとして2個軍団が必要となった。
第三に東プロイセンにロシア軍が侵入し2個軍団を急派する必要が出てきた。

両軍配置情況

第二と第三の理由により4個軍団がさかれ、うち3個は第1から第3軍すなわち右翼からまかなわれた。これはほぼ1個軍に相当し戦局を左右した可能性がある。第三の理由については小モルトケの失策でほぼ弁解の余地がない。また第三をやったとして左翼からおくれなかったかという疑問が残る。左翼はバイエルン兵のため無理だったのだろうか。また突っ込みすぎで後方との補給線が厳しかった可能性はある。

 一方フランスの方は自国内の戦いとなった。アルデンヌの霧の中とかベルギーの炭坑町でなく部隊のなかには戦場となった町や村の出身者がいた。撤退中でも道に迷うことはなく、補給や欠員の補充に問題はなかった。

8月24日ドイツ軍右翼がフランス領内に進入した。仏軍最左翼にあるイギリス遠征軍は後衛を配置しながら全速力で退却していたが個々の部隊で道に迷うケースが多く、第1軍団(ヘイグ)と第2軍団(スミスドリアン)の互いの連絡が出来ない状態となっていた。また総司令官のフレンチもモンスでの隣接するフランス第5軍(ランレザック)の無断退却に憤り、また陸相キッチナーの予想した通りのドイツ軍右翼の強大さに圧倒され、戦意を失いつつあった。このままイギリスにかえり、海峡を挟んで対峙した方がよいとさえ思い始めた。

MAP(マルヌ会戦まで)

一方フランス軍唯一のドイツ軍右翼の進行を阻もうとする第5軍(ランレザック)は、オアーズ河畔のギュイーゼで、ドイツ第2軍(ビユーロウ)に対し8月27日反撃にでる。とくにデスパレの第1軍団の攻勢はすさまじくドイツの誇る近衛軍団をオアーズにかかる橋梁で撃退し、橋の上はドイツ兵の死体で埋まったといわれる。しかしこの戦いも両脇を支えるイギリス遠征軍とフランス第4軍が後退を続ける中、孤立したものにすぎず、夜撤退命令が出される。

ドイツ軍の強大な右翼にたいし、イギリス遠征軍と第5軍で支えるのはどうみても無理でありジョフルはやつぎばやに強化策をはかる。まず行われたのが各級の司令官の更迭だった。8月30日、第4軍のルフェイが革職され、サレイユがとってかわった。ジョフルにとり作戦の失敗で犠牲者が必要だったのだろうか。9月3日にはランレザックが、デスパレにかわられた。

これはランレザックがシャルルロアで下した決断、撤退だが、を考慮すれば不当と言わざるを得ない。この第5軍温存によってドイツ軍右翼はそれを追っかける形となり、次のマルヌの会戦に重大な影響をおよぼした。ただランレザックの失敗として、イギリス人とくに司令官のフレンチと不仲であった。戦後だいぶたってフランス政府はこの代償行為として、ランレザックにレジオンドヌール勲章を授与した。

9月15日までにジョフルはこのように2人の軍司令官、10人の軍団長、38人の師団長を更迭した。この中には無論不当なものもあったに違いないが、昇進したなかにはフォシュデスパレペタンが含まれ、フランスを代表した将星がいた。この入れ替えはフランスならではかもしれないが、正の効果もあったのだろう。

次に行われたのが、編成替えで新たに2個軍が作られた。一つは第1第2軍と第3第4軍の空隙を埋めるために臨時に組成されたロレーヌ軍(モーノーリ)を第6軍として拡大し、イギリス遠征軍のさらに左翼においた。この軍はパリからの反撃で決定的な役割を果たす。

 8月28日、第9軍が新設されフォシュが司令官に任命された。ただ、この日偶然だが、フォシュはただ一人の息子と義理の息子の戦死を知らされたという。

 これらの編成替えが混乱なく実行され、また2個軍の新設にもかかわらず従来の軍の量を落とさずに済んだ事は特筆に価する。しかもこの間退却中にもかかわらず十分な補給と補充兵を受け取っている。フランス国内の鉄道網と道路網が優秀なことが、大きく寄与したことは言うまでもない。

 また意図したわけではないが、フランスは予備兵を後置したためフロンティアの戦いにはほとんど参加させていない。このため補充、新設の余裕があった。反面この戦いでの被害はすさまじく戦死戦傷者、行方不明者は30万人に達した。とくに若手将校、下士官の被害は38%に及んだ。フランス陸軍は開始早々にプロフェッショナルな部分を喪失したといって過言でない。

 シャルルロアの敗戦で、プラン17の失敗と短期間での勝利が不可能なことが明らかになった。そして政府にとってはもう一つ重大な事、パリの失陥の可能性が出てきた。

 ジョフルはドイツ軍の目的は自分の野戦軍の撃滅にあると承知していたから、パリの防衛には無関心だった。戦局自体はクルックのパリ内回りターンで示されるようにジョフルが正しかった。しかし政府としてはパリが交通の中心にあると言うだけでなく、失陥のもたらす心理的な影響を無視する事が出来なかった。陸相メシミーは普仏戦争の経験から軍の統帥(もちろん戦時の)に政治が影響を及ぼすことの危険性を承知していた。

ガリエニの登場

 メシミーはエリゼー宮の大統領府でポアンカレと会議をもつがただ一つの材料以外は全く無力だった。その材料とはガリエニ前陸相だった。ガリエニは65才、かってマダガスカルでジョフルの上司でもあった。前立せん肥大症を病んでいて、二年後その病気で死亡することになる。ガリエニは他のフランスの将軍と異なり、やや学者的風貌で事実フランス語以外三ヶ国語(英・伊・独)をよくし常に語学から近代砲術まで学習を続けていた。

メシミーはその日の夜、ガリエニにパリの軍事総督に就任するように要請した。しかしこの段階で後備3個師団以外は全くパリ軍事総督の隷下にない。ガリエニは日露戦争とバルカン戦争を研究し要塞が無価値であることは承知していた。そして敵の進入をくいとめる手段は、野戦軍と塹壕、鉄条網、たこ壷で強化された防衛線でなければならぬ、と考えていた。ガリエニは3個軍団を隷下におく事を条件に受諾した。

 8月27日この任命をおこなう閣議の前に、内閣の危機が発生した。ドイツ軍がパリにむかう形勢で、フロンティアの戦い敗戦の責任を問う声があがった。ポアンカレは挙国一致内閣を設立し危機を乗り越えようとしたが、その際メシミーも責任を問われ、陸相を解任、無任所の閣僚で残るという案がだされた。

この案に対しメシミーは召集令状を胸から取り出し、「無任所だと、それならば前線にゆく。」と言ってそのまま前の所属の砲兵隊に少佐として任官した。メシミーはそのまま昇進し1918年には師団長までになった。新陸相には元の陸相のミルランが任命された。

 パリの防衛線を作るだけでも大変な仕事だった。周囲30kmの範囲で塹壕をつくり、重要なポイントに全て土嚢による監視所を設け、守備隊を配置せねばならなかった。さらにあらゆる橋に爆薬をかけ、また敵が利用する可能性のある防衛線上の建物が破壊された。

私有財産の場合いちいち損害額を確定せねばならず、その時オープンシティにせよ、すなわち降伏した方がよいという声がでるのだった。当時パリは人口300万人をかぞえたが、疎開したのは内100万人前後という。9月2日政府はパリをすてボルドーに移動した。

ガリエニが要求した3個軍団はモーヌーリの第6軍をガリエニの隷下におくことで、決着した。ただしパリは軍事ゾーン内に指定された。軍事ゾーン内の軍隊はすべてジョフルの管轄であるから巧みな妥協だった。

一方8月24日以来撤退を続けるイギリス遠征軍は8月26日第1軍団とはぐれた第2軍団(スミスドリアン)が突然ルカトーでドイツ第1軍(クルック)に遭遇した。数で圧倒されたイギリス軍はしかしよく重圧に耐え夕刻、南に脱出する事は出来たものの、この期間で最大の損害をうけた。

この損害でまいったのは兵士ではなくて司令官のフレンチだった。同じ日ジョフルの主宰で一般命令第2号の説明があったが、フレンチは自軍の動向が気になり、フランス軍の無通告撤退をなじるばかりで非協力を述べるばかりだった。イギリス本国ではモンスの戦いの結果が勝利として伝わっていたが、その後のドイツ軍の進撃はさすがに勝利幻想をうちくだいた。

陸相のキッチナーは8月30日フレンチからの報告を受け取った。フレンチはフランス軍と平行して戦うことはやめて、セーヌ川の後方まで下がり、できればもっと後方の基地まで後退する準備をしたいと言うのである。

 これにはキッチナーも驚愕した。この同盟国の一番苦しい時期に逃げるというのは出来る事ではない。キッチナーはすぐフランスに行く決心をした。9月1日パリの英国大使館で、キッチナー、フレンチ、ビビアニ首相、ミルラン陸相で会議がもたれた。フレンチはフランス人を前にだんだん言葉が激してきた。キッチナーはこの時フレンチを別室によび、二人で話し込んだという。内容は明らかでないが、フレンチがフランス人と再度共同で戦うことに同意したことは確かだ。

一方ドイツ軍はパリに向かう行軍で勝利感に満ちていた。クルックはイギリス軍・フランス軍とも組織的な抵抗は不可能で行軍速度をあげ、捕捉するだけと信じていた。

クルックの第1軍は全軍のペースメーカーであり、かつ長距離の行軍を余儀無くされていた。一日平均40kmを走破し、かつこの間に戦闘も交えているから、兵士の一日の睡眠時間は5時間もない。また宿舎を確保すると道から離れねばならず時間を節約するため、道の両側に交代で寝かせたという。

ところが大本営(OHL)では小モルトケがクルックと反対に考えていた。激戦があったにもかかわらず、また勝ったという報告があるにもかかわらず、捕虜も鹵獲した砲もないではないか。シュリーフェンの不肖の弟子として、陸戦における勝利とは包囲か突破による以外ないと信じていた。どう見てもフロンティアの戦いは包囲も突破もしていない。結果として小モルトケの判断が正しかったのは確実である。

フランス軍は敗走しているのではない。秩序だった撤退をしているのだ。

旧軍参謀本部の作戦評論

東條英機の作戦評論

クルックのターン

クルックは予定された補充兵が足りず、また期待した軍団の増強もなされず、行軍の前面を縮小する必要にかられた。また隣接の第2軍と約30kmの空隙が生じており危険と判断された。またパリの守備兵については重要視しなかった。ドイツの軍事学では要塞にいる兵は出てこない、従って野戦軍を始末してから料理すればよい。被害が大きく苦戦続きの予備第4軍団(ベーム)だけを側面の守備とし前進を続けた。         

クルックは最終的にパリ内周りのコースをとる事を決めた。これが史上に名を残すクルックのターンである。

クルックのターン

9月3日今までのコースを急旋回させクルックはパリを横手に見て、東に向きをかえた。

ガリエニはこの機を逸さなかった。パリから見ればクルックの側面は大きくあいているではないか。クルックはこれより前OHLから隣のビューロウより遅れて進み、側面攻撃を回避するように命令されたが、従わなかった。全軍のペースメーカーたらんとした第1軍の沽券のかかわると思ったのだろう。タンネンベルグのフランソワと異なりクルックの独断専行は失敗だった。

ガリエニは9月4日、ジョフルに全軍で反撃に移ることを進言した。ジョフルもさすがに迷った。これまでセーヌ川の線まで後退し右翼からの増援をまって反攻に出る計画だった。またこのガリエニの進言はできそうで実は難しい。ガリエニはパリの防衛しか言われていない。それが槍の穂となって、攻撃に出るのだ。

増援はまだ来ないと同時に最大の不安はイギリス遠征軍だった。初めジョフルはその存在を、ドイツ軍の右翼と同じく過小評価していた。しかし第6軍(モーヌーリ・パリ軍)と第5軍(デスパレ)の間にあるイギリス遠征軍は位置として蝶番にあたり重要だった。

9月5日は双方にとり決断の日だった。クルックはその日を通して前進を続けた。マルヌ川の南方グランモリン川に達した。夕刻小モルトケは抗命するクルックに対し直接通信課長のヘンチュをおくり今の線での停止を命令した。クルックは抵抗した。しかし同じ頃マルヌ川を守備する予備第4軍団から、敵軍の出現の報告が来た。クルックもここに至り、マルヌ川を越えた二日行程の距離はあきらめ側面強化のため一時後退に同意した。

ジョフルは9月6日を攻撃開始とし、各軍団長に通知した。しかしイギリス遠征軍からはっきりした返事がなかった。ジョフルは直接フレンチに会う事にした。イギリス軍の本営でジョフルにしては珍しく演説を始めた。「・・・すでにフランス全軍に命令は発せられた。最後の一兵にいたるまでこの戦いに投入するつもりだ。フランスの人民と国土とヨーロッパの運命がこの一戦にかかっている。私はこの至高の危機に際して、イギリス軍が役割を果たすことを拒絶するとは思わない。ムシュー元帥、イギリスの名誉がかかっているのです。」

ここで、フレンチの頬に一条の涙がこぼれた。フランチはフランス語でなにか喋ろうとしたがあきらめ、「出来る事はすべてやる、と伝えてくれ。」といった。通訳はただ元帥はウイといったとだけ伝えた。

その後、時間、進軍の位置など幕僚間で話されたが、許可を求める副官にジョフルは元帥の言葉で十分だと答えた。あとは紅茶が出され会議は終了した。

ドイツ軍の撤退

9月6日から激戦が始まった。モーヌーリのパリからの攻撃をみてクルックは反転し全軍をこれに当てた。一時はフランス軍が押されたが、ガリエニは急遽タクシーを徴用し、増援軍を前線におくった。クルックもよく持ちこたえたが、隣の第2軍(ビューロウ)との距離が開きすぎ、そこにイギリス遠征軍に浸透されてしまった。BEFの行軍スピードはひどく遅いものだったが、クルックの第1軍が包囲の形の陥ったのは確実だった。

クルックの回想

第2軍(ビューロウ)は仏第5軍(デスパレ)に押され、第3軍は仏第9軍(フォッシュ)に押され、午後には両軍とも後退を開始した。小モルトケはいたるところ戦線が崩壊するのを見て9月9日総退却を命令した。この早期の退却命令によりドイツ軍はタンネンベルグのサムソノフ軍と同様の運命に陥ることだけは避けられた。

しかしシュリーフェンプランは失敗した。そしてドイツの短期的勝利そしておそらく勝利そのものも失われた。

退却は5日間続き、9月12日エーヌ川でドイツ軍は停止した。そして塹壕を掘り始めた。これを見て連合国軍も同様に塹壕を掘り始め戦線は固定化した。西部戦線はこの線でその後四年間殆ど変わらなかった。

クルックは戦後次のように語った。さまざまな要因を超えて圧倒的な事実は、フランス兵の奇妙なまた特有なその性質である。フランス兵がその場に止まれ、と命令されれば、その場で死ぬまで戦う、そのようなことはよく知られていたことで、戦う前に計算されていた。だが10日間にわたり退却し、地面に寝て、疲労で半分死にそうになったフランス兵が、進軍ラッパとともに立ち上がり、ライフルをとって攻撃する、そんなことを我々は予期しなかった。これは確かに士官学校では教えられていないことだ」 

しかし結果をみれば北フランスが失われた。人口の6分の1と工業地帯と有力な炭坑が存在している地区である。これはプラン17の失策によるものだ。しかしシュリーフェンプランのように硬直的な計画ではないのは幸いした。

とにかく最後では敵を数で上回ることができたのだから。押されていたフランスがパリを前面にして反攻に成功したことは全世界を驚かせた。そしていつしかマルヌの奇跡とよばれ、伝説となった。

MAP(西部戦線)



Asprey,R., The First Battle of the Marne, London,1962
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