連合軍最終攻勢(後編)

連合軍第1期攻勢

8月8日連合軍は全戦線とりわけ、カイザー戦での失地で攻勢に出た。従来と異なり予備砲撃はほとんど実施せず、タンクを前面にだしての一斉攻撃だった。ドイツ軍はこの攻勢を察知しており、後退作戦で臨んだ。しかしこれは誤りだろう。連合軍の進軍スピードは従来になく速かった。そしてドイツ軍は従来例をみない大量の捕虜を出す。

これは一つにはドイツの新兵の配置方法に問題があったためだ。ルーデンドルフによれば1918年度繰り上げの徴募兵(19歳)の質が、銃後での社会主義者の影響で悪化したという。これは責任転嫁だろう。新兵を第1線壕に配置(従来もそうだが)しかつ将校は通常後方にいたため、連合国軍の浸透が早いと指揮官がいないため降伏せざるを得なかったのだ。前は浸透されることはなかったため、顕在化しなかった。それでも以前からドイツ軍は西部戦線で最も捕虜を出す軍隊だった。

アミアン突起部(ソワッソン=アラス間)では頂点で英第4軍(ローリンソン)と仏第1軍(ドブニー)が、攻勢に出ると殆ど抵抗を受けず前進に成功した。イギリス軍もこの時マーク[型という重戦車を筆頭に400台ものタンクを動員した。そして隣接する英第3軍、第1軍と仏第3軍、第10軍もドイツの突出部を消滅させる形で前進した。フォシュの作戦は斉頭面を維持するため、この第1期攻勢ではドイツの突出部を消滅させることに力点が置かれた。

MAP:ソワッソン=アラス間

シャトーチェリー突出部は仏第10軍(マンジン)の7月18日の攻撃ですでに半ば消滅していたが、8月8日からの攻勢はドイツ軍がアミアンを連合軍の作戦重点と考えたため奇襲となった。そして2日間でドイツのカイザー戦による失地をほぼ回復した。

マンジン

アミアン突出部では激戦が続いた。英仏軍は合計46千人の被害を受けたが、独軍は75千人に達しうち30千人は捕虜だった。

ルーデンドルフは8月8日を回想録でドイツ軍暗黒の日と呼んだ。しかしこれは後日の物語にすぎない。8月12日スパの大本営で、ルーデンドルフは西部戦線で決定的な勝利は最早望めないこと、オーストリアはイタリー戦線の敗北で分離講和に出る可能性のあることを説明した。

しかし不思議なことに翌日13日の枢密会議でルーデンドルフは連合国に意思を通すためにベルギーと北フランスの土地を死守すべきだと説明した。つまりルーデンドルフの講和とはあくまで策略でしかない。戦争が永続的ととらえ、一時の方便として講和申し出を要求しているのだ。これは職業軍人の陥りやすい妄想にすぎない。平和が普通で戦争が異常事態なのだ。永久戦争というのは永久革命と同じく政治宣伝にすぎず、歴史の曲解にすぎない。

それでもルーデンドルフはやつぎばやに命令を出した。実際土地そのものにはなんら魅力を感じていないから、また焦土作戦にでようとした。すべて破壊し、カイザー戦の出発点のヒンデンブルグ線まで戻ろうというのだ。カイザー戦以来の消耗によって師団の充足率は急速に悪化したため、師団数を整理し前線部隊を163個から147個に減少させ、一部では歩兵大隊を4個中隊から3個中隊に減らした。それでも戦略予備を除き英仏軍は合計145個師団で、このとき戦闘配置にいる米軍は11個師団にすぎなかった。充足率はフランスと比較すればドイツの方にやや歩があった。ただ英米軍は4単位編制を崩さず、師団当たりではドイツ軍を上回る。すなわち兵力に大差はない。また1915年から1917年までより比率は好転していた。

連合軍とドイツ軍の兵力比較

ルーデンドルフは更に退路を確保する目的で、ヒンデンブルグ線の後方にヘルマン線、更に後方にムース−アントワープ線の防御ラインの構築を命じた。8月31日までに連合国軍は初期の作戦目的を達し、カイザー戦以前の線をほぼ回復した。ここでフォシュはドイツ軍の唯一もつ突起部のサンミェルの回収を新着の米軍に命じた。これは斉頭面の確保を狙ったものだが、ドイツ軍はここを4年間確保しており、大きな抵抗が予想された。

MAP(ドイツ軍の防衛陣地)

9月12日パーシングの指揮する米軍4個軍団と仏軍2個軍団は両側面から攻撃を開始した。ところがここで思いがけないことが起きた。ルーデンドルフはサンミェル突起部を不要とみて、抵抗しながらの撤退を命じた。だが米軍の攻撃をみるやドイツ軍は抵抗をやめぞくぞくと降伏しはじめ、その数は15千人に達した。サンミエル突起部自体は9月14日までに消滅した。これは敗色が濃いなかでの撤退命令が投降を呼びやすい面を軽視した結果だろう。

この攻勢に前後してフォシュは半ば忘れられたサロニカでブルガリア軍への攻勢を命じた。指揮官のデスパレは従来の低地経由の攻勢ではなく、土地を熟知するセルビア軍先頭に高地から、ギリシャ・セルビア国境を抜けることを企画した。9月15日から攻勢は開始され、ブルガリア軍の突破に成功した。ここに派遣されていたショルツはルーデンドルフにブルガリア軍崩壊阻止のため1個師団の急送を依頼した。

ところが近距離のロシアにドイツだけで約50個師団をまだ残しているのもかかわらず、参謀本部はショルツとブルガリアの要請を受け付けようとしなかった。

8月11日から、日本軍2個師団、アメリカ軍1個師団がウラジオストックに上陸を開始した。チェコ軍救出を名目としていたが、ルーデンドルフはウラル付近に連合国の傀儡の白軍政府を樹立し、東部戦線の復活を目論む動きと解し東部戦線に不必要な戦力を温存した。

ブルガリア政府はこのドイツ参謀本部の対応に激怒した。ブルガリアの戦意はすでに失われていた。ロシア・ルーマニアが倒れセルビアを占領したならば、フランス軍・イギリス軍・ギリシャ軍・元セルビア軍と戦う理由はなかった。しかも地形上、ブルガリア本土へ攻勢をかけられると、セルビア方面の独墺軍が来援に来ないと防御が困難だった。フェルディナンド国王もドイツとの関係が悪化していた。理由はマケドニアを領有する条件で単独講和に踏み切りたかったのだ。もちろんこれは甘いといわざるを得ないが、内部に連合国派も温存し二股もかけていた。9月25日国王は連合国に休戦を申し入れ同時に軟禁していた連合国派のスタンボリスキーを釈放し、前線の軍に派遣し督戦するよう命令した。ところが前線の兵士はスタンボリスキーを革命政府の首班として担ぎ出した。

9月30日に連合軍と休戦協定が結ばれたが、政府は革命政府を打倒したと宣言する一方、国王に退位を進言した。皇太子がすぐ即位したが、同時に政府は倒れ。またスタンボリスキーが首相となった。このように出来レースのような動きでブルガリアは参戦国から引いた。このブルガリアの休戦申し入れがドイツ敗北の第一歩となった。

このようにバルカンで突然大穴を開けることに成功したフォシュは更に連続して西部戦線で9月26日から第2期攻勢をかけることを決意した。

第2期攻勢

9月26日アルゴンヌでアメリカ第1軍の30万人の部隊がフランス第5軍(ゴロー)とともにわずか3時間の準備砲撃のあと一斉にタンクを先頭に前進した。たいするドイツ第5軍(ゴルウィッツ)も待ちうけたように反撃にでた。

MAP(第2期攻勢案)

9月27日アルトワからサンカンタンの全面でイギリス第1軍(ホーン)第3軍(ビン)と第4軍(ローリンソン)は40個師団の英軍と2個師団の米軍で攻勢に出た。ドイツ軍は第6軍(クォスト)と第2軍(マルウィツ)などの57個師団だった。

更に9月28日ベルギー全軍と英仏軍が最北部でパッシェンデール方向に攻勢に出た。(第4次イープルの戦い)

ルーデンドルフ14ヶ条提案を受諾

10月1日ルーデンドルフは参謀本部会議でドイツ国民の惰弱、カイザーの優柔不断、ドイツ海軍の失敗をあげつらい、一人いらだっていた。夜、ヒンデンブルグを訪問し、ウィルソンの14ヶ条の提案を受諾し和平を乞うべきだと力説した。

ドイツ大本営日誌(10月1日)

ヒンデンブルグは戦局の悪化を誰よりも悲観的にみていたから、即座に同意した。この時、ルーデンドルフは14ヶ条を読んでいなかったという。

14ヶ条提案全文

連合軍の攻勢のうち米軍の攻勢は、アルゴンヌの森で砲撃を浴び頓挫した。しかしイギリス第4軍(ローリンソン)とフランス第1軍(ドブニー)は順調で9月29日、ヒンデンブルグ線をカンブレー−サンカンタン間で3.5マイル突破した。更に前進したが、ボニー近郊で阻止された。最北部のベルギー軍も順調に進み、イープル前面の失地を全て奪回した。サンカンタンとイープルでドイツ軍の捕虜は5万人に達した。

9月29日からルーデンドルフは14ヶ条受諾を条件として休戦交渉に入ることを、ウィルヘルム二世と政府に承諾させ、議会(ライヒスターク)にも使節団を送り、戦況が悪化していること、及び休戦交渉を行うが条件によっては、戦闘を再開することを説明した。社会民主党(SPD)のエーベルトはそれを聞いて絶句したという。

10月2日自由主義者のバーデンのマクシミリアン公子(マックス公)がハートリングに代わり首相に就任した。マックス公はかねてから、共和制論者でウィルヘルム二世は退位すべきだと、考えていた。まだルーデンドルフは受諾を敗戦とは受け止めていなかった。ともかく時間稼ぎをして、防御ラインを強化したかった。ルーデンドルフは48時間以内に休戦が必要だと絶叫した。マックス公はしかし少将の地位をもつ軍人だが外交について理解していた。この性急な受諾が外交交渉上ドイツにとり致命的な打撃となることを説いた。                                         

マックス公はヒンデンブルグとウィルヘルム二世を説得しようとしたが、「君は参謀本部に難癖をつけに来たのではないだろうね。」の一言で終わった。この一言はだがホーエンツォレルン家の帝位も終了させたのではないか。ベルギーのアルベール国王を除いてヨーロッパの全ての君主は文民政府より参謀本部を信頼した。それにつけても昭和天皇の終戦時の判断が第1次大戦の君主と違うことに驚かされる。日本はヨーロッパと違うというが、それ程違うだろうか。ともかく10月4日14ヶ条受諾の電報は送られた。

マックス公バーデン

ルーデンドルフは軍人としての経験しかないから、外交については外交官のする戦争類似ゲーム程度の認識しかなかった。外交を安定させるためには、だまし討ちとか虚偽の策略を用いてはならず、国家の間にも人間間のルールのようなものが存在し、国民が外交過程を知ればますますその傾向が強まることに気づかなかった。

10月にはいると戦線は落ち着きを取り戻し、ヘルマン線と残存するヒンデンブルグ線でドイツ軍も防備を固めた。フォシュは10月24日を開始日とする第3期攻勢を準備した。

ドイツは英仏を飛ばし、アメリカ政府と直接交渉する方法を選んだが、大統領ウィルソンは回答に苦慮した。しかし英仏を飛ばし直接来た休戦提案はウィルソンを喜ばせた。アメリカはただ一つの条件、占領地の即時撤退とただ一つの質問、交渉に臨むドイツ政府の代表はいかなる基盤を国内に有するか、と回答した。ロイドジョージクレマンソーは決して愉快ではないがこの条件では休戦に応じられると考えた。

この段階で英仏はまだ勝利を実感していなかった。本国では1919年の春季攻勢用タンクの発注に忙しかった。内実ではこれ以上の継戦は難しく機会があれば和平に応ずることもある、と考えていた。

10月12日マックス公より撤兵承諾とドイツ政府は軍部を掌握しており、全人民を代表していると回答した。しかしその日ダブリン−ホリーヘッド間のフェリー、スターライン号がUボートにより撃沈され、アメリカ政府は硬化した。

10月14日アメリカ政府はUボート戦の即刻中止とドイツの政体変更すなわち帝政の廃止を要求した。これはアメリカ政府の致命的な失策だ。このアメリカの世論迎合策に同盟国は常に悩まされ、また現在でも悩まされている。この要求はドイツに不必要な屈辱感を与えた。Uボート戦の中止は休戦の以降発効するべきもので以前ではない。また政体について言えば質問でなく要求することは中世的内政干渉で、それも講和時に行うべきものだろう。

この日ヒトラーがイープル突起部のコミネでイギリス軍の毒ガスを浴び、一時的に失明ポンメルンの衛戍病院におくられた。この時点でも、マルヌ会戦後延翼運動終了地点での戦闘にすぎなかった。

ルーデンドルフは戦線の一時安定とこの返電で、前言を翻し(年中翻しているが)10月17日参謀本部会議で、連合国軍のこれ以上の突破は不可能で1919年の攻勢を準備しようと叫んだ。マックス公はアメリカ政府とルーデンドルフに挟まれ進退極まったが、理性は失っていなかった。アメリカの要求に従うことを返電した。

アメリカ政府の10月23日第3回の返電は更に一国の名誉を顧慮しないものだった。「もしも連合国にこのうえドイツ軍部やカイザーを相手に交渉することを求めるならば、ドイツは和平の協定よりも降伏の協定をするしかないだろう。」 ここでは公然とカイザーの退位を要求した。

果たしてイギリスがカイザー退位とドイツを屈辱に追い込むことを希望していたとは思えない。ルーデンドルフは始めから交渉の相手を間違えたのだ。だがこうしてドイツの休戦申し込みは受理された。

ドイツ国内ではアメリカの歓心を買うためには、民主的政府を樹立し帝政を廃止する必要があるという認識が生まれた。これ自体に将来のワイマール共和国の脆弱性が孕まれていた。しかしドイツ人にとり選択の道はないように思われた。

この間に戦局は動いていたが、ドイツ軍に有利な展開が生じていた。アメリカ軍のアルゴンヌの攻勢が失敗し、またベルギー軍中心のフランダース軍(アルベールT世)は雨に阻まれた結果、戦線は英仏軍が受け持つ中央部のみが前進した。このため戦線はより直線的となり、防御側は兵力を節約することができた。

休戦協定の成立

ルーデンドルフは更に強気となり、10月24日各級司令官に和平提案の取り消しと全軍が徹底抗戦のため攻勢準備に移ることを打電した。これを知ったマックス公はただちに辞表を提出し猛然と抗議した。ウィルヘルム二世もこの電報事件でルーデンドルフがすでに精神耗弱状態にあり判断能力が失われていることを悟った。ヒンデンブルグは常に下僚の意見に従い、自ら責任を負うことを避ける体質だった。そしてルーデンドルフは下僚を非常に大切に扱った。このため部下はルーデンドルフの精神がまともでないことを知っても追随しようとした。官僚組織に国を委ねる危険性がここにある。

ウィルヘルム二世は10月27日ルーデンドルフを更迭し後任にグレーナーをあてた。継続性の維持のためヒンデンブルグは職に止まった。グレーナーは東部戦線のキエフにいたため着任は11月3日となった。グレーナーも着任早々戦局は絶望と診断を下す。

連合国の第3期攻勢は10月24日に予定されていたが、ここにきて中核の英仏軍も休戦交渉のニュースが伝わり厭戦気分が広がった。フォシュは攻勢開始を11月1日に延期した。

第3期攻勢はフランス中央軍(メーストル)が先頭にたち両翼をイギリス軍とアメリカ軍が進む形で計画されフランダース軍(アルベールT世)は北部からベルギー全域に殺到する手はずが整えられた。ヘルマン線にこもるドイツ軍は11月5日まで抵抗したが、それ以降はアントワープ−ムース線への後退運動に移った。フランス軍はドイツ軍の後退を予定の行動とみなし深追いを避けたがアメリカ軍のみは最後の決戦とばかり、セダン方面に急追し大きな被害をだした。

11月8日エルツバーガー中央党党首を首班とするドイツ休戦代表団がコンピエーニュの森に到着、フォシュの前で休戦協定に署名した。11月11日休戦協定は発効し、西部戦線での全ての戦闘が中止された。両軍の兵士は塹壕を飛び出し無人地帯で抱き合ったという。第1次大戦は終了した。

MAP(休戦当時線)



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