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連合軍の最終攻勢
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ラッパロ協定

連合国は1917年より統一指揮について議論がなされていた。ロイドジョージの持論は「連合国は勝てる力はあるが、指揮が各国により分かれているため勝てない」というものだ。ヘイグソンム戦以来第3次イープル戦までの不毛な作戦による人的被害がこたえている面がある。

アメリカは1917年4月参戦した。だが今からみると信じがたいが、当時のアメリカは全く常備陸軍に値するものを持っていなかった。そのうえ武器の自製能力すらなかった。タンク、飛行機はおろか小銃すら自分で作れずヨーロッパで購入した。またイギリス人を不快がらせたのは野砲の選定でイギリスの18パウンダーを採用せず、フランスの75を採用したことだった。18パウンダーはベスレヘムスチールでライセンス生産されていたので簡単に揃えられたが、75はそうではなかった。

このためアメリカ軍による前線の引き受けは計画より更に遅れ、1918年5月に順延された。それまで英仏は従来どおり耐えるほかなかった。

ペタンの1917年12月22日付け訓令=防禦作戦について

またアメリカ軍の参入は統一指揮問題を更に複雑にした。本国の訓令は現地指揮官(パーシング)が認める範囲で他国の命令系統に入ってよい、というものだった。当然パーシングはめったに指揮をゆずることはなかった。この訓令は極東も同じで、シベリア出兵の際日本軍を悩ませる。

1917年11月5日ロイドジョージ、パラベ仏首相、オルランド伊首相はイタリーのラッパロで会合し、最高軍事会議を作ることで合意した。1ヶ月に一度各国の首脳が面会することと、常設の軍事幕僚会議をベルサイユでもつことが決まった。これで少なくともロイドジョージはヘイグ以外から軍事情報を得られるようになった。ヘイグとロバートソン参謀総長は反対したが押し切られ、協定はラッパロ協定と呼ばれた。

ロシア情勢は悪化する一方だった。11月21日ボルシェビキの勝利が確定した。レーニンは不割譲・無賠償による休戦を主張した。ドイツ軍部はボルシェビキと密接だったから気にもとめず、ホフマントロツキー交渉に強硬策で臨んだ。しかし連合国内では妥協による平和を求める声が強まった。ラッパロ会議の直後フランスではパラベ首相が議会で信を失い、ポアンカレ大統領は和平派のカイヨウと継戦派のクレマンソーの選択に直面し、そりの合わないクレマンソーを選んだ。クレマソーは首相となり徹底戦争遂行を叫ぶと同時に和平派を投獄した。

クレマンソー(Georges Clemenceau;1841-1929)  

11月29日ロイドジョージとクレマンソーは最高軍事会議で会合し、勝利なき休戦を否定し戦争遂行で一致した。実際のところロイドジョージには休戦を主張する道はあったのだが、ドイツ軍部の現状による和平=ベルギーからの不撤退の主張がそれを不可能にした。

1918年にはいると、ボルシェビキの呼びかけに答えるかのようにアメリカのウィルソン大統領が和平のための14か条提案を行った。これは民族自決とアルザスロレーヌのフランスへの返還を除けば無賠償・不併合の提案だった。当然英仏は不快感で眺めるだけだった。そしてロシアに対しては独自の干渉政策に乗り出す。アルハンゲリスクとバクー、カスピ海沿岸への派兵と日本への全面出兵要請だった。

当時の日本の情勢は複雑で陸軍の一部は派兵に積極的だった。とくに陸軍内で勢力が強かった長州閥の田中義一参謀本部次長が、シベリア出兵派だった。一方でヨーロッパの西部戦線に20個師団を派兵すべきだという意見もあったが少数だった。しかし当時の寺内内閣はアメリカとの協調を旨としており、アメリカの合意を得ねば出兵には反対だった。

そして奇妙なことにアメリカはこの頃から日本の外国派兵に全て反対の態度をとる。開戦時からの日本海軍の東太平洋パトロールにアメリカは脅威を感じていた。一方日本海軍はドレッドノート級戦艦の建造政策の失敗で、プリドレッドノート級戦艦でようやく虚勢をはっていたに過ぎなかった。

ドレッドノートと薩摩

この時点でようやく巡洋戦艦の金剛・霧島が運用可能なだけで比叡・榛名は乗員養成中だし超ドレッドノートの長門・陸奥は計画段階にすぎなかった。速力優先で装甲が薄い巡洋戦艦を重視したが、当時では果たして超ド級戦艦に対抗できるか疑問とされていた。これに対しアメリカは1914年までにド級戦艦のテキサス、ニューヨーク、オクラホマ、ネバダの4隻を就航させており、不安になる必要はなかったのだ。

この対立ないしアメリカの被害感は双方孤立主義が背景にあるので余計解消が難しいといえた。チェコ連隊の決起により、指導者であったマサリクが渡米しウィルソンに直接訴え、結果日本のシベリア出兵に同意するが、むしろ小国の要請に従うアメリカの態度に日本側は被害感をつのらせた。

アメリカは太平洋艦隊の大西洋移転の必要を感じまた日本は南洋諸島と中国での特殊権益を認めさせようと特別派遣大使石井菊次郎と国務長官ランシングの間で交渉がもたれた。11月2日、概ねの合意に達し石井・ランシング協定が締結された。

石井菊次郎の渡米

石井菊次郎(子爵;1866-1945)

西部戦線は停滞するばかりで、連合国は数でまさるドイツの攻勢を予想した。しかし塹壕の本数を増加させただけで、1月と2月は全く平穏に過ぎた。

チャーチルの前線視察(1918年3月)

ルーデンドルフのカイザー戦が全てを変えた。
3月21日にかけられた第1次攻勢はイギリス第5軍に痛打を与え、主攻はイギリス軍に向けられた。ところが隣接するフランス第1軍(ドブニー)は攻撃方向がパリにあると判断した。これをペタンが支持したためフランス戦略予備隊はマルヌ会戦時と同様パリに集中を始めた。

これに仰天したヘイグは本国政府に予備隊をイギリス軍支援にまわすべく影響力を行使するよう依頼した。3月26日ドゥランで最高軍事会議がもたれた。出席者は(仏)ポアンカレ、クレマンソー、ペタン総指揮官、フォシュ参謀総長(英)ミルナー陸相、ヘイグ総司令官等だった。ここでフランス軍24個師団をイギリス軍支援に向けることと、フォシュに連合国の作戦調整役をはたし必要な情報を得られる権限が与えられた。

この決定がなされたとき、クレマンソーはフォシュに「ようやく君の待ち望んだものが得られたね。」と言った。フォシュは「すてきなプレゼントですが、負け戦を勝てという意味でしょうか。」と答えたという。この時点で連合国(英仏)は全く勝利の自信がなかったことが伺える。またドゥランはソンム川とドーバーの間にあるが、そのとき町は撤退するイギリス兵の怒号であふれていたという。                              

フォシュ連合国軍最高司令官となる

しかしこの処置はフォシュに両司令部の間を奔走する権能を与えただけだ。この時期は連合国にとり最も厳しかった。フォシュは、ペタンに反対し英仏軍の連絡維持に最重点を置くべく方針を転換した。これはルーデンドルフの本来の作戦目的、英軍を海峡に追い落とす、を見抜いた適切な処置だった。

フォシュ(Foch ;1851-1929)

4月2日までにフランス軍戦略予備をフォシュは統制下に置くことに成功し、かつそれは30個師団に達し、全てイギリス軍後方に集中された。4月3日、クレマンソー、ロイドジョージ、パーシングが会談し、フォシュに軍事作戦の戦略的指導権を与えることに同意した。ドイツ軍の第1次攻勢は、3月28日イギリス第3軍(ビン)とフォシュの集めた予備隊がアミアン突破を図る猛攻を挙止し一旦停滞した。4月9日第2次攻勢が北方リス川沿いにかけられ、ポルトガル兵が壊乱したことにより危機が再度到来した。

ヘイグはこの時点でも将来自らが立案する攻勢のための戦略予備を手放さず、フォシュに予備の派遣を要請し、3個師団が送られた。この3個師団が決定的な役割を果たしリス川でドイツ軍を阻止するのに成功する。もはやフォシュの予備軍の威力は誰の目にも明らかで、4月14日、最高司令官に任命された。

カイザー戦はこの後も第5次攻勢(7月16日開始)まで続くが、6月にはいると、勢いが落ちてきたのが明らかになる。ひとつはルーデンドルフの戦略はアミアン突破にあったが、これが挙止されたことだ。ルーデンドルフはアミアン前面のイギリス第3軍(ビン)とフランス戦略予備の大軍を目にして、そこに反復攻撃をかける程愚かな参謀総長ではない。しかし戦略目標に失敗したとして攻勢を中止できるかといえば、米軍の増強を見れば時間はドイツに不利に働く。

ルーデンドルフは結局別の地点で攻勢策をとるよりなく、第3次以降の攻勢は計画外の即興的なものだった。これに対しフランス軍は英独軍に比べ、相対的に被害が軽かった。ドイツ軍の攻勢では従来常に最も被害をうけてうたが、今回は主攻が英軍に向けられていた。

ペタンの攻勢防御

ペタン(Petain;1856-1951)
またフランス軍は防御に当たり、ペタンの歩兵戦術に従っていた。ペタンの歩兵戦術の思想とは次のようなものだ。

  1. 戦術範囲においては現代火力の威力は絶大である。敵の火器を粉砕するか、掩蔽施設にこもるしかない。両者が可能でないとすれば、戦術範囲から脱出するより他にない。
  2. 戦略範囲では戦略予備隊の機動が最重要である。全ての点における交通は作戦に重大な関係を有する。
  3. 攻勢に際しては、攻撃正面は爾後敵の火力の包囲に陥らないこと、および敵の戦略予備が容易に到着しえない地点を選定することが肝要である。

この方法により機動力が確保しうる場所においてフランス軍は神出鬼没の活躍をみせるようになる。

この諸点のうち1.の戦術範囲内の議論は今日まで有効で、大方に受け入れられている。1960年アメリカのケネディ大統領が選挙の際初のテレビ討論をニクソンと行った。この時ケネディは台湾が確保している金門・馬祖島からの撤退を主張した。ケネディは戦術範囲で敵の砲の射程内にある2島の保持は断念すべきだと主張した。これに対しニクソンは自由主義陣営の土地をいささかでも譲るべきでないといって保持を主張、かみ合わないまま終了した。このペタンの思想はキューバ危機に影響したのだろうか。全土がミサイルの射程範囲(=戦術範囲)にはいることは避けたかっただろう。

一方フォシュの主張は全ての場所で攻勢を、連続した攻勢を、というものだった。このため休戦となるまで両者の対立は続いたとされる。しかしこの対立は根の深いものではない。というのはベルダン戦末期でニベルの攻勢を推進したのもペタンである。攻勢がなければ戦いに勝つことはできないことは承知していた。ただ攻勢を一点突破では無理だとペタンは主張したかったのだ。

フォシュはもともと多点突破論者だったが斉頭面を以ってする広正面攻勢論者に転換しかつ敵の弱点攻撃を主張するようになった。そして敵に後退のチャンスを与えない連続攻撃を主張した。フォシュは戦略予備軍を掌握していたからペタンよりも有利に議論を進めることができた。

要するにフランス軍はフォシュの立てる作戦で、ペタンの方法で戦うことになる。6月24日にペタンは「防御陣地の任務に関する定義」という縦深陣地での防御法を訓令(第4訓令補足)している。すでにルーデンドルフも強襲部隊を先行させる歩兵の戦術に対抗してローカルな戦略予備隊の使用法について指示を出しているが、総合的ではなく、ここでもペタンが第1次大戦での戦術について際立った理解をしめしている。

ペタンの攻勢防御(縦深陣地戦術)

更にペタンはタンクの運用方法についても卓越していた。ペタンはニベル攻勢の失敗のあと「アメリカ人とタンクを待とう」といってタンクの積極的支持者だった。これはルーデンドルフがオモチャと呼んだのに比較し前向きといえた。ただ当時のタンクは最高時速18kmの自転車程度で、また75ミリ野砲に対抗しうる装甲はもっていない。これに対抗しうるのは1960年代以降である。このため直接照準が可能なところまで行ったら、歩兵が敵野砲に脅威を与える必要があった。ルーデンドルフの歩兵優位説はあながち根拠のないものではない。

ルノーFT17

ペタンは装甲より速度を重視しルノー軽戦車FT17を量産させた。ルノー軽戦車は二人のり、装甲は機関銃弾を跳ね返す程度、機銃または37ミリ砲搭載と今からみれば装甲車程度だがスピードは英国のマーク二型より約二倍の時速7.5キロと速かった。6月までにこの戦車は2000台が攻勢のために準備されていた。ペタンはタンクをドイツの強襲部隊の代わりに使用することを考えた。戦車を中央に置き、両側に歩兵を随伴させ、後方に工兵が木製の橋梁をもって伴走する。これで塹壕を突破しようとした。

ルノーFT17軽戦車(米軍使用)

ペタンの方法は最終攻勢で決定的な成功を収めることになる。

しかし大戦後ペタンは静的な連続線の防衛線を主張し、タンクを歩兵戦術の補完物と位置付けた。一方ヒトラーはタンクを歩兵と切り離し機甲師団に集中させた。21年後ペタンの方法は惨敗した。タンクの性能が向上し時速40kmに達した。このため戦略予備隊の集中より戦車の方が速くなった。ペタンの思想2.が成り立たなくなったのだ。

6月にはいるとフォシュは反攻を叫び、シャトーチェリーを中心に幅60マイルにおよぶ広正面で攻勢に出た。さらに攻勢を2期に区分し連続攻撃を実施した。一方ドイツ軍の第4次、第5次攻勢に対しては時期、場所ともに投降兵、間諜の手で判明していたため、攻勢防御方式を採用した。攻勢防御はペタンの主張する縦深陣地で、第1線壕には自殺覚悟の少数の兵を置き攻勢があればすぐ後退する。そして後方に軽戦車保有の攻撃にでられる戦略予備を大量に保有し、機を見て逆襲に転じる(攻勢移転)方式だ。6・7月はドイツの攻勢期間中だが完全に連合国のペースだった。

とくに7月後半から8月5日までの英仏軍の第5次カイザー戦への反撃は、どちらが攻勢をかけているのか、分からない様相を呈した。8月4日フランス軍はソワッソンで全攻勢を跳ね返し、逆に3万人の捕虜を得た。その日、ヒトラーが「個人的勇気と全般的な精励」で功1級鉄十字勲章を授章した。ヒトラーはこのとき伍長補(下士官でもない)にすぎず例外的な名誉だった。ヒトラーは後半生習慣的にその勲章を佩用するようになる。

功1級鉄十字勲章小史第1次大戦のヒトラー

功1級鉄十字勲章

7月24日フォシュはドイツ軍攻勢で奪われた全地点にたいする反攻案を示した。すなわち3大突出部、リス川・アミアン・シャトーチェリー全域で攻勢に出ようというものだった。この段階でも両軍の兵力はほぼ拮抗するか、ややドイツ軍が多かった。

一方ドイツのハートリング首相は後日7月15日はまだ連合国から和平提案があることを予想していたが、3日後は敗戦を予感した、と回想している。7月15日前後はシャトーチェリーで激戦があったが、それだけである。それよりルーデンドルフが7月22日ウィルヘルム二世あて戦局は連合国の反撃により不利になっているという報告をしたことが響いているのではないか。ドイツ軍の苦手とする多正面での反撃が開始されたため、全体を把握しているのはルーデンドルフ唯一人となってしまった。ルーデンドルフは下僚には信頼を得ており、また権限を連合国の高級参謀と比較すればはるかに委譲していた。

                                              ハートリング                                                 

しかしこれは重要な局面で情報を共有できることにはならない。全判断がルーデンドルフに集中していた。7月にはいり情勢は悪化していた。連合国の反撃は功を奏していた。ここまでは事実だ。しかし以前たとえばマルヌ会戦直後と変わったわけではない。アメリカ軍は増強されつつあった。しかしあの時もイギリス軍が増強されつつあったのだ。

ルーデンドルフは7月末までに状況は絶望的と判断した。だが完全勝利(部分勝利ではない)という点では実は開戦以来絶望的だったのだ。ルーデンドルフは部分勝利もしくは引き分けのチャンスを自ら放擲した自覚があった。そして完全勝利が自らの作った作戦の失敗により不可能と悟ったとき、自らの失敗とドイツの敗北が一緒になった。

連合軍第1期攻勢

8月8日連合軍は全戦線とりわけ、カイザー戦での失地で攻勢に出た。従来と異なり予備砲撃はほとんど実施せず、タンクを前面にだしての一斉攻撃だった。ドイツ軍はこの攻勢を察知しており、後退作戦で臨んだ。しかしこれは誤りだろう。連合軍の進軍スピードは従来になく速かった。そしてドイツ軍は従来例をみない大量の捕虜を出す。

これは一つにはドイツの新兵の配置方法に問題があったためだ。ルーデンドルフによれば1918年度繰り上げの徴募兵(19歳)の質が、銃後での社会主義者の影響で悪化したという。これは責任転嫁だろう。新兵を第1線壕に配置(従来もそうだが)しかつ将校は通常後方にいたため、連合国軍の浸透が早いと指揮官がいないため降伏せざるを得なかったのだ。前は浸透されることはなかったため、顕在化しなかった。それでも以前からドイツ軍は西部戦線で最も捕虜を出す軍隊だった。

アミアン突起部(ソワッソン=アラス間)では頂点で英第4軍(ローリンソン)と仏第1軍(ドブニー)が、攻勢に出ると殆ど抵抗を受けず前進に成功した。イギリス軍もこの時マーク[型という重戦車を筆頭に400台ものタンクを動員した。そして隣接する英第3軍、第1軍と仏第3軍、第10軍もドイツの突出部を消滅させる形で前進した。フォシュの作戦は斉頭面を維持するため、この第1期攻勢ではドイツの突出部を消滅させることに力点が置かれた。

MAP:ソワッソン=アラス間

シャトーチェリー突出部は仏第10軍(マンジン)の7月18日の攻撃ですでに半ば消滅していたが、8月8日からの攻勢はドイツ軍がアミアンを連合軍の作戦重点と考えたため奇襲となった。そして2日間でドイツのカイザー戦による失地をほぼ回復した。

マンジン

アミアン突出部では激戦が続いた。英仏軍は合計46千人の被害を受けたが、独軍は75千人に達しうち30千人は捕虜だった。

ルーデンドルフは8月8日を回想録でドイツ軍暗黒の日と呼んだ。しかしこれは後日の物語にすぎない。8月12日スパの大本営で、ルーデンドルフは西部戦線で決定的な勝利は最早望めないこと、オーストリアはイタリー戦線の敗北で分離講和に出る可能性のあることを説明した。

しかし不思議なことに翌日13日の枢密会議でルーデンドルフは連合国に意思を通すためにベルギーと北フランスの土地を死守すべきだと説明した。つまりルーデンドルフの講和とはあくまで策略でしかない。戦争が永続的ととらえ、一時の方便として講和申し出を要求しているのだ。これは職業軍人の陥りやすい妄想にすぎない。平和が普通で戦争が異常事態なのだ。永久戦争というのは永久革命と同じく政治宣伝にすぎず、歴史の曲解にすぎない。

それでもルーデンドルフはやつぎばやに命令を出した。実際土地そのものにはなんら魅力を感じていないから、また焦土作戦にでようとした。すべて破壊し、カイザー戦の出発点のヒンデンブルグ線まで戻ろうというのだ。カイザー戦以来の消耗によって師団の充足率は急速に悪化したため、師団数を整理し前線部隊を163個から147個に減少させ、一部では歩兵大隊を4個中隊から3個中隊に減らした。それでも戦略予備を除き英仏軍は合計145個師団で、このとき戦闘配置にいる米軍は11個師団にすぎなかった。充足率はフランスと比較すればドイツの方にやや歩があった。ただ英米軍は4単位編制を崩さず、師団当たりではドイツ軍を上回る。すなわち兵力に大差はない。また1915年から1917年までより比率は好転していた。

連合軍とドイツ軍の兵力比較

ルーデンドルフは更に退路を確保する目的で、ヒンデンブルグ線の後方にヘルマン線、更に後方にムース−アントワープ線の防御ラインの構築を命じた。8月31日までに連合国軍は初期の作戦目的を達し、カイザー戦以前の線をほぼ回復した。ここでフォシュはドイツ軍の唯一もつ突起部のサンミェルの回収を新着の米軍に命じた。これは斉頭面の確保を狙ったものだが、ドイツ軍はここを4年間確保しており、大きな抵抗が予想された。

MAP(ドイツ軍の防衛陣地)

9月12日パーシングの指揮する米軍4個軍団と仏軍2個軍団は両側面から攻撃を開始した。ところがここで思いがけないことが起きた。ルーデンドルフはサンミェル突起部を不要とみて、抵抗しながらの撤退を命じた。だが米軍の攻撃をみるやドイツ軍は抵抗をやめぞくぞくと降伏しはじめ、その数は15千人に達した。サンミエル突起部自体は9月14日までに消滅した。これは敗色が濃いなかでの撤退命令が投降を呼びやすい面を軽視した結果だろう。

この攻勢に前後してフォシュは半ば忘れられたサロニカでブルガリア軍への攻勢を命じた。指揮官のデスパレは従来の低地経由の攻勢ではなく、土地を熟知するセルビア軍先頭に高地から、ギリシャ・セルビア国境を抜けることを企画した。9月15日から攻勢は開始され、ブルガリア軍の突破に成功した。ここに派遣されていたショルツはルーデンドルフにブルガリア軍崩壊阻止のため1個師団の急送を依頼した。

ところが近距離のロシアにドイツだけで約50個師団をまだ残しているのもかかわらず、参謀本部はショルツとブルガリアの要請を受け付けようとしなかった。

8月11日から、日本軍2個師団、アメリカ軍1個師団がウラジオストックに上陸を開始した。チェコ軍救出を名目としていたが、ルーデンドルフはウラル付近に連合国の傀儡の白軍政府を樹立し、東部戦線の復活を目論む動きと解し東部戦線に不必要な戦力を温存した。

ブルガリア政府はこのドイツ参謀本部の対応に激怒した。ブルガリアの戦意はすでに失われていた。ロシア・ルーマニアが倒れセルビアを占領したならば、フランス軍・イギリス軍・ギリシャ軍・元セルビア軍と戦う理由はなかった。しかも地形上、ブルガリア本土へ攻勢をかけられると、セルビア方面の独墺軍が来援に来ないと防御が困難だった。フェルディナンド国王もドイツとの関係が悪化していた。理由はマケドニアを領有する条件で単独講和に踏み切りたかったのだ。もちろんこれは甘いといわざるを得ないが、内部に連合国派も温存し二股もかけていた。9月25日国王は連合国に休戦を申し入れ同時に軟禁していた連合国派のスタンボリスキーを釈放し、前線の軍に派遣し督戦するよう命令した。ところが前線の兵士はスタンボリスキーを革命政府の首班として担ぎ出した。

9月30日に連合軍と休戦協定が結ばれたが、政府は革命政府を打倒したと宣言する一方、国王に退位を進言した。皇太子がすぐ即位したが、同時に政府は倒れ。またスタンボリスキーが首相となった。このように出来レースのような動きでブルガリアは参戦国から引いた。このブルガリアの休戦申し入れがドイツ敗北の第一歩となった。

このようにバルカンで突然大穴を開けることに成功したフォシュは更に連続して西部戦線で9月26日から第2期攻勢をかけることを決意した。

第2期攻勢

9月26日アルゴンヌでアメリカ第1軍の30万人の部隊がフランス第5軍(ゴロー)とともにわずか3時間の準備砲撃のあと一斉にタンクを先頭に前進した。たいするドイツ第5軍(ゴルウィッツ)も待ちうけたように反撃にでた。

MAP(第2期攻勢案)

9月27日アルトワからサンカンタンの全面でイギリス第1軍(ホーン)第3軍(ビン)と第4軍(ローリンソン)は40個師団の英軍と2個師団の米軍で攻勢に出た。ドイツ軍は第6軍(クォスト)と第2軍(マルウィツ)などの57個師団だった。

更に9月28日ベルギー全軍と英仏軍が最北部でパッシェンデール方向に攻勢に出た。(第4次イープルの戦い)

ルーデンドルフ14ヶ条提案を受諾

10月1日ルーデンドルフは参謀本部会議でドイツ国民の惰弱、カイザーの優柔不断、ドイツ海軍の失敗をあげつらい、一人いらだっていた。夜、ヒンデンブルグを訪問し、ウィルソンの14ヶ条の提案を受諾し和平を乞うべきだと力説した。

ドイツ大本営日誌(10月1日)

ヒンデンブルグは戦局の悪化を誰よりも悲観的にみていたから、即座に同意した。この時、ルーデンドルフは14ヶ条を読んでいなかったという。

14ヶ条提案全文

連合軍の攻勢のうち米軍の攻勢は、アルゴンヌの森で砲撃を浴び頓挫した。しかしイギリス第4軍(ローリンソン)とフランス第1軍(ドブニー)は順調で9月29日、ヒンデンブルグ線をカンブレー−サンカンタン間で3.5マイル突破した。更に前進したが、ボニー近郊で阻止された。最北部のベルギー軍も順調に進み、イープル前面の失地を全て奪回した。サンカンタンとイープルでドイツ軍の捕虜は5万人に達した。

9月29日からルーデンドルフは14ヶ条受諾を条件として休戦交渉に入ることを、ウィルヘルム二世と政府に承諾させ、議会(ライヒスターク)にも使節団を送り、戦況が悪化していること、及び休戦交渉を行うが条件によっては、戦闘を再開することを説明した。社会民主党(SPD)のエーベルトはそれを聞いて絶句したという。

10月2日自由主義者のバーデンのマクシミリアン公子(マックス公)がハートリングに代わり首相に就任した。マックス公はかねてから、共和制論者でウィルヘルム二世は退位すべきだと、考えていた。まだルーデンドルフは受諾を敗戦とは受け止めていなかった。ともかく時間稼ぎをして、防御ラインを強化したかった。ルーデンドルフは48時間以内に休戦が必要だと絶叫した。マックス公はしかし少将の地位をもつ軍人だが外交について理解していた。この性急な受諾が外交交渉上ドイツにとり致命的な打撃となることを説いた。                                         

マックス公はヒンデンブルグとウィルヘルム二世を説得しようとしたが、「君は参謀本部に難癖をつけに来たのではないだろうね。」の一言で終わった。この一言はだがホーエンツォレルン家の帝位も終了させたのではないか。ベルギーのアルベール国王を除いてヨーロッパの全ての君主は文民政府より参謀本部を信頼した。それにつけても昭和天皇の終戦時の判断が第1次大戦の君主と違うことに驚かされる。日本はヨーロッパと違うというが、それ程違うだろうか。ともかく10月4日14ヶ条受諾の電報は送られた。

マックス公バーデン

ルーデンドルフは軍人としての経験しかないから、外交については外交官のする戦争類似ゲーム程度の認識しかなかった。外交を安定させるためには、だまし討ちとか虚偽の策略を用いてはならず、国家の間にも人間間のルールのようなものが存在し、国民が外交過程を知ればますますその傾向が強まることに気づかなかった。

10月にはいると戦線は落ち着きを取り戻し、ヘルマン線と残存するヒンデンブルグ線でドイツ軍も防備を固めた。フォシュは10月24日を開始日とする第3期攻勢を準備した。

ドイツは英仏を飛ばし、アメリカ政府と直接交渉する方法を選んだが、大統領ウィルソンは回答に苦慮した。しかし英仏を飛ばし直接来た休戦提案はウィルソンを喜ばせた。アメリカはただ一つの条件、占領地の即時撤退とただ一つの質問、交渉に臨むドイツ政府の代表はいかなる基盤を国内に有するか、と回答した。ロイドジョージクレマンソーは決して愉快ではないがこの条件では休戦に応じられると考えた。

この段階で英仏はまだ勝利を実感していなかった。本国では1919年の春季攻勢用タンクの発注に忙しかった。内実ではこれ以上の継戦は難しく機会があれば和平に応ずることもある、と考えていた。

10月12日マックス公より撤兵承諾とドイツ政府は軍部を掌握しており、全人民を代表していると回答した。しかしその日ダブリン−ホリーヘッド間のフェリー、スターライン号がUボートにより撃沈され、アメリカ政府は硬化した。

10月14日アメリカ政府はUボート戦の即刻中止とドイツの政体変更すなわち帝政の廃止を要求した。これはアメリカ政府の致命的な失策だ。このアメリカの世論迎合策に同盟国は常に悩まされ、また現在でも悩まされている。この要求はドイツに不必要な屈辱感を与えた。Uボート戦の中止は休戦の以降発効するべきもので以前ではない。また政体について言えば質問でなく要求することは中世的内政干渉で、それも講和時に行うべきものだろう。

この日ヒトラーがイープル突起部のコミネでイギリス軍の毒ガスを浴び、一時的に失明ポンメルンの衛戍病院におくられた。この時点でも、マルヌ会戦後延翼運動終了地点での戦闘にすぎなかった。

ルーデンドルフは戦線の一時安定とこの返電で、前言を翻し(年中翻しているが)10月17日参謀本部会議で、連合国軍のこれ以上の突破は不可能で1919年の攻勢を準備しようと叫んだ。マックス公はアメリカ政府とルーデンドルフに挟まれ進退極まったが、理性は失っていなかった。アメリカの要求に従うことを返電した。

アメリカ政府の10月23日第3回の返電は更に一国の名誉を顧慮しないものだった。「もしも連合国にこのうえドイツ軍部やカイザーを相手に交渉することを求めるならば、ドイツは和平の協定よりも降伏の協定をするしかないだろう。」 ここでは公然とカイザーの退位を要求した。

果たしてイギリスがカイザー退位とドイツを屈辱に追い込むことを希望していたとは思えない。ルーデンドルフは始めから交渉の相手を間違えたのだ。だがこうしてドイツの休戦申し込みは受理された。

ドイツ国内ではアメリカの歓心を買うためには、民主的政府を樹立し帝政を廃止する必要があるという認識が生まれた。これ自体に将来のワイマール共和国の脆弱性が孕まれていた。しかしドイツ人にとり選択の道はないように思われた。

この間に戦局は動いていたが、ドイツ軍に有利な展開が生じていた。アメリカ軍のアルゴンヌの攻勢が失敗し、またベルギー軍中心のフランダース軍(アルベールT世)は雨に阻まれた結果、戦線は英仏軍が受け持つ中央部のみが前進した。このため戦線はより直線的となり、防御側は兵力を節約することができた。

休戦協定の成立

ルーデンドルフは更に強気となり、10月24日各級司令官に和平提案の取り消しと全軍が徹底抗戦のため攻勢準備に移ることを打電した。これを知ったマックス公はただちに辞表を提出し猛然と抗議した。ウィルヘルム二世もこの電報事件でルーデンドルフがすでに精神耗弱状態にあり判断能力が失われていることを悟った。ヒンデンブルグは常に下僚の意見に従い、自ら責任を負うことを避ける体質だった。そしてルーデンドルフは下僚を非常に大切に扱った。このため部下はルーデンドルフの精神がまともでないことを知っても追随しようとした。官僚組織に国を委ねる危険性がここにある。

ウィルヘルム二世は10月27日ルーデンドルフを更迭し後任にグレーナーをあてた。継続性の維持のためヒンデンブルグは職に止まった。グレーナーは東部戦線のキエフにいたため着任は11月3日となった。グレーナーも着任早々戦局は絶望と診断を下す。

連合国の第3期攻勢は10月24日に予定されていたが、ここにきて中核の英仏軍も休戦交渉のニュースが伝わり厭戦気分が広がった。フォシュは攻勢開始を11月1日に延期した。

第3期攻勢はフランス中央軍(メーストル)が先頭にたち両翼をイギリス軍とアメリカ軍が進む形で計画されフランダース軍(アルベールT世)は北部からベルギー全域に殺到する手はずが整えられた。ヘルマン線にこもるドイツ軍は11月5日まで抵抗したが、それ以降はアントワープ−ムース線への後退運動に移った。フランス軍はドイツ軍の後退を予定の行動とみなし深追いを避けたがアメリカ軍のみは最後の決戦とばかり、セダン方面に急追し大きな被害をだした。

11月8日エルツバーガー中央党党首を首班とするドイツ休戦代表団がコンピエーニュの森に到着、フォシュの前で休戦協定に署名した。11月11日休戦協定は発効し、西部戦線での全ての戦闘が中止された。両軍の兵士は塹壕を飛び出し無人地帯で抱き合ったという。第1次大戦は終了した。

MAP(休戦当時線)



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