第1次大戦は終了した。この戦争について多くの詩と散文が書かれた。イギリスとフランスとドイツのあらゆる町と村で、若者が出征し多くが戻って来なかった。この3国はルーマニアとセルビアをのぞき人口にたいする死傷者率が高かった。次のイギリスのフォークソングが戦後の事情をよく物語る。
若者たちがいた野原は空になり、生垣は荒れ果てた。
生垣をみるものはいなくなり、牧草地を歩くものもいない。
若者たちは樫の森の前から出て行き、戦場で倒れた。
緑の農地から、愛するものから、夫と父と兄弟と息子が、出征した。
かって五月の祭典のポールがあった場所にいま名誉の死者の名簿がさがる。
そして今日も女たちだけでダンスを踊る。
これらの国では18歳で徴兵年齢に達するから、そこから25歳までの青年男子の層がとくに大きな打撃をうけた。戦傷者を含めれば、30%以上被害をうけたのではないか。戦争は若者のゲームであり、女・子供・老人は西ヨーロッパのルールでは物理的な被害をとれば軽い。しかし生き残った者への衝撃の強さは、以前の戦争と比較にならなかった。
だが人口という点でドイツ、イギリスはあまり影響を受けなかった。不思議なことに両国とも戦中の出生率は落ちていない。フランスはあきらかな減少がみられる。英独は兵士の休暇制度が優れていたのだろうか。
チャーチルの反戦論
第1次大戦は生産能力の点でもあまり影響を与えなかった。戦場になった地域は狭く大都市はベルギーとポーランドの各都市を除き含まれていない。戦後生産能力の縮小が恐れられたが、実際起きたのは生産過剰による恐慌だった。まだ戦略爆撃は実験だけで、工場が破壊されたのは稀だった。英独仏とも1925年までに戦前のピークのGNPに戻る。
しかし影響をうけたのは、人間の考え方だった。英仏は戦争を二度と起こしてはならないと決心した。
フランス人はドイツが戦争を起こす能力を喪失すれば達成できると考えた。イギリス人は各国の政治家がいかなる代償をはらっても平和をと考えれば、達成できると考えた。ドイツ人は反対にあらゆる方法でベルサイユ条約を破棄しよう、そのための手段として戦争も選択肢で残ると考えた。
だが実際のところ、ベルサイユ条約はドイツに有利に展開する要件を備えていた。戦前ドイツはヨーロッパで五つの大国の一つにすぎなかった。ベルサイユ条約と革命でロシアとオーストリアがヨーロッパ外交から消滅した結果、ドイツは三つの大国の一つになった。
クレマンソーの議会演説「ドイツの統一について」
ドイツは領土と人口の点で西プロイセンと小地域を失っただけで、大きな打撃を受けたわけではない。そして三つの大国のなかでは人口、GNPとも最大で、またその差はむしろ拡大するように見えた。未来はドイツをヨーロッパに君臨させるかに予想させた。
アメリカは孤立主義に戻った。ベルサイユ条約そのものの批准が上院で1919年11月否決された。国際連盟を除き批准されたのは、1921年となった。そしてその間、旧連合国はアメリカから、米国憲法についてもっと学ぶべきだ、と言われるだけだった。
極東ではロシアの消滅により日本だけが、大国として存在した。極東情勢はロシアを介してヨーロッパ情勢とリンクすることが無視できるように思えた。アメリカはヨーロッパの事件は英仏が解決すべきと考えた。しかしアメリカの主張と異なれば発言した。しかし行動にでることはしなかった。極東では日本の行動に不安を覚え、ヨーロッパより積極的に発言した。ここでも行動には出なかった。英仏と日本は近隣地域全体の責任を負わされた。英仏は消極的に、日本は積極的に引受けた。
アメリカは植民地主義を排し、また広域帝国を嫌悪した。第1次大戦以降、優秀な武器で、未開の武装勢力を圧倒し支配化におくことは悪とみなした。日本はこのアメリカの変化についに気づくことがなかった。相変わらず以前通りの勢力圏を主張した。しかし勢力圏に全中国を含みその治安維持に乗り出すことは、もともと可能なことではなかった。
国際連盟
アメリカは日本が不可能な目標を設定しだしたことに気づいた。しかも自身が乗り出しても不可能と悟った。中国本土へ大規模陸上兵力を派遣しないことが了解され、現在まで守られている。中国は半植民地と自称した。戦闘に敗れ小さな半島や島を割譲した。鉄道の敷設権をあたえた。また関税の徴収権もわたした。外国人居留地を設定し領事裁判権を認めた。たしかにヨーロッパの近代国家としては主権を譲渡している。
だが中国がそれで植民地にも半植民地になったともいえない。中国を植民地として統治するために何個師団必要か、そしてそのコストはと考えた段階で日本以外の諸国は点以外の植民地化を早い時期おそらく北清事変の段階で断念した。中国はそのサイズでヨーロッパの侵略を阻止したのだ。
それでも日本の旧陸軍はヨーロッパのやり方ではなくアジアのやり方、例えば満州人の征服のようにできないかと考えた。敵の寝返りを計り、官職を与え、そして傀儡政権を樹立する。そして何々工作を実施した。全て失敗に終わった。日本の強さはアジアの方法になく、ヨーロッパのやり方にあった。アジアの方法は中国の方法であり、日本はつねにその劣等生だった。
英仏も日本のように欧州の平和維持の責任を負った。二国での責任は一国で果たすより難しいかもしれない。そのうえ単独でドイツもロシアも英仏合計を上回る兵員適格年齢人口を保有していた。英仏は宥和すなわちベルサイユ条約の修正により妥協をはかるか、強硬策かでいつも論争を続けた。そして解決策はいつもフランスの犠牲で宥和を図ることだった。
帝国は大英帝国を除き全て崩壊した。小帝国が新たに発生した。東ヨーロッパの勢力範囲は大きく変わり、ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビアの3国が有力となった。しかしこれらの国は内部に植民地を含む小帝国だった。つねに少数者の反乱に悩み強圧体制で臨んだ。結果はすべて独裁体制への転落だった。だがしばらくは独裁の方がよく治安を維持するかにみえた。
MAP(1937年のヨーロッパ)
敗戦国にされた、オーストリア・ハンガリー・ブルガリアの3国は全て隣国に海への出口を奪われ(ブルガリアは黒海口は残されたが、エーゲ海口は奪われた)領土の縮小に見舞われた。だが国民国家としてより純粋となり、また他国の犠牲となる部分がなくなった。民主主義と自由主義はある程度のこされ、経済も発展した。経済の発展と所有不動産の面積は常にあまり関係がない。
東ヨーロッパに英仏の軍事上の関与は必要ないかにみえた。しかし深いところで変化はあった。オーストリア・ハンガリー・ブルガリアは安定したが英仏を許すことはなかった。そしてヒトラーが台頭すると、いち早くその陣営に参じた。
チェコ・ポーランド・ユーゴスラビア・ルーマニアは戦勝国として振舞ったが自力での安全保障は可能でなかった。ウィルソンの14ヶ条提案の直接の落とし子であるにもかかわらず、アメリカは退場した。頼るは英仏しかなかった。だがイギリスとフランスでは方針が異なった。イギリスはこれらの諸国が信頼しうる同盟国になるとはみなさなかった。フランスは同盟国とするより選択がなかった。
英仏はヒトラーが台頭しても、譲歩を主張するイギリスと強硬策のフランスで論争を続ける。しかし人口当たりではルーマニアに次ぐ大被害を出したフランスでは、将軍の尊重する戦術が大きく変化した。ジョフルやフォシュのエランは忘れられた。フランスの緒戦での敗退(フロンティアの戦い)は攻勢に出たためとされた。
Elan Vital (エランビタール)
マジノ線が作られ、連続した静的な防御が勝るとされた。タンクはスピードより装甲が重視された。機甲師団の設立は、攻撃編制だとして見送られた。ペタンは「戦争の実相は、機械とか精神でなく、火力とベトンで決定される」と説いた。フランス陸軍は防御の優越性を信じ、攻勢作戦を放棄した。あくまで自国領内で戦うことを一義とした。たとえ防御が有利でも平和維持のためには攻勢作戦ができる編制を可能としなければならない。それでもそのとき即応部隊や水陸両用部隊はアメリカや日本は保有したが、英仏がもつことはついになかった。最早国力がそれを許さなかったのだろう。
攻勢防御戦術(縦深陣地)
このため外交上ドイツ領内に侵攻する必要が出ても、それを実施することができなかった。ヒトラーがラインラントに進駐したとき、フランスは兵力で圧倒的にもかかわらず何も出来なかった。フランス陸軍は攻勢にでられる編制になっていなかった。そして編制そのものは第1次大戦と変わりはない。
それではなぜドイツは第1次大戦に敗れたのだろうか。理由は単純だ。フォシュとペタンの作戦計画がルーデンドルフより優っていたのだ。機動戦が成り立たない時代にルーデンドルフは機動戦に固執した。ところがフォシュ・ペタンのやり方は野戦軍に打撃を与えるという面で一歩進んでいた。包囲・突破でなくとも打撃を与えることは可能なのだ。
チャーチルはフォシュのやり方をよく覚えていた。ヒトラーが1940年5月10日西部戦線全面で攻勢に出て、機甲師団がアルデンヌの森を踏破セダンを突破した。その時のフランス首相レイノーは5月15日早朝チャーチルに電話しフランスは敗れた(セダンを突破された、ではない。)と伝えた。チャーチルは答えた。
『攻勢というものはしばらくすれば、一旦止むものだと全ての経験が教えている。1918年3月21日のことを私は忘れない。敵は5日か6日たてば必ず補給のため停止する。そのとき反撃の機会が訪れる。私は今と同じような時にフォシュ自身の唇からこれを聞いた。』
敵の進撃が人間の徒歩であればこれは間違いなく真理だろう。だがヒトラーの機甲師団は内燃機関で動いていた。チャーチルはレイノーにその後脱帽した。このように戦場での作戦、またそれによる勝者・敗者の印象は様様に異なる。ドイツは必勝でもなければ必敗でもなく、軍事指導者の誤った作戦計画で敗れたのだ。人々はこのような大戦争の向背には目に見えぬ力が働き、正義が必勝だと思ったり、始めから勝敗が決まっていたりすると思いがちだ。しかし休戦の6ヶ月前まで、ドイツは西部戦線で自国領まで撤退するつもりがあれば、名誉ある部分的勝利の道があった。しかも文民政府はそれを考えていた。ルーデンドルフが全てを破壊した。
イギリスの平和主義は性根が座っていた。それゆえ平和主義で平和が守れないと悟ったとき、武器を手にするのも早くそして逆境にあってもチャーチルの指導のもと手放さなかった。ヒトラーとドイツ人は平和主義者の絶望を理解することができなかった。そしてイギリス人はヨーロッパの政局が完全に変わったことを理解し始めた。帝国を捨てロシアと組んでもドイツに勝利する道はけわしかった。そしてアメリカが味方になることで、ようやく曙光を見出すことができた。
第1次大戦はヨーロッパにおけるドイツの地位をめぐっての係争だった。ドイツ人は日の当たる場所を得るといったが、それが何を意味するのかいまだによく説明されていない。果たして文化的なことを言うのか、熱帯の植民地をさすのか、古代ローマ帝国の版図を狙うのか、定かではない。連合国はこのドイツの野望を食い止めたかに見えた。
ヒトラーは日の当たる場所でなく、生存空間として、東ヨーロッパを植民地にすべきだと主張した。ウクライナがドイツのインドだと主張した。ヒトラーは古典的なヨーロッパ人だった。キリスト教は信仰しなかったが、そのユダヤ人への偏見は引き継いだ。国家社会主義を主張したが、国家主義の根幹は捨て去った。ユダヤ人は第1次大戦で良いドイツ人だった。ユダヤ人である前にドイツ人であろうとした人物はたくさんいた。
国家主義は領域内の国民の利益のため、国益の追求を図るというのが第一義で、国内のたとえ多数派でも抽象的な国益に屈さなければいけない。大戦争となれば全国民を動員すべきで、一部を排斥してはならない。スラブ人を差別的に虐待し、降伏の道を作らず、徹底抗戦の道をとらせるなどは勝利を遠ざける反国家主義といわなければいけない。ロシア農民は沿道に花束をもってヒトラーの軍を歓迎したのだ。ヒトラーは民族主義者であって国家主義者とはいえない。
ヨーロッパ人いやどの種族も民族主義者になると、民族浄化に走る傾向がある。実は独立国家となれば民族主義から国家主義に転換しなければおかしい。狭い地域に多数の民族が雑居するなかで、国境内で民族の優越を説くことがなんと偏狭なことか。ドイツ人は人口でも経済でも他を圧していた。他の小民族は、大国の支持を得ようと汲々とするなか、ドイツ人は超然とすることが可能だった。
だがヨーロッパで超然が可能であっても、世界では可能ではなかった。ヨーロッパの戦争が日本人の手により世界戦争となった段階でヒトラーの敗北が確定した。

May E.R., The World War and American Isolation, 1914-1917,
Cambridge, 1959
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