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1918年8月8日連合国の最終攻勢が開始される前から、中央同盟国には亀裂が走っていた。ロシアの脱落のあとオーストリア=ハンガリー二重帝国とオスマン帝国は戦争継続の意味を失った。両国とも主敵はロシアであり西部戦線に興味はなかった。またブルガリアにいたっては主敵はセルビアとルーマニアだった。両国とも実質的に滅んだ以上なぜ戦わなければならないのか。
二重帝国が最初に動揺した。発端は5月26日チェコ連隊がシベリア鉄道チェリアビンスクで起こした反乱だった。チェコはオーストリアのなかで不可分の中心地域だ。他の地域であれば分離することも可能だが、チェコ=ボヘミア・モラビアの喪失は二重帝国の実質的崩壊につながる。軍隊をもつことは国家の証明でありチェコ軍の存在は誰にでもその独立を連想させた。
ウィルソンの14ヶ条は二重帝国の連邦化にあったらしいが、被支配民族のチェコ、スロベニア、クロアチア、ポーランド、スロバキア人はそう受けとめなかった。これらの民族の属する連隊では全て戦闘意思を失い反乱を起こすか、地元の駐屯地に移動した。そして開始された捕虜の送還はそれに輪をかけた。ウィーン政府は手の施しようがなく、部隊の移動に追認を与えるだけだった。
1918年6月に入ると、オーストリアは最後の残された敵、イタリーにピアブ川で攻勢に出た。また全てのド級戦艦3隻を含む全艦隊をポラからアドリア海へ出撃させた。トルコはすでに休戦となっているロシアを攻撃し、バクー油田まで進出し、奇妙なことに白軍および英仏軍と交戦した。これらは全て失敗した。ただバクーのトルコ軍は9月最終まで活発で、その後はイギリス軍の管理下にはいる。
7月にはいると連合国が大反攻が予想された。トルコとオーストリアは戦闘を継続することで、なんとか中央同盟国陣営に踏みとどまっている格好だった。しかし西部戦線でドイツ軍の戦況が不利になると形勢が一変した。
8月8日、連合国が攻勢を開始し成功を収めると、オーストリア、トルコ、ブルガリアともに休戦の可能性を探りはじめた。敵のいないブルガリアはマケドニアとドブルジャ(ルーマニア南部)領有を連合国から公認を得るべく、同盟離脱を図った。これは甘いといわざるを得ないが、連合国も交渉だけは継続した。
9月にはいるとオーストリアはドイツと別に14ヶ条にもとづく休戦の交渉に乗り出した。ウィルソンにとってこれはやっかいな問題だった。アメリカ政府は小国独立促進の観点からか秘密裏にポーランドとチェコの独立を指導者(パデレウスキーとマサリクだがアメリカと交渉できたから指導者となったのでその逆ではない。両者とも教育界と関係があり、それによりウィルソンと親しくなったのかもしれない。)として認めていた。アメリカは大国間の秘密協約は秘密外交だと批判するが、アメリカと小国との間の密約は秘密外交とみなしていないようだ。
しかし、このアメリカの方針がのちの東ヨーロッパのあり方を決めた。そして奇妙なことにこの国家の区分けは1990年代に至るまで続くのである。オーストリアの被支配民族はすでに反乱を起こした自民族の軍隊が小なりといえども、居住地区の近隣にあった。そして各民族とも政府を秘密裏に9月までに樹立した。だがスロベニア人、クロアチア人とスロバキア人は不幸だった。チェコ、ポーランドとセルビアの存在はアメリカの新聞記者が報道したが、それらは忘れられてしまった。そして最後はあまり頼りにならない、チェコ、セルビアと合邦させられた。
9月25日にまずブルガリアがサロニカからの連合国軍の反撃をうけ、休戦を求めた。そして分離和平の形となったのはブルガリアだけで、トルコ、オーストリア共にドイツの休戦交渉をうけてからの動きにすぎない。トルコの休戦申し入れはやや複雑だった。トルコは休戦を求めるだけで、敗戦と受け止めていなかった。さらにシリアでイギリス軍におされていたが、コーカサスやメソポタミアではむしろ優勢だった。しかし青年トルコ党の領袖エンベルパシャはイギリス軍とこれ以上戦うことは無益と考えた。
捕虜となっていたイギリスのタウンゼント将軍を休戦使節としてイギリス軍におくり、自身はドイツの艦船で黒海を渡り、10月20日ベルリンに脱出した。休戦交渉は10日かかり10月30日調印された。条件は両海峡の自由通行とその保証措置と休戦措置に付随する当然の条項だけで、極めて寛大だった。トルコはその後シリアで最大の軍を指揮していた、ムスタファーケマルに実権が移り、国民国家として体裁を整えていく。しかし、アナトリア東部のロシアとの係争地に住む、アルメニア人とクルド人との問題は残り紛争はいまだに続いている。
オーストリアの休戦要請は11月3日認められ11月4日発効した。しかしこの時にはすでに帝国は完全に崩壊していた。中央同盟諸国では最も弱い環だった。
そして、崩壊の仕方もハプスブルグ帝国らしく一部を除きあまり流血をみず、温和に進んだ。ポーランドの蔵相にはハプスブルグ帝国の蔵相で1914年7月の予防戦争主唱者ビリンスキーがそのまま横すべりして就任した。チェコのプラハでは旧帝国の総督が秘密のはずのチェコ人政府と連絡をつけ、すぐ内閣を組閣するよう要請した。ザグレブでは南スラブ委員会というセルビア亡命政権の秘密代表部にピーターセルビア国王を代表とする政権の代理をつとめてほしいとボスニア総督から依頼があった。ザグレブのクロアチア議会、リュブリアーナのスロベニア人も一応南スラブ=ユーゴ・スラブに加わることを承認した。モンテネグロでは国王は反対だったが、議会は参加を推進した。
このクロアチア人とスロベニア人の南スラブ参加の動きはイタリーのイリデンティズム(大イタリー運動)に脅威を感じたためだ。
残ったドイツ人は皇帝の承認を得てウィーンで10月末、カール・レンナーを首班に社会民主党政権を発足させた。一方カールT世はイタリーのピアブ戦線の終息に追われていた。10月27日にドイツに分離休戦の実施を通告したが、オーストリア軍は休戦日まで戦闘姿勢を保てなかった。本国での社会民主党の動きが伝わると兵士の動揺が始まっていた。
皇帝カールT世は軍の安否を重要視し政局を無視していた。長い帝国の統治で、オーストリアに住むドイツ人の結成した社会民主党は軍隊を全くコントロールできなかった。K.u.K.参謀本部が統帥の責任を担っていたが、ドイツ参謀本部に組み込まれており、またハンガリーのHonvedはそこにも属していない。これはドイツ社会民主党がいち早く参謀本部と結託して軍の支持をうけたのと対照的だ。
動きはイタリー軍から起きた。撤退または脱走を開始したオーストリア軍に後方から攻撃をかけた。これをビットリオ・ベネットーの戦いとイタリー人は呼ぶが休戦協定違反の野蛮なしうちである。約30万人が捕虜となったが、これは東ヨーロッパ情勢に危険な影を投げる。イタリー戦線ではオーストリア系ドイツ兵とハンガリー兵が主体だった。急遽設立されたハンガリー政府はハンガリー連隊の国内帰還を命じたがタッチの差で遅く、イタリーに拘束されてしまった。このためハンガリーはルーマニアに国土を蹂躙されることになる。
社会民主党は11月10日民主的なドイツ人国家と合流することを決めたとしたため皇帝の統治する土地がなくなってしまった。カールT世は旧オーストリア軍がイタリー軍に拘束されたことを確認し、社会民主党に翌日一切国事行為に関与しないと宣言し、スイスのエッカルツァウ城に隠棲した。事実上退位を拒否して静観を決め込むつもりだったのだろう。
また新オーストリアは兵士がウクライナとアルバニア以外皆無となった。通知もおくれアルバニアでフランツァーバルティン将軍は11月一杯戦いつづけた。だが兵士も武器もなく国内での武装闘争は避けられた。しかし復員した兵士の怒りは社会民主党に向けられた。翌年社会民主党政権は倒れ、ドイツとの合邦を求める決議が国会でなされた。これもベルサイユ条約で禁止となるのだが。
オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊した。そして第1次大戦の休戦で崩壊したのはこの帝国だけである。
ロシア帝国はすでに前年崩壊済みである。ドイツは帝国と名乗るが、実態は単一民族の国民国家である。オスマン帝国も青年トルコ党により、アナトリア中心の国民国家にすでに変貌しつつあった。帝国ビジネスは中心となる国民にとって採算のあう事業ではない。戦争はそれを分かりやすい形で示すだけだ。現在にいたるまでまだ理解できない国家があるのは残念だが。
だが敗戦国と烙印を押された諸国ではオーストリア本国をのぞいて簡単にことは進まなかった。ハンガリー、ドイツ、ブルガリアでは流血の革命が発生した。
オーストリア=ハンガリーの国名に名前を入れられた民族は悲惨だった。ハンガリーは独立を宣言すれば連合国に入れると錯覚した。
10月28日ブタペストでは戦局の不安から暴動が発生した。もともと独立派のカーロイが政権を握り独立を10月29日宣言した。しかしカーロイの政権は国民の支持をほとんど受けられずまた連合国はハンガリーを終始敵国として扱った。このためハンガリーは以来流血の巷と化した。10月31日に開戦時の首相テイサが暗殺された。その日カールT世はカーロイの政権を認め、正式に組閣を要請した。
だがカーロイが国民から期待されたのは、独立でなく大ハンガリーの領土の維持だった。周囲のハンガリー人と他民族の混住地域では、他民族の方がいち早く独立または国民国家への編入を要求していた。ブコビナとトランシルバニアではルーマニアの編入、スロバキアはチェコへ、クロアチアは南スラブへという具合だった。
ハンガリー人は国土の維持のためには、にわかな周囲の戦勝国と同様に振舞うしかないと考えた。11月12日、カーロイ内閣はハンガリー王カールT世の廃位を宣言した。
ベラ・クーンは元オーストリア軍兵士でロシア軍の捕虜となり二月革命で釈放されたものの、ロシアに翌年まで止まり革命に参加した人物でユダヤ人だった。ベラ・クーンは11月24日共産党の設立を宣言し、翌年1月ブダペストの兵営を訪れ、武装蜂起を勧めた。すぐベラ・クーンは逮捕された。だが逮捕した側のカーロイ政権に試練が待ちうけていた。
12月から、チェコ軍とルーマニア軍が旧国境を越え侵入を開始した。両軍とも俄か仕立てであるから、規律が悪く暴行略奪を旧ハンガリー系住民に加えはじめた。カーロイ政権はブタペスト駐在の連合国代表ピスク(仏軍)中佐に仲裁を依頼したが、ピスク通告といわれる休戦ラインより更に後方に下がれ、という指示を受け取っただけだった。
ピスク中佐がこの時パリの承認を得たか否かはいまだにはっきりしない。講和前に休戦ラインの武力による変更を容認するのは文明的とはいえない。しかしフランスとして決定権を与えられても、武力の行使はできないうえ放置すればさかりのついた犬のように喧嘩をするのだから仕方がないとも言えた。カーロイは絶望し3月21日「ハンガリーをプロレタリアの手に」といってベラ・クーンに政権を委譲した。ベラ・クーンはただちにハンガリー評議会共和国と国号を変えた。内政では銀行の国有化、農地改革、政教分離を推し進めた。一方公安委員会という秘密警察も設置、反対者数百人を殺害した。
そして国土を守れと叫び、赤軍を設立シュトルムフェルト・アウレール将軍を指揮官に任命した。赤軍はチェコ軍に勝利したが、ルーマニア軍には大敗した。ルーマニア軍は略奪行為を伴いながら南下した。南部にはホルテイ提督(前オーストリア海軍司令長官)を首班とする反革命政権が樹立され、ベラ・クーンは進退きわまった。ルーマニア軍は8月1日ブタペストを占領し、同時にベラ・クーン政権を打倒した。その後ルーマニア軍は11月までブダペストに駐留し、略奪を繰り返した。連合国の抗議により撤退したが、ホルテイが戻ったとき全土は荒廃の極に達していたという。
ドイツは10月27日のルーデンドルフの更迭まで、ルーデンドルフ=参謀本部の軍事独裁下にあった。休戦の提案を文民政府の首班のマックス公に強要したのもルーデンドルフだった。その後ルーデンドルフは戦線の安定をみて、継戦を再度主張したが、政治的無能を現したにすぎない。それでも精神的に追い詰められながらも、ドイツ軍の勝利と存続のみを考え自らの立場は考慮しなかったことは職業軍人として最後の一線は守ったと評するべきだろう。
後任者のグレーナーはルーデンドルフとかって参謀本部内で覇を競った宿命のライバルだった。だがシュリーフェンの衣鉢をより受け継いだと評されるが、それだけ精神的には古いところもあった。
10月中の参謀本部の動揺は末端兵士まですぐ知るところとなり、兵士たちは去就をみずから考え始めた。連合国の3期にわたる攻勢でドイツ軍は後退を続けた。しかし被害は36万人といわれる捕虜をのぞくと、驚くほど少なかった。戦死傷者は20万人に達していない。カイザー戦での65万人と比較すれば軽微といえた。なお220万人の無傷の軍隊が西部戦線にあった。
破局は予想外に海軍から来た。シェール提督は「たとえ全滅しても名誉ある最後を」と呼号し、10月27日全外洋艦隊にイギリス連合艦隊との決戦のため出撃を命令した。シェールの掲げた標語が適切であるかは別にして、休戦協定を少しでも好転させるため温存した艦隊の出動を命じることは不健全とはいえない。1944年日本の残存艦隊をすべて糾合してフィリピン沖に出撃させた旧海軍の方針と比較してどうだろうか。
海軍水兵は基地港湾の近くに家族と暮らしていた。ユトランド海戦から2年間全くやることがない。訓練も港外に事実上出られないから机上以外ない。ウィルヘルムスハーフェンの水兵は、出撃命令は名誉ではなく自殺行為と思った。自殺命令が出たと噂がひろまった。このあたりは臆病風に吹かれたのだろう。
11月3日、キールで水兵の代表が逮捕された水兵の釈放を要求し拒絶された。午後女性を含む3千人が市内をデモ行進した。憲兵隊が解散を命じたが、拒否され発砲した。8人が死亡したといわれる。これが発端となった。11月4日、水兵は艦船を占拠し、赤旗を掲げた。政治犯の釈放、皇帝の退位、普通選挙を要求した。内容は実は重要ではなく、反乱そのものにあった。
軍隊の反乱は失敗すれば処刑だから、とくに一般兵員が参加した場合無罪となる保証がえられるまで、終息しない。この日また注目すべき動きとして水兵(将校を含まない)によって、協議会(レーテ)が設立された。この運動はまたたくまに広がり、陸軍を含む広範な前線兵士によってレーテが作られた。レーテはソビエトを意識して作られたというが、ロシアと異なり活動家がいないため、選挙で単純に代表が選ばれた。
11月6日反乱はほぼ全海軍基地にひろがった。キール、リューベック、ハンブルグ、ツークスハーフェン、ウィルヘルムスハーフェン、ブレーメンハーフェンは反乱水兵に占領された。そしてシュレスウィッヒホルシュタイン州内の都市に兵を派遣駐留させた。SPD(社会民主党)はこれをみて、水兵を支持するとともに、代表ノスケをおくり協議を開始した。翌日水兵はケルンとラインラントに宣伝員を送り、ベルリンに1700名からなる交渉団を駐在させた。社会主義者たちは公然とウィルヘルムU世の退位を要求し始めた。ミュンヘンではアイスナーがウィテルスバッハ家ルードウィヒV世の退位を要求し、バイエルン自由国の成立を宣言した。
このミュンヘンでの事件は他のドイツの諸邦とやや異質だ。バイエルンはドイツの南部に属し従来からプロイセンの軍国主義的傾向に批判的でまた反対勢力として一番有力だった。中央同盟国が相次いで崩壊すると連合国の軍事的脅威も南から早くにやって来ると予想された。このためベルリンを中心とする他のドイツとは政治的に独立した様相を呈した。しかし政治勢力と気質はあまり異なるところはない。そしてワイマール共和国では政治的に先駆的傾向を示す。
11月8日以降は休戦交渉と皇帝の退位問題に関心が集まった。マックス公は7日以来皇帝に退位を要求していた。この時点で、本来王朝を支える人々が退位に賛成したのは、アメリカの支持を得て休戦交渉を有利に進めたいという思惑だった。後年となり、ドイツの軍人や復員兵士はルーデンドルフも含めて、背後から不敗のドイツ軍は匕首をもって刺されたとする伝説を主張した。この時和平交渉を担当した人々は11月の犯罪者と呼ばれ、断罪された。
もともと9月に性急な休戦を言い出したのはルーデンドルフであり、またそれより以前交渉による和平の動きをベルギー利権の死守を唱えてつぶしたのもルーデンドルフである。匕首伝説はデマだった。だが銃後で英仏の国民が大量の肉親の死に耐え頑張ったのに比べ、ドイツではという批判もある。だがこれもドイツが敗北の見通しでの和平を申し入れたことを知って街頭での大規模なデモが開始されたのだ。
グレーナーもルーデンドルフも戦線は絶望的だといった。しかし両人ともシュリーフェンの使徒だった。機動戦という概念しかなく、自分たちの命令で兵士が撤退したのを見て、前線が突破され敵の機動戦がはじまるように錯覚しただけである。
西部戦線には連合国軍と同数のドイツ軍が存在した。前線の兵士は連合国の攻勢に遭っても敗北を認めなかった。両人とも不思議だが東部戦線出身で塹壕線が大規模に敵軍に突破された経験がない。ドイツ参謀本部とアメリカの政治家が第2次大戦にいたる悲劇を準備した。もちろんアメリカの政治家は失敗を修正できる。しかし官僚組織の参謀本部はそれもできない。そしてウィルヘルムU世は常に文民政府より軍部を支持した。
西部戦線でドイツ軍不利のままで和平交渉を成立させることがこの時点ではベストだったろう。
ドイツ軍は敗北はしなかった、だが勝つこともできなかった。そして勝利は始めから不可能だったのだ。ドイツ人で世界地図をみて判断する人は少ない。ヨーロッパの地図だけならドイツは勝利することが可能であるかもしれない。しかし世界地図では多少戦闘で土地を得ても包囲された要塞にすぎない。11月9日からベルリンで大規模な労働者を中心としたデモがはじまった。これを以って旧東ドイツの歴史家は社会民主党の裏切りにより失敗したドイツ社会主義革命の始まりと称する。まともに取り上げる必要はない。政治地図では独立社会民主党(USPD)と社会民主党(SPD)が社会主義政党だが、このうちUSPDからカールリープクネヒトとローザルクセンブルグらが別れ、スパルクス団を結成し武力蜂起の中心勢力となり、共産党の母体となる。
この時点で皆考えていたのは国家の安否だった。
カイザーさえ退位すれば、平等の条件で和平交渉の臨めると考えたのだった。しかし他国に迎合しての政体の変更は修復不可能な傷をあとで与えることになる。普通のドイツ人の世界にヨーロッパ以外はなく、その他の世界は救世主たりうると考えたのだろう。英仏は交渉不可能な相手でアメリカならばと期待した。アメリカ人はドイツを知らず、カイザーとその一味だけが悪事を働きドイツ人は無知にもそれに従ったと理解した。このステレオタイプの見方はいまだに残る。早朝から始まったデモには近衛連隊の一部、アレクサンダー連隊も参加し、将校と兵士も退位に賛成であることが明らかになった。同日にベルギーのスパにあった大本営でもヒンデンブルグの主宰でデモ鎮圧への軍としての方針が問われ、出動しないことが決められた。出動しても兵士がデモ隊に発砲することはないと予想されたから、当然だろう。午後になり、マックス公はベルリンで皇帝退位を独断で発表し、首相をSPDのエーベルトに譲った。そしてデモ隊の一部を率いたリープクネヒトは宮殿に押し入り、レーテ共和国を宣言した。それに抗してSPDのシャイデマンは社会民主主義共和国を宣言した。
10月10日早朝、ウィルヘルムU世はスパからオランダに亡命した。その後その地を離れることはなかった。革命が帝政の崩壊をうながす手段とみれば、成就した。
グレーナーはSPDのエーベルトと旧知だった。エーベルトの政権はとくにUSPD、スパルタクス団という左翼からの攻撃とレーテ(SPDが多数派だった)の権力意思とで不安定だったが、常にグレーナーの支持をうけることができた。またSPDのノスケは有能な反乱鎮圧者だった。手始めにキールに派遣され処罰をしないことと、俸給の支払いの維持で水兵の家族を納得させ、次にはグレーナーから与えられた後備旅団をフライコール(義勇軍)に改組し武力として使った。ドイツ軍兵士は除隊となると後備師団の予備兵として登録が義務付けられるだけである。だが故郷に生業を持たないものを臨時に後備旅団として組織し、それをノスケに与えた。通常は混成師団を形成するが、フライコールはノスケの私兵のように使われた。実際は将校を中心とする失業者部隊であるが。
12月16日労兵レーテ全国会議が軍隊内の階級の廃止を決議した。だがグレーナーの抗議ですぐ撤回された。西部戦線では12月一杯復員が続けられたがドイツ兵士は最後の奉仕を抗議の声ひとつあげずに秩序を保ちやり遂げた。連合国兵士がいたるところで暴動を引き起こしたの比べ見事というよりなかった。そして軍隊の解散とともにレーテも自然消滅していった。
1月と3月にスパルタクス団が武装蜂起した。いずれも国防長官に就任したノスケとフライコールに弾圧され終息した。1月にスパルタクス団のローザルクセンブルグとカールリープクネヒトとが、フライコールにより惨殺された。なぜスパルタクス団(共産党)は政権奪取に失敗したのか。旧東ドイツ共産党(統一労働者党)によるとローザルクセンブルグらが大衆の決起または支持に期待を持ちすぎて、党としての指導を看過したためだという。
わかりやすく言えば大衆の先頭にたつ顔をして陰謀や武力で権力をとれ、ということだろう。原因の一つはレーテでスパルタクス団への支持がなかったことである。最後までSPDがレーテを指導していた。スパルタクス団はUSPD出身だが、SPDからの分離が早すぎたのではないか。労働者のSPDへの支持は揺るがなかったし、ナチスの一時期を除けば現在に至るまでそうだ。選挙民の支持は党の綱領を変えても余り変わらない。共産党は西ドイツで禁止されていたが、ローザルクセンブルグには現在でも尊敬がありいたるところの市内の道路に名を残す。
ミュンヘンではだいぶ事情が違った。数々の暗殺事件のあと5月まで共産主義者とアナーキストが実際に政権を握った。実際の主体は学生と教師で、定職や軍務につくことを拒絶するような人々で、すぐ支持を失った。またこれはミュンヘン市内を越えることはなかった。ミュンヘンの地元史家によるとヒトラーはレーテの一員として、赤い腕章をして暗殺されたアイスナーの葬儀に参列したらしい。多分この時ミュンヘンのレーテ政権に参加していたのではないか。
ほとんどの復員兵士は故郷に帰り、いままでの仕事についた。だが少数の元兵士は戦敗の理由がわからず、政治運動に向かい超国家主義・民族主義の闘士となった。大半の将軍も普通の兵士と変わらずやはり超国家主義を支持した。軍司令官以上で超国家主義に走らなかったのは、ヒンデンブルグとルプレヒトバイエルン王太子だけだ。
参謀本部に残留した職業軍人は反対の道を歩んだ。彼らは敗北の真因をそれなりにつかんだ。実際これからの共和国の実権を握ったのも彼らだった。プロイセンの軍人は政治に関与するなと教えられた。実際は個人として関与して殆ど成功しないからだろう。だがナチズムが隆盛となったとき一番反対したのも彼らだった。しかし流れに押されて気づいたとき手段はヒトラーの暗殺しかなくそして失敗した。
産業革命が終了した国家において共産主義革命が成功した例はない。また国民国家では政治は基本的に国家主義(超国家主義ではない)にもとづく。国際主義を主張しても国民は安い労働力の流入を恐れるだけでどのような政策となるのか理解できないし、また共産政権が成立しても革命の輸出には反対するだろう。ここが大革命のあとのフランスと異なるのではないか。だが共産主義国家の方が、超国家主義の共和国より対外政策は平和的である。
サロニカでのデスパレの攻勢を受け、マケドニアにいたブルガリア軍は本国にひき、同時に他の中央同盟国より1ヶ月早く9月30日休戦協定が成立した。連合国支持の農民党指導者スタンボリスキーが軟禁を解かれ、休戦を求めた前線兵士に派遣された。そこでスタンボリスキーは兵士から革命政府大統領にされてしまった。反乱軍は首都ソフィアに戻るが、国王軍に敗北した。首相マリノフは連合国の歓心を買うためには、フェルデイナンド国王の退位が必要と考え、国王も同意した。
10月4日フェルデイナンドはドイツに亡命し1948年ベルリンで死亡するまで止まった。王位は長男のボリスがついだ。マリノフは11月、ドブルジャにルーマニアが進攻、占領すると連合国に抗議し辞任した。その後またもやスタボリンスキーが組閣した。翌年1919年11月ヌイイー条約が締結され国土の縮小と賠償金90百万ポンドの支払い、軍備の制限が決められると、国内で憤激が高まった。
1923年軍部によるクーデターでスタンボリスキーは殺害された。そして奇妙なことに一時投獄されていたマリノフが再度1931年首相となる。
東ヨーロッパでは、表面は革命とか共和制といっても、根本の政治的動向は外交上の利害、すなわち大国の支持をうけることに左右された。大国の対象は時々で変わるが、国民の利害が一旦独立してしまえば対立することはあまりない。一旦大国の支持を失えばすぐ隣国が一時的な同盟を組んで侵攻してくる。
戦後、東ヨーロッパにおいて大国とはフランスを意味した。フランスも帝政ロシアの崩壊以降はロシアに代わる安全保障として新興の東ヨーロッパ諸国、とくにポーランド、チェコスロバキア、ルーマニアに期待した。だが歴史はそれら諸国がフランスにとりロシアの代わりには到底ならなかったことを示す。
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