ブルシロフ攻勢

ブルシロフ攻勢

ブルシロフ攻勢

ブルシロフ攻勢

ブルシロフ攻勢

ブルシロフ攻勢は第1次大戦で唯一成功しかつその成功した司令官の名前がつけられた戦いだった。ブルシロフ攻勢の歴史に占める地位は想像するより大きい。この戦いによりドイツではファルケンハインが失脚し、ルーデンドルフが主導権を握った。それは妥協による講和の道を断ちドイツの絶望の始まりではなかったか。オーストリアの崩壊がはっきりし誰もその継承を考えはじめた。更にロマノフ王朝の非効率をロシア人の多くがとくに軍の司令官クラスが認めはじめた。

ブルシロフ

東部戦線では、戦線が膠着化していた。前年のゴルリッツ突破戦から大退却まで敗北を続けてきたロシア軍だったが、徐々に回復しつつあった。

とくに日本経由での補給が功を奏し、ライフルは少なくとも全兵士に行き渡るようになった。ブルシロフの軍は38式歩兵銃で戦うことになった。砲弾も入ったが、日本の迫撃砲は好評だったが野砲は規格が会わなかったらしい。

1916年冬、フランスのジョフルはパリ駐在の連絡武官ジリンスキーを、ロシアは戦争努力が不足していると難詰した。フランスは、西部戦線に250万人の兵力を動員しているが、ロシアも同数であり、人口が多いロシアはもっと動員できるはずだと言うのである。アレクセイエフは折れ、ジョフルの要求をいれ、ロシア兵士を西部戦線に配置することに同意した。

フランスに派遣されたロシア旅団(REF)

この頃、戦線はほぼ南北、直線を描いていた。ニコライ二世の直接の指揮(総参謀長はアレクセイエフ)のもと、北西をクロパトキン、西をエベルト、南西をイワノフ(→四月ブルシロフ)指揮の各方面軍が守備していた。

このクロパトキンは奉天会戦の敗者でなぜこのような人事になったのか首をかしげる。しかもこれは氷山の一角で、タンネンベルグ戦でサムソノフ軍の第1軍団の司令官で、フランソワの猛射に耐え切れず早逃げをして、全軍敗退の原因を作った、アルタモノフがプルゼミスル要塞総督に返り咲いた。こうなるとフランスの観戦武官がいうように冗談としか思えない。

2月のベルダン戦開始後、フランスは負担軽減のため、東部戦線での攻勢を要請した。この時点で、プリペット沼沢地以北でロシア側170万独墺側95万と数的には相当ロシア有利だった。

ナロッチ湖の戦い

それに応えるべく北西軍(クロパトキン)と西方軍(エベルト)協同してプリペット沼沢地以北で3月に攻勢にでた。実際のところクロパトキンは日露戦争時と同様、逡巡するばかりで、得意の兵力の小出しをやり、協力の実はあがらない。

攻勢は大量の砲弾を消費すことから始められた。しかしゴルリッツ突破戦と違い、まず奇襲が成り立たなかった。情報は広範囲にもれ皆1週間前から攻撃が行われる事を知っていた。更にドイツ軍の塹壕はロシア側とは比較にならず、後方への連絡壕は砲撃の被害をほとんど受けないように設計されていた。

前面にいるドイツ兵は砲撃が始まると、単純に後方に下がり待機したが、ロシアの索敵能力は後方の塹壕については無に等しかった。

気候も春の雪解け時で、いたるところ泥濘に埋まり、機動力は全く成り立たない。3月18日に攻勢が開始されたが、ナロッチ湖周辺でわずかに前進した他はすこしの不動産も得られなかった。これによりこの戦いはナロッチ湖の戦いと呼ばれるが、4月14日まで続いた。ロシアの損失は11万人でドイツは2万人だった。5対1で、第1次大戦で最悪の記録といわれる。

4月14日アレクセイエフは大本営に3人の方面軍司令官、エベルト、クロパトキン、ブルシロフを招集した。会議は再度英仏から要請のあったベルダン支援の方策だった。クロパトキンとエベルトは攻撃側の不利を力説し再度の攻勢にはでられないことを主張した。

ブルシロフは夏になれば、攻勢が可能なことをつげた。そして兵力や火力の増加も不要であると。ブルシロフの回想録によるとこれを聞いてクロパトキンはブルシロフの顔を見つめ、哀れみを持って肩をふるった、という。

ブルシロフは極めて裕福な軍人貴族の家に生まれ、妻はストルイピン元首相とイズボルスキー外相のいとこだった。名門育ちであるが、紛れもなく第1次大戦でロシアが生んだ、最も優秀な軍人といって過言でない。また戦後は赤軍に参加し、トロツキー赤軍の閲兵長官になったことでも有名である。祖国にたいする忠誠と赤軍への所属は矛盾しなかったようだ。                            

またブルシロフの南西軍はあとで赤軍司令部の参謀を多く輩出した。のちの革命戦争で赤軍のほうが白軍より戦術に優れていた事は、これにも起因しており優秀な軍人ほどツアーとその政府を見限っていた。

第1次大戦の攻撃側の不利は要因が多数ある。しかも解決が矛盾するものが多い。まず奇襲を狙うとすると、砲や弾薬の準備が難しい。大量の資材や人員の移動は敵に攻勢が近いことを教えてしまう。

更に準備射撃を大量に実施しその後に歩兵が突撃すれば、準備射撃そのもので攻撃が近いことを教えてしまう。ただ奇襲による塹壕の突破と一部の占領はたやすい。少数であれば、鉄条網が切断できればいかなる塹壕も突破できている。問題は突破点の保持だ。

自軍の歩兵は前線を突破したとして、砲兵の支援をうることは難しい。砲の前進は人の移動より更に困難だからだ。また突破した歩兵は左右からまた場合によれば前面から十字砲火を浴びる。突破後歩兵の前進部分が突起部を形成するためである。また敵の戦略予備兵力は内線で速やかに移動するが、味方は新しい戦場を越えなくてはならない。

この解決として前年マッケンゼンがゴルリッツでとった方策は、秘密裡に砲と弾薬を大量に運び込み、敵の集中しまた逃げられない場所を選び、敵がノックアウトされるまで砲と歩兵で交互にたたくというものだった。進軍が遅いことは構わないし味方のある程度の損害も覚悟するというものだった。

ブルシロフにとりこの作戦はとれなかった。まず砲弾がない。次に独墺軍の塹壕は強固で簡単に砲撃でノックアウトできない。ナロッチ湖の戦いでロシア軍がとった作戦もマッケンゼンの亜流だが、ドイツ軍の徹底性に欠けていた。またベルダンにおけるドイツの攻勢もほぼこの方法といえるが、奇襲性はない。この問題をブルシロフは次のように解決した。

  • 敵の戦略予備の来襲を防ぐため、攻撃地点を増やす。それで敵が戦略予備隊をどこに移動すればよいのかわからなくする。                                           
  • 攻撃の幅を比較的広く30km以上とする。
  • 奇襲性確保のため期間の長い準備射撃は行わない。砲兵隊は秘密裏に前進させ、攻撃以降歩兵と連携を強化する。
  • 味方の戦略予備も前進させ、1次攻撃部隊が敵塹壕を確保したらすぐ追いつけるようにする。騎兵は無用。
  • 前進塹壕を極力敵の塹壕に接近させる。

これらの方法が画期的なのは、これ以降ドイツ、フランスが一部または全部を模倣したことでわかる。ただしイギリスは戦訓にとりいれず、結果ソンムパッシェンデールの悲劇を招いた。

準備は秘密裏に進められた。まず規模の大きい前進塹壕に隣接した地下壕が建設された。プラッツダルメイと呼ばれたこの地下壕は戦略予備隊を収容する目的だった。そして前進塹壕が敵にむかってもう一線作られた。これは突撃隊のスプリングボードとなった。

この準備にわずか1ヶ月を要しただけだった。ブルシロフは5月中旬には、準備が終了したと思った。南西軍は北から以下の編成である。

第8軍  カレディン
第11軍 サクハノフ
第7軍  シェルバシェフ
第9軍  レチツキー

下僚の軍司令官でブルシロフの方法を支持していたのはサクハノフだけだった。カレディンは攻勢そのものが不可能という考えだった。シェルバシェフはフランス留学生で、フランスかぶれだった。すべてフランスの教則に則っていない作戦に反対した。レチツキーは弾薬の欠乏しか頭がいかなかった。

攻勢は4軍すべて幅30km以上でおこなわれる計画だった。南西軍正面の独墺軍は50万人で、ロシア軍の60万人にたいし大幅に劣っているわけではない。アレクセイエフは、この計画を見て達成不可能と予測した。とくに攻撃幅が広く、いままでより多い人数で狭い戦線を突破できなかった事実をふまえると、失敗しか思い浮かばなかった。

この不安はしかし思いがけない所から解消せざるを得なくなった。イタリーが参戦離脱を匂わせて、絶望的な救援要請をロシアに送ってきた。イタリーはトレンチーノ(南チロル)戦線で、8万人におよぶ損失を蒙りまたこのままでは、イソンゾ戦線にいる主力軍の背後が断たれるというのである。

イタリー人は山間部に布陣したが、オーストリア軍は谷間を通過した。このあたりはU字谷で山の頂上から射撃しても高すぎて有効でなかった。オーストリア軍に谷間を前進され山頂にいるイタリー軍は補給を断たれ相次いで投降した。イタリーはとにかくオーストリア軍の気勢をそぐしかないとロシアに依頼した。

アレクセイエフは一旦拒絶した。しかしイタリー国王は私信でニコライ二世に哀願した。さらにジョフルも最も丁寧に依頼を行い、最後にイタリーのアタッシェは休戦してオーストリアの全軍がロシアに向かって良いのかと脅迫した。

アレクセイエフも最後に折れた。だがブルシロフの作戦方針に賛成でないにしても、クロパトキンやエベルトは何の案も持っていなかった。再度攻撃正面の幅を狭くするよう頼んだが、ブルシロフは計画に十分な自信をもっていて拒絶した。

ブルシロフ攻勢

アレクセイエフは5月31日に、攻撃命令をだした。「オーストリア軍に強力にして補助的な攻撃が行われ、その後西方軍によって本格的な攻撃が実施されよう。」   
補助的な攻撃は誰しも予測しなかった大成功を収める事になる。

6月4日、1日だけの砲撃が実施された。ただし砲撃は南西軍の全面にわたり、この日ではどこが攻撃の重点かわからない。

オーストリア軍の塹壕は約1kmの縦深性をもって3線で形成されていた。そして独墺軍の強みであったが、第1線に主として地下壕がもうけられていた。      

翌日ロシアの強襲隊は無造作に第1線を突破し、第2線に近づいた。これは前進壕が近くまで掘られ接近は容易でかつ第1線の壕にいる敵軍とは交戦を避け、単純に前進を続けたにすぎない。第8軍(カレディン)の前面だけで51ヶ所の突破に成功した。

その後、戦略予備隊が続き、強襲隊は第3線に到達していた。オーストリア軍の兵士は第1線の壕では地下壕にいた。砲撃と歩兵の浸透にほとんど時間的に間隔がないため、機関銃座につく間もなく後方に強襲隊、前面に戦略予備隊、もちろん全部ロシア兵に囲まれてしまった。

オーストリア軍の戦略予備はこのように突破点が多数にのぼると司令部付きと現場付き両方とも大混乱の陥った。とくに司令部付きの2個師団は後方を巡回するだけで、ついに前線にたどりつけなかった。

ファルケンハインは回想録にこの時のことを次のように記録した。
「6月5日オーストリア軍から切なる救援をもとめる声が大本営に達した。

『将官ブルシロフの指揮下にあるロシア軍は前日スチル川下流コルキー付近の湾曲部よりルック、ルーマニア国境に達するほとんど全正面において攻撃をかけた。比較的短時間の準備射撃のあと散兵壕をでて無造作に前進し、ただ僅かに若干地点において予備隊を集めて攻撃兵団を編成した。これは本来の意味の攻撃ではなく強行偵察にすぎない。たぶん同盟国のイタリーに義務を立証したいだけだろう。』

オーストリア軍のこのような報告にもかかわらず事態は数日たたずして深刻なものになった。強行偵察的な攻撃でも弱体な敵にたいしては有効かもしれない。

ブルシロフ将軍の判断は適中した。ルック東方でオーストリア軍正面は突破され2日をこえないうちに正面50kmの大突破を蒙った。ここにいたオーストリア第4軍は一部を除いて全滅した。ブコビナにおいて第7軍は情況著しく不利に陥り全正面で後退した。ガリシア全面で危機が迫ったことは明らかだった」。

オーストリア軍のうち第4軍(フェルディナンド大公)が特別大きな被害をうけ、6月5日までに5万人が捕虜となった。大多数は第1線の地下壕に取り残されそのまま捕虜となった。その後第4軍が点呼をかけたが兵は15万人が2万7千人に減っていたという。ファルケンハインならずともこれは全滅と言ってよい。

ロシア第8軍(カレディン)は好調に進撃を続け6月7日には早くも要衝ルックを占領した。その南、第11軍(サクハロフ)は順調にドブノを占領したが、この軍はオーストリアの戦略予備を引き受け野戦で撃破し全体に貢献した。

その南の第7軍(シェルバシェフ)はよくなかった。シェルバシェフはフランスかぶれのため、フランス流に準備射撃を2日間かけた。その上終了後攻撃まで間をあけた。たいするズューダルメー(南方軍 ベトマー)は十分攻撃を予期できた。攻撃は失敗しロシア軍が2万人の損害をうけた。

ズューダルメーがドイツ兵のため唯一この攻勢を跳ね返したとしている説が多いが誤りである。ズューダルメー指揮官ベトマーはドイツ軍人だが兵士はオーストリア軍出身のみだった。かって配属されたドイツの師団はこの時抽出され西部戦線にいた。

最南の第9軍(レチツキー)は赫赫たる成功を収めた。ここにはオーストリア最強を謳われる第7軍(フランツアー・バルティン)が守っていた。しかし攻勢開始後、明らかにロシア側の戦術がまさっていた。さらに地形上退却した場合、後ろが広く、二手に分かれざるを得ない。

6月10日までにフランツアー・バルティンは10万人の兵力を失ったことを認めた報告を本営におくった。一方ブルシロフは6月12日捕虜とろ獲物資を報告した。それによると将校2992名を含む19万人が捕虜を得、216門の砲と645丁の機関銃が利得された。しかもこの数字は過少とされている。

この時点でプリペット沼沢地以南のオーストリア軍総兵力50万人が1週間で蒙った損害であるから、壊滅的打撃を受けた事がわかる。

一方ブルシロフはルックとドブノを奪ったあと、行動目標をうしなった。騎兵師団はマンネルハイム(フィンランドの救国の英雄、冬戦争の野戦司令官)が率いる1個だけだった。それでも勝利を自覚した兵士は7月までドイツの増援軍をけちらし前進した。しかし補給路は伸びまたプリペット沼沢地を支点に南に出たため、そこから側面攻撃の可能性が強まった。

  

 ブルシロフの本営を訪れたツアーと皇太子アレクセイ

ブルシロフはここで北西軍と西方軍の攻勢を期待した。なにしろ西方軍はそれだけで100万に達する兵と大量の砲弾を保有している。主力の攻勢があってしかるべきだと。

だがエベルトは初めの攻撃予定を繰り延べるばかりで本格攻勢に出ようとしなかった。全く攻勢に自信がなかったのだ。またブルシロフは攻勢の成功の秘密について自軍内で説明した形跡がない。自身は回顧録を残しているが、そこの中でも他の将官の批判・言行また下僚の評価が述べられているばかりで、自己のとった戦術についてほとんど触れられていない。

もちろん書かれたのが終戦直後で、軍事機密にあたると考えたのかもしれない。あるいはブルシロフは典型的なロシア人であったのかもしれない。つまり批判はするが自慢はしない。とにかくエベルトに期待しても無理があった。

ここでアレクセイエフはブルシロフの嫌う方法を取り始めた。すなわち成功した南西軍を増強しはじめた。兵力を南にまわし始めたのだ。ブルシロフの方法は広い正面、できれば斉頭面で、奇襲をかけるのだから穿間的なやり方はなじまない。急に兵を増強してもやりようがないのだ。

コーベル付近の戦い

7月にはいるとブルシロフは戦線を整理しながら、プリペット沼沢地の西部正面、コーベルを目標とし、増強された近衛軍(ベゾブラゾフ 3個師団6万人と通常の軍の半分以下)をそれに向けた。この方面の敵はリンシンゲン集団とよばれ、ドイツとオーストリアの混成だった。6月では西方軍(エベルト)と相対していたため、被害はうけていない。

これはブルシロフの失敗だった。当然奇襲は成り立たず、マッケンゼン・タイプの攻勢となる。するとドイツの精巧な塹壕システムが有効となる。その上地形は沼沢地で泥との戦いが加わった。第3軍(レッシ)と第8軍(カレディン)も参加しロシア軍は25万に膨れ上がったが、数がものをいう戦場ではなかった。

近衛軍の華と謳われたセミョノフスキー連隊とプレオブラチェンスキー連隊は17回にのぼる突撃を繰り返したが、ほとんど前進できなかった。最後にあまりの戦死者が無人地帯で放置されたため、ロシア軍は遺体整理のため休戦日をもうけることを提案したが、マルウィッツの拒絶にあった。理由は、放置された死体ほど次ぎの攻撃隊の士気をそぐものはない、というものだった。第1次大戦ではドイツ軍が関係した戦線ではついに遺体整理のための休戦日は設けられなかった。ガリポリではあったのだが。

攻勢は8月初旬まで続いたが、独墺軍の塹壕を突破するのに失敗した。ガリシアでは第9軍(レチツキー)がハンガリー国境まで達したが、そこではルーマニアが連合国にたって参戦し、戦場はルーマニアに移った。こうして帝政ロシア軍最後の大勝利は終了した。

8月10日までにロシア軍は55万人の損害をうけた。これにたいし、独墺軍は70万人だった。ロシア軍の損失は死傷者とりわけ、負傷・傷病者が多い。これにたいし独墺軍は損失の大半が捕虜だった。これはブルシロフの方法からすればやむを得ない。またロシア軍の損失は大半がコーベル近隣でうけたもので、緒戦では少ない。

しかも攻勢側の被害が圧倒的に少ないのは事実である。これに反し、不動産の利得はガリシアを除けば大きくはない。もともとブルシロフの方法は前面の敵を粉砕するだけで、大きく前進するのは、敵が後退方針をとらない限り難しい。

1918年フォシュ最終攻勢でブルシロフの方法を一部とり、攻撃点を多数にして、斉頭面で進んだ。同じく得た不動産は少ないが、捕虜は多数にのぼった。

一方ルーデンドルフカイザー戦でブルシロフの方法のうち攻撃戦術だけとり急襲部隊(シュトルム アプタイルンゲン)による塹壕突破と戦略予備の近接をまねた。これは司令官の名をとりフーチェル戦術と呼ばれた。しかし突破点を絞ったため不動産は得られても、捕虜は多くない。このあたりの独仏の差になると国民性かもしれない。

一般に机上で戦術を組みたてることと、実際応用してやることは全く違う。もちろん歴史上たとえば織田信長は数度全くの新規の戦術を編み出しそして成功させたのは事実だ。しかし指揮官が計画と実施の双方で誰もが考えなかった方法を試し成功させたのは、第1次大戦ではブルシロフをおいて他にない。

ブルシロフ攻勢によりファルケンハインは西部戦線から7個師団を、東部戦線に移動させた。さらに7月1日からソンムの戦いが開始され、ベルダン戦は退潮に向かった。これはベルダンで消耗戦を行い、現状維持で和平を狙ったファルケンハインの目論見が完全に失敗したことを意味した。

フランスはベルダンを勝利とみなし、またイギリスは陸軍の大拡張中で、勝負はこれからとみていた。ブルシロフの攻勢は更にルーマニアの連合国にたっての参戦を促した。これはドイツにとり、殆ど影響はなかったのだが、ウィルヘルム二世に、「これで戦争に負けた。」と言わせしめたような強い心理的衝撃を与えた。

ヒンデンブルグ

これら劣勢の挽回策として初めはヒンデンブルグに東部戦線全ての総司令官に任命する案があがったが、全軍の指揮をタンネンベルグの英雄にまかせるべきだとの声は強くなり、これまでファルケンハインを支持していたウィルヘルム二世もついに、更迭を決意した。8月29日、ヒンデンブルグが参謀総長となり、実際はルーデンドルフが兵站総監(参謀次長)に就任し実権を握った。

ファルケンハインは引き続き、国への奉仕を希望、ルーマニア派遣第9軍の司令官となった。

一方勝利したロシアはむしろ軍上層部の相互不信に陥った。とくに内政面を皇后アレクサンドラに任せたことが裏目となった。アレクサンドラはドイツの小領邦ヘッセン公国の出身で、ドイツ人と見られた上、長男アレクセイの血友病に悩みラスプーチンにからめ取られていた。このためペテログラードはじめ銃後で全く人気がなかった、

またニコライ二世とアレクサンドラの夫婦は絶対君主のロシアにおける必要性に重点を置きすぎていた。すこし時代遅れだろう。銃後を皇后に任せることは、ロシアの慣習だがこれもエカチェリーナの時代であればいざしらず実際に実行したことは時代錯誤だろう。

ロシア軍が勝つ力があるにもかかわらず、完全な勝利が得られないことの理由を将校団は考え始めた。そして誰もが行き着く推論は総司令官にして絶対君主の失敗であり、君主制の否定にむかった。

オーストリアはこの戦い以降、東部戦線では戦闘単位としての意味を失った。オーストリア軍の看板を掲げていたとしても、中隊のレベルでドイツ軍兵士と混成するようになった。指揮官がオーストリア人でも、参謀長はドイツ人が任命されるようになった。

11月フランツヨゼフ皇帝が薨去し、甥の子供、カール1世が即位した。カール1世は講和による平和を模索するが、連合国でさえオーストリア単独講和は相手にしなかった。オーストリアは和平も継戦もできず、ただ情況に流されて行く。



Bazarevski, A., Nastupatelnaya Operatsiya 9. armii, Moscow, 1937
Cherkasov, P.B., Mirovaya voyna. Lutski proryv, Moscow, 1924